2008年7月19日土曜日

陸奥湊駅前再開発は出来るの? 1


10年前に陸奥湊駅前の特集を「はちのへ今昔」で掲載。その頃と今では天と地の差。八戸の快男児、畑中徳寿さんが私財を投じて、光星高校野球部を甲子園に出すべく支援した話は筆者に落涙させた。昨今、寄る年波で涙もろくはなったが、この人の無私の精神には感動した。こんな人が八戸にもおられたと思った瞬間、滂沱。
 その快男児が再開発の首謀者、高齢者の部類に属しても活躍。この人は市議の寺地氏を推される。この寺地さんも泣く、人前はばからずに、これらの人を中心として再開発が可能かを模索中。ところが、魚類を売る側が高齢化で一人減り、二人欠けで、十年前とは異なり勢いが減少。売り手は減る、買手だった市内・近郊の食料品店が車社会に便乗し、大駐車場を備えたスーパーにやられてその数激減。
 売り手が減り、買い手が減る中での再開発だが、投資して元が取れるの? 地主高齢化、地主も3代目になろうとする時期、孫にあたる世代は儲からないことに金をぶち込むなと冷めた見方。これが正しい。
戦後混乱期に自然発生的に露店が出て、魚介類の販売。それに市側が戦争未亡人対策で診療所を取り払い、市場を作った。これが原点。この市場の物資を求め、ここが大爆発。石油缶を改良し、背中にしょって郡部に販売した俗称カラス部隊、行商のおばちゃんたちが列車を使って方々へ毎日、スーパーユニバースの代わりを果たした。勿論、その頃はユニバースの社長も紅顔の美青年、まだ、海の物とも山の物ともつかない。つまり物資を支えたのが名もない庶民たちだった。
 それらの人々も戦争の傷も癒え、次第に数を減らす。つまり、それらにとって代わったのが食料品店の出現だ。この人々は朝早く買出しに出て、夜遅くまで店を開けた。つまり町のコンビニの役割を果たした。
 ところが、馬の代わりの鉄の馬の出現で、うまくない事態が出現。ユニバースらの台頭だ。暗く吊るし電球の店から蛍光灯に照らされるスーパーの出現時、これらスーパーは長持ちしないと酷評、スーと出てパーと消えると嗤(わらう・この語はあざわらうの意)われた。これが、鉄の馬の出現で勢いを得た。昨今は30分も走れば下田のイオンに行く。だから、江戸の昔から続く三日町十三日町も日曜日は閑古鳥。
 商売繁栄は必ずかつての繁華街から派生的に外に広がる。人口の増に伴い、吸収しきれなくなるからだ。それが八戸では本八戸駅の新設(当時は八戸駅・明治二十六年だか七年)で新しい商店街が出来る。そして南に伸びたのが長横町、そして新長横町。
 滅びるときはこの逆で、新規に伸びたところからダメになる。すると陸奥湊は戦後間もなくの興隆で滅びる要素も充分。権利金・敷金が安い所はそれなりの理由がある。滅亡に向う町を建て直すは至難な技。
 社会構造が違ってきて、陸奥湊は早朝から開業し、食料品店に供給する要素が欠けた。つまり、食料品店の減少、それに供給側の高齢化。売り上げ増で、サラリマンは馬鹿らしいと思えるなら、誰が好んで人間関係の複雑な役所に勤める者がいる。売れない苦労より精神衛生には良くないが勤めの方が楽だと跡を継がない。そんな体質の陸奥湊に、観光客を呼び込める要素が残っているのか。 明日に続く。