ハサップ事業が実施されれば、魚運搬のトラックから曲がり角や道路に臭い水が流れだすことはない。魚は全て函に入れられフタがされる。車が横転しないかぎり、この心配は除去される。ノルウエー方式のような完全に人の手に触れないのではないが、かなり近くはなりそうだ。
宮本常一は全国を廻り各地の良い点、悪い点を指摘、その眼力は鋭かった。「はちのへ今昔」がハサップこそ再生八戸の原動力となると断言するのは、宮本のこの一文。
次に日本の西南端に眼を移そう。鹿児島県川辺郡坊津町は薩摩半島の西南隅にあって、東支那海に面する良港である。この港は鯵ケ沢よりはさらに古くさらにはなやかな歴史を持っている。遣唐使時代の大陸へ向う船はここから出たこともあるし、中世におけるシナ大陸との交通にあたっても、ここに北九州の博多とともに重要な門戸であったし、さらに琉球列島をつたって南に通ずる南方貿易の基地でもあった。江戸時代に入って鎖国がおこなわれてからはここが島津藩密貿易の基地であった。したがって多くの問屋があり、それらの商人の繁盛と活動は目ざましかったという。しかしそのおこなわれるものが密貿易であったから世人の目をくらますために、一般に廻船などを利用することは少なく、カツオ船を利用していたといわれる。カツオ船で冲へ漁業に出て行き、海上で密貿易船の来航をまちうけたり、あるいは屋久島の港など利用して取引きしたという。したがってここのカツオ船の行動半径は広く、他のカツオ漁村が基地から半径四〇キロ内外のところで操業していたのに対して、坊津のカツオ船は江戸時代の初めにすでに坊津の南方四〇〇キロ位のところまで出漁しているのである。そして密貿易とカツオ漁を併存させて明治に入って正式に海外貿易がおこなわれることになると開港場でない坊津の密貿易の体制はすたれてしまい、カツオ漁業一本の村になったのである。だが、広い漁場を持っていることによってなおあふれるような活気をもっていた。
それが今見るかげもないようにさびれて来ているのはいったいなぜであろうか。港はよいけれども土地のせまいためにカツオブシ製造の工場すら十分に持てなかったことから、土地の広い東方八キロの所にある枕崎にカツオブシ製造揚が密集してくることになる。そしてカツオ漁船も、それに乗り組む漁夫も上地の者でありながら、とって来た魚は坊津で水あげされることはない。しかも日頃はカツオ船も漁夫も漁場で働いているので、港も町もひっそりしている。町に居た問屋たちももっと取引きに便利なところへ出て行かざるを得なくなる。こうしてこの町がさびれ始めたのである。
その二つの町に見られるような現象はまだ全国いたるところに見られるものであるが、それにしても藩政時代の終りまでは国の端々まで一応活気のみちあふれた町があったのである。たとえば東支那海にうかぶ長崎県五島列島の西海岸にさえ、もとはあふれるような活気が見られた。いまは見るかげもなくなっている浜ノ浦というところを一〇年ほどまえに訪れたことがあるが、そこの寺の過去帳を見ると、東は和歌山あたりから、瀬戸内海各地の漁船がここに釣漁にやってきており、中にはこの浦におちついて問屋になったものもある。そのもっとも大きな問屋だった家を訪ねたことがある。家は大きな材木をつかってきわめてがっしりと造ってあり、間数も多く、二階の押入の中には長櫃がいくつもおかれていた。帳簿類を入れてあったとのことであけて見るとまだ四、五〇通の古文書がのこされていたが什器類はほとんどなくなっていた。
「昔は浜ノ浦の浜の砂がなくなってもこの家の財産はなくならいだろうといわれたものだが、浜の砂はなくならないけれど、私の家の財産はなくなりました」と若い主人は語ってくれた。目にあまるような贅沢をしたわけでもなく、自然につぶれていったのだという。魚がつれなくなったのではないが、遠方から漁船が次第に来なくなった。また手押しの船が動力船になると、魚を浜ノ浦へあげず、直接佐世保や博多へ持っていくようになって、取り扱う魚の量がずっと減ってしまった。しかしその家ではもとのままの規模で経営をつづけていた。それがやがて家を行きづまらせてしまうのだが、浜ノ浦自体も、五島では一番貧しい村になり下っていった。
八戸はこうはならない。ぎりぎりの所で小林市長を得た。しかし、彼の失敗を喜ぶ者も市役所内にもいる。これは信条、信念に基ずくところでいかんともしがたい。が、水産界はこの男の着想力を喜び、あとは業者の努力を味付けとするべき。何でも悪い悪い、ダメを並べることなく、ダメな現状でも何かを探し求めることだ。
輸出こそ最大の武器となろう。しかし、そこまで行き着く道には幾つもの障害がある。それを人智の限りを尽くしてまだ見ぬ未来を担う子どもたちのために我々が努力することだ。
八戸も危ういところまで来た、しかし、国の策を八戸にもってこれた市長の力を大したことがない、一部業者が喜ぶだけだの否定的な考えを持つな。近視眼で物を見るな。ハサップを活かすも殺すも浜の人々の考え方一つ。国の威信をかけた巨額の水産界への投資、これを活かすことは八戸を、否、日本の水産界浮上の好機。
武輪水産の会長は縁あって京都からこの地に来た。水産界の振興をこころから願っておられる。八戸にはサンマの加工場がないが、これをどのように解決するかを、長老の言に耳を傾けよう。金がないと怯えるな、金はなんとでもなる、人々の熱い思いと昼夜をわかたず体を動かす努力がそれを解消させるものだ。
浜値を上げろ。それはセリに二番をつけることだ。一番高い業者が魚を引き取る。二番目に高い業者に落札価格に応じて数%を手数料として払う。二番が欲しくて高値を呼ぶ。これも昔からあるセリ値を上げる手段方法。
大事なのは冷蔵庫を満杯にできる魚買取基金だ。これが50億円もあれば面白い商売ができる。国内に売ることばかり考えずに加工して手間賃を稼ぐことだ、幸いにも八戸は輸出港、海外へどしどし輸出できる。それも地元産品を中心に送れるのだ。
どうだ、諸君、頭を抱えるばかりではなかろう、市長の首が替わり、八戸に朝日がさしているのが筆者には見える。その原動力を活かすも殺すも市民ひとり一人の心次第。幸せは誰が決める? 皆、ひとり一人の心が決める。時代は変わった、税金を自分の生まれ故郷に納められるようになった。中央の八戸人が税金を八戸に納めるようにするには、生まれ故郷の八戸がどうなっているか、それを知らせなければならない。それには「はちのへ今昔」のように、八戸の町を映像で日本全国に散った八戸人たちに見せることだ。八戸に起居するものには当然なことも、それが国を捨て、あるいは離れなければならなかった者の心に訴える。
望郷……、この言葉こそ八戸を活性化する魚買取基金を得る元になる。