2008年10月6日月曜日

講談 安藤昌益発見伝



昨、十月五日、八戸市天聖寺で宝井琴桜の講談安藤昌益があった。会場には七十名ほどの観客。
 開口一番、琴桜が寺が用意した経机(仏前で読経の時、経文をのせておく机)を釈台の代わりとして、張り扇を叩いて調子をみて、「八戸市には講釈師の使う釈台がありませんでしょうから、この机を借りました」と一発かました。
 これは俗に言う、胸倉を摑む喋り、こうして軽く相手を牽制し、自分のペースに引き込み話をつなぐわけだが、八戸市をナメてはいけない。二十四万市民の中には東京上野の講釈のメッカ、本牧亭の釈台の寸法通りの本格的な物を持っている人がいて、その言葉に刺激され、会場を後にタクシーでそれを取りに帰った。
 それで演じていただいたが、それを貸したのが「はちのへ今昔」。何故そんな物を持っていたか、それを語ると長くなるので一部省略、女流講釈師の一番が、この琴桜、一龍斉貞水(人間国宝・これになると国から毎月五十万のお手当て)の弟子に春水てのがいて、これは声優、アニメのお姫様役で当たりをとって、講釈の門を叩いた。これがそこそこ上手く、真打にさせたいが、前がつかえていた。講釈、浪曲、落語なんてのは伝統芸だが、しきたりの中でしか生きられない。そこから飛び出れば岡に上がった魚であがったり。
 伝統、しきたりでは前が真打にならないと幾ら上手くても、飛び越えられない。そこで下手、いやあまり上手くない田辺一鶴の弟子、田辺鶴英に番が廻った。これは実力より先に名を挙げた。他がしないことをいかにするかが成功の元、介護が問題になり始めたのを教えたのがいて、介護講談で全国からひっぱり凧、ところが講談が上手くない。
 開口一番、張り扇を叩くが、自分の声柄(こえがら、こえにも柄がある)に合わせて張り扇を作る、白扇を半分にして西の内ってゴワゴワした和紙を撒く、その厚みで張り扇を叩いた音に高低がでる。それの合わせが上手くない、叩く場が違う、講釈師詰まった時に三つ打ちで、暗記して喋るからどうしても詰まるときもある、ウ、とかウーンというと雪隠の糞詰まりで、講釈師も同様に詰まる。ところが、この田辺鶴英は真打昇進が決まり「はちのへ今昔」のもとへ相談に来た。丁度五年前、筆者が「はちのへ今昔」を三年出して、三年坊主になった、三日坊主じゃない三年坊主、港区三田の慶応大学近くの寺にいて、麻布十番の商店街で手相の鑑定を大道でやっていた。
 そこに鶴英が訪ねてきて、路上で講釈を筆者が教えた。真打になると五席だったかを真打でトリをとる。トリったって鳥を獲るのとは訳が違う。鶴英はその五話の喋り分けができない。軍談、世話物、人情物と様々に喋りを分けるところに腕がある。
 大道で手相の客の合間でそこで張り扇を打て、一つ、そこは二つ、声は弱くとか緩急をつけろとか教えた。上野の本牧亭が講釈場を失い、湯島に小さな小料理屋を造り名をつないだ。そこに田辺鶴英の幟を立てて、真打の披露、後ろの幕を筆者が贈った。
 「どうして急に上手くなったの」と、国宝の貞水に言われたと鶴英が嬉しそうに筆者に告げた。琴桜も田辺一鶴に斯道(しどう・この道)に導かれた。鶴英もそう、筆者も同じく一鶴が開催した修羅場塾に通った。そのときの同期が鶴英、この人の娘がこむぎちゃんで昨日、琴桜が演じた秋色桜を小学生で必死に演じた。母親の鶴英より上手かった。筆者は素人、斯界に誘われたが足を踏み込まなかった。
 一鶴には不思議な魅力があり、芸はそこそこだが、人に講談の面白さを語らせると水木しげるの妖怪ねずみ小僧のような説得性が出る。これに人が引き込まれてプロになるが、見ると聞くとでは大違いで、芽の出ない芸人は山といる。
 そこで芸人も色々と手を変え品を代えて演目作りに精を出す。そこで琴桜が着目したのが安藤昌益。ところが、この安藤の思想は難解で何回考えてもうまく喋れない。そこでこの安藤の思想の発見に着目、それが発見伝、南総里見八犬伝は滝沢馬琴、発見伝は琴桜、謎の多い安藤、八戸に十五年在住し秋田に戻った。何、理由は簡単、八戸にアキタだけ。
 千住で安藤の本が発見された、そこで千住が燃えている、八戸も燃えろよと言葉を継いだ。八戸には三浦忠司氏がいる。この人は立派な人、八戸で十五年前に「安藤昌益国際シンポジュウム」を開催。安藤を再認識させた立役者。
 あれから十五年も経ったのかと感慨深く琴桜を聴いた。講談、講釈は歴史を分かりやすく語るのが第一義、これを琴桜は見事に伝えたなァと思った途端に落涙。お後がいない独演会、二時間の長丁場、秋色桜、講談の歴史と様々に話を盛り込み、最後は八戸人に安藤をもう少し知れと啓蒙。啓蒙講談安藤昌益の一席、お見事。