2008年10月28日火曜日

八戸盲人会館を追い出した八戸市、その結末は?


永洞清吉が八戸藩のアンマ、森の一坊を頼って岩手県宮古から來八、アンマ、針灸を学び明治二十四年二月四日、盲人生活改善を標榜し、多くの人々の賛助を得、八戸市朔日町に東奥盲人教訓会を造り、初代会長となる。京都上京区の盲唖院は明治十一年創立、永洞の噂を聞き、東北、北海道から集まった盲人は百二十名を超える。明治37年火災のため十一日町に移転、明治44年12月20日、私立学校令により知事認可を得、私立東奥盲人学校と改組、八戸人は永洞に助力、永洞は大正四年まで校長を勤めた。
 伝統ある盲人の組織に南部氏は昭和二十四年に盲人会館を建てるべく、八戸市役所近く秋田材木隣の土地を提供。昭和三十三年10月、南部氏は同地を八戸市役所に寄贈、八戸市は昭和59年、南部会館を建てるので、通用門が必要だと、盲人会館取り壊しを求め、立退き料202万9千円を支払い追い出す。根城に福祉会館が建ち、部屋を提供されるも、遠くて不便と盲人会館跡地が約定通り通用門が建っていないので、金を返すから今一度盲人会館を建てたいの意向をもらす者あり。この意見ももっとも。
 現在は空き地となり不審な軽自動車が占拠、「はちのへ今昔」は盲人を永い間騙したままにするなと噛み付いた。市役所は門はないが問題ないと返答。
 不服に思う者がいる以上、納得してもらうのが市の仕事。盲人協会の総会に出向き、実情を説明し説得せよ。さもなくば202万を返してもらい、彼らの城、盲人たちの寄り所を作れ。当時の福祉事務所長は大岡と言ったそうだ。現、総務部長と関係があるのか?