2008年8月10日日曜日

郷土八戸の偉人 自由学園創始者 羽仁もと子 3

私は、一度しか会ったことはないが、その美しさはまだ私の記億にあざやかである。人間の顔というものは、その人の生き方によって美しくもなり、みにくくもなる。………」今でも持っている一九七〇年七月十二日号の記事です。青森弁というより、むしろ八戸弁丸出しの偽らない八戸せんべい、あるいはするめの昧がでてくるわけです。
 司会者 羽仁もと子先生はいうまでもありませんが、千葉くら先生、片山潜の奥さんになった原たまさんなど、かなり八戸とキリスト教とのつながりがあるのですが、その辺で河野先生いかがですか。
 河野 私が自由学園を初めて知ったのは、今から四十年前のことです。
 私の教会の子どもさんが、「上京して勉強したい」「どこに入るんだ」「自由学園に入りたい」とのことで、私が東京にまいります時に連れて行きました。それが初めてです。 その後おききしましたのは、戦争中に自由学園の自由という字を取ってくれと言われたが、羽仁先生はがんとして受付けなかったということで、何とすばらしい先生だろうと思っておりました。
 その後、八戸で明治十年頃からの教会の名簿をめくりましたら、いろいろの方の名前が出てまいりました。松岡八郎さん、松岡進さん、千葉くらさん等々、法師浜さんのお名前もありました。先生が残して下さった足跡というものは、八戸の偉大な遺産であると思うけれども、この遺産を何が作らしめたかということを考える必要があると思います。そして、こうした教会の方々が、なんの関係で信仰を持たれたか、やっぱりそれは羽仁先生のいろいろな影響であると思いました。その時にヘブル書第十一章、アブラハムのことが書いてあります。
 「彼はすぐれども信仰によりて今なお生くる。」私は羽仁先生は信仰において今なお生きていらっしやると私には考えられるのであります。そして、この波紋が更に、大きくなることを願ってやみません、それで羽仁先生の何がそうさせたかということは、羽仁先生の人間像をとらえて考えることが私たちにとって大切な問題ではないかと思います。
 司会者 皆さんもご存じかと思いますが、さきほども申し上げましたように、八戸には古くからキリスト教がはいっていて、たくさんの優秀な人達が信仰にはいり、八戸の文化そのものの底上げにかなり寄与していると思われるのですが、その人達について稲葉先生いかがですか。
 稲葉(克)幕末のころ函館にニコライが来て、その弟子がすぐ八戸市や三陸一体に伝道する訳ですね。古谷さんのお父さん、源晟さんなどは進んで入られて、もと子先生のお宅とは親せき関係で、早くから、キリスト教のふん囲気になじんでいたと思います。八戸の士族は、明治六、七年にクリスチャンになっている訳です。そういうふん囲気の中にもと子先生はおりますので、十五才で東京に出るまでに、いろいろな人格形成はここにおいてなされただろうと思われます。それから尾崎さんが先ほどなにかエピソードがないかとおっしやいましたけれど、まだ九十四才で元気な林徳右工門さんのお父さんが話していましたが、明治二十年代に三日町の繁華街ででっち奉公していたとき、お理亜さんとおもとさんが三日町を歩くと、でっち達がみんな走って行ってのぞいたもんだそうです、非常にハイカラな娘が二人歩いて。ハイカラな方であったそうです。それからジャーナリストでは、慶応義塾に大勢こちらからいっていて、野田正太郎さんなんか、司馬遼太郎の「坂の上の雲」にも登場してきますけれども、二十一年頃の時事新報のスターみたいな新進の記者だったんですね。
 司会者 そちらにはたくさんの方々が見えられているわけですが、「婦人之友」の愛読者の方々、つまり「友の会」の会員または自由学園の卒業生の方々、直接もと子先生に接した卒業生の皆様からお話ねがいたいと思います。
 月館 私が学校に人りました時、自己紹介がありました。その時(旧姓は石橋というんですが)
八戸の石橋といいましたら、先生が「あー、せんべい屋か、十八日町に石橋せんべい屋があったきゃ」とおっしやいました。家に帰ってきて母にいいましたら夏休み終ったら、せんべいを持っていきなさいと言われ、お届けしましたら、先生は、せんべい食べるのが楽しみだと喜ばれたそうです。
 長峰 私は月館の妹で、旧姓は石橋でございます。今は長峰です。私は四回生です。寮生活でしたので一ケ月に一回位しか、お話を伺う機会がありませんでした。
 司会者 羽仁もと子先生の信念にもとずいた教育をおうけになった子弟の方々の発言がつづいていますが、高橋さんはいかがでしょうか。
 高橋 私は三回生です。入学式の時に先生が、八戸弁でおっしゃって、私の隣の九州から来た人がちっともわからないとおっしやいました。私の祖父が長横町の松岡さんに下宿させていただいて、八中に通ったそうです。もと子先生が若くてハイカラで、リボンをつけて、かるた等、一諸に遊んだそうです。私がそちらの試験を受けるといったら祖父は、巻紙に墨で手紙を書いてくれて、それをお持ちしましたら、もと子先生は休んでおられて、恵子先生が出てらっしやいました。私の在学中に三十周年記念がありました。その時吉田茂さんがいらして下さって、もと子先生は子どものように喜んで、ご案内したのを覚えております。
 大沢 私が学園におりましたのは、羽仁先生の晩年の頃で、卒業の時にミスター羽仁とミセス羽仁がお二人そろって写真に並んで下さったのは、私達のクラスが最後だったと思います。ご気分のよい時は礼拝や食堂にいらっしやいましたが、直接授業を受けたことはありませんでした。一寸印象に残っているのは入学式と羽仁先生係りでした。入学式には、名前を書いてある白いリボンを胸に付けて、在校生の拍手の中に迎えられて胸が一杯でした。その時、寮生だけにだったと思いますが、皆さんはこの一年に一日一信をしなさいと言われました。私はそれを実行して、母からも、それにこたえるように手紙が来て、なつかしくうれしかったことを覚えております。そして自由学園で寮生活に人りました私は、それまでは、自分の部屋の掃除ぐらいしかしませんでしたが、秩序のある生活は大変なことでした。遠く離れて生活する子供を心配する両親の心を思って、ミセス羽仁は、一日一信をしなさいと言われたと思います。ミセス羽仁の家庭を大切にするお心は、学園の自治の生活や組織づくりにも取り人れられていると思います。
 羽仁先生係りは高三の終りの頃でしょうか、それまで学んだ学園の生活、少人数でお年を召した羽仁先生をお世話をするというのですから私達は大変緊張もし、心して、させていただきました。専問の勉強をしたり、特別の先生がいらしたわけではありませんでしたが、それまで学んだ積み重ねと、上のクラスからの引き継ぎをもとにしていたしました。私達のクラスでは、お年を召した羽仁先生のお世話をするのは、私達では充分できないのではないか、と言い出す人もいて、クラス会が開かれていろいろの意見も出されて、ここにいらっしやる千葉貞子先生にもおいでいただきました。
 羽仁 何回生ですか。
 大沢 三十三回生です。昭和三十年です。今、振り返ってみて、羽仁先生のお家で過した事は忘れることができません。
 羽仁 あれから、ずっと続いております。あの頃は三人でしたが、今は二人でございます。
 司会者 はるばる遠く各地からこの八戸へいらした友の会の会員の方々、何かございませんか、まず東京の方から。
 穴沢(東京) 私達友の会員もこの座談会によせていただきまして、うれしく思っております。先程からのお話にありますように、羽仁先生は、キリスト教を根底におかれた高い理想と大きな望みを持って、私達をぐいぐいと引っぱって下さった。
 私もかれこれ四十年のご縁でございますけれど、その間に羽仁先生が純粋なお気持で理想に燃えていらっしゃいまして、本当に協力してよい世の中をとおっしやってくださいました。そのことに心から感銘いたしまして、今まで友の会の皆さんと励んで参りました。友の会員も全国で二万六千人になり、又展覧会をごらんになって、ぞくぞく新しい方々が人られてる状況でございます。友の会員の九十バーセント以上は、大部分、普通の家庭の主婦で羽仁先生は普通の家庭の主婦も手をつないで、ひとり一人が持っている力が小さくても、協力によって主婦の立場から、一生けんめい励みましようと言って下さったこと、同じ志をずっと持ち続けて、一人で出来ないことでも、ご一諸にするということで勉強になりまして、仕事を続けさせていただいております。今度の展覧会もひとり一人の羽仁先生への感謝の気持をこめて、めいめいが自分の生活記録をつけたりして集まったのがもとで作られたものです。大勢の力でまとめたもので、それが、まったくのしろうとの作品でもあるわけですが、羽仁先生の高い理想が本当のものであるということを亡くなられた後も、著作集などで学ばせていただいております。羽仁先生のお生れになった所で展覧会があるというので、今日は伺わせていただきました。肉親の親ではありませんが離れ難い心の親と思っております。
 司会者 大阪の友の会の方、いかがでしょうか。
 大阪友の会 大阪友の会の代表でございます。この催しを伺いまして、昨年は東京で開催して、すぐ大阪でも開催させていただきましたので、ぜひ八戸の方も、羽仁もと子先生のご郷里であるということもふくめてみせていただきたいと参ったわけです。そうしたらこうした集会があるということで出席させていただきました。
 司会者 それではひきつづいて、仙台、盛岡、青森などからいらっしやった方々におねがいしたいと思います。まず仙台の方。