2008年8月3日日曜日

日・朝間の見解の相違

世の中は百人いれば百の意見があってしかるべし。朝鮮併合があったのは1910年8月。その前年、1909年7月に朝鮮併合の方針が閣議決定されたものの、韓国統監府を辞して帰国していた伊藤博文はあくまでも併合自体は将来的な課題として早期合併に抵抗を続けていた。しかし、10月26日に安重根によって伊藤博文が暗殺されたことにより早期併合に反対する有力な政治家がいなくなったこと、および初代首相であり元老のひとりでもあった伊藤を暗殺されたことによって日本の世論が併合に傾いていった。
 こうした意見が日本にはあったようだが、朝鮮側はこのように記述。
 伊藤、皇帝に譲位をせまり、七条の協約を強要する
 伊藤はついに、密使問題を口実に廃帝を決行した。伊藤は、李、宋らを教唆して、「日本は開戦する」などの流言をとばさせたり、「長谷川が皇居砲撃態勢をとる」と言明させたり、また「皇帝は日本に行って謝罪せよ」とも要請させた。また日本外務大臣林は、伊藤に協力するため、ただちにソウルにやって来た。
 十七日夜、李らは皇帝に譲位を奏請した。皇帝はテーブルを叩いて激怒し、これを拒否した。李は翌日もまた譲位の要求をやめなかった。皇帝は、熟慮しながらもみずから決断しようとしたが、李は「まちがえば禍は国家の安危に及ぶ」とも言った。夜になって、「皇位は皇太子に代理せしむ」との命令がでたが、伊藤はなお李を指揮して譲位式を強行することを決定し、そのうえ林と要求条件まで密議した。
 十九日早朝に、譲位の詔書がにわかに下った。人心はいよいよ激しく狂奔疾呼し、人々は皇居の外に雲集した。日本警官は群衆を駆逐しようとしたが、人民は瓦礫を乱投し、数名が負傷した。日本兵は発砲してこれを撃退した。また数名の人民が鍾路に集まって激昂して演説し、日本の交番所を破壊し、日本人十余名が負傷した。同友会員姜、宋らは、決死隊を組織し、李の家を焼き、日本の警察署を襲撃した。伊藤は軍隊を出動して鎮圧させた。暴動は数日を経て終わった。
安重根は海州の出身で、幼時から秀才の誉れたかく、学問は人の道に通じ、併せて武芸にはげんだ。十五歳の時、東学党の乱にあい、父泰勲は起義挙兵して東学党を討伐した。重根は、父の軍に入隊して賊徒を甚だ多く殺傷し、功があった。
 己酉十月、伊藤は満州を視察し、ロシア大蔵大臣と会見しようとした。おもうに、満蒙の利権を協定し、そのうえ各国の密使と中国問題を協議し、みずから中国の財政統監をつとめようとひそかに決めていたのであろう。ここで重根は、決然として奮いたった。老賊伊藤が満州に来るのは、天が機会を与えてくれたものであるとして、ただちにハルビン駅に行った。駅頭には、数千のロシアの警備兵、各国領事団や見物人がむらがり、軍楽がつぎつぎに奏でられ、爆竹が鳴りつづけていた。伊藤はロシア大臣と握手し、儀仗兵を閲兵し、おもむろに各国領事団の方にむかって歩きだした。重根は、伊藤にむかって十歩ぐらいのあいだをおいて、ロシア軍の背後にたった。統をあげて一発をうち、まず伊藤の胸に命中。しかし、爆竹の音が発射音を乱し、各軍はまだ気がつかなかった。      重根は「朝鮮独立万歳」を三唱して捕縛された。重根は手をうって大笑しながら、「どうして私が逃げると思うのか」と叫んだ。
 世の中はこうしたもんだ。どちらも正しいのかも知れない。どちらも間違っているのかもしれない。こうなると河島英五のてんびんばかりの歌の世界だ。
誤魔化さないで、そんな言葉ではボクは満足できないのです、てんびんばかりは重たいほうに傾くにきまっているじゃないか、どちらももう一方より重たいくせに、どちらへも傾かないなんておかしいよ。
 「はちのへ今昔」は傾いた見方をしているが、それを嘘と呼ぶ人も、異見という人もあるが、どちらかへ傾くのが摂理(せつり・自然界を支配している法則)。