2009年4月21日火曜日

小中野特集1 小中野小学校百年史から

前号の田村邦夫氏の話から、吉田トミエさんを想起。この人を中心に八戸の音楽文化を探ろうと、八戸図書館で色々と調べると、小中野小学校百年史を発見。この冊子の凄いのは卒業生一覧がある。唸った。少年野球指導者、広田真澄氏の文もある。早速紹介。
思い出の野球と陸上競技
小中野体育協会長広田真澄
    小年野球
 八戸地方での野球処、小中野からは大石選手をはじめ沢山の名手を出して仲々盛んであった。私達は小学一・二年生頃から応援団に混って、遠く八中グランド迄歩いたもので、何時しか見よう見まねで野球知識を得、道路で布製ボールベースボールを楽んだものである。私達が六年生になった大正十二年春、青森の松木屋呉服店主催で県下少年野球大会が初めて開催されることになり、小中野からも参加する為早速学校に合宿練習。久保・稲葉・佐藤の諸先生から指導されたが、担任の関係から主として佐藤先生が担当、猛烈果敢なスパルタ教育を受けたもので、ハンブルしては怒嗚られ、悪投してはバットが飛んで来る有様、八重沢捕手は、ノックの時などバットで終始小突かれ被害甚大であったと今でも笑話になっている程である。三戸郡大会には八戸町をはじめ他の町村不参加で当時未だ村であった小中野が不戦優勝し代表となった。青森の県下大会には第一回戦で弘前大成に一勝したものの、第二回で東郡大野に惜
第一回
メンバー
投田中直
 小野寺
捕八重沢
一福岡勇
 泉山
二市川
三広田
遊福岡孝
左桜沢
中小野寺
 田中直
右中村敗した。
 翌十三年の第二回大会は、小野寺―瀬越のバッテリーで決勝に進み、青森莨町と決戦、瀬越のホームランラインを越す大ライナーを、驚いた                   観衆が逃げながらダイレクトで捕らえたので、着地点が不明で紛糾したが結局ファールを宣言されて二点がフイとなり、二ー一で恨みを呑んだのである。
 十四年の第三回大会は、猛練習で鍛え一肩充実した選手団であって、郡代表決定選は勿論、県大会に於いても破竹の勢いをもって次ぎ次ぎに相手を撃破し、全く文字通り鎧袖一触(がいしゅういっしょく・よろいの袖でちょっと触れる程度のわずかな力で、たやすく相手を打ち負かすこと)そのもので県下の覇を握ったのである。
     防犯少年野球
 戦後の混鈍たる世相の中に、小中野出身の八高生等によって野球チームが編成され、心身の鍛練を企画したことは、如何にも小中野らしい風情がある。その頃青少年の非行救済策として全国野球大会が、防犯関係者によって常行されることになり、二十五年には北友チーム(北横丁新丁)が八戸代表となったが、県大会では優勝した十和田チームに敗退し、二十六年にはインデアン跣ズが八戸市で優勝し代表となった。裸足か草履、服装は各自銘々の普段着、如何にもインデアンスにふさわしい。県大会では準決勝で弘前と対戦し、三回までに九―○と離されあと一点でコールドゲーム、誰しも負を予想したが、四回俄然投打開眼、最終七回で九―九の同点、延長八回で十五―十で苦戦ながら決勝に進み、堀越を破って県代表となり、仙台の東北大会に進んだのである。選手の気力と自信には全く敬服もので、自主練習の効果覿面(てきめん・結果・効果などがその場ですぐあらわれること)というべきである。
 東北大会でも決勝で宮城代表岩沼と対戦、先取得点されたが結局三―一で優勝した。いよいよ後楽園の全国大会である。一回戦は北九州大川チームに六―一と快勝したが、二回戦で名古屋中京クラブに三―一で惜敗、翌年を期して帰八した。
 二十七年は市・県・東北大会何れも予定通り優勝し、他の十五チームと共に後楽園に進んだのである。一回戦は広島を五―○、二回戦は新潟を五―○、準決勝で優勝候補の横浜と対戦し一ー○で之を倒し、新聞で散々に誉められるし、在京八戸人会では沢山の応援団を繰り出して一大声援、いよいよ決勝に臨んだが、相手は強豪、呉の三津田、速攻よろしく戦力の陣容整なわぬ間に四―○と離されたが、後半から東北人らしくねばりにねばってハ回三点を入れて五―三。九回は二アウトながら満塁、一打同点か勝越しの追上げムード、観衆は大いに湧きに湧き、一球一球の声援に球場は興奮の坩堝(るつぼ)と化して、決勝戦に適しい熱戦を展開したのである。結局玉川主将の捕邪飛で万事休したが、場内からは絶讃され八戸の名を高らしめた快挙と自負している。メンバーは
二十六年・投手・佐藤充、藤本、捕手・宮本、小笠原、一・玉川庄、二・佐藤洋、三池田、遊撃・岩淵、左・八並、中・根世、右高橋正、熊谷行、高中、杉村、月館孝
二十七年
投・藤本、渡辺、捕・橋本、一・玉川恵、二・月館孝、三・池田、遊撃・風張、左・高橋正、中・鈴木理、右・佐藤洋、音喜多、柳沢正、道合博
 尚監督四名、部コーチ玉川恵・川村久・鈴木清・市場駿の諸君で、現在も小中野で続いている防犯少年野球大会は、先輩の偉業を讃えながら、その精神を受けついで行なわれているのである。
    陸上競技
 大正十四年は、小中野小にとって野球と競技に於いて、空前の全盛を誇った年であると云っても過言でない賑いぶりであった。前述の県下少年野球の優勝をはじめ各種大会優勝のほか、陸上競技に於いても尋常科高等科共に県内最強のメンバーで、優勝に次ぐ優勝と誠に往く処遮(さえ)ぎる者なく全く破竹の勢いであった。参加した大会も郡教育会主催の三戸郡大会・八戸中・青中並びに鶴岡青年団主催の県下大会と権威ある大会に優勝、更に県森師範創立五十周年記念大会には、県内各校の俊英が多数参加したもののよく善戦し、瀬越(百・高・巾・三・円)下野(砲)リレー(瀬越・下野・熊野・内藤)のタイトルを得た尋常科と、広田(百・巾・三・砲)福岡(槍・円)、リレー(広田・中島・小野寺・石橋)の高等科と殆どタイトルを独占する形で共々優勝を飾ったのである。
  此の年優勝旗・優勝杯の総数三 十六の多望に達し、優勝旗祭を催して祝ったことを思い出すのである。前述の野球指導の諸先生と競技指導の対馬先生や、スポーツと勉学の両立をモットーとした八木沢校長先生の、共に喜んでくれた笑顔が今でも懐しくて仕方がない。

柔道
八戸柔道協会々長古川誠
 明治の中頃、盛岡から来た藤田と言う人が小中野町左比代に柔道場を開いた。これが当地に於け る柔道の草分けであろう。浜通りの青年が集まり隆盛を極めたが大正半ばに閉鎖したと聞いている。比道場は古流である。昭和初期岩田男也の開いた道揚がある。柔剣道合同であった。柔道の師範はいなかった。
 講道館柔道は湊学友会と水産学校の洋友会によって普及されたと言われている。
 学友会からは柔道の偉材が輩出している。夏堀悌二郎・正三兄弟、木村千太郎、夏堀道麿、工藤千代吉、大久保正、藤田久蔵、吉成武久、等等……。これらの人々のエピソードは数知れない。紙数の関係上割愛しなければならない事は遣惑である。私は学友会の末輩である。小学生の頃、学友会の柔道部に憧れた事を今でも忘れない。洋友会出身では柳谷一家の存在が大きい。柳谷明義は、大久保・藤田の諸先輩と共に一時代を画した名選手である。戦中から戦後にかけて大きな足跡を遣した柳谷勝雄はその次弟である。
 戦后は、柳谷勝雄・古川誠がその中心的存在であろう。八戸柔道界の重鎮、佐藤孝志先生を招聘し昭和二十七年柔道を建設し当地の柔道の発展普及に努めた。斯界の為に大いに寄与したものと思う。
 戦后に活躍した人々に、柳谷弟吉、勝美兄弟、大久保完美等がいる。道場出身者には、木村書店の木村忠雄(警視庁師範)土方博敬、町田勝巳等枚挙に暇がない。
 小中小学校に柔道クラブが創設されたのは昭和三十一年、三月二十二日、板橋校長時代である。板橋校長は八戸中時代名選手であった。
 役員は次の通りである。会長或は部長・板橋勇次郎師範・佐藤孝志理事・藤田久蔵、武田実、重茂得一、柳谷勝雄、橘喜助、古川誠、事務部・川村三郎、指導員・河野康之丞、阿部幹、桜庭健、高山惣一、石橋志郎 女子部・植村てる。
 部員数男子約百五十名、女子約十名、小学校柔道クラブ結成は県下で最初であろう。此クラブ出身者が高校で活躍した事は承知の通りである。
 星霜移り変わり道場もさびれつつある。然し有志相募り、昭和四十五年以来再び浜通りの青少年育成に意を注いでいます。現在、稽古日・月水金の三日間、指導員、大野恭衛・川口正範・横町健悦・佐藤武・達中清志であります。
 小中野小百周年に当たり小中野柔道を振り返って見た。自他共栄精力善用を通じ健全な青少年の育成を心から念じる。

  湊学友会の誕生
  青年会と学友会
 八戸市教育誌によれば、八戸青年会(北村益主宰)の発足は明治二十二年、湊学友会のそれは明治二十九年、とある。そこでいま、この両団体を乱暴に短評すれば、さしずめ「文明開化的村塾」と言ったところだろう。が、しかしこの村塾的存在が、いやしくも公的機関の記録に値いするのは、それぞれ[地域社会の文化水準を高めた]とする 社会教育評価にほかなるまい。ところでこの八戸青年会が、青森県尋常中学校八戸分校(八高の祖型)と湊学友会の設立に大きく作用したと言われる。そう言えば、尋中八戸分校の草創期における青年会が、この分校に占めるウェートは、かなり大きい。すなわち分校七名の教師中、五名までが青年会員であり、新入生の過半数もまた青年会員といったぐあいなので、尋中八戸分校の構成は、さながら八戸青年会PTAである。
 それかあらぬか青年会の鼻息が荒く、これを蔽(へい・つつみかくすこと。おおうこと)して遠ざけた町方が「青年会のドンドゴドン、袴コはいて草とりコ」というザレ唄を巷に流した。この、ちょっと捨て難い味の里謡は、多分にアンチ北村の響きをもつが、そんなら、この槍玉にあがった北村の人と成りは、どのようなものだったろうか。他意なく評して北村益は、一種の精神的巨人である。すなわち幾多の高僧哲人について道を求め、文武百般を目ざして「難行苦行ヲ以テ業務トシ」ながら、一方では八戸最初のピアス号自転車や今のスライドに相当する幻燈機、さらにはブラスバンドまで持ちこむという開化ぶりも示した。が、その心底は、どうやら自身の雅号たる△古心▽への回帰であり、錬成につぐ錬成をもって「コノ勤行ニ耐ユル者二非ズンバ会員タルヲ得ズ」と声をはげました。だから長男の北村小松などはグウの音も出ないほどシゴかれたし、京大柔道部の荒行
で今弁慶の勇名を洛中洛外にとどろかした甥の浅水成吉郎でさえ、こうあしらわれた。
  明治三十五年二月二日
      諧武員候補者浅水成吉郎
 右ノ者一月二十六日不都合ノ所為ニヨリ負傷致シ侯ニツキ一日ノ欠勤ヲ以テ三日ノ欠勤二算ス
 つまり北村によれば「たるんでるからケガをするのだ、このまぬけ」なのである。もっとも、これは北村の武断的一側面にすぎない
だろうが、とにかく時の中学校長をして拝跪(はいき・ひざまずいておがむこと。かしこまること)せしめたとあるから、剛気なものだ。ま、それはともあれ、前記尋中八戸分校が第二尋常中学校と改称されたこと、折からの八戸三社祭のさ中で炎上、時の県会で物議をかもした。このとき青年会が△八戸ノ発展上、中学校ヲ小中野ト大杉平ト何レニ置キテ可ナリヤ▽を討議し、票決により小中野十四票、大杉平二十票でケリがついている。
 これは、小中野の立地に青年会が無関心でなかった事を示しているが、しかし青年会が学友会に決定的な影響を与えた、という事にはならない。また当時、浜通在住の青年会員としては神田重 雄・石橋蔵五郎・中野菊也、それにのち小中野校の松木興身先生となった河原木興身ぐらいのものだ。そして、この中には個人として北村の知遇(ちぐう・人格や識見を認めた上での厚い待遇)をえた人があっても、全体としてどの程度に両団体のパイプ役をはたしたかも定かでない。そこで、このような考察よりは、むしろ学友会が青年会の△文▽を音楽演劇の領域にまでひろげ、またその△武▽をスポーツのレベルにまで高めた、という点に意義があろう。
  港から湊ヘ
 浜学友会の生れ育った土地は、浜ではなくて小中野である。それが、なぜ会名に△浜▽を冠するのかちと解せないが、これに似た例は、ほかにもある。すなわち新堀に残る湊駅、今は小中野局となっている旧湊郵便局などがそれだ。とすれば、あるいは明治二十三年の記録△小中野、昔ハ折本村ト称シテ今ノ二本杉近辺ニアリシヲ年号何レノ頃ニヤ今ノ所二移レリト。当村ハ元三小区ニシテ湊村ト言イシヲ其後、小中野村トナレリ▽に由来するかもしれない。 また小中野は平坦な土地に浜の主要機関や商店街ばかりでなく、花街や銭湯もあるという一種の文化センターであった。また、その花街や銭湯は当時警察の所管なので、そこに駐在所もあるというぐあいで、一見、タダイ(消費者)の集落をなしていた。これにひきかえ段丘からなる湊村は、ヤマド(山人)ハマド(浜人)と称されたカセギ手(生産者)の集落であった。