明治前期の県会
戸長選挙
廃藩置県により八戸藩は八戸県となり、それまで旧領主として藩政をとった藩知事は辞任、大参事がこれに代わる。八戸城下は藩政時代は御町奉行が統治責任者で町人、百姓を取締り武士は目付けが行う。県になてからは区別なく取り締まる。
八戸県は五県合併で青森県となる。
明治四年十二月二十五日支庁より御用差し紙につき出頭したところ、第一区戸長逸見輿長、同副新宮主、第二区戸長小山田源内、副岩泉市兵衛、第三区戸長百嶋平、副山本登弥太、第四区戸長松岡軍蔵、副河原木博一、第五区玉内寛、副野中連云々
大小区制
明治五年に大小区制がしかれ、青森県は十の大区となり区長がおかれ、それらがいくつかの小区に細分された。
第九大区は七小区に細分
第九大区 八戸 区長上杉吉寧
第一小区 舘・長苗代 戸長百嶋 平
第二小区 旧八戸 戸長大沢多門
第三小区 沼館・浜通り戸長木村興世
第四小区 大館・階上・類家戸長小向久貞
第五小区 中居林・是川・島守戸長平田吉博
第六小区 名久井・中沢戸長苫米地魯也
第七小区 剣吉・苫米地戸長高嶋壽名
区長上杉は八戸藩最後の大参事、もう一人の大参事大田広城は権典事として県庁入り。
小区の戸長はすべて八戸藩士だった。
区制の実情
徳川時代は地域を代表として代官の指令を住民に取り次ぐ役目を名主、その下には村落ごとに乙名という村役、代官…名主…乙名…百姓となっていた。代官は武士、名主以下は百姓で、名主は選挙で選ばれた。
大小区制の小区の戸長は、この名主にあたり、その下の乙名は惣代人と称した。
誓書
今般拙者どもより惣代人として貴殿方を選挙し、当明治十年六月より向こう十二年まで三年間、当村において土木起工、金穀公借の節は、惣代人として保証し、かつ村内の利益保安の儀につき、その筋よりお尋ね等あれば拙者どもに代わり、見込み申し立て方、しかるべくお取り計らいたく、これに後日異存は申さないことを堅くお誓いします
第九大区六小区平村
明治十年六月 住民及び土地保有者二一五名連署
小萩沢久作殿
荒谷弥八殿
砂庭清三郎殿
前書の趣、拙者共立会い承り届候也
区長岩泉正意
戸長苫米地魯也
この文書は村の惣代人は住民や地権者から選挙されたが、それには区長、戸長が立ち会った。村一切の代理を委任し異議は言わないとある。これは村人の利益代表ではなく、統治機構の末端である。大小区制は藩政時代そのままだった。
明治九年の県会
初めての県会は明治九年二月二十五日青森で開催。議員は各大区長と学区取締、名望人が一人づつ、それに各小区の戸長で構成され、総員九三名。議員の中、名望人だけが選挙された。
第九区名望人
一番札 中島渚
二番札 野崎和次
三番札 大沢多門
議員として出席するのは一番札のみ、二番以降は補欠で一番不在などに順次出る。
中島は八戸藩江戸家老、のち八戸藩初代大参事、明治四年廃藩置県では総括責任者。
県会制度の改正
府県会規則の制定
明治十一年各県の行政にあたる県令を集め東京で開かれた地方官会議で、いわゆる「新三法」が決定。この中に「府県会規則」があり、議員は郡から五人以内を選挙によって選出。議会は県費のうち地方税で負担する経費について、予算額と賦課方法を議定するということになった。
議員を選挙できる選挙権は二十歳以上の男子、郡内に本籍を有し地租十円以上を納める者であった。