越後松助さんの話から
白銀の商業
白銀の商業といっても、湊や鮫のように出船、入船に賑わった村落と違い、その昔から扇ヶ浦の中心として住まいを高台に求め、浜と畑を朱として生活してきた。明治になり新道(現在の下夕通り?)が出来てから、浜の魚も一段と活発になり、それに需要が増した。三島川を中心として主に西側に八戸から商人が移転してきた。
魚の行商は天秤棒にザル、魚を入れて浜伝いに湊へ、それから八戸へと行商するコース、西の平を下り三島神社前を通り浜崖にかかり、岩淵通りから現在の梶野医院前に出て汐越に入り、上の山を通って、湊橋を渡り小中野~八戸へと肩で担いで行商したのが、新道によって一直線に湊本町に出て、橋を渡って行商、その後間もなく魚類の卸問屋も三島周辺に出来、その他菓子屋、鍛冶屋、屋根屋、金物屋、煙草屋等の店が点在。町並みが出来たのは明治の末、大正には大きな買い物は湊、八戸へと足を伸ばしたが、こまごましたものは白銀で間に合う。祝儀、佛祝儀の目出鯛やまんじゅう、ラクガン等も武尾さんで作り白銀村の必要に応ずるようになり、また鍛冶屋の橋本、魚の問屋の長谷川さん、雑貨商の田村、大橋、菓子類の南山さn、薬屋の戸狩さん、下駄屋の石橋、屋根屋の長島、松尾さんというように他の店も続々と中心ばかりでなく大沢地区、下夕通り地区(清水川)にも大塚、淡路商店と出来、店屋さんも出来てきたのです。
大正十一年、浜の漁の需要に応え八戸町の橋本家では現在地に八戸製氷株式会社を創立させ、白銀の名物としての氷会社となって現在まで白銀農漁民、否湊、鮫の人々に供給した。長い間の夏季には特にその喉をうるおした功績は大なもので、その恩恵を浴した人たちの多くは、今は草葉の蔭で今日の変貌と往時に感謝しておる事でしょう。
又一つ忘れることのできないのは、昭和に入って間もない頃出来た三島の清水で作った清涼飲用ラムネです。製氷会社ができて間もなく橋本音次郎さんに、大橋晋吉さんや武尾三郎さんらが働きかけて出来たのが白銀ラムネ工場で、三島の湧壷から五、六十メートル下の処に工場を建てラムネを作り一般に販売し、白銀海水浴場に来たお客様や農漁民に重宝がられ、時折麦刈り時の暑い盛りには各家々の女達が検査から外れた、玉落ちしたのを一升瓶や手桶に買いに行き、畑や麦の収穫時に喉をいやした記憶は五、六十代の人なら、よもや忘れはしないでしょう。
次に前述のように農漁村であったが故に現在でも労災病院前に唯一軒福美屋旅館があります。明治の末頃といわれる三島館があり、主に海水浴客が泊まった宿屋が一軒ありました。今の野里食堂さんの処です。
昭和の初期頃、大相撲の巡業で前頭以下の相撲取りが宿泊したり、海浜を散策したものですが、湊や鮫の如く人の出入りの少ない白銀は、旅籠も営業できないような物資の流通においても素通りする町であり、現在もそれを物語る様に港も鮫、湊に片寄って白銀浜は必要度には変わりないが商的な繁りは余りありません。
次にやはり、ほとんどの人に忘れられようとしている建物は、現在の白鴎保育園付近に三島倶楽部(土地は金入)(金入さんの肥料倉庫)が間口六間位、奥行き十二、三間に舞台があり大正、昭和初期まで地方廻りの旅役者が芝居をしたり、えんぶり組(白銀)一般に公開したり、村の集会場として、この昭和十年頃まであったと記憶しています。今日でこそわが家でテレビドラマを見る、また世界のニュースが送られてきますが、昭和初期までは映画とて弁士付きの映画であり、その他は別稿のようにえんぶり、権現舞とその三島倶楽部で行われた芝居見物が娯楽であり、それも年に何回と限られた数でした。三島倶楽部は今の五、六十才以上の人たちの恋の囁き場でもあった訳です。
○ 白銀の網大工
地引網が網の種類で一番早いのではないか、それ以前は網といわれる位でもなくも、掬い網か、また、小さな曳き網如きものもあったかも知れませんが、小魚は、それは小さな網でも多少は獲れるのですが、やはり、浜で生活するようになり、鯨が鰯を追い、岸にその魚群が色をなしカモメがそれを追いかけ、夜ともなればほんの波打ち際まで鰯が入ってきて、それを捕獲しようとしたのが地引網だと思われます。
その網は最初は関東、関西をみならい購入して、この白銀浜でも使用するようになり、また、それが破網したり、耐用年数がきて、不使用となれば、必ず別の物を仕立てて漁獲してきたと思います。その網を作るに麻が撒かれ、糸にして、網目にして網を仕立ててきたのです。それが明治、大正、昭和の入ると量が何十倍も必要となり、網は専門の業者が作るようになった。
白銀では軒末吉さんが網大工としては早かった。明治四十年頃から専業で弟子を養成。道具は簡単なもので、アバリ、鋏、網切り出刃くらいのもの。技量は大工の名にふさわしく優れたものだった。
軒さんの弟子 佐々木福松(ハマコ)、高橋石太郎(大久喜)、高橋兼松、軒丑松(末吉長男)、佐々木虎吉(寺小路カマド)、佐々木福蔵(イヘ)、佐々木鉄五郎(熊五郎カマド)、中村高明(甚五郎様)、大館岩蔵(ヒノミ)、佐々木要次郎(赤市カマド)が昭和十五年までの大工さんとして活躍した方々です。
続・名前の出た子孫で写真を持つ人、乞う連絡