2009年4月1日水曜日

はしかみ今昔

八戸線その2         小山翰墨
久保 節 日誌  
れいめいきのきおく
黎明期の記憶
 久八線を浜手に誘致する立役者となったが、実は、停車場は八戸、鮫まで決まった。しかし、その先が問題だったと聞いている。
それは八戸ではなく尻内となった東北線と同様に、病気が入って来る、悪い人が来る等々で各町村は引き受けなかった。鮫の次は大久喜、角ノ浜(岩手県)鹿糠(岩手)は集落が多かった。
階上の場合、牛が放牧されていた榊部落の浜側の榊山に停車場が決まったが、鮫、階上間の距離が遠すぎて、何もない浜平の種差海岸に停車場を建設したと聞いた事がある。また、侍浜駅も大野との関係も考慮して侍浜から四Kmも大野寄りに建設されたとも聞いている。
 海岸線を主張してその貫徹に成功したる湊の部内に停車無き、状態だったが、無論このまま黙っていられない。「之は何とかいたさなければならない」と考えた。ここにおいて鮫、八戸の中央たる湊に停車場位置の問題は勃然(ぼつぜん)として起ったのだ。
 この停車場誘致には、強力な対抗馬がいた。浜手への久八線誘致で共同歩調をとり、川一本隔てた隣町小中野町だ。「湊と大館村に跨る(またがる)日の出セメント会社(現八戸セメント)は事業上社員用引き込み線を久八線に設けることを計画した。この引き込み線の分岐に小中野地内に設け併せて新設駅を小中野に獲得せんと計りたり」と企業と結びついた小中野町に比べて、湊町は非常に不利な状況だった。
しかし、ここは久八線誘致で開拓した人脈が節じいさんを救った。セメント会社の重役が東京よ り来て、会談を持ち掛けられた節じいさんは、「新設駅は小中野にほぼ決まったのに」といぶかったが「実は鉄道省の方で湊町町長、久保節の了解を得て来いと言うことで貴下の了解を得ればこれに極まるので態々参りました」と重役氏。
 節じいさんは「少々話しは面白くなった」と了解の件を断りつつ、ここぞとばかりに「目下生産品輸送に渋滞を来たし非常に御困難と乗りますが将来一倍二倍の生産増加される時その輸送はいかがなさるや、海路輸送の必要はありませんか、海路よりするとすれば勢いこの引き込み線を鮫に近き方面、即ち湊に付せらるるは当然と考えますが」と畳み掛けた。
 さらに、鉄道省が線路敷設のための砂利を探していると聞くや、セメント会社裏の民地に目を付け、渋る地権者を説得し、砂利運搬線の敷設に成功し「機関車は砂利積み込みにセメント会社の直後でボーの声を揚げた」。この状況を会社側も放っておくことができず「急に湊の相棒と早変わりした」。もっとも、認可を下ろす鉄道省側が動かなければ、こうした努力も実を結ぶことはない。小中野側が仙台鉄道局に食い込んでいるとみれば「之を久八線の残工事として」盛岡建設事務所の手で建設するよう “画策 ”した。
久八線の実績で、相手方の目も厳しかった。「私は運動のために出張するに必ず湊駅よりする為に駅附近の北横丁辺の者共が直に向の久保町長何処にか出ていったと言ふて駅に就いて切符を何処までと確めるという有様なれば、余は常に尻内まで切符を買う偽装旅行もやむを得ざる状態なり」と「怪我の療養を口実として」温泉に三週間出掛けることにして監視の目をそらし、宿から上京して談判した。
鉄道省の事務方の机で申請書が滞っていれば、机の上を「探索」して促進を促した。
 こうした努力で、大正十五年七月十一日「陸奥湊駅堂々と開業」がついに実現した。   
 日記の中で,自らを冗談交じりに「教育長」と呼ぶ。由来は、階上村長時代に行った学区の廃止、学校の整理統合。当時村内にあった十一小学校の中で、平内と鳥谷部を統合して登切に移転した例では、地域から学校が無くなることを嫌った住民に「やるならやってみろと人を馬鹿気にしたような口吻(こうふん)で」言われたことに発奮し、申請をだしたと同時に移転に着手し、半月を要せずして竣工(しゅんこう)した。
 これに驚いたのは、住民よりも県だった。
何しろ移転申請地の調査すらおこなっていない段階のこと、既に移転している校舎を呆然として見ているところに「在郷では漫々的では機を失って仕事になりません、全責任を負いますお叱りも甘んじて受けます、但し、この地は学校として不適切の地ですか、またこの地以外に最適の地ありますか」と訴え承認させた。
 一方、節じいさんは、階上から湊に移って、湊、白銀、町畑分教場の全学校の増築移転も行った。総額十一万円だったがこれを「何回も、何回も借金するより一度の方が宜しいということに話をまとめ」実行した。
この中で、特に湊小学校のポプラについての記述がある。
現在の市営魚采市場、陸奥湊駅の真ん前にあった。当時の小学校は「校舎は腐朽して講演、映画等、この大室における集会の際は下より支柱を以って支ふる如き体裁」であった。
そのため、現在の中道に移転することになったが、元校長に庭には盛為次郎氏より寄贈のポプラの大木三本ありて亭亭として天を突きその緑陰は児童の日夕楽しむところ、このポプラと別れねば憧憬により、この樹下に別れの会を開き一夜謡い踊り通した。
切り倒されたポプラは記念に新校の校門にされたが、驚いたことに門柱頭よりわか芽均しく生し蒼々たり、
これを異として樹霊を祭るためポプラ復活祭を盛大に施行したという。それから七十年以上を経て、このポプラは、今も校門わきに立ち、子どもたちを見守っている。
祭日は、戦後一時途絶えたものの昭和五十一年には復活し(ポプラ祭り)として今に受け継がれている。
湊小学校のわきに立つ大樹は、世代を問わず常に住民の思いの中にある。丸太にされても、火事に遭っても、また青々と葉を茂らせるこのポプラの生命力。そこに階上、湊、八戸、と活躍の場を移しながら頑張った節じいさんがあった。
           この項終わり