2009年4月20日月曜日

無から有を生む、八戸市川にイチゴ生産を実現させた偉大な魂の持ち主、教師であり農民、何より慈愛の人だった細川重計氏1

「水を飲む人は井戸を掘った人の苦労を偲べ」
こういう言葉がある。本州の北端、青森県にイチゴ栽培を提唱した男がいた。暖かい地方でしか育たないイチゴ、何故それに気づき、それを育て、市川地区に根付かせ一大事業にまで伸ばすことが出来たのだろう。
市川公民館が地域の歴史を掘り起こす努力を開始、その第一号の新聞に細川重計氏が載った。その記事で人間細川重計氏の大きさを教えていただいた。
昭和二十九年にイチゴに手を染めた。チョッと前の様な気のする昭和、ところが探すとなると遥かに遠い。どこまで、この重計氏の偉大さを記せるかおぼつかない筆でシリーズ物として追ってみる。
一九九七年、市川地区のイチゴ販売額はおよそ六億六千万円、提唱者も偉かったが追随した農家の努力が、無から六億円の事業を興した。人間力は偉大で、そして素晴らしい。ここにこそ、人間の人間たるを知る。貧乏のどん底、あれも無い、これも持たない。が、何も無いことは全てを持つに等しい。
細川重計氏はこれを実践した。
人間てのは経験の産物で、何を見、何を聞いたかで性質ってのが定まるもの。昔、長谷川伸って作家がいた。股旅物を書かせたら随一の評判を得たもんだ。
旅から旅への渡り鳥、何故旅をしなければならないのか、それが自身を探す心の旅なのか、渡世の義理立てをするためなのか、それは一人一人の境遇にもよるけど、長谷川自身が幼い頃、母親と生き別れたことが、深く心に影を落とし、母の無い子の寂しさ切なさが文章の端々に色濃く出る。
それが、大衆に支持され偉大な作家として未だ人口に膾炙される。「瞼の母」「一本刀土俵入り」などが代表作だ。現今のように、皆が中流暮らしになれば、不遇だの貧困の言葉は遠い昔の彼方に霞む富士の山のようなものにて、確かにそんな時代もあったような無かったような、奇妙奇天烈な話にも似て、長谷川伸も今の時代なら違った書き口を求められたことだろう。
人生は謎解きのようなもの、自身が求め訴えたことが叶わずして、それを不満に思いながらも子を生せば、その子にはそうしたことを味あわせたくないと、精一杯に気張って、それと異なることをさせるもの。それとても自身の裏返しで、子にとっては迷惑千万なもの。しかし、子はそれに気づくはかなり後年。母親が何を為すかは、そのときは知らぬもの。
さて、幼くして親元を放り出され、自分の知恵と才覚で世を渡れと言われたら、その子はどんな人生を歩むと思う?
世を拗ねて泥棒や人殺しになるか、それとも人の為に尽す人間になるか。細川重計氏は後者だった。
細川氏は明治三十七年和歌山県日高郡南部(みなべ)町で誕生。
南部町のホームページにはこのように記してある。
平成16年(2004年)10月1日、南部町と南部川村が合併して誕生したみなべ町は、和歌山県の中央部に位置し、黒潮の海に面した気候温暖な町で、日本一の梅の産地、また当地特産の「紀州備長炭」も多く生産されています。 海岸線は田辺南部海岸県立自然公園に指定されており、梅林や鹿島などの景勝地のほか、世界遺 産でもある熊野古道が町内を通り、遺跡など文化遺産にも恵まれています。また、熊野古道のコースの中で唯一海沿いである千里の浜は、本州随一のアカウミガメの産卵地でもあります。 早春には観梅、夏には海水浴、磯釣りと、観光の魅力もいっぱいです。 また、町内に湧く良質の温泉を利用した宿泊施設は、これからも近畿圏を中心に、各地からのお客様に広く利用していただけることでしょう
重計氏の長女、ユウさんからお聞きした話を軸に人間細川に肉迫。
重計氏が四歳の時、生木を裂かれるように親元を離れ、養子に出された。わずか四歳、何も知らぬからこそ親元を離れることができたのだろう。でも、草木をゆする風の音、瓦を濡らす雨の声にも、あっ、お母さんが来たのではないかと、幼い心は揺れ動いたことだろう。子にとって母は全幅の信頼を置くもの。又、母は子に無償の愛を注ぎ込むものなのだ。
貧しさ故に幼い、可愛い盛りの我が子を手元から離さなければならなかった母親の心根を思えば涙を禁じえない。
紅葉のような手を虚空に伸ばし、全幅の信頼を得ようと幼子が必死に母親の像を探し求める。平成の御世、国民等しく中流になれど、子が親を捜し求めるは不変。昔はこうしたことが多くあったもんだ。
重計氏の父親は僧侶。貧苦にあえぎながら人生の道を模索、生きる場を探し求める。人生は万人に等しく求める、お前の寄る辺は何処なりしや、身の置き所は何処にあるのかと。
重計氏の養子先は富裕な岩崎呉服店、順調に育ち和歌山県立田辺中学校を卒業、この中学は明治二十九年に創立された、八戸中学は明治二十六年、田辺市は和歌山県第二の都市、人口八万五千、和歌山県は郡部に人口が分散している。つまり農業県。
重計氏が中学を卒業したのは大正十一年、日農(日本最初の全国的農民組合、日本農民組合)が結成された。翌年には関東大震災(9月1日午前11時58分に発生した、相模トラフ沿いの断層を震源とする関東地震(マグニチュード7.9)による災害。南関東で震度6。被害は、死者9万9千人、行方不明4万3千人、負傷者10万人をこえ、被害世帯も69万に及び、京浜地帯は壊滅的打撃をうけた。また震災の混乱に際し、朝鮮人虐殺事件・亀戸事件・甘粕事件が発生)と世相は混乱し昭和へと突入するわけだが、重計氏は高等学校、今の大学に進学を希望するも養子先は商人に学問は無用と拒絶。
反物を担いで行商をするも、どうも性に合わないと飛び出す。人生の寄る辺を求め始めたのだ。坊さんの父親は知己をたどって青森県の南郷、昔の島守で高松寺を守っていた。そこを頼りに虚無僧となり北を目指した。
途中、瑞巌寺にて半年修行したというが、書き物に残っていないので、あくまでもそのようだったというだけだが、重計氏を知る手立てにもなろうと記す。瑞巌寺は皆様ご存知の著名な寺、松島にある臨済宗の寺。もと天台宗で延福寺と称し、828年(天長5)円仁の創建と伝える。北条時頼によって改宗。1610年(慶長15)伊達政宗により再興、瑞巌円福禅寺と改称。
そして無事島守に着き、八戸の尋常小学校の代用職員となった。今でこそ島守は南郷となり八戸市に合併したが、昔は田舎も田舎で通うは到底無理。そこで村重旅館に下宿。
村重旅館は寺横町、当主を村上重吉、それで村重なわけ、重計氏が教員としての振り出しが八戸だった。この後、鳩田小、鳥谷小、松舘小、島守小増田分校、田代国民学校長、鳥谷部国民学校長、多賀小校長と歴任するのだが、多賀小時代に市川地区の人々と交流があった。これがイチゴ栽培へと開くのだ。
市川地区が細川重計氏を求めたという言い方もある。身の置き所が教員以外にもあったと言う事実に驚嘆。普通の人間なら、教師になれたことで満足するところだが、重計氏はそれだけでは飽き足らなかった。小井川潤次郎って民族学者が八戸にいた。この人は昭和7年、八戸市の郷土史研究家で「工芸」17号に紹介した、藤右衛門の小絵馬は民芸愛好家たちを驚嘆させる。日本民芸運動の提唱者であった柳宗悦氏は「日本の民画史は、この発見で立派な一章を追加した」と、小井川氏の功績を称賛したほど。この小井川氏から様々なことを吸収、ことに植物に対しては広く深く知識を得る。市川地区で農業に初めて手を染めたのではなく、島守時代にすでに青果物に興味を示していた。
重計氏は八戸の青果業、仙台屋の娘ヨシエさんと結婚、生まれた子供に小井川氏から命名して貰う間柄。長女が幽。長男が黎で、幼い頃は幽霊姉弟と囃されたそうだ。近所の子供には理解できなかったのだ。そうしたもんだ。自分の経験しないこと理解できないことはなかなか進んで実践しないのも人の世。しかし、小学校校長の意見を入れ、市川の人々はイチゴを物にする。(つづく)