2009年4月11日土曜日

東奥日報に見る八戸及び八戸人 その一

一八八八年(明治二一)十二月、東奥日報が呱呱の声(ここのこえ・産声うぶごえを上げる。転じて、物事が新しく生れる)をあげた。
● 読売新聞は子安峻・本野盛亨らにより一八七四年(明治七)創刊。
その記事から八戸及び八戸人が記されたところを掲載し、活字になった文献として整理を開始。今回は創刊号から、明治二十二年六月まで。
● 又強盗、上北郡百石村より三戸郡尻引村の原中にて強盗に出会いたることを前号に掲げしが、又報なる所によらば、尻引村から寺館村の鉄道線路(明治二十四年九月一日・上野~青森間全通)中を富樫組の飛脚が五十余円の金を持ち乗馬にて通行の際、突然両人の土方らしき者顕れ出でて飛脚の足を取り馬より引きずり様に懐中へ手を差し入れ財布を奪いとらんとする故飛脚も一生懸命(本来は一所懸命・賜った一ヵ所の領地を生命にかけて生活の頼みとすることだが明治二一年には一生懸命とつかっている)に働き傍にありあう木材にて払いのけ払いのけ一金も失わず無事に其の場を立ち去りて八戸町の富樫組に届け出でたりという、その場所は前号と少し異なれば或いは一事両様なるか知らねどもとにかく物騒のことなり。
● 八戸通信 二十三日発 気候 雪は旧冬同様にて少しもなく且つ十五日夜には大雪にて路上は氷結し歩行は大困難を感ぜり十六日は又好天気にて去る十七日とりは近年稀なる寒気にて寒暖計は二十度を降れり。○農家の心配 右の如く寒気の厳しきは甚だなれども降雪の不足なるに肥料運搬に困難なるのみならず春耕の際用水不足を感ぜぬかと農家の配慮一方ならず○農家の景況 本年は鉄道工事の為農家にまで融通の影響を及ぼし例年になく嫁婿の贅沢を飾り通年なれば木綿にて済むべき者も本年は絹を用ゆる如き有様故呉服店も随って繁昌致し居れり
● 青物市場 八戸市街も鉄道工事の為に繁華に赴きたるのみならず世の進歩は自然諸品の供給需要頻繁なる為商売も活発の色を現したるは争うべからざることにて同地寺横町河野市兵衛氏は同地に青物市場なきより今般該市場開設のことを出願、許可を得てこれより開市したれば一方ならぬ地方の便利なりという。
● 八戸通信 二月九日 町村制度研究会 当郡各村落に於いて該会を開き新制度に関する利害得失の研究をなし、村長の私選等もほぼ内決せし由なり、中でも関心なるは小中野村は亀徳鶴壽、細越清五郎、森幹一、佐野貫一、小島穂積等の諸氏を始め有志者集合毎二夜隔てに研究会を催し中々盛大なりという○八戸監獄 は在監人平常十四、五名にて二十名を越えざる都合なるに昨年秋頃よりして追々囚人増加して目今(もっこん・さしあたり)は五十名に近づきたり、若し明治十六、七年の如く増加して監獄費を増加したらんには地方税の困難を来たしなるべし、斯く囚人の増加するは如何なるものにや
(鉄道工事に伴い市外の人間増加で囚人が増えたのか、それにつけても明治十六年頃にも増加ありという。ここが不可思議、また何かわかれば追記)
● 八戸の祝典 去る十一日(明治二二年一月のこと・大日本帝国憲法・衆議院議員選挙法・貴族院令・皇室典範制定)憲法発布に付きて三戸郡八戸町に於いても千載一遇の大典なるを以って又、有志者中、奈須川光宝、浅水礼次郎、石橋萬冶、関茂春諸氏の発起にて八戸町戸長役場内に開き会するもの百余名にして戸長稲城篤実氏が開会の祝辞を述べ次いで夏目助太郎(後、養子になり浦山姓を名乗る)等数名の祝辞演説ありて、実に非常の賑わいにてありしという
● 八戸通信 二月十九日発 商況 一般に景気稍好き方なりなかんずく酒屋、木綿屋、米屋旅籠屋等なり然して、米は鉄道工事の為非常に欠乏を告げ従って日増しに値段上がり消費者やや困難なりといえども村方にては一体銭の廻り良きより穀物を売り出さざるため一層値段を増すの原因となれり、又輸出せるものは粕は旧年甚だ不足故目今大豆のみなり、、之れは出船毎に多少の積み出しあり
○ 汽船は平均一ヶ月多きは五、六回少なきは二、三回位の入港あり、之も鉄道用品の為、平年より繁き有様なり
○気候は例年に比べて地上雪なく、日々天気温和、例年なれば未だ寒気甚だしく積雪深きに本年はしからずという
● 警世小言
八戸小売商人
銀行へお願いと言えば金を借りたいと言うのかと思われるかしれませんが、全くさにあらず一体我々八戸にては大きな紙幣が沢山ありますが、十銭、二十銭、五十銭の小銀貨、小紙幣が乏しくして銀行へ小紙幣と取替え方依頼せば一円に付き二銭五厘、三銭の切り賃を取られるは、あえて不当だとはいいませんなれど、商店にても五十銭以上買わざれば一円へ返りを出さぬ程にて売り外し等のこと往々あるより不便、不都合少なからず今回も憲法発布に付き八十歳以上の者には養老金として下賜せらるるに際し小紙幣に不足して戸長さんが各銀行及び豪商店毎に駆け回っても小紙幣を見つけかね戸長さんが大分苦慮せしよりなるがあらためて銀行へお願い申します、何とかして小紙幣なり小銀貨なり八戸へ御廻しになるよyなれば人民の幸福は勿論商売の機関なれば宜しくお察しくだされたくはいかがでございます
● 新町村分合名
三戸郡
八戸町(八幡町、堀端町、常海町、窪町、番町、堤町、本徒士町、徒士町、稲荷町、新荒町、荒町、上組町、上徒士町、上組町、二十六日町、二十三
日町、十三日町、常番町、本鍛冶町、鳥屋部町、大工町、寺横町、山伏小路、鍛冶町、十六日町、六日町、三日町、八日町、鷹匠小路、長横町、岩泉町、朔日町、十八日町、二十八日町、十一日町、下大工町、塩町、柏崎新町、下組町、柏崎村)
○ 長者村(類家村、田向村、石手洗村、中居林村、糠塚村)
○ 湊村(浜通村ノ内、湊、同、白銀、大久保村)
○ 鮫村(浜通村ノ内、鮫、同、持越沢、同二子石、同白浜、同深久保、同種差、同法師浜、同大久喜、金浜村)
○ 大館村(新井田村、妙村、十日市村、松館村)
○ 階上村(田代村、晴山沢村、平内村、鳥屋部村、金山沢村、赤保内村、道仏村、角柄折村)
○ 舘村(田面木村、売市村、根城村、八幡村、坂牛村、櫛引村、上野村、沢里村、沼館村)
○ 下長苗代村(河原木村、石堂村、長苗代村)○上長苗代村(尻内村、大仏村、花崎村、根岸村、根市村)
○ 剣吉村(剣吉村、虎渡村、斗賀村)
○ 地引村(苫米地村、片岸村、麦沢村、高橋村、小泉村)
○ 島守村(島守村、頃巻沢村)
○ 名久井村(上名久井村、下名久井村、平村、高瀬村、法光寺村、鳥舌内村、鳥谷村)
● 町村議員の私選 三戸郡八戸町有志輩には町村制実施の期に際し、議員選出sるべきいついては、この程私選を試みたるよしとか、今その当選人名を聞く左の如しと
● 岩泉正憲、宮原直衛、成田芳雄、松原忠隆、浅田正美、久水忠太郎、奈須川光宝、島守定正、浅水礼次郎、石橋万冶、村井幸七郎、富岡新十郎、泉山吉平、源晟、橋本和吉、石橋徳次郎、福田祐記、大橋悟楼、山本勝次郎、北川半十郎、植村彦太郎、大久保平吉、岡紋次郎、長谷川幸太郎の諸氏とか聞く
● 三戸郡の私選村長 同郡において村長の私選せしというを聞くに小中野村に於いては現村長議員名誉亀徳鶴壽氏、湊村現今筆生有給酒井冶記氏、鮫村有給山田利雄氏、階上村現村会議員正部家種方由なりと
● 八戸通信 三月二十日発 脱獄者 過般重罪の予審終結者三名か八戸監獄へ脱せし内一名は青森にて自首せしかは直に八戸監獄へ護送相成りたるも残り二名今に行方知れざるも遠からず捕縛につくべしという○水車取り付け方の願い 今を去ること十ヶ年以前三戸郡沢里村山田浅次郎なる者が、村方の納得書を得て、設けられたる水車を今度類家村居住士族某が計らいとかにて、取り片付けの儀、その筋へ出願せる由なりしが、果たしてその如きものを取り上げらるるものかや
○ 引船 三戸地方より八戸迄大豆その他の産物輸出には川舟を以って運搬し居れるが、右川舟を川上三戸迄引き上げるには綱をつけて五、六名つつにて引き行くを例とし、然るにこれがため川岸を欠き崩し沿岸田畑大いに荒れたれば之を見聞きする村民共は何とか他に方法あらざるやと嘆き居れりと言う
○ 町村分合 三戸郡にては浜通村を二ヶ村に分割せられたるを村民共は、白浜村より以南、金浜村等は元の如く浜通村全体として階上村を道佛村へ合併し、又田部村は戸長役場を福岡村へ引き移し福岡村と森越村と合併し、長者村は石手洗村、中居林村、是川村と合併して、類家村、糠塚村、田向村、と石手洗村、中居林村を分割するとかにて目下請願の協議中なりという
● 八戸通信 三月二十三日発 巡査駐在所は県下各地にありて至る所其の掛札を見ざる有様なりしが近頃当地にては其の掛札を外したるか、別にいずれよりも之についての達しもなく、何によりて廃せしものなるか、従来は受け持ち部内の人民が出来事につき警察に関係あるものは駐在所にて用済みとなるべきを、この掛札と共に巡査を引き上げたるものならば、一々警察署に申し出でざるべからずべし、人民はなんらの示達なければ戸長へ伺うとか警察に伺い出るとか人民は言い居れり
○ 掲示場の貼り札 三月二十日朝、当町中央の掲示場に何者の所為なるか西の内(にしのうち・茨城県山方町西野内を原産地とする、質はやや粗くて強い厚手のこうぞ製の生漉紙)三枚程継ぎたるものに何か書き連ねて貼りありたるを警察署員が早くも認めて剥ぎ取りたる由なれば其の記載の事柄は判明せず
○ 農商工談話会 は三月十五日より十六日町天聖寺に於いて開設同十七日閉会せり、当時は会長立岩一郎氏が青森へ出張中に副会長盛城郡書記が代わりて会場を整理せしが出席印およそ二十余名にてなかなか盛んなりしという、其の中に農工商に実際関係なきことまで喋喋して会長に差し止められたる者ありたるまでなり、又本会は盛城郡書記の熱心に尽力せられたるものなるよし
○ 村の分合 につきて不服を唱えるものあるは津軽五郡のみならず南部三郡も過半は不服ありて夫々請願の手続き協議中の町村ある由、願わくは自治制の本旨に違わざる様いたしたきものなり
○ 種痘 は昨年町会に於いて衛生費決議の際、種痘医の手当てのみ六十円を要して種痘料は別に要せざる事にして種痘を八戸六日町平田医師に依頼せしに、同氏は種痘を乞う子供に対する至りて親切なれば種痘を受ける人々は深く喜び居れりという
○ 気候 は至りて温和にして積雪既に融解し去り早や草履道となりて只遠山の端に僅かの積雪を見るのみなり
● 八戸通信 四月十日発 覆没船 過る三日三戸郡北浜より柾積みとして浜通村の者四人乗り組んで漕ぎ出だせしに前夜より引き続き暴風雪の為め無残にも該転覆して同村佐川福太郎、佐々木某の二名は溺死し残り二名は帆柱に取り付き辛くも命を助かりたり、当日は非常の大雪にて七寸ばかりと積み道路一時困難の有様なりしが、今はすでに草履道となり桜綻ぶ日和になりたり
○ 和歌の会 同会は兼ねて歌道に心を寄せる石橋壽満、朝山正美、中居武次郎、及川順道の諸氏を初めとし会なるもの十四名もありて毎月十五の日を以って八戸二十六日町神明社内に開会し添削をば岩手県江刺少教正に乞えりという
○ 改姓 八戸士族逸見元吉、同與道の両氏は今回出願の上、南部の姓と名乗ることになりたるが、旧藩の時ならば藩主の姓などは外聞もよろしきかは知らざれども今時は格別の名誉にもなるまじ、如何なるいわれありて改姓せられたやと市中取り取りの噂あり
○ 公民権特免の出願 とは八戸番町大芦梧楼(安政五~大正九・八戸藩士渡辺孫右衛門四男、のちに大芦を名乗る。妻かつは三戸郡階上村の豪農、正部家善次郎の二女。八戸の町方の政派である公民会、奥南派のリーダーで、八戸町会議員、三戸郡会議員に選らばれた。次いで改進派をバックに三度衆議院選挙に立ったが当選せず。地盤は三戸、田子で被選挙権の資格を持つため、縁故のある田子村長の富田家へ養子として入り、一時、富田姓を名乗る。大芦は惑星的存在で、明治十三年の糶(せり・競ること)駒事件の際、八戸組の代表として、まず登場してくるが、その時も公会分離派か維持派かあいまいで、のちの怪物的行動の片鱗を示している。八戸の第百五十銀行の破産処理委員になり、銀行を相手どって訴訟をおこし勝訴、このときの仲間は泉山吉平と大久保平蔵で八戸経済界の大立者。後年、宿敵だった土曜会の源晟を衆院選にかついだり、公証人の職にありながら告訴されたり、上京し政友会の院外団壮士として活躍するなど行動は多彩。明治四○年の政友会県支部結成には積極的に活動し、四四年には県国民党支部を解散させ、挙県政友会入党という離れ技を演じた。壮士肌の策士として竹内清明と共に政友会を代表する政治家だったが、八戸においては北村益の反対派であったため、その才能の割りに公私とも恵まれず、議員以外の公職では階上村助役についただけ。しかし、北村ら八戸旧士族のエリート意識に対抗して平民主義を「奥南新報」を通して説き、大正の青年に新時代の到来を告げるに功があった。財政的にも精神的にも彼のバックになったのは石橋万治であった。東奥日報刊・青森県大人名事典)氏は過般公民権二ヵ年の特免を出願せし由なるが同氏は同所野田禕氏方へ同居の身分にて納税の義務を負いしことこれなき旨を以ってこのほど却下せられたるに聞き及べり、又公民権を有する念慮にて少しく土地を買いいるものもあれば、或いは名誉職に選ばれると取り越し苦労して隠居を願うものもあり、実に浮世はさまざまなるものというべき