2008年9月23日火曜日

地域住民と行政 続


私の日本地図 宮本常一 五島列島から
離島振興法という法律は島に住む人たちの生産と生活を向上し、そこに住む人たちに希望を与えることを目的としたものであったが、政治的な現実はその逆の方向に動いているのである。私は船着場にあつまってきた子供たちを見て、子供たちは決してしあわせな生活をしているように思えなかった。港から村へ上ってゆく坂の途中にある井戸では、女の子が、井戸へ頭を突込んで水をくんでいた。そこからその水をになって丘の家までかえらなければならないのである。そういう生活を親たちもまたくりかえしてきたはずである。
 小さな島を維持してゆくためにはいろいろの工夫がなされた。島主ともいうべき部落会長は一月の総会できめられる。島にのこる戸主の中からえらばれるのである。戸主は普通五五歳になると子供にあとをゆずって隠居することになっている。
 島には村づとめということがある。二五歳になると、それから三年間は島にのこって島のいろいろの世話をしなければならない。三年つとめれば出稼などに出てもよい。一方五二歳になった者も三年間村づとめをする。それを終えると隠居する。部落会長はたいていこの年齢のものがつとめる。あとの者は出稼にいってもよいわけである。
 さて区長のうちへいって村の役員にあつまってもらって話をきこうとすると、役員の一人が、「まえにこの島へ来た人があってこの島のことをきいていった。いろいろ話してあげたのだが、それがラジオで放送された。こちらの言ったこととずいぶんちがえて話されていた。村人にめいわくをかけて申しわけなく思っている。そういうことがあるといけないから、なるべく話したくない。」という。部落会長の口の重いわけもよくわかった。
ここでは村は一軒の家とおなじようになっている。そのためにここに住みついておられるのであって、みんなが思い思いのことをしていたのでは住めなくなってしまうのである。みんなが出稼ぎにいったあと、村人のしなければならない仕事はいろいろある。屋根ふき、道路修理、葬式、渡海の役目などがそれである。今は渡船も動力船になったけれども、昔は平押しの船であったから、冬の波のあるときは何人もの人が乗って船をこがねばならなかった。いま勅力船になっているので人手はいらなくなったが、一戸あたり半年に一五〇〇円ずつを負担しなければならぬ。三日にいちどずつ親島へ郵便物をとりにいくのだが、火急の用事にも船を出す。渡海のつとめは順番にやっているが、一回つとめると七〇円もらう。それは一戸負担一五〇〇円の中から差引するから渡海役を一〇日つとめれば七〇〇円、そこで渡船維持の負担は差額の八○○円を払えばよいということになる。
 とにかく村を経営していくには経費もかかり労力もかかる。一年のうちに村夫役として出ていく日は五〇日をこえるという。渡船だけについて、日誌にしるしてあるのをひろってみると、九月二九日から翌年の四月二三日までに一五二回往復しており、それに出た夫役が延四五〇人になっている。ほぼ三人ずつ乗っていったことになっている。船を運転するだけでなく、荷物の運搬などもしなければならないからである。
 村の経費の方は日をきめて島中が海藻を一日乃至二日とりにいったものを供出してもらって、それを売り、また島共有のイワシ網があって、その利益の四分一を区がもらうことにしている。海藻売上げが万一万円、イワシ網利益金六万円、電灯は島の共同経営で、電灯料六〇〇円、電話料五〇〇〇円、運賃七六〇〇円、区で精米事業をやっているので、その利益二〇〇〇円、合計で二一万円あまり、それが島の維持費である。
 私は区の記録も少し見せてもらった。区の帳箱に何十冊というほど保存されている。それをつぶさにしらべてみたらこの島がどのように生きつづけてきたかがよくわかるであろう。貴重な資料だと思った。
 この島へわたることは親島の役場でできるだけチェックしている。島の方でもいちいち役場で様子をきいて相手を迎える態度をきめる。島には宿も食堂もないのだから、やって来た人に対する待遇のことも考えなければならない。島へやってきても島の人のためにならないような人ならば三等まかない。多少とも島の役にたつことをしてくれる人なら二等まかない。島のために働いてくれる人ならば一等まかない。それは相手の身分や肩書に左右されることはない。実にはっきりした自主性をもっている。部落会長が診療船へ乗るとき買ったクロイオは私たちをまかなうためのものであった。そしてお酒も出た。私がこの島をおとずれて、いったいどればどの利益をもたらし、この島の役に立ったことだろう。このような島の人こそしあわせに暮してもらいたい。しかしその後風のたよりにきくと、区の経費の捻出ができなくて、イワシ網も売ったということである。島民全体の幸福をまもるということがいかにむずかしいことか。
宮本常一は離島まわりをして住民の生活を知った。この人の民俗学は歩きに徹した。風俗・習俗を超えていかに人々がその地で生きるかを記録。何故生きるのか、どうしてその地にしがみつくのかを温かい眼でみつめた。離島における地域住民の生活を通して、原始日本人が集団で生きるには税の負担をしのがなければならないことを教える。しかし、狭隘な地での自給自足は江戸時代の藩政の行き詰まりに似て、国家規模で地域を見直す以外に生き残るすべがない。それが近代日本で現代にその影を引きずる。
 為政者は逡巡してはならない。決断の時には敢然として立ち向かうことだ。先送りこそ諸悪の根源。アメリカは日本の金融危機に先送りを見て、今日のアメリカバブルを敢然と処理に向かう。が、それだけでバブルの処理はできない。自由経済に巣くう欲望を除去できないからだ。
 が、アメリカは日本の先送りの精神が経済を破壊し、日本沈没の諸悪の根源と断じたが、金を儲けたいの精神は自由経済では断ち切れない。さて、アメリカがどのように対処できるのか見もの。
 さて、日本国家が威信をかけて水産の凋落を救うためにHACCPを打ち出す。その第一号が八戸。地域だけでは水産の勃興は不可能。県・国家規模の投資が必要。それを手にした小林市長の決断は良し。しかし、今一歩、どのように進行するかが見えない。アメリカが第二次世界大戦の折、大統領のルーズベルトが病をおして、ラジオで「炉辺談話」を国民に聞かせる。若者を戦場に送り出した。その責任は私にある。どうしても日本に勝たなければならないが、戦地で苦しむ若者に満足な武器弾薬が支給できない。これは戦勝し母国に帰り立派に働いてくれる若者をみすみす見殺しにしなければならない。どうぞ国民諸君、尊い若者の命を救うためにも、戦時国債を買ってはいただけまいか、と、切々と訴えた。これを聞いたアメリカ人は燃えた。時代の先端のメディア、ラジオお巧みに使った。
 が、日本はそれを軍の管轄下に置き、嘘を並べた、どこそこで勝利した。勝利したのは敵側だった。そして敗戦。塗炭の苦しみを味わった。
 小林市長の決断は正しい。が、取り巻きに知恵がない。国家が決めた64億円の投資、半分は国。
県、市が四分の一づつ。だが、県の態度が不明。県が出さない分は市が負担。正当に十六億円を県に負担させるには、八戸市が根性を入れて推進する姿を見せることだ。最新のメディアのTVに市長自らが出演し、漁業家、加工家の意見と未来への夢をシリーズでTV紹介することだ。
 ところが、市の広報調整課は乗り気だが、水産事務所の職員に民主党支持者がいて、この案を潰す気になっている。自民・民主のセコイ闘いに国家的規模、八戸市全体の浮沈をゆだねるな。
 事態はそんな気の小さい話ではない。反対する者の名を今回は記さない。が、補正予算をとり、市長を前面に立てず県の助成を得られないとなれば、その職員が退職金を叩いても追いつかない。石黒次長が間違えても、彼の退職金から千五百万円を引けばそれですむ。ところが、たかが八戸市職員の退職金で十六億円をどう賄えるというのか。立場をわきまえろ。
 追い出された中村元市長への忠誠心と八戸市の未来とどちらが大切か、よくよく考えろ。