2008年9月7日日曜日

日本の話芸 古典落語 人情話 2

「関取千両幟」
ところが勝っていけない相撲がありまして、やはり大阪相撲で江戸へきて十日間全勝。ところが誰一人、ひいきにするというお客様がない。何になりましてもごひいきは大切でございます。お相撲さんなぞはいただくお給金よりはご祝儀の方が大変なもので、初めて太刀山を倒しましたのが大正五年でございますね、夏場所八日目に東の小結だった栃木山という人がこの天下無敵の太刀山を倒した…。いやどうも、国技館が割れるような騒ぎで、負けないというものを負かした…栃木山が部屋へ帰って来たら背中へ百円札がべたべた貼ってあった。今の百円じゃありません。大正時代ですから…そうですね、今のお金に換算したら十万円ぐらいの価値があろうという、そいつがべたべた、背中へ貼りつけてあったんですから…。あたくしも相撲とりになりゃよかったと思った…なったって弱いんじゃしょうがない。栃木山という人が太刀山を破った…その翌年の春場所でございます。これは十日目結び、西の正大関でございました大錦卯一郎という大阪の出身、この人にまた太刀山がやぶれましたんで…。二番負けたというので、とうとう太刀山という人は引退をしてしまいました。本来は横綱というのは負けちゃいけないんだそうです。天下無敵、日の下開山というんですから負けるべきもんじゃない、勝って当り前なんです。だけども今そんな事を言ってた日にゃ横綱になったらすぐに引返しなくちゃならない。場所数もふえているし致し方もございませんが…。
 大錦が勝ちました時にその後後会のかたが大変よろこんで、
 「今日はよくやってくれた。お前にほうびとしてこれをあげるからお父ッつァんに何か好きなものを買っておやり」
 というので小切手を一枚くれた。これが三万円あったそうです。大正時代の三万円ですから、何か買ってやれッてんですが、いろいろ考えたが買いようがない。神戸に六甲山という山がある、あの下へ地所を買いまして隠居所を建てました。地所ぐるみ三万円で立派に出来ましたものでしょう。これを大錦のお父ッつァんへ贈り物にしたという…。わずか一番でそういう事がある。
 ところが十日間の全勝というんですが、誰一人ひいきにするお客様がない。あア、俺は江戸の水には合わんのかと…関取が淋しそうに…腕組みをしている。表から家の中の様子をしきりに覗いている乞食がいる…。
「おい、何じゃ乞食が表でうろうろしているようじゃ。銭をやって早う去なしてしまえ」
「はい。…おこもさん、関取が銭をくれるからこれを持って早う通っとくれ」
「ありがとうございます。あっしやァ銭ァ欲しくはねえんで…お宅の関取にちょいと会わしてもらいてえが、会ってもらえるかどうか…聞いてみておもらい申してえんで」
 「(弟子親方に)何じゃ、銭はいらんが親方にちょっとでも会わしてくれといいますが…」
 「うん? わしに会いたい…(入り口ヘ出て来た態で)おこもさん、こっちイ…いやア、遠慮はいらんで入っとくれ。…わしに何ぞ、用でもあるのか」
 「どうも…わざわざお呼び立てをしてすみませんが折入って頼みがあるんで聞いてもらえましょうかね」
 「出来ることなら聞いてあげるが…」
 「実はね、あっしや関取がひいきなんでねえ」
 「何じゃ」
 「(テレ隠しに笑って)ヘッヘッヘこんな事を言やァこのやろう、気でも違ってやんだろう、天下の力士を乞食の分際でひいきとはとんでもねえ奴だと、腹ァ立てるかも知れねえがまア…何といっていいか、好きでたまらねえから、こういうのをひいきというんじゃねえかと思うんですが…。乞食がどうなるもんじゃねえが、あっしが持って来て食ってもらいてえものがある。こんな汚ねえものは食えねえとごみためへ放り込まれりゃアそれッきりだから、先イお聞き申してから持ってこようかと思うんですが、いかがでござんしょう」
「わしがひいきじゃで下さるものがある…折角の思召し、快よう頂戴をいたします」
「えッ?(意外という面持)食っておくんなさる…そいつァ有難えなどうも…じゃ、今すぐ持ってくるから待っておくンねえ」
 表へ出て行きましたが…お蕎麦を持ってきた。
 蕎麦というものは大変縁起のいいもの。商いをしてまとまりました時には祝いに蕎麦でも食べようという。手を打つ、手打ちそばという。それから晦日に蕎麦を食べると金がのびるという…晦日そばというものを今でもずいぶん召し上がる方がありますが。どういうわけで晦日にそばを食べると金がのびるんだろうと…ある方に聞いてみたらそうじゃないんだそうです。金箔屋さんで金を打って伸ばしている、隣の家で味噌汁をこしらえて、その味噌の香がぷーんとしてくるともう、どう叩いても金が伸びなくなる。そういう時に、そば粉を火の中へくべると味噌の香りを消して元のように金がとんとん伸びて行く。だから味噌の香を消すには蕎麦粉で消して金を伸ばすといったんだそうで…。それを晦日にそばを食べると金が伸びるんだなんてんで…。
(箸を持ち蕎麦を食う形)「どうも、いくら食ったって伸びやしねえや」なんてんで、愚痴をこぼしているのがある。そば屋には一定の器があるが、そんなものは乞食には貸しませんから竹の皮へそばを包んでもらい、ふちの欠けたきたない茶碗へだしを入れて、
「どうもお待ちどうさまでございます。へえ、これァね、(茶碗を差し出し)あっしの器でこんな汚ねえが、蕎麦屋でようく洗ってもらったんで。心ばかりのもんでどうかひとつ、関取に食っていただきてえんで…」
 「折角の思召し…頂戴いたします。(振り向いて)野郎、箸を持ってこい」
 取り的から箸を取り寄せ、竹の皮包みを引き寄せて、ふちの欠けた汚ない茶碗で関取がさもうまそうにこの蕎麦を食べている。天下の力士にご馳走をする乞食はさぞ愉快でしょう…。
 「(にこにこ嬉しそうに)ありがてえなどうも…関取、お前さん、食っておくんなすったね」
 「おこもさん、恥ずかしいがわしは、江戸へ来てひいきのお客さんは一人もない。わしのような者でもひいきじゃといって頂戴したのは、あんたの蕎麦がはじめて…。大名がたの前で山海の珍味をいただくより、心からくだされた一杯のそばは実に美味い。大名衆でもおこもさんでも、ひいきという二字に変りはござりません。大阪へ去んで、江戸のお乞食さんまでにごひいきになったといえばわしの鼻が高い…どうぞこの上とも、末永うひいきにしておくれ」
 嬉し涙を瞼に浮かべて両手をついたから、
 「あッ、まァまァ、関取、手をあげておくんなさい…よく言っておくんなすった。さぞ心持ちが悪かったろうが、今、口直しをあげるから、ちょいッと待っておくんなさい。おうッ(遠くの人へ手を叩き呼ぶ)甚太、熊、留…」
 「どうした、食ったか…」
 「あとで話をするから、持ち込め」
 どかどか…運んでまいりました酒肴、そうこうするうちに今の乞食がすっかり早変りをし、
 「関取、あっしゃアね、魚河岸の新井屋てえもんで…。上方見物に行ってお前さんを見たんだ。あア、いい関取がいるな、江戸へ来なすったらいいと思っていた…今度、江戸ィ来たという話だからしるし物の一つもこせえてあげようと思ったんだが、何しろここンところは、目の回るように忙しいんでその折りがなかった…すると、仲間の寄り合いでお前さんの話が出て、『どういうわけかあの関取は相撲は強いが人気が無え。乞食がそばを持ってッて食うか』…十人が九人といいてえが、十人が食わねえ…あっしゃ一人、食うと言ったんだ。『もし食ったらどうする』『魚河岸がそろってひいきにしてやる』てえから、『よし、それじゃ俺が一役買って出よう』ツてんで…こんな茶番をしたわけなんだが…、天下の力士を乞食の分際でひいきだとはとんでもねえ、この馬鹿野郎奴と、つまみ出されてもしょうがねえのを、大名衆でもお乞食さんでもひいきという二字に変りはねえといわれたら…その宿無しは嬉しいだろうねえ。お前さん、聞きやァ上方へ帰るてえ話だが…いやァいけねえ、お前はんが帰るといっても、今度は魚河岸が帰さねえ。どうか江戸へとどまって十分にはたらいておくれ。これは今の口直しだよ」
 と持ち込んだ酒肴…。これが動機になって、たいへん江戸で人気を得ました。
 大阪の天下茶屋に安養寺という尼寺がございますがここに墓がある。池田から出ました人で稲川重五郎。
  相撲とりを夫に持てば
  江戸長崎やくにぐにを…
 とさわりでおなじみの『関取千両幟』。あの浄瑠璃に出ます稲川というのはこの人をモデルに書きましたもので…。
 関西相撲の逸話でございます。