2008年9月4日木曜日

八戸二十八日町 錦座

ギッシリと詰めかけた一千余の観客がヤンヤの拍手かっさいをもって迎えるうちドン帳がスルスルと上がるや当代最高の人気役者中村吉衛門、大谷友衛門(いずれも先代)らがズラリとキラ星のごとく居並び満揚水をうったように静まり返えるうち吉衛門の澄んだ口上が三階客席まで響いていった。錦座のコケラ落としは有名をはせ、ファンは青森、盛岡からも乗り込んできたものだった。
 綿座というのは現在の東宝映画館の前身で大正十三年の八戸大火後、町内の実業家西村喜助さんの手によって建てられたものだが、その前は明治四十年ごろにできた「当り座」が八戸ただ一つの芝居小屋として、娯楽機関の役目を果たしていた。立ち見席をふくめて千数百人を収容でき、花道、廻り舞台、奈落の設備が完備された綿座は役者たちにも東北最高の劇場とほめられた。錦座がまだ当り座といっていた大正四年の冬、コタツ火の不仕末から当時人気の市川荒次郎一座が火災にあい、このために八人の焼死者を出した。のちに一座は供養興行をうったが大慈寺にはいまも八人の供養塔が残っている。また綿座は集会場のなかった八戸にとってたびたび演説会場などにも使われ無産党の運動家や社会主義者がよく「政談演説大会」と銘うって開いたものだが、弁士が「諸君」といっただけで臨監(りんかん・その場に臨んで、監督・監視をすること)中の巡査が「弁士、中止」とストップをかけて検束したものだった。
 芝居はしょっちゅうかかっていたものではなく、たまに一座が来ようものならたいへんな前宣伝で「顔見せ」と称し、役者巡が先頭にノボリをおし立てて人力車に分乗し、タイコをたたきながら市中をねり歩いたものだが、美男の人気役者に娘たちが瞳を輝かすといった古きよき時代ではあった。
◎ 編集部 当たり座の火事は図書館郷土資料室マイクロフィルム大正四年奥南新報、一月二月に収録
◎ 西村喜助の詳細な資料はイワトクビル社長が所有
本文記録はデーリー東北新聞社刊「町内風土記」から