曹洞宗の朝の勤行で唱える経がある。それを参同契(さんどうかい)といい、仏祖の教えを僅かな文言に集約したもの。参同契はは全ての現象は真理にかなっていると教える。
その経文に尊卑用其語がある。これは尊い人卑しい人はその言葉を用いると読む。戦前天皇陛下に拝謁する士官学校生徒は頭を下げて隊列を組む。そこへ足音が近づき、ぴたりと足がとまり、一同を見回し、また足音高く歩き去る。その間生徒は身じろぎもしない。お言葉も賜れない。が、陛下に接したことだけで喜びだった。高貴な方は声も出さない。貴族も庶民のような言葉で挨拶はしない。庶民ばかりが下司な言葉を使う。侍はこうした下々をわらったものだ。駕籠かきは互いを相州とか雲州と呼び合う。オイオイ相州、なんだよ雲州のように、ところが、これは殿様を指す言葉だ。雲州は出雲の国、相州は相模の国だ。奴ら駕篭かき風情でも頭のいいのがいて、プライドがあったのヨ。自分が卑賤な仕事をしていても気位だけは高い。が、幾ら気位だけ高くても、「手前、昼はどこで食らうのかよ」「へん、そんなことが判るくれえなら、人を乗せてウロウロ街道を歩くかよ、俺たちほど、この宿場と宿場の間を知ってる奴ァいねえが、俺たちは手前の気持ちであっちへ行くこっちへもどるができねェ稼業だ。客の言うまま気ままであっちヘウロウロ、こっちへキョロキョロだ。まるで雲を見たようだから、俺たちを雲助と言いやがるゼ、妙を得ていやがる」
下司下郎はこうした言葉使いだ。人相風体はいかにも卑しくないが、口を開けば無教養が丸出しになる手合いヨ。それだから注意せよ、尊卑はその語を用いるものだゾと誡めるのサ。それで坊主共はこれを毎日、タダ読みやがるから、その経の真髄に触れることがない。
武士は武士、下司下郎とは違う。そのために禄を貰うのサ。禄を放り投げ、雲州と呼び合い、手前の食い扶持を手前で探す野良犬稼業とどこが違うのか、それは言葉と恥だ。恥を知るから潔い。花は桜木、人は武士、散るを惜しんで生き恥曝(さら)すなダ。
だから武士は覚悟を決めて口を開くのヨ。わざわざ野良犬の仲間に堕ちてくるタワケがいるか。それとも権柄尽く(けんぺいずく・権力にまかせて横暴を行う)で言ったのか? それは尚悪い。悪いは確かに悪いが詰め腹を切らせることでもないからせせら笑って事は収める。収めるは予定の所へ入る語だ。勉強せよ。
ついでに教えるがゆする、ゆすりをかけるの語はこの駕篭かきから来た。客に酒手を要求すると、客が寝たふりをする、すると寝てられないように駕籠をゆする、これから来た語だ。
さて、議員は人を知るのを商売とする。役人は定年まで安泰を貪ろうと手前勝手を行うを生業とする。一旦緩急があれば役人ばらはうろたえて、成すすべを知らない。本来なら、下司下郎がうろたえて、ただ訳もわからず右往左往するを、大声で「静まれ、静まれ」と制し、敵の来た方角を言え、敵を見た者はおらぬかと糾し、騒ぎの本質を探るのが武士の武士たる本質。
これを黒澤明が「七人の侍」で志村喬にさせた。志村の家系は土佐藩で鳥羽伏見の戦いに隊長として参加、明治三十八年の生まれ、いい役を配されたものだ。日本の名優の一人。
現代の侍は役人じゃない。一旦緩急あれば馳せ参じるのは議員だ。うろたえるな、相手は一人だ。納得させればいい。と、五戸副議長はご自分の米びつを開き、その米である人を知るを使った。それが、今回の個人名を記さない結果となる。約定は守るが常だ。この魔法の杖を持つ、あるいはアラジンの魔法のランプを持つからこそ、議員の議員たる力を発揮することになる。ここが役人と議員の違いがある。役人は市民を知っている。税を取り立てる道具として。議員は市民を知っている。自分を立ててくれる有難い米びつの米として。
だから接遇の仕方が違う。役人は横柄で馬鹿野郎と市民を罵る。下司下郎と同じなら役所から出ろ。市民は税をむしりとる対象、いわば客だ。客に横柄を食らわして、バキュウームカーの弁を逆に開かれた話を聞かせたゾ。男の意地はこうしたもんだ。
五戸副議長の話を入れ、手打ちだ。
大館議長、山内議会事務局長、当該職員、それに五戸副議長が同席し、八戸市議会第280号書類を差し替えて終りとする。昨日のブログにも書いたように、この当該職員の名を知りたい者は総務課へ出向き、情報開示を求めれば知れる。その費用は? 無料だヨ。