2009年3月22日日曜日

太宰治の師匠、井伏鱒二の書いた八戸の話

野辺地の睦五郎略伝
 旧幕のころ、奥州八戸藩に野村軍記といふ武士がゐた。
文化元年、大目付に任じられ、後に社寺奉行を兼ね、藩の立法替えに精出したそのために、人の恨みをかって不幸な最期をとげた人である。
 この野村軍記の家来の一人に、野辺地の睦五郎といふ下郎がゐた。はなはだ才覚の利く人間で、軍記の立法替えについて助言を許されてゐた者である。犯罪者の取調べ方についても、偶然のことだが指紋法を案出して軍記に採用させた。睦五郎は指紋法のことを指の渦(うず)見分方といってゐた。
 当時、八戸藩では財政が疲弊の極に達してゐた。紙幣が国ぢゆうに充ちて融通の道がほとんど絶え、上下の困弊がはなはだしかった。江戸勤番の侍も夜宿の燈心の油を買へないほどの貧乏で、藩公の江戸屋敷が雨漏りしても大工を呼ぶ日当に事欠いてゐた。帰国の旅費も捻出困難であった。江戸深川町人からも「日がたつことを、江戸で一番心配するのは、南部藩の武士だ」と言われていた。
 この財政の逼迫の原因は、領内における豪商が跋扈して、賂(まいない・わいろ)を権臣(けんしん・権利をもった役人)に贈り利益壟断(ろうだん・独り占め)を専らにしていたためである。(中略)
 睦五郎の父は野辺地で船問屋を営んでいたが、八戸藩から財産没収、所払いを命ぜられた。夫婦は無宿者となり流浪の旅にでた。睦五郎は野辺地でウロウロしていた。睦五郎の両親は、三本本の馬番小屋にゐるといふ噂が伝はつてゐた。睦五郎は乞食となって三本木まで来た。十八歳になっていた。馬番夫婦は尾去沢銅山へ行ったと教えられる。尾去沢に着くと八戸へ行ったという。睦五郎八戸に行った。ここは八戸藩の城下町である。二つの川が川口のすぐ手前で合流して海に入る。その落合に天主閣のないお城をめぐつて街並がある。
 睦五郎がこの町で乞食夫婦のことをたづねると、その乞食は先ごろ仙寿寺の裏門のところで首を吊つたと教へられた。睦五郎は仙寿寺の在り場を教はつて、泣声をあげながらその寺の裏門まで駈けつけた。睦五郎は泣き喚いた。
 仙寿寺の和尚がその声を聞きつけて裏門の外に出た。和尚と睦五郎の間に簡単な会話が取りかはされた。
「おぬし、なぜ泣くか」
「ふたおやが、このあたりで首を吊りました。」
「あの二人の衆おぬしがたらちねか。いまはもう無縁塚
になって御座る。おお、そうか、ひもじかろう。先づ、こちらへおいで。」
 睦五郎五郎は裏門から連れこまれて、食を与へられた。
 この寺の和尚は、東来和尚といって美濃の生まれである。諸国を漂泊して落魄した末にここ来たと云われている。頓知がすぐれた人で狂歌をつくる余技があった。俳号を杓子定規、または早桶庵瓦鏡といった。
 睦五郎の父母は、この寺の墓地のほとりに葬られていた。和尚は睦五郎にその無縁塚をゆっくり拝ませて、「おぬしの悲嘆がほつれるまで、寺に泊まって毎日でも墓を拝ましゃれ」といった。行くあてのない睦五郎は、寺に泊めてもらって寺男の手助けをするようになった。
 ある分限者の檀家が盛大な法事をして、仙寿寺の本堂に何十人もの回向者が集まった。分限者の使いが供物の米俵を運んで来た。お布施を入れた状箱も持ってきた。和尚はその状箱を庫裏の机の上に載せておいた。
 回向がすんでから和尚が庫裏に引返すと、状箱の紐の結び目がお粗末な片結びになつてゐた。かりにも状箱を持ち扱ふ人間が、こんな紐の結びかたを.するわけがない。和尚は箱をあけないで手を束ね、庫裏の台所で後片づけをしてゐた人たちを呼んだ。煮炊きの手伝に来てゐた者や寺男など、数人の者が和尚の前に出た。
「ちょっと尋ねるが、いま回向の最中に、誰かこの居間に来ざったか」と和尚が言った。
 みんなお互に囁いて、煮炊きの手伝いの為吉が代表で返答した。
 「和尚さま、いま誰彼となく申しますに、陸五郎がここに入って来るのを見たと申します。さっき、本堂.で和尚さんが、回向文を読んで御座ったときと申します。」
 「それでは、ここへ睦五郎を呼んでくれ」
 みんなは席をはづし、本堂の掃除をしてゐた陸五郎が和尚さんの前に来た。
[おぬし、わしの留守にこの居間に来ざったか。]
「参りました。この煙草盆の掃除をしに参りました」
「そのとき、この状箱の紐に、おぬし手を触れざったか。いま見ると、この紐が片結びになってをるのぢや。どうも腑に落ちぬ。」
 こんなことをいわれると、誰だって状箱の中身に異変があったと気がつくだらう。云われる自分が疑はれてゐると思ふのが当り前である。陸五郎は「ちよっと、御免を蒙りまして」と断って、状箱に近寄って見た。
「いや、手を触れてはならぬ」と和尚が遮った。[その蓋に、人の指跡がついてをる。おぬしの指と違って、もそっと細い指のやうじゃ。]
 状箱は黒い漆塗で、蓋に宛名を書くところだけ短冊型に赤漆で塗ってある。その赤漆のところにも、黒い漆塗のところにも、よごれ手で触った指跡が歴然と残ってゐる。指さきの渦まで読み取れさうに見えるほどである。
「和尚さま、この指跡の渦を、紙に写しとる算段は御座いますまいか。私、その思案をいたします。いつか手相見が、人の指の渦は万人みな違ってをると申しました。」
「おお、さうだ、渦は万人みな違ふ。」
 煮焚きの手伝に来てゐた人たちは、睦五郎が盗んだと云ってゐたか、和尚は状箱の指絞を大事に残すため薄い布ぎれを上にかぶせておいた。
 その晩、睦五郎は眠らずに算段し今翌朝、彼は赤い目をして和尚さんの居間に罷り出て、ふところから薄い雁皮紙と何やら紙に包んだものを取出した。そのとき来客があつたので、和尚さんは書院の方にお客を案内した。
 その客人は藩の大目付役、野村軍記といふ人であった。
夜明け前の鉄砲足軽組の調練を見た帰りに、かねて和尚と懸意な仲とてお茶を飲みに立ち寄ったものである。和尚さんはお湯をわかして薄茶を出した。野村軍記は座興に白扇を出して和尚に句を頼んだ。
 和尚さんは睦五郎を呼んで硯を持って来させ、その白扇に「音に聞く野村に響く素鉄砲」と書いた。夜あけごろ調練の鉄砲の音がして煩さかつたのを諷したものである。
 「睦五郎、指跡の渦は写せたか」と和尚さんが縁側にかしこまつてゐた睦五郎に声をかけた。
 「はい和尚さま、ざっと写せまして御座います。」
 「おお、写せたか。写せたら、持って来て、野村のお殿様にもお目にかけるとよい。はて、えらい才覚したものぢや。」
 睦五郎は指紋をとつた紙を持参して引きさがった。ごく微かだが指の渦が黒く薄手の紙に現はれて、渦の流れたのや巻いたのを見分けることが山来た。
 野村軍記は一と目それを見ると、睦五郎を自分の家来に申し受けたいと和尚に所望した。
「罪人を拷問するよりも、この渦で見分けるが手近かぢやな」と軍記がいった。
 和尚は「お殿様に仕える仕えないは、睦五郎が得心次第で御座る」と返答した。
 和尚さんは指紋を見て、状箱をあけたのは若い娘さんだらうと云った。果して曲名は為吉の妹であった。
 睦五郎は野村軍記に下郎として雇はれた。管下で夜盗や人殺しがあるたぴに、鴈皮紙と薬を持って現場へ指の渦を写しに行くのである。軍記はそれを重宝なものとしてゐたが、こんな見分方のあることを断じて他言しないやうに睦五郎に云ひつけた。軍記の説によると、罪状糾察(きゅうさつ・問いただし)の仕方がこまかくなって行くにつれ、世の犯罪のすべが深く多岐に至って行く。いま御役所では力づくの拷問で犯人を詮議してゐるが、これは世の犯罪を単純なものにさせておくためには大いにあづかるところがある。だから、指の渦見分方を決して人に明かしてはいけないと睦五郎に云ひきかせた。
この論法は勝手放題であつたとは云ふものの、そのために野村軍記の罪人糾明の術は神技であると云はれるやうになった。この人は間もなく栄進して社寺奉行の兼役を.仰せつかった。
 文政九年正月、野村軍記は睦五郎を連れて江戸へ出た。領内の十和田山の材木を江戸へ積み出す目的で、深川の材木問屋に高交渉するためと、領内の物産を新造船で江戸に運搬して商取引を始めるためであった。ところが江戸の商人たちは八戸藩が小藩であるために信用しないのである。なかには八戸藩の名前さへ知らないものがゐた。江戸の大半の人は、そんな藩の名前は聞いたことがあったかもしれぬといふ程度のもので、取引を承諾する商賈(しょうこ・あきんど)は皆無であった。大坂道頓堀の商家に使ひの者を差向けたが、互市(ごし・貿易)開始を承引(しょういん・承諾)する商家は一軒もなかった。
 睦五郎は江戸滞在中に江戸相撲の春場所を見物した。面白いので五日も六日も続けて見物した。その問ぢゆうも、主人の野村軍記は相撲など見る暇もなく江戸の街を駈けずりまはって、血まなこになって商取引をする相手を捜してゐた。結局は駄目であった。洟汁もひっかけられないやうな有様である。軍記は焦慮のあまり、日に日に面やつれが目立つやうになった。今まで軍記は財政を立て直すため、藩中の反対を排して資源開発の説を剛直に主導して来たもので、もし江戸や大坂に互市を持てないと軍記の面目は丸つぶれである。地位も危くなって来る。
 ある日、軍記は陸五郎を連れて大川端から魚釣に出た。野辺地の海辺育ちの睦五郎は船が漕げるので、船頭を雇わないで註八郎に掴がした、船中、二人だけであっだ。軍
記は釣糸を垂れなから独りごとのやうに云った。
「江戸では、魚まで八戸藩を侮ってをる。江戸の人間と同じこと、魚も八戸藩の名前など心得ぬかもしれぬ。釣も通商も、ことごとく散々ぢや。」
「畏れながら、お殿様」と睦五郎がいった。「江戸の相撲取りを、お雇いになりましてはいかがで御座います。人気のある相撲取りを八戸藩の籍に入れるんでございます」
 「愚かなこと申すやつだ。-いや、それはそれは着眼。
相撲の番付には、藩籍が必ず書いてある。これは思ひつきだ。」
 軍記は急に晴々とした顔で、すぐ船を漕ぎ戻すやうに陸五郎に言いつけた。
 睦五郎は船を漕ぎながら、先日の春場所で見た人気のある相撲取の噂をした。いま一ばん人気のあるのは大関の四ケ峯で、この相撲取りは滅多なこと負けないが、たまさか負けても見物が「四ケ峰、四ケ峰」と声援する。四ケ峯のほかに、また見物人の贔屓する甚だ美男で人気のある相撲取がゐる。それも八戸藩の籍に移せば、たちまち八戸藩の名が天下に知れ渡るだらうと睦五郎は入れ知恵した。
「美男で人気の、相摂取か」と軍記は苦虫を喘みつぶしたやうな韻をしたが、すぐにまた晴々として云った。「いや、それも悪くない。ほかに数人、まだ雇ひ入れたきものぢや。奥州白石ごときは、傾城で名が知れてをるだけぢや」
軍記は藩公に対面を願って許しを受け、一方また相撲の元締にも掛合って四ケ峯のほか散人の力士を藩のお抱へにした。このことが、正式に八戸藩から発表されたのは、文政十年四月であった。
 江戸の一般市民は、四ケ峯たちの藩籍を見て八戸にも藩があるといふことを知った。大坂の市民も、旅興行の江戸相撲を見て八戸藩の名前を知った。
 文致十一年の春、四ケ峯は大坂興行のとき、素哨しく派手な手を使って非常な人気を呼んだ。美男の相撲取も白星を取った。その大評判の影響で、間もなく八戸の町市場ヘ大阪の問屋から漆器類の註文が大量に来た。引きつづいて材木の註文もどっさり来た。江戸深川からも材木の註文が来るやうになった。
中略
天保二年、三年は凶歳であった。八戸領内は大困窮であった。藩主は他国から米を買入れることにして、野村軍記に一万七千両の金を授けて出発させた。
 軍記は酒田に行って掛合ったが断わられた。次に、新発田、金沢、富山、高田、新潟という順に、三ヶ月がかりで交渉して歩いた。どこの町でも、あまりいい顔はされなかったが、新発田の町で一万五千両の米を予約して、年内にその三分の二を送りつけてもらう約束ができた。軍記は八戸に帰った。ところが師走になっても越後の廻船が着かないので、領内に餓死する者が次第に出るようになった。当然、百姓一揆が起こった。一揆の数は八千人。これが豪商たちの住む八戸の城に押しよせた。藩の十五歳以上の侍は城中に集合を命ぜられ、それぞれ要害の守りに派遣された。軍記が米穀の買入れ金を着服したという流言が伝わった。軍記は改易幽閉を命ぜられた。間もなく越後から廻船が届いたので、藩主は特典をもって軍記を復職させようとしたが、当人は幽閉中に人知れず亡くなっていた。後略