2009年3月12日木曜日

はしかみ今昔     小山 翰墨


縁あって、文を綴ることになった。
 自分の祖先の魂をゆさぶり起こさないようにと、そっと静かに記してみよう。
江戸幕府から八戸南部藩に命ありて、北辺警備に当たった小山新十郎の生まれは今の名久井のあたり。どのような事情があったのか、一度工藤の姓になったが再度、もとのわが姓と同じく戻った。
初代の記録がないので生業も所業も不明だがこの二代目からは明白である。
 大沢多聞は野辺地戦争に出陣し津軽藩との戦をしてこれをやぶった記録もあり、歴史を残した。五十人余の鉄砲隊の隊長だったと聞く。
私の母方の祖母 せん の父親、すなわち大沢多聞がそうである。
 多聞の時代に士族制度廃止(四民平等)*すなわち士農工商のこと*により階上に転任した。
狐のたたりだろうか?
四代目 勝凭 は狩猟が好きで、銃を持っていた。古い時代なので火縄銃だろうか、それとも、もっと改良された性能のよい村田銃だったろうか。
その日の猟はなく、日暮れになり帰路の途中、狐らしき生きものに出遭い、発砲した。
よほど命が惜しかったものか、あるいはなにかの化身であったのか、拝むような姿で弾に当たり、怪我をしたまま逃げた。
それからというもの、家族はみな幼くして早世したと云う。いつの時代でも、世の中とはそんなものでありましょうか。
生き物は大層な理由があるほかは、人間を含めて、辛くあたったり、苛めたり、また、殺したりしてはいけないのである。その報いは親族や血筋の者が負わねばならぬようになっている。
それからというものは、後継が無くなり、世が世であれば「お家断絶」、樹木に例えればつぎ木をやらなければと養女を迎えた。これが私の母親となる人。そして私の父親となる養子を迎えた。
運あってか無くてか、この私が誕生した。この時代はもう八戸市になっていて、番町の亀徳しづ助産婦にとりあげられた。(上亀徳しず)
人間の誕生のことを考えると、いつも不思議な思いにかられる。なにも彼もキッカケなのだ。それも大層なものではなく、ほんのつまらぬ事に始まっているのだ。人間としてこの地上に発生した事をまずは感謝しよう。

分教場での生活
大東亜戦争がはげしくなって、国民学校石鉢分教場へ疎開、転校した。復復式で教室は二つだけ、男先生、女先生と呼んでいたが先生もこの二人だけ。生徒は二十人もあったかどうか。式典などがあれば、一里ほどもある本校まで歩いて行った。子供の足で大変な道のりであった。ろくに喰うものがなく腹を空かしての道中は遠いので辛い。まだ、バスなどが通っていない時代で今の便利な社会では想像もつかないことであろう。学校の近くに学校田があり、田植もしたが肥料もろくにない時代でお腹いっぱいに食えるほどの収穫はなかった。
分教場は明治四十四年に創立されたもので、始まった当初は、部落内の戸数は三十余世帯あって、児童も各家庭から一人はあったので三十人と少しあったそうだ。
寺子屋から引き継いだので一年生から三年生までしかなく年齢もまちまちであったと今八十歳代の恩師から聞いた。学校には古い記録が残っている。

私達の時代の分教場にはオルガンはあったが鍵が掛かっていて使用できる先生はいなかった。音楽の授業はと云うと、箱根山など口伝えに数曲しかなく、ラジオからの歌謡曲をみんなで歌っていた。たった六〇年まえの社会の姿なのである。
けれど、山には子供のおやつとなる産物もあった。砂糖も枯渇していて、甘い物の味を忘れかけている時代に天の恵みの、春は木イチゴ、秋は、栗、アケビ、キノコ、冬は野うさぎ、キジを捕らえて食べた。貴重な蛋白源であったのだ
また、家庭での現金収入のひとつは春採りの赤松の薪を小さく割って束ねて八戸町に売りに行く、町での生活でも今の時代と異なり、便利なガスなどあるわけでなし炊事から暖房は薪や炭しかなかったのだ。
八戸市の今のロー丁に馬用のガレージと云うべきものがあった。飼い葉を食わせ、水を飲ませて料金をとる仕事もあった。それを生業にしていたのである。そこに馬を預け、一仕事終われば酒を飲み、至福の時を過ごす。時として売上がよければ酒も余計に呑めるのでつい過ぎるのだ。すっかり酔っ払ってしまっても馬鹿の主人より馬のほうが利口なのだ。「イッヒンヒー」と馬が笑ったかどうかはわからぬ。
馬の主人は空っぽの荷台に大の字になって眠り込むが、なんの心配もない。飲酒運転で警察官に咎めを受けるではなしなのだ。深夜に自動運転で馬が石鉢の家まで引いて来てくれた。現代の自動車ではこうは、いかない。不便な?時代になったもんだ。我が家の庭に到着したら、馬がヒッヒーんとクラクションを発して家族を呼んでいたのを今でも鮮明におぼえている。
まだ、バスも通じてなく八戸まで遊びに出かけるのは徒歩で、年上の腕っ節のつよいガキ大将を携えて来たものだが、途中、新井田のガキ達と、いさかいがありよくいじめられた。だが、ガキ大将はやさしく、たよりがいがあった。喧嘩で負けても子分達を先に逃がしてから自分ひとりで孤軍奮闘の殴り合いを惜しまなかったっけ。事が済んだら、急な坂道を登りきった野場の集落あたりで傷だらけの大将と落ち合って、全員仲良く、夕暮れのなか大声で唱って家路についた。陽がとっぷりと暮れ、途中で狐のぎゃーぎゃーと鳴く声が聞こえると、誰かが、「馬の死骸を捨てているのでそれを喰いにきている」と恐々とした話し振りに、みんな震いあがった。握り締めた手のなかの銭が温かくなっていた。
秋の季節は、かなり遠い距離である三社大祭の太鼓の音が石鉢まて聞こえたもので、現代では環境がすっかり変わり車の騒音だけでもかき消され、お祭りの太鼓の音など聞こえるのは叶わないのである。農作業は、「お祭りの前までに稗刈りしなければ大風吹ぎあ来る」と云われたものです。すなわち二百十日の台風シーズンだったのでございましょう。「自然の脅威にはちっぽけな人間なぞ勝てるわけがない」と口にはしないがちゃんと昔の人々は知っていあんしたんだ。          
第一話終わり