聞こえないラジオのビーエフエムは経営努力不足もさることながら、根源的原因を解消しないから十年経過しても市民の役に立たない。
そもそも地域限定のFm波はNHKが最近Fm誕生四十周年と叫ぶように、ようよう壮年期に入った。見通し距離しか飛ばないという特性を持つ電波に全国規模の伝播力を期待できない。狭隘な地域情報発信が根源。そこで、これを市町村単位で免許することになった。丁度十年前だ。
なんで、このビーエフエムが誕生したかを、昨日面談した市役所職員、防災課の二十代と思しきは知らなかった。もっとも二十五とすれば十年前は中学生だ。知らないのも当然のような気がするが、総体に市役所職員は不勉強。議会事務局に勤めながら、議会史すらも知らないのがいた。配置転換時に勉強させないのかネ。勉強・指導なしにワイワイ群れているのじゃ下北の猿とどこが違う。あやつらは動物園から捨てられた猿。市役所職員は給料を貰うと立場が違う。
このビーエフエムの誕生は、青年会議所の構成員だった、米屋の倅と車屋の倅が、携帯電話のはしりに手を出した。大体、八戸人は流行り物に手を出す傾向あり。そして、すぐに飽きる。
この地域携帯電話会社設立に悪感情を抱いた仲間に入らなかったか、入れてもらえなかったかは判らぬが、こいつらが八戸特有の足ひっぱり。儲けるのはきゃつらばかり、自分たちには声もかからなかったとか、洟もひかけてもらえなかったと大騒ぎ。挙句、あんなものを使うなと連合軍で拒否。五戸の入り口に巨大なアンテナを建て、小屋も準備し投資をしたのはいいが、利用者が少ないのに、競争相手が登場、それがドコモなどの携帯電話会社、東北電力なども参入し競争は激化。
そこに中里市長が就職を依頼された会話が盗聴された。これはビーエフエムの前身の携帯電話を利用していたことによる。慌てて中里市長はその利用をやめた。そしてお定まりの凋落。
「はちのへ今昔」が地域Fmラジオ認可をすすめているときに郵政省から地元商工会議所の協力を得ろとの指示があり、相談をしたところ、自分たちでやったわけだ。車屋の塚原氏に広域でやるべきだと「はちのへ今昔」がいうが、郵政省から五戸入り口の小屋と電波塔を他の携帯電話会社に買い取らせる相談が出来ていて、広域でやるには電波の発信場所を失っていた。
Fm波は見通し距離のため、電波塔は高ければ高いほどいい。ところが売却したため足がかりがない。階上岳に電波塔を建てるには権利がモゴモゴと出来ない条件ばかりを並べた。挙句、八戸市役所に摺り寄って、市役所の上にアンテナを建てた。
あせってやるから足元固めが出来ずにヨロヨロ。電波は十分に飛ばないから小中野でも聞こえない所が出た。改良改善などする気もなく、広告広告と銭のことばかり十年言い暮らしてくるがどもこもならぬ。ドコモにやられてどもこもならぬ奴らは、市役所に泣きついた。それがビーエフエムの放送局の入り口をバス待合室にする件。これは新幹線対策で感心センやり口。これが打ち切られて、こんどは哀訴で広報調整課に泣きつき、広報番組を増やすから補助をくれで、五百万をふんだくった。
そして、これを「はちのへ今昔」にブチ抜かれた。こんな補助は無意味だという論法のなかで、広域断水事件。これは人災。
ここで広域緊急情報の発信が問われた。地域Fm放送がそれを担うはずだったが、初手からそれを拒否し、あせりにあせって携帯電話事業の赤字解消に走ったビーエフエムの咎めが出た。
広報調整課も電界強度の確認もせず諾々とこれを容れた。そしてこれが既得権となり毎年踏襲される愚かさ。ビーエフエムはこれを好機と捉え、階上岳にある民放のアンテナの下を間借りし電波を出すことを考えるべき。貧乏人だけに自前のアンテナは立つまい。立たなきゃ立った奴の力を借りるのサ。
そんなことにも頭が廻らず銭の苦労でアップアップじゃ溺死も間近い。その前に広域に電波を出す工夫をしろ。そして巻き直しで、広域から参加料を得るのサ。そうすれば防災を軸としたラジオの意味が見える。Fmラジオ登場し四十年。防災無線ばかりが情報提供じゃない。暮らしに直結する情報のなかの一部に緊急情報がある。楽しい話、嬉しい話題満載のラジオが生活に潤いを出す。それを忘れて銭、銭とばかり叫ぶビーエフエムの経営者は交代するか、広域を管轄する第三セクターなどに身売りするのがよかろう。本来なら「はちのへ今昔」に無償で渡すが良いが、こちとらも少々くたびれた爺になったので願い下げだ。
今回の断水で緊急情報の有り様が問われた。おいらせ町のように防衛省をだまして一台5万円もする受令機をそなえるところもあるが、普段はダンマリを決める防災無線機に電気を通す意味があるのか。ここいらも考えるところだが、時代は変わり人々の生活様式にも変化。八戸市役所が把握する外国人居留者への情報伝達について、国際交流課のアリサ・ジャネット・トビンさんに訊いた。
明快な日本語を駆使する彼女はドナルド・キーン氏にも似て流暢な日本語を話される。キーン氏は米海軍日本語学校で日本語を修得し情報士官として太平洋戦争では通訳として活躍するが、氏の本来の仕事は日本文学の研究、近松から芭蕉、そして現代文学までも博識を駆使し判り易い英語に直し世界へ日本文学のよさを紹介。その功労で文化勲章を昨年受章された。世界のキーン氏だ。そのキーン氏のように言葉を選びながら語るアリサ女史は明晰な八戸居留外国人への情報伝達方法を説かれた。
言語的には中国語・朝鮮語・英語とある。英語を利用する人の携帯電話、パソコン所持率は高いが、中国語利用者は研修生として来ているため頻度は高くないかもしれない。つまり、携帯電話、パソコンによらない伝達網の構築が必要になるだろう。
地域ラジオ局での外国語放送の時間を持つことは大事だ。女史の出身地は人口4万5千人だが、スペイン語の放送時間がある。シアトルは人口60万、ここには多くの言語放送がなされているそうだ。ほっとするメールも必要には思うが。携帯電話所持者の数が未把握、多くの言語に翻訳する機能がどの程度かなど更に確認する作業があるように思えると語られた。島国根性の日本人の「はちのへ今昔」、流暢に操られる日本語に驚嘆するも、英語圏の中には素晴らしい才能を持つ人がいるのだと再確認。それもキーン氏には敵国日本を知悉するべきの義務感があったが、平和の時代に生まれたアリサ女史の教養の深さに感心。後生畏おそる可し(こうせいおそるべし・後進の者は努力次第で将来どんな大人物になるかわからないからおそるべきである)を痛感し、このような若い衆の居る世界は頼もしいと悟った。
ビーエフエムのスポンサーの広報調整課はビーエフエムに物言いをせよ。外国語放送の時間を設けよと。