2009年3月17日火曜日

大館村

大館村史
歴代村長
初代小幡茂周 明治23年10月15日退職
二代白井毅一 明治23年1月14日より明治34年9月30日
三代浅水礼次郎 明治34年12月20日より明治38年6月8日
四代前田利見 明治38年11月3日より明治42年11月2日
五代河村稲作 明治42年11月3日より大正11年1月14日
六代遠山景雄 大正11年1月15日より昭和4年11月16日
七代高橋兵作 昭和4年12月4日より昭和7年3月20日在職中没
八代泉山善作 昭和8年12月4日・昭和20年10月27日終戦により公職追放
九代堀込孫市 昭和21年1月23日・昭和22年3月31日 制度改正で退職
十代左舘平太郎 昭和22年4月5日公選最初・昭和26年4月4日
十一代籠田勝 昭和26年4月23日・昭和27年3月8日
十二代佐々木重男 昭和27年4月1日・昭和33年9月10日町村合併で退職

歴代議長
初代高橋藤吉
二代東野源太郎
三代西村利喜蔵
四代堀込孫市
五代新井田一矢

歴代助役
奥寺大七郎
盛坂勝三
橋山治郎
寺井豊三郎
泉山善蔵
木村錠之助
掛端米吉
鈴木幸
中村正次郎
服部弘

歴代収入役
盛 熊次郎
吉島利吉
堺 浩章
河村稲作
泉山善蔵
吉島栄作
盛 麻橘
掛端米吉
東野源太郎
西村利喜蔵
下斗米友太郎
服部弘
山村幸吉

選挙管理委員
委員長 黒沢勝蔵 農業 妙字野場
委員 山子甚四郎 東十日市
   竹子専太郎 新井田石動木
   石橋大八  新井田中町
補充委員 小山助四郎 岩淵
     大西福蔵  松館
     久保梅吉  妙
教育委員
委員長 上田頼石 50歳 新井田
副委員長 高橋芳雄 47歳 新井田字外館
委員 古町増太郎 41歳 新井田字中町
委員 畑中徳蔵 48歳 西十日市
委員 小田真 33歳 真井田字岩淵

農業委員
東山甚四郎 57歳 妙字野場
畑中恵寿男 56歳 西十日市
藤巻倉蔵 53歳 新井田
会長代理 左館重作 59歳 新井田
在家常彦 41歳 松館
小山村治 57歳 岩淵
石橋大八 41歳 新井田
籠田善治 72歳 松館
釜石喜代松 57歳 新井田
武部栄之助 50歳 塩入
上条清太郎 49歳 新井田
分枝由太郎 53歳 妙
委員長 籠田政俊 36歳 松館
梅本栄蔵 65歳 東十日市
石橋孫吉 51歳 新井田
わが郷土大館村が、国家の画期的大事業たる、町村合併促進法ならびに、新市町村建設促進法の制定公布によって、数百年来の本村史に大きな変革をもたらし、七十年来の村自治の境界変更を見るに至ったことは実に感無量なものがある。
 然るに、水産商工都市として、隆々発展の途にある合併市八戸の将来が、必ずや住民の福利をもたらすことを想えば新たなる感激と歓喜を禁じ得ない。
 今や合併に当たり、当村の産業経済、教育文化、通信交通等の諸事業を、現在の状況まで築きあげられた歴代の各理事者、議会議員、村民各位のご苦労に対し深き感謝をささげるものである。この事績を、後世永く伝え、子々孫々に対する激励の一端とし、報恩感謝の念を抱きつつ、ますます郷土の発展振興に寄与せしめたく、この誌の編集を企図した次第である。
 最初この誌の編集にあたり、村長を中心とする八名の編集委員会を組織して着手したのであるが、結局左の諸氏が直接執筆にあたった。即ち、
 一般自治行政の主要事項を村長
 行政の一端は現議長新井田一矢氏
 西十日市の環境衛生を教育長古町増太郎氏
 教育全般については大館中学校長小井田幸哉氏
 写真と校正は小井田氏と大館中学校教諭中村福治氏、
ただ遺憾なことは、合併直前に際し、村当局首脳部中に病患者がいでたるため、村全般にわたり、記述しえなかったことは甚だ残念であり、深くお詫びするところである。されば、本誌は郷土史の続編として発刊いたしたのである。
 更にこの編集が非情におくれ、遂に合併時にわたった為め、予算その他の面で、八戸御当局の多大なるご援助を仰いだことを深謝いたす次第である。遅延ながらこの誌の編集発行にあたり、改めて関係各位に深甚なる謝意を表す。
昭和三十三年九月
 大館村長 佐々木重男
行政
古く大館村の起源を尋ねると、先住民の後をうけて、新井田に城が築かれるまでは、松館部落が文化の発祥地であったといわれる。
 南北朝相対する戦乱の時代になり、根城南部氏の一族新田氏が本村に城を構えて四隣を開拓し、十二代の時、遠野に移封となり(このときから廃城三百余年前)代わって八戸藩の領有地となるに及んで漸次八戸城下(旧八戸町)に移住する者多きを加え遂に昔日の殷賑さは八戸市に移り代わった。
 明治4年廃藩置県の制施かれ、青森県と改称され、同6年郡区を改め第9大区4小区の名称を廃し郡制がしかれ三戸郡に属し、十日市、妙、松館、新井田の4カ村を1小区とし、戸長を置き十日市茶立場に戸長役場が置かれた。
 明治22年町村制実施となり、区内4カ村を併合し、大舘村と改め旧村名は大字名とった(ママ)。役場は新井田横町に移され、開庁のところ昭和3年横町大火に際し、類焼の厄にあい、新井田字坂に仮庁舎を建てて移ったが、昭和26年11月、同所に新庁舎を建築し今日に至った。
 昭和11年6月内務省告示を以って、本村の一部大字新井田が、市街地建築物法適用区域となり、昭和14年泉山村長時代、八戸市との合併問題が台頭し、村会において賛成論に傾くもの多数を数えるにいたり、ここにおいて村民の批判検討するところになるに及んで、結局財政的見地から時期尚早とする世論に傾き、昭和17年ついにこの問題は立ち消えとなった。
 昭和24年1月、八戸市と本村の水利組合間に、八戸市上水道水利権補償契約が成立しやPロア屢現在に及んでいる。
 昭和28年8月、我が国自治行政の画期的大事業たる市町村合併促進法が制定公布を見るに及び、県の合併審議会の計画により、大館村が八戸市に編入合併することになり、県の勧奨により八戸市側との折衝が屡々(しばしば)行われ、当村においても、議会代表、諸団体の長及び学識経験者によって、合併研究協議会が組織され幾度となく協議が重ねられた。この際当村は、基本方針として「合併には異議なきも時期尚早」の点で合併延期をしてきたのである。然るに県が促進法の切れる昭和31年3月、県知事の合併勧告を受けるにいたったが、当村は一向これに応ぜず、ひたすら合併準備のための諸事業を進めた。このとき、国は新町村促進法を制定し、公布をみるに及んで県が益々合併促進に馬力をかけてきた。
 昭和33年、当村は愈々(いよいよ)最終の事業たる新井田小学校の旧校舎改築を計画し、入札着工に及ぶと共に、議会、当局、合併研究協議会の三者会議を持ち、一挙に具体的合併の時期を申し合わせ、来る9月10日を期して合併することを八戸市当局に申し入れた。時恰(あたか)も昭和33年2月28日である。

八戸市上水道
 昭和8年初秋八戸市において上水道市営計画がなされ、調査に着手した。この計画は当村字砥倉、字蟹沢の湧水を水源とするもので、調査の結果確信を得た市当局は昭和11年4月事業計画を市議会に提案し可決された。
 昭和13年八戸市より蟹沢湧水を引水し市営上水道施工を実施したい旨申し入れられたので、この水源を昔より利用耕作している新井田用水普通水利組合(管理者村長泉山善蔵)は対策を協議したが水利権補償案について異論が続出し容易に承諾の気配は見えず、反って村民大会によって決すべしとの声さえ聞くに至った。