2009年3月10日火曜日

五戸今昔 怪傑剣士実は床屋の親父、工藤一夫さん


世の中、ダラダラ生きるは易けれど、我が道見つけ、それをトコトン追求し、その神髄であります奥義を極めることは、そりゃァ難しいなんてもんじゃァありません。
道にも色々ありまして、商売の道に色の道、華道に茶道に柔道と極めることは並大抵な努力じゃァあーりません。今回紹介いたしまするは五戸のクドウ床屋の親父さん、父の代から剣術、剣道、居合い抜きに鎖鎌と伝統を受け継ぎ、五戸を馬肉の町から天下の剣道の町へと変貌させたい、いや、させると孤軍奮闘、はりきりまくり、捲るは競輪選手の斉藤か、それとも山田か、最近山田を頭にすると皆外れる、そんなことは筆者の話で、クドウ床屋には、アンタ、何にも関係ありません。このクドウ床屋が目指すは八段、剣道の世界には厳 然たる三角ならぬ資格がありまして、千日の稽古を鍛と呼び、万日の稽古を錬と称する訳で、アンタ、万日というと毎日稽古しても二十と七年もかかるんだヨ。それらの稽古をして、これは日本剣道連盟がどこへ出しても恥ずかしくないと認定した剣士に錬士(れんし・五段以上の者から選ばれる。もと大日本武徳会で定めたものを継承)の称号、さらに上がありまして、今度は教士、頂上が範士でその上はありませーん。今、クドウ床屋は八段を目指して奮闘努力、何回受けても、なかなか合格させないそうだ。百人受けて一人入ればいいそうで、この試験のために稽古の日々。
 頭が下がるが、これ位熱心に床屋の仕事もすりゃいいだろうと思うのは筆者のヒガミかしら。
 この親父の先代は鎖鎌の名手、水鴎流って聞いたことない? 子連れ狼の拝一刀がこれ、その鎖鎌の免許皆伝が先代サ。なにしろ中村錦之助が演じて有名なTVドラマ、むちゃくちゃ強い。これが鎖鎌で、宍戸梅軒ってのもいた
ナ。クドウ床屋は八段とったら鎖鎌も継承するそうで、夢は大きい爺さん剣士。小島剛夕の絵で全 国を風靡したこともありましたゾ、橋幸夫がしとしとぴっちゃんと歌いましたナ。
これを継承するってんだから凄い話。凄いといえば、このクドウ床屋の先祖は五戸代官所の目明しの子分で下引きをしていたそうで、昔、目明しは通り者と呼ばれ、名が通る人間しか成れない。十手をもち町奉行所の仕事をこなしたもんで、与力、同心の下の下役。五戸は宿場町、宿屋に女郎屋もあり、博打場もあったそうで、その博打場に食い詰め浪人ならぬ、会津藩士が槍一本ひっつかみ、俵を三段に積んで、それを反対側、つまり背中の方にドンドン投げ飛ばす、するとアラ、不思議反対側に俵の山が同じように出来たという。江戸幕府の槍の指南番高橋泥舟がよく見せたというゾ。それを博徒の親分に見せたのが安藤市蔵。首尾よく用心棒に収まり明治の荒波をくぐり子孫繁栄商売繁盛が安藤陽三氏の先祖。
武道の道も極めると、ここまで届くゾ。生計を立てることができるんダ。クドウ床屋の先代は世話好きな人、親戚が床屋を五戸で開業していて、そこに弟子入り、そこである程度覚えて八戸六日町の床屋、板橋に入った。この店は大正十三年の創 業で主人は板橋吉蔵。ここで野球の大下常吉氏の知己を得たのがこれまた世の中を広くするんで、人との付き合いは大切にしな。
 ここで腕を上げて、今度は東京に出たと思いナ。場所は麻布の隣の白金三光町。ここは麻布、赤坂、芝、白金、六本木住まいは気が知れないと言われる高級住宅街の一つ。
 当時、東京六大学が話題の的、エンタツ、アチャコの漫才にも早慶戦てのがあったほど、その早稲田の選手から監督になったのが大下常吉氏、早速大下さんを訪ねると、おお、よく来たと大歓迎してくれて、勿論ご馳走にあずかる訳だが、毎週通ったそうだ。この大下氏を尊敬していたようで、五戸に戻り青少年のための剣道道場を建て、ここを無料開放したことを、大下氏に告げ、その返信が道場に掲額されている。心のよりどころだったんだろう。五戸に店を開くようになったのは、弟子入りした親戚のおじさんが床屋では食えないと夕張炭坑へ炭坑夫として働きに行くと言うん で急ぎ五戸に戻り、真偽をただせば、まさに夕張に行くところ、それではと、貯金した銭を全部おじさんに手渡すと、涙ながして喜んで、これで汽車賃に困らないと先代の手をしっかと握った。おじさんは昔草相撲で大関を張るほど、力がこもったんだろうナ。床屋道具一式を譲られたが、店と言っても軒先のような店。それでも先代は東京帰りの腕を持ち、いつもニコニコ笑顔を絶やさず、せっせと働く正直者。
 汗して働く姿を認め次第に増えるはお客様。弟子も一人二人と次第に増えて、ごらんのような大所帯。おじさんは繁盛させられなかったが、先代は大繁盛、おじさんは子供が十一人、その一人が大相撲の呼び出し奴、美声呼び出しと評判高いカンキチがそのひと。六歳で呼び出し世界に入ったそうだ。幼い子が辛い修行に寝小便垂れたことだろうなァ。親は夕張に行っていないんだが、ある日、店の前を行ったりきたりする十四、五の少年がいる。誰だろうと先代が見ると呼 び出しカンキチ。出世するまで帰ってくるなと言われても、故郷忘れる者はいません。夢にまで見た五戸町、秋田巡業の帰り道、一目見たさの故郷の町、見慣れた坂や森また林。そのまま帰るも良いけれど、先代の顔もみたいが出世は遠い、しかられるかな、このまま帰ろうかなと思案しながらウロウロ。
「カンコウ、入りな」の言葉を待ってましたと脱兎のごとくに店の中、ああ、よく来た、大きくなったなァと思案したのが馬鹿みたい。一族郎党が集まって心ばかりの祝宴開き、志を果たしていつの日にか、帰らん、山は青き故郷、水は清き故郷と合唱、カンキチがこれを機に五戸に顔を出すようになりました。
上の写真が先代の造った剣道道場。ここでクドウ床屋が少年剣士の道を踏み出しました。剣を取ったら日本一、二、夢は大きな少年剣士、赤胴鈴の助だ。小学校四年で初めて竹刀を持ち、五戸で教わるだけではもの足らず、南部鉄道に揺られて八 戸は十三日町の三新スポーツの裏の道場に通った。槻門さん、石亀さん、野沢県議などに稽古をつけてもらいましたヨ。中学三年で三戸郡剣道大会に出て、五位に入り初めて賞品を貰ったの。今まで誉められることが少なかったが、賞品貰ったのが嬉しくて剣道に励むんだから単細胞丸出し、でも、人間なんて多かれ少なかれ、誉められたり物貰うのが嬉しくて、はしゃぎ廻るもんだヨ。
 子供はおだてて、誉めて育てよ、の言葉があるが、実にそうしたもんだヨ。クドウ床屋を見ててもそう思う。
 五戸高校に進学したけど剣道部がない、なけりゃ作ろうと三年生を焚きつけて部を創立するところはなかなか賢い。その剣道部で青森県大会に出場し、な、なんと準優勝。これで血が頭に昇りきっていまだに降りてこないんダ。こうした人は幸せだヨ。一生夢見てボウっとして暮らせるんだもの。子供がそのまま大人になったようなもの。丁度、青森県知事みたいな もんだ。とっちゃん坊やだヨ。高校で初段、二段と順調に実力向上、修学旅行に行く金を貰って水戸の剣道道場に武者修行に行く。そこの道場主は戦前、京都にあった武道専門学校の卒業生、二段のクドウ床屋が赤子の手をひねるように簡単に投げ飛ばされ、終いには馬乗りになられて亀の子状態。自信と自慢の高い鼻はへしおられた。そこで一ヶ月ミッチリ教えられ、男の子がないので養子にこいとまで見こまれるも、私は長男、ごめんなさいと両手をついて謝った。そして青森県剣道秋期大会で準優勝。その実力が認められ日本大学が特待生で誘いましたゾ。そこで知り合った一年生、合宿所で同じ釜の飯、それを食ったのがアンタ、梅宮アンナの父、辰夫だよ。上の写真右端のチンチクリンがクドウ床屋、竹刀で頭ぶたれすぎて背が伸~びない。梅宮は前列左三番目。
 なんで梅宮が剣道部? この人は品川戸越銀座の医者の倅、甘いマスクで女が騒いでどうにもならない。高校ではハイジャンプの選手、東京都 高校生記録を持ち、百七十九㌢を飛ぶスポーツマン。水谷八重子の娘や江利チエミなんかから合宿所に電話がかかる。「クドウ床屋、うまいこと言ってヨ」、と夜遊びで門限に遅れる。大体、親が言っても言うこときかないので合宿所にブチ込まれた。
親の意見も合宿所も屁のカッパ、なにしろ高校生で松竹から映画に出ろとスカウトされるほど。クドウ床屋は目の玉ひんむいて驚いたのなんの。松竹? 水谷八重子の娘? 江利チエミ? 今まで松竹って映画は見たけど、出演する人初めてみたヨと、アア、東京は何て刺激的な所なのかと、しばし呆然、空中遊泳、日大に入れてヨカッタ~。しみじみ思ったゾ、「梅宮、門限遅れそうになったら裏の木戸開けておくがら、こっそり入ったらよかベ」クドウ床屋も悪い知恵つける。「だども、今度はオラも江利チエミに逢わせてけんだ」「お前は訛がひどいからだめ」「だども…、ならおみやげ貰ってコ」クドウ床屋は門限破りの片棒を担 ぐのでありました。そして二年生のある日、梅宮が来て、「クドウ床屋、俺は今度東映のニューフェイスに合格したから、学校はやめる。俺と一緒に合格した女は三田佳子だヨ、これからはサインの練習が忙しい」と、日大の合宿所、これは下高井戸にあったが、そこからドロン雲隠れ。
 それからの活躍は皆様御存知の通りでゴザマス。一年生の時は炊事係りを一緒にしまして、豆腐一丁買いに梅宮の親父の外車を無断で合宿所に持ち込んで、それを梅宮運転、クドウ床屋は隣で鍋持って豆腐屋に乗り付けるんだから、豆腐屋もあきれたネ。
 「外車乗り付けて学生が豆腐一丁買いに来る、世も末だ」。鍔釜でコゲ飯作って梅宮と二人で、それを握り飯にして食べたり、江利チエミがくれたウイスキーボンボンに、世の中にゃ、こったらうめえもんがあったんだと驚嘆、アララ、紙面が足らない、この続きは叉、来月。
続く。