昭和三十四年のデーリー東北新聞に二十歳代の経営者が連載され、その中の島守さんは大した男だと感心、鮮魚の仲買商をされていた。その人がその後どうしたかを知りたくて探すと、鮫のダイマル水産の会長をしておられた。
八戸屈指の水産会社にまで昇りつめられた島守巌さんの働きぶりを振り返りながら、水産都市八戸の流れを振り返ってみよう。参考資料は漁連三十年史。
日本が戦争に負けました。優秀な八戸の漁船は徴用され、日本各地のみならず外国までもでかけ、魚雷や爆弾で沈没した船もあったんです。漁船の乗り組み員も戦争にとられて、浜は女子供や老人ばかりで、四万四千トンの水揚げがあった八戸港は灯が消えたようなありさま。
沖合に魚がいても船がない、漁師もいないという状態、それでも飯は食わなきゃならな い、魚は経済統制で配給制、いやあ、食べる苦労から始まったんです。役所も内地の人、さらに外地から引き揚げてきた人たちを食わせるために、規制を緩和しましたとも。木造船を二つに切って、大きな板をつないで大型に船を造りかえたんです。
無茶な? ええ、無茶を承知でやったんですよ。そんな船に乗り込んだ漁師は怖かったと言っていましたとも。いつ船がバラバラになるかわからないんですから。
そんな無茶が通って、八戸の漁獲量も昭和二十四年には戦前なみに戻りました。
イカの町八戸の言葉がありますが、このイカ釣り漁業は戦後爆発的に栄えたんです。それには理由があったんです。漁網や漁具には大きな資金が必要になりますけど、巻き網や流し網となれば何キロという距離の大がかりなものですが、何、イカは釣るわけですから簡単な道具があればいい、なにしろ戦争に負けて働く場所のない人が山ほどいるんです。現在は働きたくない若者が山ほどいます、あれは嫌だ、これはいいとえり好みしてるうちに年をとって、若者じゃない馬鹿者になるのも妙な話ですが、必ず年寄りになりますなア、好むと好まざるに関わらず。ハイ。
イカが沸いて出るほどにいたんです。海の中はどうなっていたか、つまりいかばかりかと言うと、 イカばかりイカばかりで、あいつらは魚類でも人間なみに目が発達している、網ですくうと網の中で共食いして、玉に疵ならぬイカに疵、釣り針でとるイカは活き活きしてて身も厚い。なにしろ、釣り針と糸だけ買って、知己を頼りに方々捜して、イカ船になんとか乗り組む、すると船頭がイカがうようよしてる所に船を泊める。ジャンジャンかかるんだ、イカが。そのとれたイカを船頭と五分分けだ。
つまり、今の乗り合い釣り船みたいなもの。イカは目がいいから、面白い釣り針をみると、マアいいか食って見ようとなる、魚の餌ならぬ人間の餌と針持って船に乗る、船賃の代わりに獲れたイカを半分置いてくる訳。こうした釣り子たちがウヨウヨしたな。これらのイカをほまちイカと呼んだ。これらは市場を通さずに売買されたんで、漁価が統一されずに混乱。
戦前は白銀浜でイワシの巻き網が盛ん。ところが、戦後はイワシがいなくてワシが困ったと漁師言い。八戸のイワシ船は福島、茨城まで出かけてイワシを追うも良い年はマレ。
八戸は底引きが好調。イカと合わせると八戸の水揚げの八割を占めた。イカもほどほどに獲れればいいが、獲れすぎると値段が下がる豊漁貧乏。イカはただでやるから箱を返してくれという、実に奇妙な話もあった。箱が三十五円、イカが十五円、これじゃ箱返してもうなずける。時代が下がってイカ釣り船に強烈なライトをたくさん付けて発電器で光らせる、目がいいから海上にキャバレーができた、それ見に行けって、イカの野郎が急いで海面に浮上、それを浅利研究所が作成したイカ釣り機でどんどん釣り上げる、イヤア八戸前沖もいい時代がありました。船も大型化しました。
底引きは北海道太平洋海域で入会調整問題が発生しまして、昭和二十四年に青森・岩手・宮城・福島・新潟の船百五十隻が操業を認められました。この時期北洋漁業へ進出しました。昭和二十七年青森県に四隻が割り当てられ、三隻を八戸から出しました。赤字でしたが二十八年は八戸から六隻が出ました。二十九年は大洋冷凍母船のサイパン丸、独航船十四隻のうち八戸は七隻が操業、うまく行きましたが昭和三十二年に大洋冷凍母船は日魯漁業に吸収されました。企業が大型化していった時代でした。
昭和二十七年には県外船がサバ一本釣り、サンマ棒受け網、マグロ突きん棒などで九百三十六隻、その後、八戸沖にサバ釣り漁業が形成されたことで昭和三十二年には八千六百九隻もきました。新井田川に船がビッシリと並び、その船を渡って向こう岸まで行けたんです。
昭和二十三年には水産業協同組合法が施行、二十四年には漁業法が整備され、組合には加入・脱退の自由が保証され、自主運営に参加できるようになりました。二十四年から六年にかけて八戸を中心として二十二の組合ができました。
県外船がきても係留する場がない、漁港の整備が必要になります。またイカが獲れすぎて貧乏になる、これを解消するにはどうしたらいいか。これらを討議するために業界も動きました。昭和二十七年の八戸漁業振興協議会がそれです。
八戸市漁業協同組合高谷金五郎、八戸市白銀組合関下松太郎、鮫浦組合宮崎市太郎、青森県鰹遠洋組合中島石蔵、八戸底引き組合中島石蔵、青森県旋網組合秋山皐二郎、八戸市柔魚釣組合大坂由太郎、湊小型組合秋山吉三郎、八戸目抜延縄組合熊谷義雄、八戸刺し網組合柳谷第吉、八戸沿岸発動機組合安達末松、八戸南浜組合二部菊松、八戸小型組合河村正太郎、これに次の組合が参加して、(写真島守岩松さん)昭和三十二年に二十二組合となった。八戸鯖流し網組合、八戸近海組合、八戸鯖一本釣り組合、市川組合、八戸さけます延縄組合、小舟渡組合、榊組合、大蛇組合、荒谷組合、追越組合です。
創立時の役員構成は会長熊谷義雄、副会長秋山皐二郎、副会長高橋勝三郎、理事高谷、中島、大坂、関下、宮崎、柳谷、大下文平、久保保三、町田米次郎、月舘幸太郎、吉田利八郎、秋山吉三郎、倉本象二、夏堀正作、高橋五郎、二部、河村、尾崎市之助、監事佐川真一、五戸勘次郎、岩間日出夫の諸氏。
懐かしい顔ぶれです。健在なのは高谷さんかな、私の会社の名前、ダイマルは父の姉、つまり伯母にあたる人が、大丸の名を付けた会社は皆、繁盛している。これは縁起の良い名前だからとすすめたそうです。それでダイマルなんです。
私の父は福地村の近くの出身で、夏堀源三郎さんと親しくしておりました。この人のもとで番頭をしてました。夏堀さんは積極的に水産と取り組まれ、この人なしに八戸の水産は語れません。幼い頃からの苦労人です。豪農の家に生まれたんですが、十三歳の年に家運が傾き、八戸中学を中退されました。漁業界に飛び込み、頭のいい方です、たちまちに頭角を現し、漁業はもとより海産物、回船問 屋を手がけられますが、機船底引き、マグロの流し網、イカ釣り、めぬけ延べ縄(写真がめぬけ)経営を軌道に乗せ、昭和四年湊川魚市場を組織しました。これは昭和七年八戸魚市場ができ、この中に統合されました。八年には市営の魚市場を開設し、その委託販売を社長の夏堀さん、専務の熊谷義雄さんのコンビで業績を向上させます。
なにしろ湊川魚市場を軌道に乗せた人ですから手腕は抜群でしたネ、父はこの夏堀商店に十二歳から奉公しました。そして昭和十二年に独立して、ダイマルを興しました。四国や九州からの船が八戸に魚を下ろします。父は夏堀商店の番頭でしたから、それら県外の人とも付き合いがありましたけど、そういう人とは取引せず、たまたま八戸に初めて入港し、どこの問屋とも取引のない船頭の荷をさばきました。勿論夏堀商店に遠慮したわけです。取引できなかった人もその事情を知り、主家に弓をひかない位だから信頼できると、自分の友人を紹介してくれ、かえって人気が出たほどです。何が幸いするかはわかりません。でも父は誠実と信頼こそ発展の道とよく言っていました。夏堀さんは昭和二十一年には衆議院議員になり、八戸を留守にすることが多く、役員の不正経理問題が昭和三十六年に発覚し引責辞任、翌年七十四歳で亡くなりました。前にも申し上げましたけど、大洋冷凍母船を経営されていました。北洋、南洋と幅広く船を出した八戸一の実業家でした。南洋マグロをキャッチャー式母船で漁獲する方法は夏堀さんが創始されました。
漁業で歴史の古いのは湊の五戸岩次郎さんの文久二年、明治十年が浜須賀の秋山熊五郎さん、明治十二年が湊柳町の神田商店神田俊雄さん、二十二年が鮫の岩五商店、岩岡義剛さん、二十五年が白銀の長谷川藤次郎商店、四十年が高橋商店、高橋善蔵さん、大正に入りますと、三年が鮫の宮市商店宮崎市太郎さん、同じく三年に南横町夏堀商店、夏堀源三郎さん、十年が下條の武尾商店武尾憲三郎さん、十二年が湊本町倉本商店倉本象二さん、十五年が小中野新町中石商店中島石蔵さん、昭和元年が下條の吉田商店吉田利八郎さん、二年が鮫の平岡春松さん、八年が小中野北横町の角栄漁業角栄次郎さんなどでしょうか。
デーリー東北が昭和三十六年に郷土の人物地図という好企画を立て、各界の人物を紹介しました。この年は八戸の魚関係の人々にとって激震が走った珍しい年でした。大工が放火し、白銀が丸焼けになった白銀大火、そして魚市場の内紛で夏堀さんが辞職されました。白銀地区は魚加工の人々が多く、干場がたくさんありましたが、仕事ができず困った状況が長く続きました。
そんな中、デーリー東北がシリーズで紹介しました。記事を抜粋してみます。
八戸は全国有数のトロール漁業の盛んな港だ。業界ナンバーワンの実力者として知られるのは吉田利八郎氏(五九)。この道三十年、いまではトロール、メヌケ刺し網、マグロ延縄、巻き網な ど十七隻・一千六百五十㌧の漁船を持ち、全国でもベストテンにランクされる文字通りの実力者でそのたたき上げた漁業者としてのカンと実力は貴重。さる八月には北日本最大の二百四十㌧鉄鋼マグロ延縄船第八十正進丸を一億円で建造するなどスケールは大きい。
手堅い経営の中島石蔵氏(六四)は浜の指導者 的立場にあり、これまでもニシン積みとりなどで経営感覚のさえを見せ、トロール船第三海晃丸、北洋サケ・マス独航船海晃丸、太平洋サケ・マス船第十三海晃、積みとり船第十明石丸の四隻を的確に動かしてスキがない三つの冷蔵庫を持ち、合わせて製氷日産十㌧、冷蔵能力一千二百㌧という港きっての冷蔵庫経営を続けている。カン詰めハム、ソーセージなどの畜産加工品販売も扱う幅の広さもある。
名門角万商店代表者の高橋五郎氏(五二)は東京生まれで水産講習所出身のインテリ漁業者。昭和十年に先代に見こまれて八戸にやってきて二 十六年、トロール船第三十二海鳳、第三新栄の両船をフルに動かすほか冷凍冷蔵工場も持ちスジを通した経営ぶりがこの人の身上。先代からこの商店で教育を受け優秀業界人に成長した人は多い。
柳谷一家の長男、柳谷明義氏(五○)は頭の切れるトロール船主で、業界でも一家言の持ち主、明快な口調のトロール経営論激しい業界の中で 三十年間努力してきた内容がある。トロール船第二十、第十五正寿丸、イカ釣り船第一正寿丸の船主。
弟の勝雄氏(三八)はトロール船第十二北王丸、サバ釣り船第十三北王丸の船主で市営魚市場の大口仲買人の許可を持つ。
柳谷明義氏の本家筋に当たる第四代柳谷第吉氏(三七)は八戸と北海道稚内でトロール業を営む実力者だ。先代は昭和三十三年鉄鋼船第二十一 久栄丸を室蘭で建造。その合理的経営の教育を受けたこの人も叉、筋金入りだ。現在はこのトロール船第二十一久栄丸、第五久栄、それにメヌケ刺し網船の第十三久栄丸で北海道沖トロール、そして稚内を基地としてカラフト周辺まで船足を伸ばしスケールの大きい操業を続ける。
河村平吉氏(五一)も忘れてならない業界人。 トロール船第十開洋丸、北洋サケ・マス独航船第十五開洋丸を持ち大洋漁業天洋丸船団の南方カツオ・マグロ漁へ十五開洋丸を出している。この船団は新潟、秋田、宮城、山形、八戸と優秀船五十隻をかり集めているが、同氏はこの出漁船団の理事を務める。
このところめきめき頭角を現してきた杉本大福氏(四七)はトロール船第十五みなと、北洋サ ケ・マス独航船第二十みなと丸、メヌケ刺し網第十一みなと、イカ釣り第二、第二十一みなと丸の五隻を持つ。大漁業の北洋サケ・マス独航船からイカ釣り船まで幅広い経営ぶりで、その新感覚による多角経営は定評のあるところ、次代の八戸トロール業界を背負って立つホープ的存在で、根っからの漁業者としての雰囲気が親しまれている。
トロール業界若手第一人者の尾崎鉄也氏(二九)はまったくの魚男だ。捕鯨船を除いたイカ、サバ、イワシは勿論、マグロ、トロールとすべての船に乗りまくり、若者らしいエネルギッシュな 行動の人、トロール船第二十、第二稲荷丸を率い弱冠二十五歳で業界にデビューした独立独歩の男だ。そして三十四年には百八十㌧の大型トロール船第二十五稲荷丸を建造するという離れ技をやってのけた。狭い日本の海だけでは物足りないと、三十三年九月には自費で単身世界漁業視察の旅に出て中南米を廻ってきた。
港のリーダー秋山魚市場社長、八戸地区漁連会長秋山皐二郎氏(五一)はミナト八戸を背負って 立つ中心人物。さる八月十日の八戸魚市場臨時株主総会で同市場社長に選任された。かねて唱え続けてきた漁業者中心の市場運営を実現し、株式会社ながら内容をオール漁連色に染め上げた手腕は理論家肌のこの人らしい。中型トロール船第三十五成田丸を持ち実力は八戸漁港のリーダーにふさわしい。
古いのれん島守氏
遠洋カツオ・マグロ延縄船団第三松福丸船主の 島守岩松氏(五六)は、八戸漁港育ての親の夏堀源三郎前八戸魚市場社長と同郷に近い八戸市烏沢の出身。十二歳で夏堀商店に入り、以来四十五年間魚一本に生き抜いてきた。夏堀、中石、町田の三商店に次ぐのれんの古さを誇る鮮魚問屋である。八戸市営魚市場鮮魚仲買の実力者でもあり、自慢の第三松福丸はミッドウエイから赤道直下までスケールの大きい操業ぶりで、県遠洋カツオ・マグロ延縄漁協組モデル船の一つに数えられている。
昭和三十六年は八戸は沸いていました。魚が獲れて獲れて仕方がないほど。海の幸が獲れなくなるなんて誰も考えていなかったんです。
続く