2009年3月11日水曜日

八戸及び八戸人8轟木小学校初代校長藤沢茂助後編



会津鶴ケ城落城時に藤沢茂助は三の丸不明口を守備(会津戊申戦争日誌より)、前号に掲載した鉄砲を城から政府軍に乱射した山本八重子は城を去るにあたり白壁に「明日よりは 何処かの誰か眺むらむ 馴れにし大城に 残る月影」と墨書、後に同志社を創立した新島譲の妻となった。
開城した会津藩士には過酷な運命、最後まで抵抗したことで懲罰が科され猪苗代湖のそばに移り三万石、本州最果て下北半島での三万石を取るかの決断を迫られた。猪苗代湖畔の三万石では食えないことは明白、山川大蔵(後・浩)、広沢安任、永岡久茂ら参事は下北での斗南藩の道を選択。明治3年4月18日斗南藩五戸旧代官所に藩庁を設置。この後、田名部に藩庁は移転。
会津藩士たちは薩摩兵に家を空け籠城した折り、空家から家財、書画骨董、金品を根こそぎ略奪された。薩摩兵はそれらを荷駄につけ福島方面で金にする。会津藩士の胸に薩摩の暴挙がしまいこまれた。
明治三年、春から十月にかけ会津藩士とその家族一万七千三百余人の移住を海路と陸路で決行。薩摩の兵に略奪され、まさに着の身着の儘(きのみきのまま・着ている着物のほか、何物も持っていないこと)。老幼をふくめての徒歩にての旅は難儀を極めた。藩士の中には鶴カ城のような城勤めが再び出来ると信じて移住したものもあろうが、五戸には代官所、田名部にはまったく何もない原野、武士を捨て百姓になる以外に生きる道は閉ざされた。士農工商、武士が搾取するために作った
身分制度、つまり差別が我が身を襲う屈辱は想像以上のものあり。
武士が刀を捨て鍬をもち、糞尿を撒くは死ぬより
山川浩屈辱、しかし、それをしなければ食えぬ、扶持が出るはずもない。現今なら会社倒産、残党はむつ市の原野で開墾しろ、給料は出ない、自分たちで自給自足せよと言われて、誰がその地にしがみつく者があろう。ところが、この困苦を克服し、地の塩として生き抜いた者たちがいた。それが藤沢茂助であり広沢安任であった。
明治四年、廃藩置県、新政府から食えないからと米を二度に渡り借りるが、それを金に換えるも、寒さと貧困で、移住者の多くは会津や全国に散った。大参事山川浩もその一人。早々と東京に去り、多くの会津藩士を困窮の淵に追い込みながら逃亡。そして明治政府に職を得る。明治六年陸軍省に勤務し陸軍中将にまでなるが、斗南藩士を窮乏に追い込んだ責任とらずして、何の栄達、明治七年の佐賀の乱(佐賀の不平士族が江藤新平・島義勇をかついで蜂起した事件、士族反乱の最初のもの。政府軍に敗れ江藤らは処刑された)鎮定に出て左手に負傷、明治十年西南戦争では激戦熊本城に入城し政府軍を援助、さらに進撃し仇敵薩摩を落城させる。十年の遺恨を晴らした。しかし山川は困窮の民を捨て我が身ばかり助かっても卑怯、臆病の誹り罵り(そしりののしり・大声で非難すること)は免れない。たとい西南戦争でどれほど勲功をとげたとしても。
次に、鳥羽伏見の戦いで鬼官兵衛と呼ばれた佐川官兵衛は斗南藩で百姓を続けながら、仇敵薩摩の報復の期を待つ。明治四年の廃藩置県で斗南藩は滅亡し、おのおのはたづき(手付き・生活の手段)
の道を探ることになった。懲罰の意味での明治新政府はやりすぎたの思いもあり斗南藩に救済米を出すが、もとより生活手段もなければ返済は夢の夢。これを斗南藩は踏み倒す。廃藩となれば取りようもなし。現在のむつ市から斗南藩士たちは、てんでに生きる道、食える道を探す流浪の民、明治六年、佐川は目処なく会津に戻る。が明治七年新設された東京警視庁は羅卒を巡査と改称、番人も巡査に格上げされたため、旧幕府奉行所の与力、同心等は番人は元は番太、番太郎と呼ばれ、長屋の木戸番、そんな細民風情と共にならぬと
佐川官兵衛退職者が続出。これを補うため警視庁は二千人の巡査を募集。これに佐川は斗南藩士を誘い三百名で応募。佐川は大警部(今の警部)として採用。機会到来、明治十年西南戦争では豊後口警視隊一番小隊長兼副指揮官として赴き、三月十八日、熊本県阿蘇郡二重峠付近で薩摩軍の砲撃にあい戦死、享年四十七。
さて、少参事永岡久茂は廃藩置県後、青森県庁田名部支庁に勤めるも明治五年に辞して東京浅草菊屋橋(現在のかっぱ橋商店街)に居住、湯島天神下で私塾を経営。赤貧洗うが如き生活。(せきひんあらうがごときせいかつ・極めて貧しく、洗い流したように所有物が何一つないさま)ここまで追い込まれると、人を呪うようになる。我が身のままならぬを、世間のせいにすりかえる、まして昔年の恨みのある新政府に、永岡の凄いところは、薩摩だ長州だではない、政府に対しての憤懣と化した所にある。
 今我らの窮するは奴らの会津に対する陰謀によるものと、竹林に伏す虎のごとく、浅草の市井(しせい・人家あつまる所)にありながら、じっと機会を窺っていた。
明治九年、十月、維新政府に不満を抱いた前原一誠が挙兵、県庁を襲い山陰道から中央に出ようとした萩の乱に呼応し、千葉県庁を襲い佐倉鎮台の兵を利用しようと計画。
警視庁史には以下の通り。新政府に対する反感は、佐賀、神風連等あいついで騒乱となってあらわれたが、その後もあとを絶たず、旧会津藩士永岡久茂等の一派もまた同様で、かねてから前原一誠と気脈を通じ、もし事をあげる場合は、東西相呼応して蹶起(けっき・おもいきって行動する)すべく、同志とともに本郷湯島天神下で手習い師匠を装い、機会を窺っていたところ、明治九年十月二十五日、萩の前原から「四五日ころ開店、錦の店開く」との電報に接し、いよいよ決行と千葉県庁を襲い公金を奪い、茨城、栃木で同志を集め新潟に至り前原と合流し反旗をひるがえすべく、十月二十九日夜、井口新次郎、竹村俊秀、中原成業等十数名の者を芝山内に集め、ここから日本橋小網町一丁目思案橋際の陸運会社出張所武田喜右衛門方に向かい、下総登戸行の舟を仕立てさせ、出船の用意中、挙動に不審を感じた船頭がひそかに交番に訴える、巡査はただちに本署へ連絡、寺本義久警部補、河合好直二等巡査、木村清三、黒野巳之助三等巡査を現場へ急行させるも、永岡一味に近づくやいなや、賊は洋傘に仕込んだ白刃を不意に抜き一刀のもとに寺本警部補は即死、河合、木村も斬られ倒れるも黒野巡査は難を逃れ本署に急を告げる。現場へ急行し岸を離れる瞬間舟に飛び乗り、六名を捕縛、他の者は逃走したため警察は数隻に分乗し追跡、午前三時ころ、深川区上佐賀町一丁目で五名の暴徒を乗せた舟を発見、仙台堀に逃げるを水陸から挟撃、賊は「寄らば斬るぞ」と大声で叫びつつ万年橋へと向かう。ところが観念してか脱刀し降伏、逮捕を免れ逃走の横山俊蔵、中原成業はその後東京で、松本正直、満木清繁は新潟県で逮捕、明治十年二月七日に処刑。永岡久茂は巡査と格闘中、闇夜のため仲間に腰を斬られ明治十年一月十二日獄死、享年三十八。
佐川、永岡は薩摩に、新政府に一矢報いん(いっしむくいん・相手から受けた攻撃・非難に対して、わずかであっても反撃し反駁・はんばくを加える)と機会を窺い、いずれも成功はせぬが、武士の面目躍如(めんぼくやくじょ・大いに面目をほどこすこと。いかにもその人らしい特徴が表れ、世間の評価が高まるさま)。山川のようにひたすら官に属することを嫌い、仇敵を逃さずあまさず必ず喉笛に食らいつき、必ずや息の根をとめるを志すのが武士道。
武士道とは死ぬことなりとみつけたり。もし図に外れて生きたれば腰抜けなり。佐川、永岡は不滅の侍魂なり。
地の塩になった人々
少参事広沢安任は多くの会津藩士を斗南の地にひきずりこみ、流浪の民としたことに責任をとることは、この地で成功することと、十和田の開拓に力を注ぐ。それが牧場経営、この人のことは八戸人はおおよそ知っておられるので省略。
明治五年、流浪の民は三本木に流れ着く。金崎に大宮蜂太郎ら四七戸、八戸通り、深瀬透ら三一戸、並木、渡部彦多ら四一戸、小稲、松田幾弥ら四九戸。
そして藤沢茂助の名をここに見つける。
藤坂村六日町山に長屋が五十二戸建設され、田名部斗南ケ丘、五戸、三戸から移住者男九七、女一一五が入居。
芦沢 勇 荒川テイ 猪狩織之助 猪狩景三
石井政庫 石川作冶 伊南源助 井上熊太郎
岩田勝冶 岩田栄吾 内田 保 大場小右衛門
小沢すえ 風間久蔵 柏谷始 川村たせ
木田虎次郎 熊谷源七郎 沢井源六 宗方善九郎 白岩吉四郎 須貝りつ 薄 倉吉
鈴木彦太郎 諏訪光久 千里富次郎
相馬繁 高木盛徳 竹村髭翁
田中豊冶 谷川八郎 保志勝平
戸枝逸作 中田豊次郎 中村至
長山冶八 服部四郎 林えん
樋口幸三 樋口孝麿 日向虎五郎
日向初次郎 平田力之進 藤沢茂助
本○政治 松村貞之助 村松八太郎
森 政治 山田栄太郎 山田貞助
吉川良蔵 渡辺松次郎
藤沢が田名部にいたかの確証がつかめない。しかしここに来た人々は五戸、三戸とあるので、逆に藤沢はこの三カ所の内にいたことは間違いない。
百石小学校のことの中に、明治二年の頃、三戸郡新田に移住せし旧会津藩士原田武平氏をまねき、当村西舘三平氏宅を借り、弟子十三名に手習い読書を教授せりという。当時弟子一人から月謝として米二升、年に炭一俵、薪一間、明治四年旧会津藩一ノ瀬浦勢(女子)を招き弟子十四人に読書、裁縫を教授、三戸郡鮫村に転ぜしより、明治六年十月、旧会津藩士丸山主水氏を五戸より招き、昆伝之進別宅で筆道と読書を教授、三浦儀助、川口要之助、昆伝之進らが師匠住宅、及び教室二棟を建造し生徒二十名を教授。明治九年十二月上明堂に仮校舎を築き百石小学校として開校。
明治五年学制施行前の寺子屋
五戸 内藤信節 田子 根橋伝吾 新郷 井関挌斎 百石 丸山主水 三戸 上島良蔵 猿部 大垣義五郎 野辺地 安積泰助・土屋勝之助・  佐瀬義之助・堀恒介 鰺ヶ沢 北原房夫 岩崎村 神指某 十和田 柴宮源右衛門
藤沢の場合は轟木の鈴木徳弥が五戸の寺子屋、霞道場に通い藤沢を知り、父、清麓に藤沢を招くように懇願。市川村字高丁場に十四坪の仮小屋を建て轟木の寺子屋として発足。明治九年五月五日、轟木小学校として児童男六十七名、教員一名で開校。同九年九月市川村字新田村風穴小四郎地内に校舎新築移転、同十四年新田村八番に新築移転、同二十年轟木尋常小学校と改称。
同二十四年十月藤沢茂助没。享年六十二。
轟木墓地に埋葬された。この折り、薫陶を受けた生徒が喜捨を集め建墓。
戒名、慈学院恵與積植徳本居士
喜捨を募った人々は、発起人・鈴木徳三郎・卯之吉・均・松之助、奥寺忠助、風穴卯之松、松橋末吉、浜栄助、川村徳松・榮太郎、谷地万治、小笠原清三、向谷地篤助、福太郎。
生徒・鈴木市太郎・吉三郎・友吉・直吉・徳次郎・卯之松・清八・吉蔵・留吉・福太郎・清吉・此吉・参佐男・兼太郎・岩松・三蔵・長太郎・宇吉・倉之助・福松・忠次郎・吉蔵・吉松・熊吉・松太郎・辰太郎・岩冶・吉助・大次郎・芳三、奥寺儀助、小野寺久五郎・秀冶、風穴正記・鉄之助・直吉・勘之助・亀松・石松、浜喜之助、留吉、元八、田島吉太郎・幾太郎、川村石松・石蔵・円之助・福松・兼次郎・初太郎・己之、向谷地善松・元松・福松、小笠原太郎。
総喜捨額、十三円四十七銭
教え子の中から奥寺忠助、浜栄助は村長、鈴木卯之吉は市川村の学務委員、今の教育長を務めた。この墓は昭和二十五年に百石町浄土宗法運寺に改墓され現在に至る。
藤沢は自分の子供には教育より働くことを勧めた。四郎は五戸の菓子屋に修行に出た。当時の五戸の菓子屋は尾形直、岡村、岡清、赤寿、中村、清川、福田、福村、奥寺とあるがどこかは不明。
明治五年に学制がしかれ藤沢の寺子屋は小学校へと変わった。百石小学校のことを見ても、寺子屋経営で十数名の子弟相手に教授しても食うがやっと、子を育て会津日新館、江戸昌平黌などの学問を身につけさせても、激動する世の中、何の役に立つことかと、我が身をふりかえり痛切に感じたのだろう。
人が人として生きるにはなまじな学問より経験がものをいうと悟った。六日町山での開墾の折りも、付近の農家の女を師として農業を学んだ。一年に一度の収穫、額に汗し原野を開き、畑にしても何を何時撒けばいいのか、それをどう育てるのか、武士が刀を捨て地に生きることの難さを我が身で覚えた。
しかし、その学問が藤沢茂助を救った。寺子屋教師として、それが時代の波で小学校になり、新政府から給料を得る。全国一律の教材、指導法を確率するため、教師の側も都度試験があり、それに合格すると報酬が上がった。その免状も四年間有効の期限付き。更に上級を目指さなければ昇給はない。現今の教師のように一枚の教員免許状で生涯食える保証はない。
時代の波に翻弄され、新政府と戦い、斗南藩と命運を共にし、青森県の地に足踏み込み、畑耕す鍬を捨て、轟木の地にて人を耕す。たずきの道を得、我が子等を育て、安息の日々を送る。不平も不満もなく教鞭をとり、轟木の地の塩と化す。古人も多く旅に死せるあり。茂助の旅はここで終えた。 娘が百石の寺、法運寺に嫁いでいた。この寺は毎年八月六日、七日の両日に死者の霊を口寄せするというイタコが集まる。下北の恐山、津軽金木の川倉地蔵とならび日本三大イタコ霊場の一つ。法運寺は浄土宗、百石の住民のほとんどがこの寺の檀家。
倅、四郎はその縁で百石に菓子屋を営む、その店の始めはこの法運寺の門前、そのため門前の菓子屋と呼ばれた。藩政時代、五戸には代官所があり繁栄の地、そこで菓子の修行、近在の人から支持を得て商店街へと店を並べる。弟、六郎も菓子業を営み共に、明治、大正、昭和、平成の現在も堂々看板を掲げる。その繁栄を見たのが写真の茂助の妻みね。
四郎の倅、茂十郎が家業を継ぐようになるが、この茂十郎が修行に出たのが八戸、老舗が揃った 町、嘉永三年創業は八日町の立熊、安政二年は湊の武尾万寿堂、二十三日町、柴幸、安政四年、鍛冶町の鹿島、安政五年、十六日町のたけや、慶応元年が十三日町の清馨堂村福。
二代目は一番古い立熊で修行した。
三代目は啓次氏だが、兄の真一さんは、十六日町のたけやに修行に出たが、満州で戦死。上写真はたけや主人家族と奉公人たち。
茂十郎さんの女房は十和田の人、名をヨネ、働き者で気が優しい、その息子三代目を継いだ啓次さんの所に八戸吹上から嫁に来たのが、またもヨネさん。二代に渡り嫁さんの名がヨネというのも珍しい。
このヨネさんが実に働き者、昭和二十五年に嫁にきてから一日も欠かさず五十五年間、店番から倉庫にしまう粉に小豆と懸命に働き通す。そして、今なお店頭に立って「いらっしゃいませ」と笑顔で応対。主人が生きていた時は主人を引き立てるように、主人が亡くなった今は、少しでも足手ま といにならぬように、そして代々続く藤沢菓子屋が少しでも繁栄する役に立とうと、家族でがんばってます、でも、年々重い物が持てなくなり、忙しい時は朝四時から起きて働きますが、目がかすんできたりして、いやいや歳はとりたくありませんと笑う。
上写真は子福者、茂十郎さん一家、手前右端が吹上から嫁に来たばかりのヨネさん。左端がご主人の啓次さん。この人とヨネさんの汗を流し藤沢を支えた話が幾つもある。昭和二十七年に開発されたのが軽のトラック、バンメーカーはダイハツその名もミゼット。これがあれば商売も盛んになると、車を買ってから免許を取りに通ったのがヨネさん。昭和三十二年に免許取得と、時代を先取り、そして店番から配達まで一人でこなす。昔の人は働き者。
現当主、茂登氏が四代に渡る藤沢製菓を牽引する。この人は東京の菓子作りを教える専門学校に入り、そのまま教官になるほどの腕前。製造方法 などに独自の技術を生かす。
右写真は働き者ヨネさんと店、車がダイハツミゼットのバン。共に居るのが四郎さんの弟、六郎さんの妻、フルヤキャラメルの文字も見えるところから、菓子総合を扱っていた。ドブふさぎの石、道路はまだ未舗装の模様。百石の時の流れを感じさせる。昔は割烹着(かっぽうぎ・料理や家事の際に着物の上に着るうわっぱり、エプロンの大きな物)をきていたもの。このヨネさんは五月号紹介の中山千里氏の姉。銘菓「百石栗」、大きな栗がごろっと入る青森県を代表する菓子の一つ。将棋界の十五世名人大山康晴を記念する焼き菓子王将はイチゴ味で有名。藤沢製菓に支店が小中野にある。ヨネさんの娘さんが経営。名を太郎庵、八戸人にも「百石栗」を味わっていただける。会津から流れ、地の塩になり市川の人々を薫陶した藤沢茂助、そして菓子業を渡世とし四代に渡り人々から愛され支持される藤沢製菓、一族の地域への貢献の不思議さを見た。(終)