2009年3月9日月曜日

八戸及び八戸人13 この道一筋四十年、日本の宝を生み出した大川みほさん

東北の片田舎八戸に功成り名遂ぐ(こうなりなとぐ・手柄をあげ、名声も得る)秘密の場所があるとしたら聞きたい聞きたくありません? 大きな声じゃ言えないけど小さな声では聞こえません。その場所は八戸のウルスラ学院音楽科。ここは日本一への登竜門。でも知っている人は一握り、知らない人が多いからこそ登竜門なんです。
 ここで四十年教鞭をとり続けられたのが大川みほ先生、旧姓は西田みほ、青森県は下北郡川内町で誕生されました。これを義太夫風に言えば、
「父の名は要一、母はひでと申しまする」「して父母の仕事はいかに?」「あいあい、共に教師でござりまする」「すると転勤族で、そちはいかほど苦労しやったか」「小六の頃、父母は転勤し山の奥、残された兄妹は祖母の家にて下宿住まいで ござりまする」「エ、エエッ、幼い頃より苦労を味わい、辛いことであったよナ」
この少女は父親が呪文のように「音楽の教師になれ」と言い続けました。、それが見事成就となりました。青森高校に進学し弘前大で英語にしようか、それとも音楽とお悩みになる英才です。そこで父親の言葉が生きました。音楽はピアノをとりました。でも、やはり声楽と思い直して発声練習。 ピアノはそれなりに楽しいんですけど声楽は楽器を運ぶ手間がいらないだけ便利でもあります。ただ自分が楽器のため、絶対音階を擦りこむ時間はかかるんです。でも、弘大生の西田みほさんはそれを苦もなくこなしまして、仲間と音楽のツアーをして歩きました。
もっとも、この西田さんが在籍していた青森高校の生徒たちは少々ならず図々しいところがありまして、大川先生の生まれ故郷の川内町に高校生の身で音楽会を演奏に出かけるんです。好きなことして人に喜んでいただけるを体で覚えると、 その道にどっぷりはまります。
大川先生は前列右四番目、麦藁帽子を手にされておられます。通りを歩いている人は下駄ばき、古き良き時代でした。これは高校の頃のお話です。大学時代はおおがかりになりまして、県内をくまなく廻りました。先生は中学時代から音楽に親しんでいましたが、なにしろ一九四三年生まれでおられます故、川内中学の音楽部では木琴を担当していたんです。エッ? 嘘ではありません、証拠の写真が次ぎです。なにしろ先生は戦時中に誕生されましたから、そうしたこともあったんです。なにしろ戦争に負け、アメリカ兵が進駐してきて、基地の傍の質屋に壊れたと称して不正に軍隊から持ち出された楽器がピカピカ光って陳列される以外にヤマハも日本楽器も製造しません。宮田ハモニカが唯一の子供の楽器、それを口に当てているんです、曲目は何でしょう、昔のことですからNHKのラジオ歌謡曲でしょうか。
そんな少女時代もありました。昔は、東海道線の浜松駅に「ハモニカ」娘が駅弁の代わりにハモニカを売っていました。それを作ったのが浜松の河合楽器です、昭和九年からハモニカを製造し、戦争も終え人心が落ち着いてきて、楽器を演奏する余裕も出てきました、ピアノの河合はこれで大儲けです。世の中は良くしたもので、辛く厳しい時代を経てこそ、喜び輝く時を味わえるもの、平々凡々に過ごすと人生の機微(きび・容易には察せられない微妙な事情・おもむき)を知らずに年を重ねてしまいます。
人間という者は平々凡々に大過なく人生を送る者より、苦しく辛い年月を重ねた人こそ、チョットした人情にも喜びを感ずることができるようになります。だからこそ、他人の境遇境涯にも同情し、共に涙を流し、
「そして、でもね、ここでへこたれちゃダメ、あんただからこそ出来るの、私には判る、だから、もう一度ここやりなおそう、サア、元気を出して もう一度」
大川先生はこう言って門下生を励ましていませんか、あの人はそうした人です、これを仏門では観音力と言う言葉で呼び、キリスト教ではマリア様のような、と言う表現を用います。これが長い間生きていく、いえ、生かされていく上で、数少ない者に許される希な力なんです。我を忘れての言葉があります、我が身をかえりみずの言い方もあります、人の世に生きていく上で、金の苦労に人の苦労、いくつもいくらも乗り越えなければならない人生の山坂、もしお金があったら、この子にしてあげたい、大川先生は何度もこの言葉を呟くけど、金の苦労はまた別の世界、ここで教師はつまずくんです。したい、させたい、してやりたい、でも、どうしても手を差し伸べることの出来ない事もある。それでも先生は言います。
「サア、元気を出してもう一度」
そうなんです、人生に二度はありません、たった一度の人生、まるで方向の見えなくなった夕暮 れの道、なんかの拍子につまずき転んで、泣きじゃくる、黄昏時(たそがれどき)は誰でも忙しく、他人のことは見ても見ぬふり、サッサと行き過ぎるだけ、でもネ、元気を出して起きあがり、体についた泥と埃を叩いて落とし、もう一度頑張ることは出来るんです。
けれども万人にそれは許されてはいないんです。ごく限られた、自分自身が何者であるかを見定めることの出来る信念と執念のある者にしか許されてはいないんです。
大川先生の登竜門に音楽に目覚め、何人もが足を運んできます。何に一つ非のない、つまり可も不可もない恵まれた家庭の子女は、人生の蹉跌(さてつ・つまずき、失敗)を味わうことなくノンビリと過ごしてきました。だから大川先生の厳しい指導に音をあげる。せっかく登竜門にとっつきながら激流を昇りきれないのです。登竜門を解説すれば、卑弥呼が出てくる後漢書東夷伝と同じ頃、後漢書党錮伝に、こう書かれてあります。黄河中流にある急流で有名な竜門、ここを登った鯉は竜になる。これが登竜門の語源、困難ではあるけど、そこを突破しさえすれば立身出世ができる関門。富裕な子弟はこの大川みほの激流に音をあげるんです。ここを嬉々として渡る者はいません。でも、辛さに耐えて耐え抜いて渡った竜女たちが出たんです。
そのうちの幾人かをご紹介します。最初は加賀ひとみさん、この人は幼い頃からピアノを練習し、音楽の道に進むと決めていた訳ではありません。宝塚にあこがれ、バレーをしていれば宝塚に入れると漠然と夢見ている少女でした。ところが中学時代に足を痛めて、医者から体操をしないようにと指示がありました。そして高校受験、そのとき母親がウルスラの音楽科は一年間体育の授業がないからと勧めました。世の中はヒョッとしたことから人生が大きく展開していきます。そして声楽の鬼とまで呼ばれる大川先生と巡り会います。自分の信念を貫き、子弟を必ず一人前にしようと使命感に燃える大川先生の言葉は高校生には刺さるように痛いんです。加賀さんはそれに耐えながら教えられたことを体に刻み込んだのでしょう。その時は嫌だったのかも知れません。宝塚に行きたいという夢は現実の前には雲散霧消します。いいえ、この加賀さんに素質がなかったのでは決してありません。
人生は運なのです。縁がないものは運んでいただけないものなのです。そうなんです、運はみずからを運んでいくのではなく、満潮の汐がみなぎってくるように我が身が運ばれていくものなんです。
世の中、運がいいとか悪いとか、あたかも自分の意志でことが成就するようなしないような表現が曖昧に繰り返されたりするものなのですが、本当は満潮の汐のように我が身は翻弄(ほんろう・思うままにもてあそぶこと。てだまにとり、なぶりものにすること)されるだけなのです。でも、わずかなりとも自分の意志がそこに介在するような自尊心だけが運は自分の意志でどうにかなると耳元で囁きますが、なぐさめ以外の何物でもないんです。
加賀さんは九人いると伝えられる知的活動の女神ミューズに運ばれます。この神たちに見こまれるとどうあがいても逃れることなんかできないんです。次第に音楽の楽しさに目覚め、加賀さんは芸大進学を決意します。そして受験、でも失敗してしまいました。何ごとにも興味を持てず、浪人と称して東京で一人暮らしを始めます。両親の仕送りを得ながらぼんやりとしているうちに、アルバイトを開始、それはそれなりに面白く、月日の経つのも夢のうち。気づけば東京でも一、二と呼ばれる百貨店のブティックで楽しく働いていました。それはそれで楽しいのですが、何かもの足りなくて、その頃知り合う友は、皆音楽関係の人ばかり。三年も受験から経過していたんです。歌謡曲の歌手たちを集めるプロダクションの人に、思わず自分の境遇境涯を語っていました。
ミューズの神の作用なんです。すると、その人は大学進学を勧めました。ブランクがあるのに、でも、どうしたらいいかしらと、加賀さんは受話器を挙げ、大川先生に電話をしていました。あんなに厳しく、あれほど辛い時を送った大川先生に思わず知らず電話をしていたんです。
大川先生は「どうしてたの」と心配してくれました。その言葉を聞いてどんなに胸が熱くなったことでしょう。そうして受験を喜んでくれました。先生に歌を聴いていただき、三年半も音符も見ずに暮らした加賀さんが、心機一転また音楽の世界にのめりこんで行きました。今度は時間がなくてダメでも必ず合格できるワ、と大川先生は励ましてくれました。それは満月が大きく空に確かな位置 を占める、葉ずれの音もさわやかな空気の澄んだ秋のことでした。それから死にものぐるいの勉強を開始し、何と見事に芸大に合格したんです。三年半の空白は加賀さんが一年に合格した時、下級生の林満理子さんは四年生、それでも加賀さんは希望に燃えていました。ミューズの神に微笑まれた人は、どんな紆余曲折(うよきょくせつ・事情がこみいっていろいろ変化のあること)があろうとも必ず願いは成就するように出来ているんです。その後、芸大の大学院に進み、今は美貌とメゾソプラノを生かしオペラの世界の主役を努め大きな花を咲かせるようになったんです。
大川先生は人を育て伸ばす天賦の才があるんでしょう。それも、その道の一流へと導く偉大な力が…。
オペラの開始は日本歴史では秀吉の時代、刀狩りが行われたころです。世界に通用する日本の代表的女性歌手は三浦環(みうらたまき・東京生れ、東京音楽学校卒。帝国劇場歌劇部に入り、のち欧 米各地で歌劇「蝶々夫人」などに出演、国際的な声価を得ました。この三浦環もお嬢さん育ちで女学校の教師に才能を見いだされ進学を決意しました。親は婿を貰うことを条件に進学許可、滝廉太郎に師事し、明治三十六年、日本初の歌劇「オルファイス」の主役をつとめました。卒業後、離婚、再婚という試練をへて欧州へ勉学に出ます。俗に言う洋行です。ロンドンで実力を認められ、アメリカで花を開かせ、蝶々夫人の作曲家プッチーニから「世界唯一、理想的な蝶々夫人」と賞賛されました。なんと名誉なことでしょう。ここでも、女学校の教師が重要な役割を担っています。人生は人間対人間の真剣勝負の場、もし、環の女学校の先生がいなければ、世界のプリマドンナ三浦環は誕生しなかったんです。
ここに人生の不思議さを感じませんか、加賀さんが大川先生と出会うことがなかったら、バレーで足を悪くしていなければ、ウルスラ高校に進学もしていないんです。加賀さんの人生を大きく左右させたものはミューズの神以外考えられますか。
芸大に進んだ林満理子さんも素晴らしい才能に恵まれた人です。松田トシ賞を受賞し大学院に進み長野県小諸高校の教師となり、生活を一応安定させ、山口大学に招かれ教鞭をとり、今年の十 月二日、東京で開催された「第三十六回イタリア声楽コンコルソ」で金賞を射止めるも、この人の実力から言えば少々不服があるんです。やはり小渡恵利子さんと同じ大賞を手にしてもおかしくない本格派なんです。時に人間には運が作用する事があるんです。でも、この林さんは努力の人、きっと大きな賞を手にすることでしょう。根城中の合唱部出身で声に透明感のある美人です。
さてさて、この大川先生が日本の宝を生み出したと書いたけど、いつになったら、その宝を見せるのと、気の短い人の声がきこえますけど、慌てることはありません、夜道に陽は暮れないと申します。ゆっくりとお聞きください。
その宝は倉石村出身の皆さんご承知の小渡恵利子さん。
この子には天性のものありと見通した大川先生は声を造る指導をします。ここが存外難関なんです。でも、見事に変えてきます、それも先生が理想と描く領域にまで。
声楽の鬼、大川とまで言われるほど、徹底した指導は受ける人物を大きくします。でも、それは辛さを辛さとして受け止めることのできる人だけが得ることのできる果実なんです。小渡恵利子さんの話は幾つもしなければなりません。この人は必ず世界に通用する歌手になります。三浦環をしのぐ歌手になることでしょう。この人の実力は世界レベルなんです。でも時折自分を見失って、どうしようと悩むんです。これは人間ですもの致し方のない部分なんです。この人は厳しい境遇に追い込まれました。親が事業に失敗し金銭的な悩みの中に投げ込まれたんです。本人は何の関係も ないんです、親の仕事上の事なんですから。でも子供というのは、そうした事を恥と受け止めます。金の世界は人間にだけ存在します。
大坂人は道ばたで「もうかりまっか」「ぼちぼちでっな」と言うのがしきたりのようなものですが、これも人間だからこそ、こうした会話をするものですが、犬が片足上げながら「もうかりまっか」とは言いません。なにしろ、犬の世界にお金はありません。どんなに気の利いた犬でも、毎月月給を拾ってはきません。
まして高校生の身でお金の苦労は死ぬほど辛く惨めなものです。月謝が払えない、未納者の名が掲示されるは耐えられないものですが、親権者ではない子供の身、平気の平左衛門でいればいいのですが、存外気になるもんで、学校中の人が皆知っているような気に陥ります。でもそうした苦労は本当の苦労ではないんです。人間死ぬ気になれば何でも耐えられます。小渡さんはそうしたことを若い内に体験し、克服する術を身につけたか らこそ、次々に押し寄せてきた悩みに、真剣にそしてうまくかわして行けたんです。
高校三年間は鬼の大川先生の指導が楽しく思えてくるほど、彼女は色々なことにぶつかったんです、でも歌を歌っているときこそ、これが自分、本当の自分だとの確信を得ました。
そして最初山形大学に進学し、一年後に芸大に入学しました。これにも少々事情がありました。どうしても現役入学でなければいけないという、今になって考えれば、なんだか良く理解できないような話だったんですが、小渡さんは寡黙に耐えるんです。二十歳になるやならぬ若者です、周囲の都合に振り回されてしまいます。そして更に自分を見失ってしまうものなのです。
でも彼女には天賦(てんぷ・天が授けた)の才能があり、それがたまたま殻に覆われて外に出ないだけなんです。大川先生はそれを惜しみました。でもネ、どんなに判っていてもどかしく思っても、一介(いっかい・たかだか、わずかな)の教師に 出来ることと出来ないことがあります。教師は自分の畑である音楽の指導なら、他に負けない自負(じふ・自分の仕事や才能に誇りをもつ)も矜持(きょうじ・自分の能力を信じていだく誇り)もあり、大川先生の熱心な指導ぶりは青森県のみならず中央にも轟(とどろく)くようになっていました。
そんな自他共に力量を認める大川先生でさえ、家庭が抱える悩みに首を突っ込むことはできないのです。ええ、おっしゃる通りなんです。そうした悩みは各自が解決しなければならないんです。でも、大川先生は指導こそ厳しけれど、母親が我が子の帰りを門口で待ちわびるような優しさがあり、それが大川先生を衝き動かすのです。その優しさゆえに卒業後の子女をいつまでも心の底にしまいこみ、時折どうしているやらと案ずるのです。だからこそ、加賀さんの時も、すぐ帰ってらっしゃい、いい方法を考えるからと適切で、それでいて情愛のこもった言葉がとっさに出てくるのです。
だからこそ、であるからこそ、先生の教職四十周年コンサートにも、世界のプリマドンナたらん小渡さんも、加賀さんも、林さんも、今回は時間の都合で詳しく紹介できなかったけど、遠く異国のパナマ国立大学芸術学部教授になられた中川昇子さんも参加してくださるのです。この中川さんは第三回生、家庭の都合でいったんは音楽の道からそれてしまいますが、持ち前の頑張りと不断の努力で自らの道を切り開いていかれました。それが、あろうことか、あるまいことか、日本で花が開くのではなく、中川さんの実力を外国の人が認めて、あなた以外に私たちの国の若者を導ける者は見あたらないと、固辞しつづける中川さんを説得します。相談を受けた大川先生は、「サア、元気を出して外国に骨を埋める気でおやりなさい、それほど認めていただけて、教師冥利に尽きるというものヨ」と励ましたんです。中川さんは今や押しも押されもしない国際的な指導者でありソリストなんです。
道が少々逸れてしまいました。大川先生の話はまだまだ紹介しなければならないことが沢山あります、紙面の都合で今回出演の一人一人について熱く先生は語られますけど、掲載枚数に限りがあり、ごめんなさい、掲載しなかった方たちを先生は忘れているんじゃないんです。
 そうそう、小渡さんは芸大に入り上浪明子先生に教えを請います。彼女の才能を認め上浪先生は腰の入った指導をされました。でも小渡さんは先生への謝礼が払えないんです。皆、誰でも一流を目指す音楽家は、これと目指す先生から個人指導を受けます。ちょうど武者修行のように、実力、ナンバーワンの先生に、一対一で奥義の伝授を得るんです。小渡さんは必死です。小渡さんの努力の真似は誰もできないかも知れません。授業の合間に築地の弁当屋で朝の五時から昼の一時まで働き通しました。すこしでも食費、学費を稼ぐ必要に迫られていたんです。誰も助けることの出来ない険しく胸を突く人生の坂道を小渡さんは必死で這うようにしながら登り続けます。なんで、どうしてそこまでしなければならないの? 小渡さんはこう答えたでしょう。だって、歌は私の命、私の存在そのものなんです。
 だから、バイトができずお金のない日は、小渡さんは行きたくても上浪先生の所にレッスンを受けにいけませんでした。行きたくなくて行かないは自分の意志です。お金が無くて行けないは辛いことです。
 上浪先生が大川先生に電話をかけてこられました。「大川先生、私も小渡がお金のない苦労をしているのを知っているワ、お金のことは心配しないで来るように言ってネ、あの子は私たちの宝ヨ、いいえ、あの子は必ず日本の宝になるの、私にはそれが見える。タダと言うと小渡のことだから来ないと言うワ、だから、出世払いということで大川先生、あの子に伝えてください」
 それからの上浪先生は小渡さんに自分の持てる物の全てを無料でお教えになられたんです。勿論、出世払いですもの一円も貰わずに…
なんと言うことでしょう、上浪先生は不治の病に倒れて、亡くなってしまわれたんです。
大川先生は泣きました、小渡さんはハンカチを固く握りしめて涙をこらえます。大恩を頂き、それを返す事も出来ずに黄泉の道をたどられた上浪先生に、どうして感謝の言葉を伝えればいいのか、小渡さんは葬儀の日に、大恩ある教師、上浪先生の柩に向かいアベマリアを心をこめて歌いました。お世話になったのは上浪先生ばかりじゃない、青森市で小渡さんが公演したとき、楽屋を訪ねて来た老婆が、こう言いだしました。これから貴女が着るドレスを私がプレゼントしますと。この人は衣装を造るプロでした。公演があるたび、約束通り仮縫い衣装が公演練習日に届けられ、そこに老婆が来て調整をし、それを本公演には間に合わせる神業です。いくつも造ってくださったんです。どうしておばあちゃんは小渡さんに造ってさしあげるんですかの問いに、「人生、一つくらい損得抜きで人に奉仕がしてみたかったの」屈託のない玉を転がすような笑い声が今も耳に残ります、エエ、その後、この方もほほえみを浮かべて亡くなられました。小渡さんに着きれないほどの量の衣装を残して…。
まだあります、十和田市のソロプチミストが婦人向上賞に、苦学しアルバイトを続けながらコンクール優勝を目指す小渡さんこそ、同会の日本本部表彰者に最適と推薦、これが認められ二年間奨学金が出ました。これを陰で画策されたのも大川先生でした。名前は明かせませんが、その外にも幾人もの方たちが…、青森県教育厚生会、倉石村も彼女に力を貸しました。さらに、八戸市の三八五貨物が引っ越しのTVコマーシャルに小渡さんを抜擢し安定した広告契約料を頂きました。これらは若い日々に、しなくてもいい苦労をされたご褒美にと天が小渡さんに授けたのでしょう、誰彼の別なく引き立てられ、好かれるのは小渡さんの個性以外のなにものでもありません。人生、楽は苦の種、苦は楽の種、まさにその通りじゃありませんか。
さて、いよいよ最後になりましたが、ここでウルスラ高校音楽科卒業ではありませんが、バリトンの福山出(いずる)さんを紹介して、大川先生の門下生の話を終えます。
 福山さんは工大二高卒、国立音大を卒業、テノールの錦織健と同門です。福山さんは芸大受験するもピアノで落ち、国立音大に入りました。テノールよりバリトンの声だと教授から言われ、二年半かけて声質を低音に作り替えます。プロはこうした努力を人が見ないところで必死にするものなんです。ここが並の人間と違うところです。
 この人の実家は新郷村、ええ、あのキリストの墓のある村です。なにしろ希有のほら吹きが新郷村にいたんでしょう。ゴルゴダの丘で殺されたのは弟で、兄はここまできて死んだという、あまりの誇大妄想にめまいがします。ここにバイテンという売店があります。ヤマザキのデイリーショップです。ここが福山さんの実家です。変わった名前です。つけた人の顔がみたいもの。上の写真のデカイのが福山さん、高校では柔道もされていました。今は二期会に所属しています。大川先生に、この人はどうですかと尋ねました。錦織さんより上に行けそうですかの問いに、ズバリ「福山君は錦織より実力はあります、期待できますヨ」と断言。あの、人を誉めないことで有名な大川先生が、福山さんに嘱望(しょくぼう・将来や前途にのぞみをかけること。期待すること)されているんです。私たちはこの福山君に期待しましょう。そして、大川先生の門下生たちの今後の展開を見守りましょう。幸い地元新聞のデーリー東北は大川先生の門下生たちへ熱い期待をかけてくれ、いつもそ の動静が手に取るように理解でき、ありがたいと感謝しています。声楽やオペラはどうも一般市民の関心を引きにくい芸術ではありますけど、こうして地道に多くの子女、子弟を育て続けた立派な教育者が八戸にいることを心の隅に刻んでください。そして願えることなら、これらの若者が日本を代表する声楽家となれるよう声援、応援をお願いします。小渡さんほどの大人物でもまだまだ生計は楽ではありません。他の者は押して知るべしです。長い間、声楽、音楽を通して多くの才能溢れる人々を世に輩出してくださった大川先生、ありがとうございます。そしておめでとうございます。貴女を、もしウルスラ高校が得なければ、こうした結実を見ることはありませんでした。更にウルスラ高校が大川先生を支持し、好きなように子女を教育させたことを喜びとします。この大いなる心がなければ偉大なる指導者大川みほ先生も存在しなかったからです。私たち八戸市民はこの目で、この耳でウルスラの活動をみさせていただきました。五輪の伊調姉妹を八戸市民の誇りとするような熱いものを… 本当に本当にありがとう。