時計の針はまだまだ五時をまわったばかりでした。お花見も過ぎたというのに、時には肌寒さも伝わる今朝、ゆうべ遅かった割に日差しが妙に心地よいのです。
ふと思い立ち、鍛冶町、片町の朝市へと足を向けました。ひとりじゃ嫌なので悪妻を無理やり誘いました。
数年ぶりで訪ねたそこには、まだ昔ながらの八戸がありました。
ちょうど陣形を整え終えたおばちゃんたちが、早々にお客さんをさばき始めています。長者のお山の方角から、カラスたちの鳴き声も聞こえてきます。
ふ~ん、おまえたちも起きてきたんだ。結構、早起きなんだね。
この界隈に約百人くらいの人たちが、朝の元気な挨拶を交わしながらひしめいています。と、狭い八戸ですよね、どっかでみたことのある人たちとすれ違いまました。親しそうに挨拶してくれたおじさんがいます。ごめんなさい、思い出せませんけど「あっ、どうも」と知ってたふりしてアタマを下げました。最近、こんなこと多くなったな。
「お客さま」というよりは「お客さん」といった方がぴったり。母親と一緒に買い物にきた娘さんまでが、たった今起きてきたばかりよって言わんばかりの素顔なのです。「私、お昼はランチよ」なんて気取っているOLのようには到底見えません。こんな気楽さが早朝の朝市にはあるんですね。
今日は休日。急ぐ必要はまったくありません。ポケットに手を突っ込んで、
ボ~ッとしながらヒトやモノを観察しておりました。
売り手がいて商品があります。ディスプレィとかプレゼンテーションにはおおよそ縁がなさそう。でもここでは夜も寝ずに自分で創ったもの、収穫したもの、そして仕入れてきたものなどを売り捌きながら、もう何十年も家を支えてきたお母さん、いいえかっちゃがいて、孫に小遣いをあげるのを楽しみにするおじいちゃんがいます。みぃんなみんな、真剣にものを商っていることには変わりないのです。
遠慮のいらない八戸弁が飛び交い、伝統の朝市は安さだけで続いていないことを、ほおかぶりした鼻の頭の汗が教えています。
「おらよ、こったらごどすて、ふごつこぎながら動げるうぢに片町さねまってるんだじゃ」と、無精ひげで前歯のかけた籠売りのじいさんがいました。顔はそうとは見えないのに、実演の籠編みの手はとても手早く器用です。
「いずだり来ても、はぁねぇんだ。今しがたまでズバッとあったんども、いづのまにが、ゲソッとなぐなってしまったじゃ」と意気まく花売りの少女ならぬかっちゃん。
「あんだぁ、足病めるってへってらんども、どごだりさ行がねで○○さん(お医者さん)で診てもらうんだ。あそごはいいってみんなでしゃべってるすけ」とお互いの健康を気遣うおばっちゃ同士。
そうです、片町には素朴な笑顔と活気の良い掛け声がありました。
市場はいつの時代もコミュニケーションの場でもあるんですね。
甘党の僕には好物の本物のよもぎ餅も売ってましたね。次々とバットが空になってゆくほどの繁盛です。分かりますか、二尺(約66センチ)ほどのスペースのお餅に、4~5人のお客さんが群がっている様を。もちろん、対面での販売です。
「おかあちゃん、そのよもぎ餅、おらの権利にしてけんだ」と思わず最後の二個に向ってくちからこぼれ出ました。
「ほれ、兄さん(うれしいなぁ!)こればサービスするすけ」と揚げたてのコロッケ。歩きながらほおばる行儀の悪さもここではつい許してもらえそうな片町です。
どっちが入り口でどっちが出口か知らないけれど、鍛冶町側からの入り口にやたらに笑い声の大きいお兄さんが焼くせんべい屋があります。この朝も厚めで生焼け風のおせんべい:てんぽを前掛けで手を拭きふき一生懸命焼いていました。このヒト実は知り合いです。彼って典型的な八戸弁の標準語を使います。
ここまで徹底している彼は偉い。逆にがらにもなく気取ったふりをしたがる僕には、とてもここまでは真似できません。気持ちだけはつい昨日、東京から帰ってきたんだよと言いたいんだけど、化けの皮はいつも簡単にはげてしまいます。
真っ黒い生イカを売ってた日焼け気味のおばちゃんでした。
「どうもありがっと。それだば刺身にいいよ。またおよりあんせ」
ふ~ん、またおよりあんせだって? 母が元気だった頃、時々使ってたな。なんとなく懐かしさが込み上げてきました。
そしてあれって思ったのです。これって八戸弁でも敬語だよなって・・・。
最近では港八戸をピーアールするポスターなんかに使われていることば「おんでやんせ」これも同じように敬語ですよね。
およりあんせもおんでやんせも丁寧語。日本各地に方言は多いけど、今まで方言の中に敬語が使い分けられていたと感じたことはありませんでした。
もしかしたらどこでも同じような使われ方をしているかも知れないけど、なんとなく八戸で生まれ育った者には、ほんのチョッピリでも誇らしさが込こみあてきたのです。これっておかしいですか?