人生は嫌々生きても楽しくない。スーパーに勤務している若い人にその顔をよく見る。織田信長に仕えた猿、秀吉は胸に草履を暖めた。どんなにつまらぬと思える仕事も、させてもらえてると思えば工夫が出る。
くだらぬ、つまらぬ仕事だと誰が決める。皆、己が決めたこと。他人からアアだ、こうだと言われて、いちいち己が行動を決めるか? 決めまい、己が信念に基づき行動は定まる。人生はただ一度の場、何を考えたかが問われるのではない、何をしたかを問われる場だ。
売市、大橋、かっては馬車曳きを嘆かせた険阻な坂、そこに三浦輪業あり、三代に渡り八戸人の足代わりとなる銀輪を渡世とす。
三代目を三浦健至、客の役に立とうの心が面に現れる。仕事が出来る喜びを知る男。人生の達人の部類、今、日本は四十代がしっかりしている。発想が柔軟、行動は手堅い。今後二十年の日本は安泰と見る。
三浦輪業、初代を三浦清三郎、明治四十一(1908)年、八戸の馬喰の家に生まれた。十三歳のおり自転車競技に出場、随分と昔から自転車競走があったもんだ。見てくれ、次ページ、右から三人目のチビが初代だ。よく見るとこのチビだけ自転車を持ってない、きっと誰かから借りて走ったこった。家が貧しく自転車が買えずとも、やる気があれば誰かが見ているもんだ、あやつは見込みがあると…。
ついでに自転車の歴史をひもとく。明治初頭自転車が輸入され鉄砲鍛冶の宮田が製造開始。宮田は明治十四年に京橋木挽町で宮田栄助が銃作りを開始、業績は伸び明治二十三年に本所菊川に工場を新築、そこで日本初の自転車製造を開始。自転車は思いのほか売れ、本業の銃を投げ捨て、自転車一本で立つのが明治三十五年、名も宮田製作 所。
当然、三浦清三郎も宮田に乗ったのだろう。自転車競走は自転車が発明されてすぐに始まり、長距離化、1903年、ツール・ド・フランス開始。1日に500kキロも走る区間もあり耐久レース。舗装路の普及で、速さを競うようになる。 明治三十一年(1898年)、上野は不忍池で大日本双輪倶楽部が主催した日本人初の自転車競走会。当時、自転車は高価、貴族や財閥がスポンサー、選手は商社の宣伝用ジャージを着て走り、日当を受け取った。今から百年も前に現在のツール・ド・フランスが日本にもあった。戦争に負け焦土になった町々で競輪を開催、そのカスリで町を再建させよう、復興させようと自転車競走が実施された。ここで競輪の名が登場。何のことはな い、市町村が胴元の博打だ。賭博は法律で禁止、国がやれば罪にならない? どうなってるんだこの国は。
この初代は突拍子がなく、自転車競走と共に東京に行ったとヨ。十三の子供が競技開催者たちと一緒にウロウロする図を思い描いただけでも、こりゃ可笑しい。その後がどうなったか判然としないが、いずれ自転車とは切れない仲、どこぞやの軒下で油まみれになり、自転車の尻でも撫でながら修行してたんだろう。大正十三年(1923)、関東大震災にあい二十歳の頃(昭和3年頃か)八戸に戻った。そして嫁にツナさんを貰い新組町で自転車屋を開業、昭和十年までここで踏ん張り、商売も軌道に乗り、今度は二十三日町の丸一家具の左隣に移転。
上の写真、気のよさそうなオッカサンがストーブの前、店員さんの働く姿もあり、八戸戦前の一般的商家風景。道路面にはガラスを横に三枚か四枚入れた引き戸、冬以外は日中、これを外して家の横にしまいこみ、上の写真のように開放的空間を作る。小僧は大変、朝になりゃ開けて、夜になりゃしまいこむ、又、にわか雨でも降りゃ仕事は増えるばかり、それにブツブツ言えばおしまい。何でお終い? 仏(ぶつ)がでりゃ人間もお終いだヨ。当時八戸の自転車業界はと見てあれば、八日町に安藤自転車、明治四十年創業と最古、富士自転車をよく売り、当主を姓は安藤、名を晋吉、今は自転車のタイヤを売らずに河内屋の駐車場でタイヤキ売ってるゥ~。小中野には船場、南横町の安藤、湊に月館、吹上に横浜、朔日町に清川、 田幾の田中幾、十六日町の亀橋、寺横町の勝輪の阿部、二十三日町尾形、番町のノーリツの木村、宮田の自転車に強い二十六日町の村井自転車は当主を村井文次郎と多士済済(たしせいせい・すぐれた人材が多くあること。たしさいさいとも言うがただしくはせいせい)。当時は自動車はプロのもの、今のような自動車社会悪の時代と異なる。当時の自転車は今の自動車販売会社と等しく、見てるだけでも楽しい存在。ぞんざいに扱う現今とは隔世。
世の中は金と女は仇なり、どうぞ仇にめぐり会いたい
で、どうしても金回りのいい方に気が動く。初代はそれに敏感だったんだろう。銀輪だけに廻りがいいカ。ところが現今はアジアの労働賃金の安い物に追いまくられ、ホームセンターの方が安い自転車を持つ。八戸の自転車屋の数も激減。宮田自転車も今は消火器屋に変わり自転車は申し訳程度のほんの少々。
初代の清三郎は六人の子福者(こぶくしゃ・子供を多く持つ仕合せ者)、最近は子供の数が少なく、この言葉も死語。三人が男、三人が女、繁、勝也、松三郎は皆時代を見据えた職業についた。長男は後継ぎ、次男は自動車、三男は三浦輪業を陰で支える。戦後間もなく自転車につける発動機が出現、自転車に無理やり取り付けて、バタバタとエンジン音響かせ走るが、今の草刈機のエンジン、これを駆動としてゴムベルトで車輪をブン回す。これが売れた。
雨後のたけのこの様に怪しげなメーカー続出。売れるから買に出る。夜行列車に飛び乗り東京目指す初代、有り金総ざらい、買えるだけ買って帰る訳だが、八戸には取り付けて欲しい米屋に魚屋、牛乳屋。重い自転車を転がすにはこれ一番。ところが、欠点もあり、自転車改造だけにブレーキの利きが甘い。「気をつけろ、甘い言葉に暗い道」の交番のポスターじゃないけど、甘いブレーキを心配しいしい乗ったもんだ。この自転車取り付け装置の最大メーカーはトヨモータース、愛知県刈谷市のメーカー。1949年操業だがトヨでトヨタかと思うとトヨタとは無関係。ホンダも昭和二十二年製造。
ところが、これに気づくメーカーもいた。怪しげな改造自転車より、安心して乗れるオートバイが必要と、市場に製品投入。「二式大艇」、「紫電改」を製作した川西航空機が前身の新明和は兵庫県西宮市の会社。飛行機製造をアメリカに拒まれ陸に着目、名車ポインター発売。同様船外機で有名な東京発動機、トーハツもバイクを出す。大阪発動機がダイハツ。
三浦輪業はヤマハの販売店、ヤマハがバイクを出すのは昭和三十年と後発、ホンダは八戸では十六日町愛輪社、高橋徳三郎が販売。オートバイは戦前にも陸王、メグロなど大型バイクがあった。今はハーレーが人気だが、昔は陸王がハーレー工作機を輸入製造、だから陸王はハーレーそっくり。
八戸でもバイク愛好家は多く遠乗り会を三浦輪業も実施。自転車からオートバイの時代到来。昭和三十三年、ホンダが爆発的商用車「スーパーカブ」発売、クラッチなしで運転できると寿司屋、蕎麦屋、魚屋と出前持ちは大喜び。
ヤマハは遅れをとるが、三浦輪業は海洋部門が健闘、岩手、青森を守備範囲、田名部に営業所を設けるほど。二十三日町だけでは手狭となり、売市の現在地を取得、二代目繁は昭和五年生れ、八戸工業高校を卒業後、父親を助け着実に力を発揮、久慈の下駄屋の娘シンを嫁に迎え、男の子ばかり三人を授かる。二輪から四輪をも視野にいれ、昭和三十七年、ダイハツと提携。売市に販社と工場を設けた。ダイハツは昭和三十二年ミゼットを発売し気を吐くも当時は三流。
初代は二代目の成長に満足し昭和四十三年、六十歳を潮に引退。三浦輪業の頂点の頃、全国的にも数軒しかないヤマハの代理店となり、厳しいノルマをこなし全国トップレベルの業績を示す。
好事魔多し(こうじまおおし・うまくいきそうなことには、とかく邪魔がはいりやすい)の喩えあり、昭和四十七年、二代目繁は交通事故で死亡、男の盛り、たったの四十二歳で帰らぬ人。人生は残酷だ。やりたいこと、やりのこしたことも沢山あったはず。人間の体は脆(もろ)い。丁度、ゴミ袋に水を入れて持ち運ぶようなもの、落とせば破裂、釘にひっかければ洩れて出る。そうっと大事に運べば百まで持っていけるが、酒もやらずにタバコものまず、百まで生きた馬鹿もいるって、友は先立ち、孫子も死んで、あんまり長く生き残るのも利口じゃないか。(それにつけても、惜しいことをしたもんだ。と言うのも、この後、残された三人の子供たちが目覚しい活躍を示す。
皆も覚えているだろう、五輪で伊調姉妹が金・銀メダルを取ったことを。八戸の町がゆらいだような興奮を忘れてはいなかろう。同様、三浦三兄弟の末弟、孝之が長野五輪に出場した。八戸のホッケー界は大沸きに沸いた。かって神明さんの横、佐藤染物屋の倅、真弘氏が氷上の黒ヒョウと称されたことがあったが、この孝之は父、繁が亡くなったときはまだ幼稚園、それがチビッ子ホッケーからめきめきと腕を上げ、日本代表に選伐され憧れの日の丸を胸に。
そして世界の強豪相手に一歩も退かぬ手腕を見せる。読売新聞はこう伝えた。
男子アイスホッケー日本代表はNHL(北米アイスホッケーリーグ)の選手をそろえるベラルーシを相手に引き分けに持ち込んだが、八戸出身のDF三浦孝之選手(30)(西武鉄道)も大活躍した。すでに二敗の日本は第一次予選リーグ敗退が決まっていたが、「強豪相手にどれだけ戦えるか、自分たちの底力を見せたい」と全力を振り絞った。ベテランの三浦選手は冷静な判断力と激しいタックルで健闘。第二ピリオド10分に2点目を奪われてからも、盛んに指示を出すなどベテランの味を発揮。第三ピリオドにはカウンターから、自ら持ち込んでゴールに迫るなど攻撃にも参加し見せ場を作った。
三兄弟とも国体にも出場するスポーツマン一家、これを支えたのが二代目の妻シン。四輪のダイハツ販売が順調になると、メーカーが販社を八戸に出したいと言うので、営業権を完全に譲渡、もとの二輪に注力せんと、二代目が営業、妻が経理と二人三脚、商売も軌道にのり、やれ嬉しやと思った矢先の事故。
喜びの絶頂から奈落の底、どれほど涙を陰で流したことだろうが、子らにはそれを見せることなく三人の従業員を励まし、店をきりもり。店と自宅とは別、義父母に子を託し自分は店に走る。当時、三代目になる健至はまだ中学生。
なんとかしなくてはと思うものの、まだ子供だ、アイスホッケーの魅力にとりつかれ、ワも胸に日の丸付けた選手になると、夢を膨らませ八高から早稲田大学、早実高校のコーチの話もあったが、ヤマハの船舶部に入社、そして札幌勤務、船の売り方修理方法を学び四年後に三浦輪業に戻る。
岡と海とでは扱う物がちがう。ここから三代目の三代目としての苦労が始まる。かつて、代理店の資格をもちメーカーから厳しく課せられるノルマを軽々こなしていた三浦輪業も、妻シンさんとそれを支える三人の従業員では現状を維持することすら難く、次第に成績は降下。つまり、店を閉じることなく細々持続が正しい表現か。女の細腕、しかも子らを育て、大学教育もつけさせ立派な社会人とさせたことで、これはもう、女として立派な勲章。
二代目が亡くなった時、初代は健在、でも初代は二代目の妻に仕事を託し、一切口を挟まなかった。これも立派と言えば立派、非情と言えば非情。
しかし、二代目妻のシンは偉かった。女としても母としても、そして経営者としても。亭主が子供三人残して他界、のこされたのが読者とすると、選択肢は、出て行く、残るの二つしかない。
さて、あなたならどうする。人生はただの一度、万人等しくやりなおしがきかない。髪振り乱しての表現があるが、三代目は当時の母を凄い人だったと言う。父を亡くして寂しい思いをさせない、片親の子と辛い目にあわせない。この思いが二代目の妻を衝き動かしたのだろう。その苦労の甲斐あって、オリンピック選手が出た。チームプレイだけに伊調姉妹のような大きな実を手にすることは出来なかったが、多くの人に努力すれば必ず成るを教えた。孝之選手は三十歳で腰の故障を押してつかんだ日本代表の座。天才的プレイヤーをリンクに送り迎えしたのは初代。家族ぐるみの努力だ。人は生まれる家を選ぶことはできない。生まれ落ちたところで必死に見る、手探りしながら生きる道を求める。二代目の妻も必死、子らも努力に努力を重ねた。
三代目が三浦輪業で働き、手探りでオートバイを学習、二代目妻を支えた優秀な社員たちは、三代目の成長を待った。三代目は青森市のオートバイショップ、YSPで販売と修理の基本を学び、それを自分流に調整しながら顧客づくりから手を染めた。基本は信頼される店、来ると楽しくなる店。区画整理もあり、店を新築し、三代目なりの雰囲気に作りあげ、目標とした店に近づく。YSPの指定も取り、対外的な信用も増した。YSPはヤマハのオートバイを技術、営業の二面とも満足させられる店に与えられる。二代目妻を支えてくれた三人の侍たちも独立したり、リタイアして三代目の周りは若手でオートバイ好きの青年が集まった。これからが、三代目の本領の発揮どころ、平成元年に十八日町の八戸ホンダ販売の娘明香さんを嫁に迎え、男二人に女一人の子供たちに恵まれる。長期景気低迷の続く昨今、どこもかしこも意気消沈、でも、売市の三浦輪業、YSP八戸には明るい風が吹く。どんなことでも必ず解決するの気概が横溢。それがおのずと態度に表れている。オートバイのみならずプレジャーボートも勿論OK。時代は省エネルギー、ガソリンの消費の少ない車、駐車の容易なものとして、昨今は大型スクーターブーム。又、ヤマハは電気自転車開発の第一人者。それのみにとどまらず燃料電池で動くスクータも開発、間もなく市場に登場。内燃機関からモーターへと着実に移行中。さて、三代続いた三浦輪業、今度はどんな切り口で、商用、レジャーに使うオートバイを消費者にすすめてくれるのやら。意気消沈したとき、バイク見物に行ってごらん、若者の活力、役立つ者になろうの意気込みを見せてもらえるぞ。(終り)
くだらぬ、つまらぬ仕事だと誰が決める。皆、己が決めたこと。他人からアアだ、こうだと言われて、いちいち己が行動を決めるか? 決めまい、己が信念に基づき行動は定まる。人生はただ一度の場、何を考えたかが問われるのではない、何をしたかを問われる場だ。
売市、大橋、かっては馬車曳きを嘆かせた険阻な坂、そこに三浦輪業あり、三代に渡り八戸人の足代わりとなる銀輪を渡世とす。
三代目を三浦健至、客の役に立とうの心が面に現れる。仕事が出来る喜びを知る男。人生の達人の部類、今、日本は四十代がしっかりしている。発想が柔軟、行動は手堅い。今後二十年の日本は安泰と見る。
三浦輪業、初代を三浦清三郎、明治四十一(1908)年、八戸の馬喰の家に生まれた。十三歳のおり自転車競技に出場、随分と昔から自転車競走があったもんだ。見てくれ、次ページ、右から三人目のチビが初代だ。よく見るとこのチビだけ自転車を持ってない、きっと誰かから借りて走ったこった。家が貧しく自転車が買えずとも、やる気があれば誰かが見ているもんだ、あやつは見込みがあると…。
ついでに自転車の歴史をひもとく。明治初頭自転車が輸入され鉄砲鍛冶の宮田が製造開始。宮田は明治十四年に京橋木挽町で宮田栄助が銃作りを開始、業績は伸び明治二十三年に本所菊川に工場を新築、そこで日本初の自転車製造を開始。自転車は思いのほか売れ、本業の銃を投げ捨て、自転車一本で立つのが明治三十五年、名も宮田製作 所。
当然、三浦清三郎も宮田に乗ったのだろう。自転車競走は自転車が発明されてすぐに始まり、長距離化、1903年、ツール・ド・フランス開始。1日に500kキロも走る区間もあり耐久レース。舗装路の普及で、速さを競うようになる。 明治三十一年(1898年)、上野は不忍池で大日本双輪倶楽部が主催した日本人初の自転車競走会。当時、自転車は高価、貴族や財閥がスポンサー、選手は商社の宣伝用ジャージを着て走り、日当を受け取った。今から百年も前に現在のツール・ド・フランスが日本にもあった。戦争に負け焦土になった町々で競輪を開催、そのカスリで町を再建させよう、復興させようと自転車競走が実施された。ここで競輪の名が登場。何のことはな い、市町村が胴元の博打だ。賭博は法律で禁止、国がやれば罪にならない? どうなってるんだこの国は。
この初代は突拍子がなく、自転車競走と共に東京に行ったとヨ。十三の子供が競技開催者たちと一緒にウロウロする図を思い描いただけでも、こりゃ可笑しい。その後がどうなったか判然としないが、いずれ自転車とは切れない仲、どこぞやの軒下で油まみれになり、自転車の尻でも撫でながら修行してたんだろう。大正十三年(1923)、関東大震災にあい二十歳の頃(昭和3年頃か)八戸に戻った。そして嫁にツナさんを貰い新組町で自転車屋を開業、昭和十年までここで踏ん張り、商売も軌道に乗り、今度は二十三日町の丸一家具の左隣に移転。
上の写真、気のよさそうなオッカサンがストーブの前、店員さんの働く姿もあり、八戸戦前の一般的商家風景。道路面にはガラスを横に三枚か四枚入れた引き戸、冬以外は日中、これを外して家の横にしまいこみ、上の写真のように開放的空間を作る。小僧は大変、朝になりゃ開けて、夜になりゃしまいこむ、又、にわか雨でも降りゃ仕事は増えるばかり、それにブツブツ言えばおしまい。何でお終い? 仏(ぶつ)がでりゃ人間もお終いだヨ。当時八戸の自転車業界はと見てあれば、八日町に安藤自転車、明治四十年創業と最古、富士自転車をよく売り、当主を姓は安藤、名を晋吉、今は自転車のタイヤを売らずに河内屋の駐車場でタイヤキ売ってるゥ~。小中野には船場、南横町の安藤、湊に月館、吹上に横浜、朔日町に清川、 田幾の田中幾、十六日町の亀橋、寺横町の勝輪の阿部、二十三日町尾形、番町のノーリツの木村、宮田の自転車に強い二十六日町の村井自転車は当主を村井文次郎と多士済済(たしせいせい・すぐれた人材が多くあること。たしさいさいとも言うがただしくはせいせい)。当時は自動車はプロのもの、今のような自動車社会悪の時代と異なる。当時の自転車は今の自動車販売会社と等しく、見てるだけでも楽しい存在。ぞんざいに扱う現今とは隔世。
世の中は金と女は仇なり、どうぞ仇にめぐり会いたい
で、どうしても金回りのいい方に気が動く。初代はそれに敏感だったんだろう。銀輪だけに廻りがいいカ。ところが現今はアジアの労働賃金の安い物に追いまくられ、ホームセンターの方が安い自転車を持つ。八戸の自転車屋の数も激減。宮田自転車も今は消火器屋に変わり自転車は申し訳程度のほんの少々。
初代の清三郎は六人の子福者(こぶくしゃ・子供を多く持つ仕合せ者)、最近は子供の数が少なく、この言葉も死語。三人が男、三人が女、繁、勝也、松三郎は皆時代を見据えた職業についた。長男は後継ぎ、次男は自動車、三男は三浦輪業を陰で支える。戦後間もなく自転車につける発動機が出現、自転車に無理やり取り付けて、バタバタとエンジン音響かせ走るが、今の草刈機のエンジン、これを駆動としてゴムベルトで車輪をブン回す。これが売れた。
雨後のたけのこの様に怪しげなメーカー続出。売れるから買に出る。夜行列車に飛び乗り東京目指す初代、有り金総ざらい、買えるだけ買って帰る訳だが、八戸には取り付けて欲しい米屋に魚屋、牛乳屋。重い自転車を転がすにはこれ一番。ところが、欠点もあり、自転車改造だけにブレーキの利きが甘い。「気をつけろ、甘い言葉に暗い道」の交番のポスターじゃないけど、甘いブレーキを心配しいしい乗ったもんだ。この自転車取り付け装置の最大メーカーはトヨモータース、愛知県刈谷市のメーカー。1949年操業だがトヨでトヨタかと思うとトヨタとは無関係。ホンダも昭和二十二年製造。
ところが、これに気づくメーカーもいた。怪しげな改造自転車より、安心して乗れるオートバイが必要と、市場に製品投入。「二式大艇」、「紫電改」を製作した川西航空機が前身の新明和は兵庫県西宮市の会社。飛行機製造をアメリカに拒まれ陸に着目、名車ポインター発売。同様船外機で有名な東京発動機、トーハツもバイクを出す。大阪発動機がダイハツ。
三浦輪業はヤマハの販売店、ヤマハがバイクを出すのは昭和三十年と後発、ホンダは八戸では十六日町愛輪社、高橋徳三郎が販売。オートバイは戦前にも陸王、メグロなど大型バイクがあった。今はハーレーが人気だが、昔は陸王がハーレー工作機を輸入製造、だから陸王はハーレーそっくり。
八戸でもバイク愛好家は多く遠乗り会を三浦輪業も実施。自転車からオートバイの時代到来。昭和三十三年、ホンダが爆発的商用車「スーパーカブ」発売、クラッチなしで運転できると寿司屋、蕎麦屋、魚屋と出前持ちは大喜び。
ヤマハは遅れをとるが、三浦輪業は海洋部門が健闘、岩手、青森を守備範囲、田名部に営業所を設けるほど。二十三日町だけでは手狭となり、売市の現在地を取得、二代目繁は昭和五年生れ、八戸工業高校を卒業後、父親を助け着実に力を発揮、久慈の下駄屋の娘シンを嫁に迎え、男の子ばかり三人を授かる。二輪から四輪をも視野にいれ、昭和三十七年、ダイハツと提携。売市に販社と工場を設けた。ダイハツは昭和三十二年ミゼットを発売し気を吐くも当時は三流。
初代は二代目の成長に満足し昭和四十三年、六十歳を潮に引退。三浦輪業の頂点の頃、全国的にも数軒しかないヤマハの代理店となり、厳しいノルマをこなし全国トップレベルの業績を示す。
好事魔多し(こうじまおおし・うまくいきそうなことには、とかく邪魔がはいりやすい)の喩えあり、昭和四十七年、二代目繁は交通事故で死亡、男の盛り、たったの四十二歳で帰らぬ人。人生は残酷だ。やりたいこと、やりのこしたことも沢山あったはず。人間の体は脆(もろ)い。丁度、ゴミ袋に水を入れて持ち運ぶようなもの、落とせば破裂、釘にひっかければ洩れて出る。そうっと大事に運べば百まで持っていけるが、酒もやらずにタバコものまず、百まで生きた馬鹿もいるって、友は先立ち、孫子も死んで、あんまり長く生き残るのも利口じゃないか。(それにつけても、惜しいことをしたもんだ。と言うのも、この後、残された三人の子供たちが目覚しい活躍を示す。
皆も覚えているだろう、五輪で伊調姉妹が金・銀メダルを取ったことを。八戸の町がゆらいだような興奮を忘れてはいなかろう。同様、三浦三兄弟の末弟、孝之が長野五輪に出場した。八戸のホッケー界は大沸きに沸いた。かって神明さんの横、佐藤染物屋の倅、真弘氏が氷上の黒ヒョウと称されたことがあったが、この孝之は父、繁が亡くなったときはまだ幼稚園、それがチビッ子ホッケーからめきめきと腕を上げ、日本代表に選伐され憧れの日の丸を胸に。
そして世界の強豪相手に一歩も退かぬ手腕を見せる。読売新聞はこう伝えた。
男子アイスホッケー日本代表はNHL(北米アイスホッケーリーグ)の選手をそろえるベラルーシを相手に引き分けに持ち込んだが、八戸出身のDF三浦孝之選手(30)(西武鉄道)も大活躍した。すでに二敗の日本は第一次予選リーグ敗退が決まっていたが、「強豪相手にどれだけ戦えるか、自分たちの底力を見せたい」と全力を振り絞った。ベテランの三浦選手は冷静な判断力と激しいタックルで健闘。第二ピリオド10分に2点目を奪われてからも、盛んに指示を出すなどベテランの味を発揮。第三ピリオドにはカウンターから、自ら持ち込んでゴールに迫るなど攻撃にも参加し見せ場を作った。
三兄弟とも国体にも出場するスポーツマン一家、これを支えたのが二代目の妻シン。四輪のダイハツ販売が順調になると、メーカーが販社を八戸に出したいと言うので、営業権を完全に譲渡、もとの二輪に注力せんと、二代目が営業、妻が経理と二人三脚、商売も軌道にのり、やれ嬉しやと思った矢先の事故。
喜びの絶頂から奈落の底、どれほど涙を陰で流したことだろうが、子らにはそれを見せることなく三人の従業員を励まし、店をきりもり。店と自宅とは別、義父母に子を託し自分は店に走る。当時、三代目になる健至はまだ中学生。
なんとかしなくてはと思うものの、まだ子供だ、アイスホッケーの魅力にとりつかれ、ワも胸に日の丸付けた選手になると、夢を膨らませ八高から早稲田大学、早実高校のコーチの話もあったが、ヤマハの船舶部に入社、そして札幌勤務、船の売り方修理方法を学び四年後に三浦輪業に戻る。
岡と海とでは扱う物がちがう。ここから三代目の三代目としての苦労が始まる。かつて、代理店の資格をもちメーカーから厳しく課せられるノルマを軽々こなしていた三浦輪業も、妻シンさんとそれを支える三人の従業員では現状を維持することすら難く、次第に成績は降下。つまり、店を閉じることなく細々持続が正しい表現か。女の細腕、しかも子らを育て、大学教育もつけさせ立派な社会人とさせたことで、これはもう、女として立派な勲章。
二代目が亡くなった時、初代は健在、でも初代は二代目の妻に仕事を託し、一切口を挟まなかった。これも立派と言えば立派、非情と言えば非情。
しかし、二代目妻のシンは偉かった。女としても母としても、そして経営者としても。亭主が子供三人残して他界、のこされたのが読者とすると、選択肢は、出て行く、残るの二つしかない。
さて、あなたならどうする。人生はただの一度、万人等しくやりなおしがきかない。髪振り乱しての表現があるが、三代目は当時の母を凄い人だったと言う。父を亡くして寂しい思いをさせない、片親の子と辛い目にあわせない。この思いが二代目の妻を衝き動かしたのだろう。その苦労の甲斐あって、オリンピック選手が出た。チームプレイだけに伊調姉妹のような大きな実を手にすることは出来なかったが、多くの人に努力すれば必ず成るを教えた。孝之選手は三十歳で腰の故障を押してつかんだ日本代表の座。天才的プレイヤーをリンクに送り迎えしたのは初代。家族ぐるみの努力だ。人は生まれる家を選ぶことはできない。生まれ落ちたところで必死に見る、手探りしながら生きる道を求める。二代目の妻も必死、子らも努力に努力を重ねた。
三代目が三浦輪業で働き、手探りでオートバイを学習、二代目妻を支えた優秀な社員たちは、三代目の成長を待った。三代目は青森市のオートバイショップ、YSPで販売と修理の基本を学び、それを自分流に調整しながら顧客づくりから手を染めた。基本は信頼される店、来ると楽しくなる店。区画整理もあり、店を新築し、三代目なりの雰囲気に作りあげ、目標とした店に近づく。YSPの指定も取り、対外的な信用も増した。YSPはヤマハのオートバイを技術、営業の二面とも満足させられる店に与えられる。二代目妻を支えてくれた三人の侍たちも独立したり、リタイアして三代目の周りは若手でオートバイ好きの青年が集まった。これからが、三代目の本領の発揮どころ、平成元年に十八日町の八戸ホンダ販売の娘明香さんを嫁に迎え、男二人に女一人の子供たちに恵まれる。長期景気低迷の続く昨今、どこもかしこも意気消沈、でも、売市の三浦輪業、YSP八戸には明るい風が吹く。どんなことでも必ず解決するの気概が横溢。それがおのずと態度に表れている。オートバイのみならずプレジャーボートも勿論OK。時代は省エネルギー、ガソリンの消費の少ない車、駐車の容易なものとして、昨今は大型スクーターブーム。又、ヤマハは電気自転車開発の第一人者。それのみにとどまらず燃料電池で動くスクータも開発、間もなく市場に登場。内燃機関からモーターへと着実に移行中。さて、三代続いた三浦輪業、今度はどんな切り口で、商用、レジャーに使うオートバイを消費者にすすめてくれるのやら。意気消沈したとき、バイク見物に行ってごらん、若者の活力、役立つ者になろうの意気込みを見せてもらえるぞ。(終り)