2008年5月30日金曜日

長者まつりんぐ広場、公園緑地課に移管で利便に至便


市民病院跡地の利用が中心商店街活性化の成否を握る。三日町に出る、十三日町を歩くには距離的にも好都合。糖尿病患者の多い現代には、至便よりも、少々歩く距離があることが望ましい。至便より少々不便がいい。
ここは以前は都市政策課が所管していたが、今は公園緑地課が管理。
ここは朝市で有名な片町がある。利用者のために駐車場として利用されるといいが、十時から六時までの開場。
この時間帯では朝市は利用できない。
また、この場は夕暮れ市を開催。この終了時間が八時で、これまた役に立たない。その日だけは遅くまで開けてありますが、担当課の言い分。
しかし、そんなことは利用案内板には書かれていない。
市役所に出かけると駐車場の管理は三八五交通が指定管理制度で実施。これらの対応が悪く、利  用したくない。小屋の中でテレビを見ていて、駐車券を挿入して料金清算に時間がかかる、その車の渋滞を知ってても動かない。
混んでいるから小屋から出て車をさばけと怒鳴ってやったら、臨機応変にやってるから、お前に言われたくないと言う。混んでるのが目に入らないのかと逆襲したら、こんなのは混んでいるうちに入らないと説教された。
挙句にお前は来なくていいと叫ぶ。ここは市役所の駐車場で指定管理をしている三八五交通のものではない、どこか間違っていないのかと、三八五交通本社(城下)へ行き苦情を言った。自衛隊上がりの職員だそうだ。教育が徹底しないからこうなる。指定管理を三八五が落札している。どれも似たようなものなのだろう。
指定管理は最初は三年、次回何も問題がなければ五年継続となるが、今のような事態が頻発すれば、次回は他の業者に委託されるだろう。
使い勝手が悪い、態度が横柄だなどは、どしどし担当課に申し出て改善を要求するべきなのだ。市民の税金で運用しているのだ。ビクビクおたおたすることは少しもいらない。
さて、この長者まつりんぐ広場は、大きく変わった。担当課が代わり、職員の意識も様変わりで、利用時間が大変革
十時から六時が
五時から九時
使い勝手がよくなった。朝市もたそがれ市も、更に中心商店街での買い物にも便利となった。
次なる使い方は、道の駅だ。
八戸には道の駅がなかった。南郷が町村合併で入ってきたので道の駅を持った。だが中心市街地付近にはない。ここを道の駅にできれば、三日町の交流センターも駐車場を持たないだけに好都合だ。
役所もやる気のある人材がいる。市民の利便、至便を図ってこその役人。八戸市役所もすてたもんじゃござりやせん。

2008年5月26日月曜日

昭和五十年八戸で活躍した人々2

国民年金係長 向谷地富春
職員     中村三千代
 田名部一見 高橋 良悦
工藤 吉喜 中村 有助
関川 達海 坂本 光夫
上野 迪子 松本 勝信
松村 一弘 中村 由男
平沼 京子
◎市民課長   鳥潟  勉
  同 補佐  大西 兼蔵
 副参事    鈴木喜一郎
  同     接待  久
 庶務係長(兼)鈴木喜一郎
 主査     宮崎 雅夫
  同     岩木 俊男
 調整係長   福井 政美
職員      西山 つや
 田崎 俊郎 大久保孝雄
 鈴木 統子 若松美代子
 日向  一 貝吹 彰穂
 松野 京子 野里 陽子
戸籍係長   中村賢一郎
戸籍担当職員 越後谷須美
 西舘  勲 土橋 艶子
 岩村 洋子 堺  俊雄
 上野 秀子 青田  薫
 田中 トラ
資料係長  荻ノ沢祐佐久
資料担当職員 田名部一彦
 柳谷 好治 大久保典郎
 天摩 節雄 渡辺 真子
住民記録係長 高谷 重郎
記録担当職員 川村 益三
 加藤 法子 工藤 誠一
 長畑 静枝 中居 正夫
 川口 大助 三井 幸子
 神山 典夫 河原木一郎
 小笠原美子 藤田真佐子
 清野 昌子 東舘 勝男
 庭鳥嶋竜三
窓口係長(兼)接待  久
職員     福田 八重
 横沢ヨシ子 小笠原ヤエ
 佐々木敦子 古川 精美
 鈴木実智雄 鹿島 忠昭
柴田  実 久保田良美
橋本 友行 岩谷 シメ
副島 毅  照井 憲明
 赤坂  努 宮崎 光弥
 鈴木 秀世 中里 久子
 前田 康一
電送担当職員 宮崎 雅夫
 谷地  浩 東   進
 大岡 長治 
白銀公民館  田辺  健
 同     沼山 徹也
◎保健衛生課長 橋本 健二
 同 補佐   菊地 昭二
 副参事    泉山 信男
 同補佐
兼管理係長 菊地 昭二
 主査     江渡 典弥
 同      伊藤 公隆
 同      山田 和芳
技査     沼畑  涼
 松倉 さだ 河村 笑子
公衆衛生係長
(兼)菊地 昭二
職員      中田 弘子
 下斗米淳子  白石 浪子
 中村 哲人  佐々木節子
 高橋 照子  舘合 和夫
 桜井 茂樹  馬場  広
 高橋六津子  坂本  弘
 武部 節子  種市 直子
 津村  修  大久保達男
 久慈 スガ  加藤 勝次
 沢田 喜代 
診療放射線主任技師
        北嶋 淑晃
予防係長    泉山 信男
職員      沼舘とし子
松村 和良  西  義雄
阿部  誠  松本  稔
国保係長    中村  武
職員      平城 あさ
 黒沢 リツ  吉田 節子
 川越 戈子  木村  明
 清水田テル  小笠原忠志
 金浜 昌治  
保健係長    鈴木 みよ
保健婦     山崎 トシ
 小笠原のゑ  三浦  国
 富岡 弘子  皆川 満子
 長谷川紀美  横沢 則子
 岩崎 とし  栗野ヤエ子
 川端智○子
献血係長    岩村 隆二
◎公害対策課長
(兼) 菅原 光広
 同係長    松川 芳男
副技幹兼調査指導係長
        塚村新三郎
 職員     三浦 孝一
  鎌田 康子 冷木 紀夫
  関下 里美 下館 勝博
増尾  勇 伊藤 正義
中島幸一郎 松浦 邦雄
小山田 順 
県公害センター 成田 忠義
  高橋 克雄 差波 弘信
  大野 晴治 工藤 昭則
  佐藤 尚春
◎交通安全課長 川守田弥蔵
 同補佐兼指導係長
  元木松五郎 
 同副技幹兼計画
係長     土橋 繁博
 専門員    南舘 敏男
 同      中村福太郎
 職員     畠山 俊夫
  林  良彦 岩崎 靖子
◎住宅課長   室岡  一
 同補佐    橘 政司
 主査     中村 亮一
 同      駒場 賢一
 管理係長   工藤 淳一
 職員     八並 知子
 佐藤 良輔  道合 三男
 笹本 光雄
 業務係長(兼)橘  政司
 職員     河村  勝
  馬場 英夫 中村知都勢
◎清掃課長   久保 富義
 同      藤田 四郎
 副技幹    道上友之助
 副参事    坂上  剛
主査     柾谷 トミ
管理係長   岡田 重幸
清掃係長   田名部功衛
職員     小笠原喜一
川村 宣政 田端 満也
小野寺正二 大木  弘
下舘 香織 大久保康一
夏掘 福光 大川原芳雄
馬渡 良三 浜  松男
松尾 和雄 寺沢 芳美
三浦 菊二 戸田  貢
上野 久男 高柳 政男
田中 貞雄 三浦 勝男
山道 岩吉 上野長之助
清川 信義 大久保和雄
畑中 寅蔵 関口 重信
林下十次郎 岩淵 福蔵
高橋 文吉 栗橋 政雄
羽瀬 久雄 鈴木 英雄
三浦 政衛 上村 正二
 村井 和夫  杉本 孫三
 田名部助次郎 大久保勝雄
 佐藤  栄  川口 武雄松橋 八郎  上野 昭一
 川口 信義  阿部  広
 金田一清治  市沢 隼人
 加藤 勝美  北上 寛二
 杉本  正  小笠原 寿
 竹岸 和夫  大村 次雄
 大沢 宣明  松森 繁喜
 川口  進  田端 正好
 戸田 弘明  中村 正勝
 山形 満宏  山内 芳弘
 加藤 義男  吉田 準一
 工藤 隆義  山下 正人
 杉本 光穂  佐々木幸三
 田名部幸治  三浦  繁
 小柴 和博  堺  俊昭
 高屋敷一弘  清水 勝栄
 大久保 司  風晴 俊文
 川村 宣政
第一清掃工場係長
        福島 一郎
職員      小笠原正義
 金谷 勝男  佐々木忠雄
 木村岩太郎  大久保 明
 石藤由右エ門 三浦酉之助
 久保末五郎  
第二同     道上友之助
職員      見附 清美
河原木昭治  田端 秀光
佐々木政八  扇谷 隆三
千葉和一郎  松倉 安紀
川口 正義  新谷 豊勝
清川 雅道  加藤 正志
玉懸 武忠  西沢 敏光
目時金之亟  坂本 照実
田端  徹  中村  勉
長瀬 清治  上野 小六
佐々木安夫  田名部光義
大沼 宣明  小笠原八蔵
上野 正志  武部 征宏  
 岩淵  匡  蛭子 睦夫
 下館 行男  高橋 富男
 新山 益博  川村 満雄
八戸地区環境整備組合へ派遣
職員      田中  実
 金浜 省三  馬場 栄蔵
 高橋 三直  坂本 清蔵
 小滝与志美  吉田 幹夫
 田中 義教  大舘  栄
 松田 東一  杉本  清
 久保田 進  高橋 政見
 清川 英利  砂庭平太郎
 木村 博賢  木村  博
 山田 一夫  山田  豊

福祉事務所
 所長     松橋 英夫
 副同     近田 孝雄
◎総務班長 兼 近田 孝雄 
 福祉班長   田中 光郎
 家庭児童班長 夏坂 良助
 主査     田辺  健
  掛端 善治 田村 恭子
  松橋 達男 山本 武司
  中野 秀美 田代 義人
庶務係長    大久保冨蔵
職員      前田  栄
 軽米 幸子  荒谷 智英
 中村 昭子  淡路十治郎
管理係長    鹿島  進
職員      楢舘  清
 中田 久雄  松原 好伸
◎福祉班老人福祉
課長     佐藤 義一
職員      矢代 勝康
 松原  忍  田村 一男
 小笠原昌美  
更正福祉係長
兼      田中 光郎
職員      泉山 宗治
◎保健班長兼
第一係長  簗田 哲雄
職員      大高 勝武
 松倉忠志郎  秋山 竹三
 塚原 滋雄  音喜多悦子
同第二係長   小笠原達弥
 森林 武美  上村 武男
 若松 忠孝  岩淵 浩明
 接待 良雄  関口 勝明
 木村百合子  畑中 京子同第三係長   大舘 政美
職員      上野 裕正
 鎌田 伸三  荒谷 正孝
 西  幹雄  成田 道行
 阿達 福寿

建設部
 部長兼企画室長兼企画室
高速交通対策事務局長取扱
        巻  石蔵
次長     上村 斉助
◎管理課長(兼)上村 斉助
 同 補佐   久保 喜一
 契約係長(兼)久保 喜一
 職員     岩崎 賢一 

八戸市役所続
建設部
松本 訓子  藤井 アサ
 庶務係長   山村 幸吉
 職員     中村 和雄
豊島久美子  和田 俊美
長根由太郎
◎道路港湾課長 大西 邦男
 同 補佐   林   茂
 主査     下野 美芳
道路港湾管理係
清川  勇
職員      鈴木  勤 
五日市 勉  金子 和子
松浦清吉郎  岩沢 昭治
館花  融  岩岡 利郎
角谷 育子  久保 貞二
岩岡 政三  仲道善三郎
舗装係長    原  光雄
職員      赤坂 賢一
 大久保嘉一  新坂 恒雄
 佐々木正志  中村 昭夫
 古里 哲夫  吉田 孝男
 西沢 丈志  木村 明広
改良係長    田名部晃一
職員      越後 昭雄
 下館 弘司  中川原 修
 小松 政一  中崎 久仁
榎本  徹  竹内 幸一
田中 光彦  左京 利光
維持係長    大坂 清志
職員      石村 勝昭
 高橋 忠義  石橋 常男
 小笠原正男  松田 文雄
 西館  潔 佐々木誠三郎
 笹川 保男  鳥谷  忠
 古里正一郎  馬渡 弘美
 中里 昭男  田名部治通
 松田仁太郎  中村 一郎
 川村参佐男  山本 利勝
 切無沢 清  上平  孝
 高橋 政雄  大島 元美
失業対策係長(兼)
林  茂
職員      後村 悦子
杉本 和子  大久保隆志
中村由太郎  後村多三郎
道合勇多嘉  花生 強吉
鈴木 鉄男  
◎建築課長   金谷 清治
 同 補佐   工藤 一雄
 主査     田名部悌治
 副技幹    神  正義
再開発係長   中村 邦夫
職員      越後 則子
 植木 實   川村 朝光
建築第一係長(兼)
        工藤 一雄
職員      久保田俊夫
  森内 徳雄 阿部 省三
  大原  満 林  泰正
  丸山登志治 
同第二係長(兼)神  正義
職員      中村  修
 吉田 重則  今泉 豊久
 新谷 範由  
建築指導係長  川村 武司
職員      小川 鉄也
 奈良 武行  岡沼 昌造
 上村フサ子  三浦 文宏
 三国 俊則  関川 久弥
 関川  裕  畑中 誠一
 大久保文恵  
設備係長    高畑 啓治
職員      千葉 和男
 中村 和司  中屋敷雅央
 大橋  彰  藤井 順一
 昆  一雄
◎下水道業務
課長 関口 泰与
同 補佐   福井 政美
業務係長(兼)福井 政美
副参事    藤川 敬蔵
維持管理係長 鈴木 善夫
職員     梅内 泰博
 福井 節子 五戸 雅男
 小笠原長修 三浦 良子
金浜 裕一 小泉 広明
本間 秀一 荒屋敷秀俊
小井川 明 寺沢 正男
田名部甚五郎
奥山 仁一 吉田 竜二
鈴木 嘉治 馬場 俊治
中村  修 類家 一郎
津嘉山 肇 浜 佐太郎
西山 義信 上館 信光
 徴収係長   藤川 敬蔵
 職員     加藤 保雄
  小笠原菊治 前田 澄子
◎下水道工務
課長 山田義三郎
 同 補佐   日影  広
 同 技幹   竹原 正志
 技査     二唐 徳己
 計画係長兼  日影  広
 職員     後村 安朗
  上山 博信 佐藤 勝夫
工事第一係長 成田 圭五
 職員     西館 禎昭
  杉沢 信昭 西山 幸一
  田中 昭一 高橋 善行
  升沢 正平 小笠原俊美
  薄田 久雄 田中  博

東奥日報に見る明治三十八年の八戸及び八戸人

一月五日 電報
降参申し込みに付き敵軍使と会見(二日午後一時半東京特発)
将官ステッセルの降伏に関する申し込みにつき今日午前九時水師営にて伊地知将軍と敵軍使との会見ありたる敵に悪意の条件なければ降伏を許容することならん
開城提議の伏奏と聖旨(二日午後八時五十分到着)
参謀総長は聖旨を奉じて左の電報を乃木大将に送れり
将官ステッセルより開城の提議を為し来れる件を伏奏したる所陛下には将官ステッセルが祖国のため尽くせし苦節を嘉みしたまい武士の名誉を保たしむべきを望ませらる
旅順開城規約調印済み(一月三日午前十一時十一分東京特発)
攻囲軍報告
二日午後九時四十五分開城規約本調印を終れり
旅順開城の規約(三日午後九時東京特発)
公報
旅順開城に関する本調印を終りしが総て我が委員の申込み通り決定せり其の規約は十一条からなり其の要綱は左の如し陸海軍人及び義勇兵官吏は総て俘虜とし砲台艦船兵器弾薬その他一切現在のまま我に引渡し担保として一月三日椅子山案山子山及び東南一帯の砲塁砲台を我に交付すること
一月七日
電報旅順の受領結了
(六日午後二時四十五分東京特発)
乃木軍報告
五日旅順要塞の受領を終れり捕虜将校百八十六名下士卒五千四百五十一名中帰国の宣誓をなせしもの将校八十六名あり
日本艦隊の動静
(六日午後一時三十五分東京特発)
三日日本軍艦四隻スマトラ島付近に現れる
愛児を失いて自殺
三戸郡三戸町八日町宇平二女水梨さた(二六)は昨年十二月二十四日男子を分娩し征露の記念とて露吉と名づけ可愛いがりおれり甲斐もなく同月三十一日遂に死亡せるより如何に征露の記念とはいえ露西亜の露の字をつけたるは自分が悪しかりしとそれのみを苦にし床につきたるまま不眠の状態にて呻吟しつつありし結果遂に精神に異常を呈し狂い回りおれるが 去る五日午前二時頃家内の熟睡中起き出でて出刃包丁を以って腹部に突き立て重傷を負い苦悶しおりしを家人が発見し直ちに木村医師の来診を乞いしも効なく翌午前五時遂に死亡せりと
各地の祝捷
三戸郡長苗代村 川勝隆邑氏等の発起にて去る六日午後四時より国旗行列に同村四部内よりインブリ踊り一組つつを出して各村を巡回し尻内停車場休養所に於いて祝宴会を開きたるがこの間絶えず煙火の打ち上げとなせり来会者は非常に多く盛会を極めたるが式場に於いて打ち上げたる煙火は左の如しと
祝砲三、射撃、日章旗、色別流旗、祝捷大会軍用数羽鳩、以下略
八戸町の火事 昨二十一日午前一時三戸郡八戸町六日町築館末松方裏手より発火延焼十二戸に及び同二時鎮火原因取調べ中▽後報によれば午前一時六日町築館末松魚商方小屋より出火せるが幸い当時は風なけれども真夜中のこととて町民は何れも熟眠し居りし為消防の出場遅く加えるに水不足のこととて火は忽ち横丁に延焼し見る間に全焼十棟十一戸半焼一戸焼失同二時鎮火したり原因は目下取り調べ中なるも当時状況より察するに放火されたるものならんと
● 八戸だより
既報の如く八戸地方新兵予習会は去月三十一日を以って閉会せしが未だ今年の入営期には余日もあること故本日より毎日曜日午前九時より午後三時まで八戸小学校体操場に於いて復習会を開始しおれり
▽第二高等女学校の家事裁縫室は当地近元氏の請負にて目下盛んに土工中にして来る十月までに落成の筈
▽鮫郵便局にてはこれまで電信は受信一方なりしを以って実に不便少なからざりしが昨日より配達も取り扱う事となりし故至極便利となれるが湊村の有志者は同地停車場の公衆電信のみにては不便なるを以って同村の郵便局に於いても電信事務を開設せんことを其の筋に誓願せんとて内々相談中なりと
△小中野鮫の花柳界は近年になき寂寥(せきりょう・ひっそりしている)になりしは世の不景気に由るは勿論なるが近頃査公(さこうと呼ばしめるのだろう、巡査を馬鹿にして呼んだのだろう)の淫売(いんばい・売春)探索その他の為臨検の度数多くなれるを以って遊客は査公に顔を見られんことを恐れ為に自然登楼者の減少せし理由なりと
△日露戦争以来多少各商店に競争心起こりたるようなるか過般より其の呉服店にては注文のありなしにかかわらず一日に数回自家の屋号のある箱車を小僧に挽かせて市内を巡らせ居り又泉山醤油合名会社では小僧をして時々得意先へ注文の有無を聞かさしめおりてわざわざ注文に行かざるもよきを以て頗る便利なり小田嘉、西本、加藤その他各店にても斯く競いて需要者の便を図られたきものなり
八戸青年会亡霊祭典
去る七日午後五時八戸青年会に於いて開会創立以来死去せし四十八名の亡霊祭典を神仏合式により執行せしが同会広間の床の間に祭壇を設け坂本祭主の神詞及び寺僧の読経あり次に遺族及び会員の礼拝を行い式終わりて後直会式に移り来会者各自亡霊者の懐旧談をなし散会せしは八時過ぎなりき当日来会の重なるは太田、岩山、遠山、高橋、蒔田、橋本、吉田、南部その他会員百余名頗る盛式なりき
八戸青年倶楽部総会
八日八戸町大字長横町記念会堂に於いて臨時総会を開催せり
八戸共同井の開掘(かいくつ・地面を堀る)
八戸町共同使用の目的を以て去る五日同町字六日町岩岡徳兵衛前の公路に一隅に其の筋の認許を得一カ所の共同井を開掘せり
八戸甲文商店の売り出し
八戸町甲文商店に於いて冬物類斬新奇抜の流行物夫々注文先より荷着せしを以て目下薄利にて売り出し居るか頗る盛況なりと
和泉八戸警察署長の談片
昨年四月より九月までの赤痢患者は六四名あったが本年は割合に少数で二七名の調べをもっている斯く流行病患者の減少して来たのは喜ぶべきの現象であるが気候の変化で今後如何なるかを憂い益々警戒しつつある
八戸の犯罪は重な詐欺騙取恐喝等のものが多いようだ最も予は就任日浅いから独断的観察を下すことが出来ぬが概して三百的行為の多数を占めているのは困ったことだかかる犯罪の多いのは近海の不漁の場合に原因をなしているようだ何故と言えば八戸の金融は漁不漁に大影響を及ぼしているもし不漁の場合は金融の切迫を来すから従っていかがわしき犯罪行為を構成するのだ八戸の商業界に三百の跋扈しておることを度々耳にするがつまり本年は思わしき漁がない結果であろう
統計の動静によりて良く社会現象を詳知することが出来るが八戸の銀行あたりで収出せし所謂資本と収入とを計算して見たらその辺の事情がよく解るだろう
一家五人の赤痢患者
三戸郡上長苗代字大仏八十二番地馬渡岩松の長女きつ(一六)妻まつ(四四)次女たけ(十一)家族りう(一九)孫さな(四)の五名赤痢患者として同駐在所よりの急報に接し和泉警察署長その他係官出張せり
悪少年捕らわる
三戸郡鮫村浜通り二四七番地平民漁業磯島仁太郎(一七)と言う者は去る九月二日午前十時八戸町十三日町大橋豊吉方に至り少年のめぐる悪知恵を絞り出し主人をうまく欺き十一文半長靴一足(四円七十銭)をだまし取り又九月二五日夜に乗じて三戸郡鮫村海岸より約四五十間の海面に停泊中の漁船内に入り宮崎助五郎所有の大漁旗三枚(三円)木綿風呂敷(二十銭)及び紙幣在中の箱一個を窃取し尚あきたらず其の付近に停泊中の久保岩次郎所有の漁船に乗り込み青猪の角二本(二円)紙幣在中の箱一個を窃取せりそれより窃盗の味は忘れられぬと思え九月三十日三戸郡鮫村白浜付近の〇〇と呼ぶ原野に杭繋ぎしある磯島市蔵の鹿毛牝馬一頭(二十五円)を窃取せるが遂に巡査のため捕らえられ去る四日青森検事に送られ行く末おそるべき少年なり
石の地蔵様捕らえられる
世の中に迷信家の多いのには困ったものだが亦迷信家を利用して私欲をほしいままにする者ほど憎むべきものはあるまい所は八戸町鷹匠小路に住んでいる物知り婆という三戸郡戸来村川代生まれの川口くまといういたずらものがあるこの者奇妙な石を何処から持って来たか知らぬが其の石に地蔵の扮装をさせこの地蔵様を軽く上げたものは百願たちどころに成就なると吹聴して迷信家を欺き上がった下がったと大物をやらかし所謂無免許商売を営んで居った所を巡査に発覚され違警罪に問われ科料一円二十五銭に処分との厳命の下地蔵は取り押さえの上八戸警察署に黙然とし居るはよい気味
湊水産学校缶詰製造科
来る二十日より三週間の予定を以て開設する由なる希望者は十八日迄に同校へ申し込むべしと
八戸実業学校割烹会
既報の如く愈来る十二日より毎日曜日来年三月迄の予定にて開始する希望者は申し込むべしと

2008年5月25日日曜日

我が人生に悔いなし 九

中村節子
 ○日本儀礼文化協会認定司会師
 詩吟でもお茶でもある程度年数を経ると、何かの行事のときの司会の役が廻ってくる。特に詩吟の場合は順番に会長挨拶以外の役割が廻ってくるのである。たとえば今回の吟行会の開会のことばは誰、乾杯は誰、閉会の言葉は誰、司会は誰という様に、年に一度はどれかに当たる。
 私が司会に興味を持ったのは、極端に下手な司会者と極端に上手な司会者に出合ったことがきっかけであった。それまで友人の結婚披露宴に何度か招待されているが、当時は親戚とか新郎の友人が司会を担当するのが普通であったので、上手とか下手とか気にならなかった。
 あるときYホテルでの披露宴に出席して、ものすごく下手な司会者に出合った。新郎の友人であったが、客の名前は間違える、言葉はとちる、失礼しましたの連発、拍手をどうぞの連発、新郎新婦が気の毒になるほど雰囲気は悪かった。
 一週間後に今度はGホテルの披露宴に出席した。これがまたすばらしく上手な司会者であった。司会によってこれほどまでに雰囲気が違うものかと感動した。その時の司会者はプロであったことを後で聞いた。
 この時から司会というものにすごく興味がわいてきた。結婚披露宴だけでなく、発表会や記念式典等、うまくいくも悪くいくも司会者の腕にかかっていると言っても過言ではないほど、司会は大事であることを知った。
 その後、新年会の司会や芸能発表会の司会をおそるおそるやってみた。
 その時である。冠婚葬祭の仕事をしている夫からの情報で、司会者養成講座があることを知った。会場は石川県金沢市の平安閣、初級講座は三日間(九時~十七時)であった。受講料は高いし、交通費も宿泊費もかかる。じっくり考えた末、受講することに決めた。
 昭和五十六年、壱吟会創立の頃と同時期であった。金沢市の平安閣には男女合わせて三十三名の受講者が集まった。
 講師は話力研究所の所長である。まずプロの司会者を養成する講座であること、初級講座の三日間は話し方の基礎講座であることの説明があり、一人一分間の自己紹介から始まった。聞いて驚いた。私以外はすでに司会者として活躍している人達であった。しかもそれぞれ会社に所属し出張という形で受講している。フリーは私だけであった。全員の自己紹介の後は、それに対する批評が始まった。これがまた手厳しい。たとえば「私は司会をさせて頂いております」「私は司会をやっております」の言葉づかいの違いの注意、敬語の使い方、助詞(てにをは)の強弱等々。一日目の終りには宿題が出た。テーマが与えられ一分間にまとめること。
 二日目は宿題の発表から始まった。その時のテーマは何であったか覚えていないが、一人の発表が終わるとすぐ批評、それから二人目に続く。厳しいなあと思った。午後からは表現について。一つのことを色々の言葉で色々な形に表現する。又、ガギグゲゴの鼻濁音について等々。二日目の終わりにも宿題が出た。感動したことを二分間にまとめることであった。
 三日目の午前中は感動したことの発表。午後は指名されてからテーマが与えられ、すぐ発表。持ち時間一分。「次は中村さんです。テーマはバラ」「ハイ」発表の場所まで十歩ぐらい。「バラ」歩きながらバラを考える。ひらめいた。三ヶ月ほど前、恩師の誕生日に皆でバラだけの花束を贈った。「これだ!」何とかうまくいった。講師にほめられた。
 三日間の初級講座が終わった。講師の最後の言葉は「NHKのアナウンサーの言葉を、気をつけて聞く様にして下さい」であった。
 帰路の列車の中で考えた。三日間は只々話し方であった。司会者はとか司会をする時は……等と司会と関係さりそうなことは全く出てこなかった。仕事を休んでお金をかけて、私は何のために金沢まで来たのだろう? 家に帰って夫に話した。「わざわざ行ったかいが無かった様な気がする。中級講座になったら本格的に司会の内容に入ると言ってたけれど…」講習会場の金沢の平安閣は、総合結婚式場なので、シーズンオフをねらって日程を決める。やがて中級講座の案内が届いた。同じ会場で同じく三日間、受講料も同額である。どうしようかと迷った。
「やりかけたことだから、行ってみなさい」と夫の言葉にそうかなと思い申し込みをした。
 中級講座の受講者は半分になっていた。きっと私の様に無駄だと思ったのだろう。講師は超ベテランの現役の司会者であった。司会とは…から始まり、マイクの持ち方、服装、女性のヘアスタイルは目にかぶさる様な前髪にしてはいけません。相手に目が見えるようにすること。めがねはライトで反射するのでコンタクトレンズが良い。この様な場合、あの様な場合、失敗例、成功例等々、実にこまかいところまで説明してくれた。中級講座を受講したおかげで、初級講座での話し方がいかに大事な基礎であったかがわかった。
 家に帰って、受講して良かったと夫に話した。三ヶ月ほどすぎて上級講座の案内が届いた。勿論申し込んだ。
 上級の受講者はまた減り十一人になった。結婚披露宴、芸能発表会、記念式典、告別式、その他諸々。お互いに司会者になったり客になったり、実際にやってみた。私の声はマイクにとても良く通る声だと言われた。詩吟をやっているおかげだと思う。
 上達するには経験を積むこと。他の人の司会を見たり聞いたりすること。ハプニングをすみやかに対処できて、初めてプロと言えるのである、と教えられた。
 三日間の講座を終り修了証書が手渡され、そして日本儀礼文化協会司会師として認定された。
 最後に講師より贐(はなむけ・旅立ちや門出に贈る品物・金銭または詩歌など)として、次のような言葉が贈られた。
「皆さんはこれからそれぞれの土地で、司会者として活躍していくことでしょう。経験を積んで最高の司会者を目ざして下さい。決して最低の司会者にはならないで下さい。最低とは「拍手をどうぞ」を連発する司会者です。拍手は強請するものではありません。ここで拍手が欲しいと思ったとき、自然に拍手が出るように仕向けるのがプロというものです。勉強して下さい。」
 いよいよプロとして本格的に司会業をスタートさせた。主に結婚披露宴の仕事が入ってきた。自然に拍手が出るようにするにはどうしたら良いか。あの様な場合、この様な場合と、経験を積むほどに要領がわかってきた。思った様に拍手が出たときの気分の良いこと。「うまくいった!」と心の中で叫ぶ。
 ものすごく緊張する仕事であるが、司会は楽しい。
○女の人ですか?
 Gホテルの玄関は、一目で結婚披露宴の帰りと思われる人達でにぎわい、次から次へ来るタクシーを待っていた。
やっと私の番がきて乗り込むと、
「お客さんは結婚式の方ですか」と聞かれた。「ハイそうですよ」と答えて私はハッとした。結婚披露宴に出席となれば正装、しかも女性のそれは特にはなやかである。その人達のために「至急ホテルに直行」との無線を受けたタクシーに、平服の客が乗った。「ああ、私は着替えて来たのです。早いでしょ」「ハア…やっぱり結婚式のお客さんですか。あの…お客さんには、おみやげがつかなかったのですか」なるほど、ほかの人達は大きな引出物の包みを持っている。
「私には引出物はつかないのです。司会をしたのですから」
「司会? 女の人がですか? 引出物はつかないんですか」
「ええ。私は招待客ではなく、司会をするのが仕事ですから」
「仕事ですか。女の人がねぇ」
運転手さんとは家に着くまで話をした。
 日本儀礼文化協会認定の司会師として、八戸市はもちろんのこと、青森市、十和田市、二戸市と、司会の仕事を始めて三年目、昭和五十九年頃は、まだ女の司会者は珍しかった。打ち合わせに行くと「えっ? 女の人ですか」とよく言われた。大丈夫かなあというような顔つきをする。こういう時こそ私には闘志がわくのである。
 司会には詩吟が役立つ。新婦がお色直しで中座するとき、衣装に合わせた内容の和歌を朗詠する。打掛の紋様が鶴の時とか、花の紋様とか、白無垢の時とか、私のオリジナルである。女なればこそである。
○結婚祝いの詩
「あれ? 中村さんが司会ですか?」
「そうですよ。お待ちしていました。今日もまたよろしくお願いしますよ。」
「またですかあ。中村さんに会えばこれだからなあ。わかりました。」
この様な会話を何度かわしたことだろう。
 あれは私が司会業を始めたばかりの頃であった。私の担当する結婚披露宴に、八戸水産高校校長のAさんが現れた。Aさんとは古い詩吟仲間である。数日前の披露宴の打ち合わせで、今日の来賓祝辞はAさんであることを当然私は知っていたが、Aさんは驚いた。
「えっ? 中村さんが司会?」
「そうです。私です。今日の新郎さんは教え子さんだそうですね」
「そうです。一年、二年と担任だったんです」
「そこでお願いがあるのです。お祝いの詩吟をやって下さいませんか? 結婚祝いの詩」
「えっ? 私が頼まれているのは祝辞です」
「そうです。その祝辞をのべたあとに吟じて下さればいいのです」
「だけどたのまれたわけでもないし…」
「新郎さんもご両親も、校長先生が詩吟をやっていることなど知らないわけでしょ。だからたのむとかたのまれるとかではないんです。祝辞をのべたあとに、私は趣味で詩吟をやっています。つたない吟ではありますが結婚祝いの詩を吟じて贐とさせて頂きます。と言って吟ずればいいのですから」
「それもそうだけど……」
「新郎さんの心に一生残りますよ。何のために詩吟をやっていますか。今役立てなくてどうしますか。」
「そうだな、だけど急だしな、うまくやれるかなあ」
「大丈夫。大丈夫」この様なわけでこのときAさんは祝辞のあとに結婚祝いの詩を吟じた。とても立派だった。
披露宴が終わったあと新郎のお父さんが言った。
「校長先生がうたったのは詩吟というものですか。いいもんですなあ」と。
Aさんとは、来賓祝辞と司会の関係で度々一緒になる。その度毎に詩吟をお願いした。
「またですか」と言いながら快く吟じてくれる。新郎新婦にとっても、ご両親にとっても、仕事を している私にとっても、お祝いの一吟は心に残る一コマである。
 ある結婚披露宴で余興の時間になったとき「私は詩吟をやります」と名乗り出た男性のお客さんがいた。「詩吟ですか。ちょうどよかった。すぐ次にやって下さい。何を吟じますか?」
すぐ次と言ったので男性は少しあわてたようだ。急いでポケットから本を取り出した。見ると私達と同じ教本だ。どちらの詩吟の会の方かなと思っていると、彼はページをパラパラとめくっているが中々みつからない。
「結婚祝いの詩ですか」
「うん」またパラパラとめくっている。
「六十四頁ですよ」
彼は六十四頁をめくって
「えっ?」と私の顔を見た。
「あんだ、なんで覚えているの?」
「ま、いいですから。どうぞステージへ」とうながした。
結婚祝いの詩を習いたての新人さんの様だが、中々しっかり吟じていた。しばらくして温習会があり、その彼とバッタリ会った。目をまんまるくして驚いていた。私と同じ会の会員だったのだ。

「私のありがとう」7


四月二十五日金曜日に開催されました。
次の方々がご参集くださりお話いただきました。参加者を一行で紹介します。
○犾守 レイコさん  
根城九丁目でレイコ美容室を開いております。閑静な住宅街にあり落ち着いてメークアップをうけることができます。電話44-7924
ご子息は高校英語教師、仙台を拠点にシェクスピア・カンパニーと言う30名ほどの演劇集団をもっていて各地で活躍中だそうです。
○鈴木さんご夫妻
 旦那さまは元デーリー東北新聞社勤務、奥さまは現在も洋裁のお仕事をしています。お住まいは田面木の高専の近く。
○木村さん 
モード・ユキ 洋裁師 洋服仕立資格一級保持者。日本技能コンテストで全国の3位入賞が看板。
○富岡すみ子さん 
 売市緑が丘でお酒のお店富岡酒店 電話43-4055を開かれております。
町内会長をされておられます。
○三浦 一雄さん 
インターネットで話題の健康食材ヤーコン販売しております。
○三浦 さん奥さま 
サチ美容室オーナー 
長者本店電話44-7-726 市民病院支店
電話44-1029
○清水 政夫 さん
 ㈱テクノ中央 各種塗装他 本社 新井田電話25-6789 三沢営0176-50-7231 十和田営0176-2-1334 久慈営0194-53-0059 青森営017-788-6919
○森越 さん 
トヨタ販売 部長
○掛畑 さん 
新井田地区で36年、大学生等のアパート経営。老域になり廃業を考えたが厚い要望に再開を果たし、現在継続中。リッチにもハワイに別荘を所有している。
○森園 秀一さん  
 八戸市議会員 活躍中
 奥さまはサンケン・プロジェクト木工品加工の会社を経営。
○坂本みちのぶ さん
 八戸市議会員 活躍中
ほか経理士と神官とを兼ねている。
○小針 さん    ご欠席
○石鉢 さん    ご欠席
○吉成 さん    ご欠席
○北村 進 さん (有)北進 社長 
○北村 道子さん 
特定非営利活動法人コスモス園友愛の会
 園長
○小川  真  月刊 はちのへ今昔 発行人
  約4ヶ月におよぶ 四国、九州などの乞食?旅の話と人生論?キリストからお釈迦さま四苦八苦など各種、有意義漫談を披露し大人気。
○月舘 弘勝  月刊 はちのへ今昔 編集長
 編集長の口癖。 誰でも限りのある命、天から 頂いた此の世の乗車キップには行き先も終着の場所も書いておらんと。さて、お迎えはどこまで来てるのやら、明日かも知れず、今日かも知れず。こればかりは自分の意思では決められず。ある日突然に「ハイここまで、これまで!世」
あっちに逝ったら帰って来た奴ぁ一人もいない片道キップ。たった今、言いたいことは言ってしまおうョ。やりたいことはやってしまおうョ。思いを残してあっち(彼岸)に逝っても、この世(此岸)にゃ二度とは戻れない。化けて出るにはパワーがいるわい。銭はあっちじゃパワーにならぬ。さぁてさぁて、お立会い、言いなょ書きなょ、今でなきゃ、不平、不満もあったろな。楽しいこともあるじゃろな、生きた証しに残そうよ。ありがとうの一行も馬鹿野郎の四文字も、書きます、刷ります、残ります。感謝の気持ちが残ります。

読者の広場 1


桜と○ん○
                北村 道子

 冬に主人が剪定した庭の桜が咲き始めた。
友人と花見をしよう、と声をかけた。
昔は観桜会と言った。
庭で炭火に網をかけシイタケ、ホタテを焼いた。
ワインが程良く体に回り出し四人は皆、饒舌になった。てんで(それぞれ勝手に)に自分の話を主張する。ワイワイガヤガヤ。
ご馳走をたっぷりと食べながら青年のようなる七十二歳が話しだした。
 「戦後、間もなくだが、我のガキの頃なあ、農家の人が馬車に肥樽(こえだる㊟木で出来たドラム缶状の樽)を沢山積んで、来たもんだ」「何しに?」「決まってるべな、雲古せー」大家族なので大量だ。「銭、なんぼ払うの?」「払わない」「まさかー」農家の人が良質?な畑の肥料を求めてやって来る。「雲古にランクがあるなんてー」
あるんです!伸び盛りの若者を扱う学校のはカスだったようだ。成長期の子供は栄養を全部吸収するのでか?納得。
代償は農家の方が持って来る。現場は見てないが親父から聞いた話で雲古の品質鑑定?に直接、指を突っ込んで舐めてみて酸性だかアルカリと言ったとか。「信じられなーい」
当時は、農作物の貴重な肥料であった。
 そんな訳で、当時の人は皆んなでお腹の中に回虫、サナダ虫をかかえていた。
私の主人が言うに、現代でも農業博士等は、やはり土を舐めてチッソ、りん酸、カリ、何%と言うそうだ。「ほーら同じじゃないかハハハハ」(笑)
「だから真面目に雲古は宝もの、そう、上物?は金色をしているもんな、今は水に流してしまい、もったいない」と程よく焼けたホタテをぱくりと食べて平気の平左の七十二歳。
 秋になると、我が家にはジャガイモ、大根がどっさり届いたものだ。小中野の人達は豊富な魚を食べていたので栄養価の高い雲古で農家では定評?だったそうだ。
戦前生まれの彼と、戦後生まれの私では簡単に話が噛み合わなかったが、笑いすぎて目から涙。いや、目からウロコ。はちのへの今昔の勉強になりました。
まさに、これとてベン学だがとんでもないお花見になったものだった。
食べ過ぎ飲みすぎ浮かれすぎ
最後の締めは、
「花より●ん●」とイキマスカ。
「あなた早とちりしてはいけませんョ」
花よりだんごです。
サクラも満開とても素敵な花見でした。
 



鹿児島への旅
                北村 道子
 五月の連休に知覧と桜島と篤姫の故郷を訪ねた。
知覧の特攻隊の平和祈念館は涙なくしては語れない。恋も愛も知らない若者たちのワンちゃんを抱いた少年たちは、大空のひとひらの花びらとなって散って逝った。
胸をえぐられるような思いの遺品の手紙、遺書の文章は涙で霞んだ。
爆弾を積んで片道の燃料だけの神風特別攻撃隊一〇三六名の散華。二十歳前後、十六歳もあった。彼らはいったいどんな思いで飛んで逝ったろうか。到底現代の若者たちでは理解でないでしょう。
そして「日本を守る」の精神はどこから生まれたのでしょう。
 桜島を一周したが噴火爆発の岩石がごろごろとあり、自然現象のその凄さ、恐ろしさを足の裏で感じて身震いするおもいだった。そんなとき遠くに聞くウグイスの音に心が救われた。
 篤姫の生まれた指宿や島津の殿様の考え、別荘、産業、西郷様の身を寄せた穴、洞くつに触れてみてすべてに感慨深いことであった。  



浅水川に桜を植えたい!
 北 大介(元PTA会長)
桜といえば弘前公園。お濠の周りで、水上に覆いかぶさる桜の連なりは圧巻だ。満開を見れた人は、次は、散った直後のお濠も見るべし。水辺に漂う桜の花びらが、絨毯になって鮮やかな桜色を空に向かって放っている。お濠の水は流れがないから桜絨毯ができる。
流れがある川辺の桜並木も壮観である。
静岡県河津町(かわづちょう)には、天城山系から流れる河津川で、五十年ほど前、地元の住民が河川敷で一本の苗木を見つけた。それが、八百本にまでなった。「河津桜」という新種の桜だ。早咲きで、一月下旬につぼみになり、三月上旬までに開花する。一足速くお花見観光客が訪れているとのこと。桜があれば、河川敷をきれいにしようという気持ちが湧いてくる。
八戸駅の近くには、三条小学校がある。その隣には浅水川。この川は、一級河川馬淵川の支流で、新郷村の野沢温泉近辺から注がれ、五戸町の浅水を通り、尻内で馬淵川と合流する。平成十一年十月の大洪水を機に、張田のあたりから馬淵川へ向かって、浅水川放水路が造られた。これは洪水を逃がすための大切な川。洪水がなければ、水は流れていない。草や木が生い茂るばかりだ。あんまり草木が多いと、川の流れを妨げる障壁になり、草木は根で土をしっかりつかむので、洪水のときに放水路に水を流すと、土をつかんだ草木が、土ごと流され、その結果、放水路の土がたくさん流されてしまう。川は、水が流れるところ。雑草や雑木を生え放題にしてはならない。
平成十九年十月、上長地区住民が、三条中学校校庭の本格的造成工事に挑戦し、見事に完成した。その立役者の一人は、「上長に育てられた」と言って、地域に恩を返すために参加。そして、浅水川放水路の河川敷に、一人一本の桜の苗を植えることができないかと考えている。自分で植えた苗木は、栄養をやったり、草刈をしたりと手塩にかけるから、河川敷の管理もすることになる。この植樹は、地区のご老人方が主体となって、「孫のために」行うことがポイントだ。自分のためではなく、地区を担う次代の子供達のためなら必ず成功すると確信している。桜が大きくなれば、河津町のようにたくさんの人が訪れることは間違いない。そうすれば、国も県も注目して、河川敷をもっと安全に対応してくれるはず。
かつては、浅水川に桜があった。昭和十六年五月十五日付け奥南新報には、同年五月三日に、浅水川の正法寺にある姥水門の堤防に桜見に訪れた磐城セメント八戸工場の小室工場長と、日東化学八戸工場の秋葉工場長が、地域で作った蓬もちとそばかっけを食べて、たいそう喜んだという記事がある。
「・・・上長の姥水門の堤防に桜見と洒落れた去る三日、野趣たっぷりな蓬餅や蕎麦かっけがでた。これを食べた異郷の人、小室磐城セメント八戸工場、秋葉日東化学八戸工場の両場長が口を極めてほめたたえ、石田屋などでなぜこれを出さぬだろう、こんな結構なものを出してくれるなら、旅行する人々はいかに旅情を感じ、八戸にあこがれることとなるであろう、と。」
さて、河川敷に工作物を設置する際には、国(国土交通省)の許可が必要だ。
河川法第二十四条(土地の占用の許可)
 河川区域内の土地(河川管理者以外の者がその権原に基づき管理する土地を除く。以下次条において同じ。)を占用しようとする者は、国土交通省令で定めるところにより、河川管理者の許可を受けなければならない。
そして、細かい基準が「河川敷地占用許可準則」に規定されている。その中で、許可を受けることができる者は、地方公共団体等公共性又は公益性を有する者に限定している。
また、植樹については、「河川区域内における樹木の伐採・植樹基準について」(平成十年六月十九日建設省河治発第四十四号)というのがある。この中でも植樹の実施主体は、原則として地方公共団体又はこれに準ずる団体となっている。民間団体が植樹した場合は、その樹木が地方公共団体等に引き継がれることが条件らしい。維持管理が確実だからであろう。堤防への植樹については、堤防の安定性を損なうことがあることから、堤防部分に植樹することはできないとのこと。しかし、「桜づつみモデル事業」というものがある。堤防保全対策(盛土や縁切り施設及び水抜き施設等)をした植樹事業だ。これは、国土交通省が昭和六十三年度から始めたもので、最初は、弘前市の岩木川が認定された。この事業の対象となる河川は、①河川及びその周辺の自然的・社会的・歴史的環境との関連から、良好な水辺空間の形成が求められている河川、②市町村及び地域住民の良好な水辺空間の整備及び保全についての熱意が高い河 川、③桜づつみに必要な用地が既に確保されているか、市町村等により確保されることが確実な河川、④事業実施予定区域が、河川改修事業等の区間に含まれていること(一級河川の指定区間、二級河川及び準用河川の場合)、となっている。
上長地区の住民が、浅水川に桜を植樹するには、この4つの条件をクリアするのは極めて困難だ。なにしろ河川改修計画がない。しかも、植樹用地の確保や維持管理のためには八戸市の協力も不可欠になる。柳が生え荒れ放題の浅水川放水路は、人の手で管理する植樹は許可制。しかも、堤防には植樹は許可されない。
ところで、福井県鯖江市(さばえし)にも、「浅水川」という名前がある。鯖江市は、人口六万七千人で、眼鏡フレームの製造業が多く、国内九〇%以上のシェアを誇る。市の木はつつじ、市の花は、桜だ。同市のホームページを覗いてみたら、なんと桜並木のある浅水川だった。
さあ、はたして浅水川に桜を植樹することができるだろうか?不可能を可能にする醍醐味を、また味わいたいものだ。(本稿は、三条小学校PTA新聞「みらい」第二十一号平成二十年三月十九日発行に掲載した筆者原稿を加筆修正したものである。)
売市の読者から八戸にこんな勇敢な人がいたことを伝えて欲しいと連絡があった。
時は昭和十五年五月十二日、世界は風雲急を告げ、ドイツ軍はベルギー、ルクセンブルグへ侵入、戦火は次第に拡大。日、独、伊三国同盟の日本は中国各地で戦火を交えていた。
奥南新報 五月二十五日号
売市出身、川口曹長奮戦
共産軍を殲滅す
殊勲 僅か十二名で
市内売市二九出身川口愛丞曹長の武勇伝、去る十二日午前二時頃北支京漢線臨洛○付近に千六百名内外の共産軍が襲来しその内の二百余名は駅南方の我がトーチカを攻撃し来たった。急を聞いた臨洛○駅警備隊では直ちに市内売市出身川口曹長以下八名をして之が救援に赴かせたが線路に沿って千米程南進した地点千六七百名の敵と遭遇し敵の監視兵が生意気にも誰何(すいか・誰かを訪ねる)してきたので川口曹長は直に部下を展開せしめ敵の側面から猛烈な攻撃を開始した。激戦一時間半に亘った。川口曹長は足部に貫通銃創を負い相当の重傷であったが責任感の強い曹長は部下にも知らさずなおも指揮を続け遂にこの大敵を撃退しトーチカに駆けつけた。トーチカの中には我が守備兵は僅か四名だけであったが二百の敵を引受けて少しもひるまず応戦し敵も攻めあぐんで退却したのを元気な兵士等はソレッと東南方に壊走する敵を追撃して散々に射ち破り凱歌を奏して引き揚げた。敵の遺棄死体五十余、負傷者は捕虜の言によれば百を下らず我が兵士 等のあまりの強さには敵は驚いておるとのことである。しかも重傷を負った川口曹長は救援に来た装甲列車の到着を待ってはじめて負傷したことを告げ応急手当を受けたがその責任感の強い郷土出身者の行動を激賞されている。
読者の広場は現在・過去・未来すべてに渡り掲載するので連絡ください。

美術館を考える

多誤 策
奇抜さだけの十和田市現代美術館
平成廿年四月廿六日鳴り物入りで開館した十和田市現代美術館を五月のはじめに訪ねてみた。新しい館のこけら落としだ。
新しく建てられた十和田市立現代美術館は十和田市の官庁街通りの一角、場所としては街の雑踏を避けて閑静なところなので申し分なかろう。ここの通りは以前から垢抜けしていて好もしいと思ってた場所である。駐車場は館の裏側に十台程度で、あとは広い道路の向こうにある。高齢者にはちょっと大変だ。半数は車椅子マークで健常者用は二台ほどである。(後期高齢者は来るな!か)此処でも私の臍は曲った。
建物は全体が純白で清楚感があり雪のイメージなのか?「どこかで観たゾー」金沢市の二十一世紀美術館だったかな。ああ、青森県立美術館のこけら落しに行ったときもそうだった。真っ白の部屋や通路であったが髪の毛と衣服の綿ぼこりが隅にワンさかと積もっていて気持ち悪かったのを思い出していた。十和田市現代美術館では裏口から入った。真っ白で長く、せまい湾曲した誘導路を進むと正面の入り口につながっていた。
常設展500円と企画展400円、計900円
五人分、四千五〇〇円の大枚を払い入館した。
券売機の仕組が複雑で受付の女性が懸命に説明するが難解だ。しかも一枚毎の券のデザインが異なり、また混乱する。サイズが小さく貧弱「企画展にも提示を求められるので無くしないように」と言われたが簡単なクリップなどの一考を要するものだ。
次は会場に進もうとしても入場者が無く、順路がわからない。表示が小さく迷い道に踏みこんだ感じだ。分からぬものも戸惑いも芸術と押しつけられてはたまったものではない。
白い通路と白い展示室の隅という隅に綿ボコリである。対策としては徹底した清掃しか方法は無いのであろうが、残念なことに県立の美術館とおなじ轍(てつ=同じあやまち)を踏んだようだ。
有名と言われる歴代の制作家、芸術家であっても一般人にとってはなじみの薄いものばかりで、関心を持って頂かなくては只の一回こっきりで二度と行って観ようとは思わないであろう。
やはり此処もねぶた感覚で大型、びっくりさせるだけの思考であったか。
各部屋の展示を観て。
常設展の作品は二十点あまりだが開設シートの記載説明では不充分である。「世界で活躍していて有名な芸術家だから不満は言わずに黙って観賞せよ」とは、時代劇の水戸黄門の印籠と同じではないか?
私が知るところでは地元や近郊の美術家、芸術家も数多くおられるがその作品が一点もなく、これは一体どうしたことか?若い地元の芸術家の励みになろうかと思うがもっと購入し展示して頂きたい。名が売れ作品も売れたら高価買取してやろうとの態度が私は気に入らない。
また、現代美術作品と近代美術作品との線引きはどのようにして決めているのか知りたいところだ。一般の絵画作品はもう、古代の遺物的考えまで飛躍してもいいのだろうか。
先端の電子技術を駆使しても場合によってはアートからは、ほど遠い科学技術でしかない。
キム・チャンギョムのメモリー・インザ・ミラーの映像表現にはちょっと興味を惹かれたが小さなレベルでの音声か文字で簡単な説明の挿入が欲しかった。人生の時間の経過の表現と観たが頭の回転のよろしくない私には難解であった。
どうも、すべてをどう解釈しても勝手が芸術とはメッセージのなんたるか?というところまで考えなくてはならないものか。
巨大で不気味なお婆さんの像。お腹がたっぷりと出て髪の毛までもリアルさが売り物だとか。
「おお、メタボリック・グランマー」と私は声をあげて見上げたがそばに寄ったら今にも蹴飛ばされそうな恐怖感がたまらぬ。この婆さんの無愛想で不機嫌そうな表情から推察すると、日頃の不満が多く頭の天辺にストレスによる円形脱毛症があるのではないか?と思わずニヤリとしたものだ。髪の毛の繊細さを確めるだけではなく、そんな想像を馳せ周囲を螺旋階段などにして上から観れるようにしてはどうだろうか? 作者はロン・ミュエクとあり、この作家は大理石の彫刻が得意であるが、いったい、この巨大なヒステリー婆さんの素材はなんだろうか。そんな説明がほしい。「食べ過ぎたら、こうなりまっせ!」のタイトルはいいと思うがそこまでふざけることはシャッチョコ立ちしても出来まい。
大きな都市の有名美術館に入ると何がしかの企画展も併設されていることが多い。時として外れの悔しい思いも数知れない体験しているのだがここも残念ながらそのひとつに入ってしまった。
オノ・ヨーコ の作品なるものを初めて目にしてやはり天才のものは凡才の爺では飲み込んでも消化不良であった。数多くの丼鉢に水を入れて並べても有り難がって観る。私と同年くらいの男性は「教養に触れるのは銭が掛かるもんですなー」とため息まじりであった。他には「これぁサギですなー」大きな声を張り上げていたジェントルマンがいた。周囲を見ても鳥らしき姿はなかった。ジョン・レノンの名にかりた名声と言いたかったのだろう。私もあまりにも難解で何回?観てもわからぬことと諦めたものだ。現代アートでしかも思いっきりの前衛芸術とあって、これはどこかの新興宗教に似てなくもないと変な納得の仕方でデロ(出口)に向かった。
人口の多い大都会では可能でも地方では成り立たないのが芸術の部門と私は理解している。
「莫大な費用をかければ芸術は可能」と国家も地方自治体も勘違いされて走り出されては国民、市民はとんでもない迷惑を被るのである。

2008年5月24日土曜日

秋山皐二郎、回顧録「雨洗風磨」東奥日報社刊から 6

初年兵教育を担当 殴ったことなどない
 青森の五連隊では、初年兵教育を担当しました。最初の教え子は、八戸に今もいる吉島栄蔵君や青森市長になられた千葉伝蔵さんの息子の栄蔵君、小湊の辻村酒屋の辻村真太郎君らがいました。「君たちは、とにかく必ず戦場に行くのだから敵の前に体をさらさないことが重要だ」と言って訓練しました。射撃や夜間演習も徹底して鍛えました。
 射撃は私自身も得意でして、銃から弾丸を抜いて二人を並んで立たせ「おれの目を狙え」。銃口は静止しようとしても駄目なんです。小さく円を描くようにして、標的に合わせた瞬間に撃つ。集中力を保てるのは二秒間ぐらいでしょう。
 私は射撃では三百討離れた標的を五発中四発は命中できるくらいでした。連隊では銃の「照星」調整の資格を持っていました。防弾チョッキの試作品の試射もよくやりました。ただ、ピストルは、なかなか当たりませんでした。満州に行った時にキジを撃とうとしたんですが、駄目でした。京都の武道学校出身の騎兵隊の大尉がいて日本刀で飛んでいるキジを切るといって馬で走り回りましたが、これも駄目でした。
 また手榴弾も私は六十米投げて連隊では一番だったんですが、巨人にいた沢村投手が、なんと七十三米も投げたと聞いて、さすがだなーと思いました。硬式ボール二個分ぐらいの重さがあり、円筒形ですから、回転するように投げるのは難しいんです。
 私が教えた吉島君らの初年兵は、鍛えたお陰で連隊の中でもトップクラスの精兵に育ちました。初年兵教育は六回やっていますが、私は兵隊を殴ったりしたことは一度もないんです。どうも日本の軍隊は人間関係をないがしろにしていた面があって、殴るなんてのは日常茶飯時でしたが…。
「秋山隊」の交流今なお
 今でも、私の教え子とは交流が続いており、県内はもちろん、山形県や秋田、岩手県などに散らばっています。八戸市内に住んでいる諸君は「五竜会」という親ぼくの会を毎年、開いていますし、「秋山隊」の会も各県持ち回りで開かれています。
 酒に強くなったのは、このころで、めっぽう酒好きな中隊長が、私の下宿していた柳谷さんの家の真向かいに下宿していて、夕方になると二階の窓から「おーい、秋山少尉は、いるのかー」と大声で呼ぶんです。「はい、おります」と答えると「飲むぞ」。
毎晩のように引っぱり出されて、青森市内を随分と飲み歩きました。かなり酒には強くなったというか強くさせられました。
 ところで、私は十三年の秋から約十ヵ月間、陸軍戸山学校に派遣され実戦訓練を受けました。この時の訓練は、生涯で最も厳しいものだったというのが実感でした。
 当時、戸山学校は傷病兵の入院用宿舎に充てられていて、市ケ谷にあった士官学校の一隅に営内居住を命じられたんですが、毎朝、駆け足で戸山学校まで行く。早朝の銃剣術のけいこ、普通に正課の訓練、射撃もありましたが、授業を受けて、夜にも訓練がある。戸山が原の原野で銃剣術をやるんです。凸凹の原野ですから中腰じゃないとバランスがとれない。銃剣を持って「前へ、後へ」とやるものですから、最初は足がはれ上がって湿布しなくてはならないほどでした。
 ただ、土曜日の午後から月曜日の午前九時までは外泊許可。学生時代に世話になった福田剛三郎さんの所へ行ってふろに入って、うまいものを食べる。疲れ切って寝るだけでしたが、ホッとしたものです。
 日比谷に「味の殿堂」というのができて、将校仲間と三人でマツタケを八十円分食べたこともありました。営内居住で一ヵ月三円五十銭しかかからず金を使うことなんかなかったんです。紋付きの羽織とかカシミヤ入りの二重マントなんか作っても金が余りましたから…。
石田家の娘と結婚
 戸山学校を卒業し青森五連隊に帰ってすぐの昭和十四年八月に、中支への兵員輸送指揮を命じられて、兵隊とともに大阪港から南京へ向かい安慶までいきました。
 南京が陥落して、銀座でちょうちん行列が行われたのを戸山学校在学中に見ていましたし、南昌作戦が開始される時期だったものですから、このまま、前線に派遣されるのではないか…と考えていたら、八師団から命令が来て「原隊に帰れ」ということで、一ヵ月後に単身、一〇〇トンぐらいの輸送船で帰って来ました。
 十四年十二月に中尉に昇進して、そろそろ召集解除も近いというので、前々から話のあった現在の妻と結婚することになりました。
 妻は鮫の石田家の娘でトヨといいます。石田家の祖母は私の母の姉です。石田家は、もともと秋田県の毛馬内の出身。八戸に移り鮫の埋め立て許可をもらって旅館を始めたんです。
 娘さんに長谷川村次郎さんという方を養子に迎えていたんですが、その娘さんが子供四人を残して亡くなり、母の姉が後添えに入ったんです。そして長男の石田正太郎に自分のめいに当たるミヨを実家から連れて行って嫁にしました。現在もミヨさんは九十三歳で健在です。秋山家と石田家は、古くからの親せきだったわけです。
 結婚は十五年五月、とにかく簡単にやろうというので、土曜日に青森から帰ってきて浜須賀の私の家で式を挙げ、日曜日の朝には青森に帰りました。
 新居は、下宿していた柳谷さんが捜してくれた浦町の長屋。樋口さんという五連隊出入りの商人の方の持ち家でしたが、隣の隣に山崎岩男さんが住んでいました。防空演習なんかは、私の妻と現参議院議員の山崎竜男さんの奥さんらが一緒にやったそうです。
  十五年七月に召集解除 再び大阪で働く
 十五年七月三十一日付で召集解除となり、大阪に再び行ってサラリーマン生活に戻りました。会社は、各油脂会社が合同して日本油脂販売会社に変わり、間もなく、油脂統制会社となりました。いわゆる物資統制令による国策会社となったわけです。
 私の仕事は、統制課長。給料は初任給のまま据え置かれて一ヵ月六十五円でしたが、年に二回も昇給があったりして、それほど苦労はしませんでした。景気も良かったようで、ボーナスが年二回七ヵ月分、年末にはもち代として百円、それに加えて私には特別賞与が出ました。「きょうの仕事はきょうのうちに片付ける」というのが叔父秀之肋からたたき込まれた私の主義で、小樽高商出の支店長に「秋山君は、とても東北人とは思えないなあ」と言われたぐらいの仕事人間だったようです。
 住まいは兵庫県南東部、阪急沿線の西宮北口で、日曜はプロ野球を見に行ったりしました。仕事は、すごく忙しかった。京都の油脂工場と九州小倉の工場が私の担当、京都には週一回、小倉には月一回、必ず出張して、工場の操業状況と製品の出荷状況を点検、報告書を作成していました。
 幹部候補生で同期だった原文兵衛君も召集解除で満州から帰り、ちょうど滋賀県警の警防課長で赴任してきていました。京都に出張すると原君と一緒に木屋町あたりで、鳥の水炊きなんかで一杯やる。原君が大阪に来た時は、私が瀬戸内海の魚をごちそうするという具合で楽しみました。

開戦のころ 
せっけんは容易に入手
 大阪時代は徐々に戦時色が強まってきたとはいえ、まだ物資もそれほど乏しくはありませんでした。小倉への出張では名物のフグも食べましたし、みやげには塩ウニを下関から買ってきたりしました。鮫の生まれで、前浜のウニを食べて育った妻には、かなり不評でしたが…。
 当時、大阪駅の近くにお年寄りの靴職人がいて、出張帰りなんかに顔を合わせると「いい皮、入ってまっせ」と言う。「じゃ靴作ってくれよ」というので、なんと十五足も作ってしまった。戦後も、かなり長い間この靴を次々にはきました。
 油脂販売の総元締めだった関係でせっけんやバター、食用油が容易に手に入れられるのは、統制経済の中では貴重なことでした。せっけんは「カオリン石けん」というのが普通に出回っていた。
 カオリンとは、磁器なんかを焼く時に使う非常にキメの細かい粒子の砂なんですが、これを増量するために入れていたんです。いくらキメ細かいといっても砂ですから、洗たくなんかしてゴシゴシこすると繊維が切れてしまう。
 本物の洗たくせっけんや高級化粧せっけんは貴重品でした。飲みに行く時なんかは、せっけんを待っていく。ビアホールで「このせっけんで飲ませてくれよ」と言うと、かなりサービスしてくれました。カネボウが「絹石けん」というのを売り出して大当たりしたのも、このころです。「絹」の意味は、カイコのさなぎから採ったさなぎ油で作ったせっけんということなんです。
 油のこともかなり勉強しました。例えば乾性油と不乾性油。ゴマ油が乾性油の代表。不乾性油はピーナツ油。桐油は傘に塗ったりする。最も溶融点の高い油は、南末座のカルナバロウの葉から採ったもので、電線の絶縁用被覆に使われていました。セ氏六〇度ぐらいまでは大丈夫なんです。ハンコの朱肉やインクなんかにも油を使う。油脂製品というものの、範囲が広いのには驚かされました。
接待攻勢、後に教訓
 関西商人のしたたかさに触れたのも大阪時代。統制経済もなんのその。「今回はウチが製品一手引き受け。もうけさせてもらいまっさ」「ホナ、次はワテとこで」。今でいう談合がちゃんと出来上がっている。
 「秋山さん、ボクシング見に行きまへんか」とか「きょうは、お食事でも」と妙になれなれしく近付いてくる人もいて、何度か付き合っているうちに、どうも製品在庫が少なくなっているのに気付いた。
 ある日、早く帰るふりをして見張っていたら、会社が終わってだれもいなくなったところを見計らってトラックが現れた。さっそく、とっちめてやりましたが、この時の接待攻勢は、後年、八戸市長になった時のいい教訓でした。夜のお付き合いは、自ら戒めて受け付けませんでしたから。

太平洋戦争開戦(昭和十六年)長女誕生
 十六年の十一月に長女が誕生しました。摂津の国で生まれたんだから「摂子」と名付けようと思ったんですが、秩父宮妃殿下と同じでは恐れ多いということで、祖母ヨシと妻トヨから一宇ずつとって「敏子」と名付けました。声楽家の関谷敏子女史が活躍していたこともあり「がんとたたけばピンと響くように」と願ってのことでした。
 幸い長女は元気な子供で、十ヵ月目には立って歩いた。大阪府の健康優良児にも選ばれました。ただ、行動は名前の通り敏しょうで、日曜日の私の仕事は、家の障子の修理という羽目になりましたがね。
 長女が誕生した直後に、太平洋戦争が始まりました。会社のあったビルの屋上で「開戦の報」を聞いた記憶があります。
 十七年の十月に東京本社への転勤を命じられ、長女・敏子をリュックサックで背負って、大阪を後にしました。
    
満州時代
統制違反で原氏の世話に 再び召集令状来る
 私が東京本社に戻ったら、原文兵衛君は、もうすでに警視庁の警務課長になっていました。本社は丸ビルの六階にありましたが、毎日、学徒出陣を見送りました。
 各大学の校旗を先頭に学業半ばで出陣する学生を送りながら、私にも、そのうち召集が来るに違いないと覚悟は決めていました。
 統制経済が強化されて、物資不足はかなり深刻になってきていました。せっけんとかバター、食用油だけは、容易に手に入ったものですから、近所の八百屋や魚屋に分けてやると、野菜や魚類は時々、食べることができました。なんでもてんぷらにして食べました。その方が少しでも栄養になるわけですから。
 会社に行っても昼食はない。食堂も海藻で作っためんなんかしかなくて、一日二食だったんです。仕事の方も、統制違反で部下が警察署に逮捕されるなんてことがよくありました。
 そのたびに私は原君の所に行く。各署に電話を入れてくれて「原だがね。私の友人が心配してるんだ。よろしく」と頼んでくれる。所轄の署に行って身柄を引き受けて帰るんですが、署員から「どうして課長の所まで行くんですか。われわれは、いじめてるわけじゃないんですから」なんてよく文句を言われたものです。
 原君の所にせっけんなんかを届けて「バターとかはあるのか」と聞くと「うん、あるよ。大丈夫だ」と言う。考えてみたら、原君の奥さんは北海道の元知事たった町村金吾さんの一族で、広大な牧場を経営してました。
 召集令状が来たのは十八年十月。二十三日に弘前に入隊せよというので、会社での送別会をやってもらって、軍用コウリをかついで汽車に飛び乗った。妻は、ちょうど長男が生まれる直前で、東京に残して八戸に帰ってきた。湊本町の関床屋で長くしていた髪を切り、それを妻に渡してくれるように頼んで弘前へ行き、ホテルに一泊。
 翌朝、営門の前に行くと、五連隊時代の教え子たちが次々に顔を見せる。「おう、お前も来たのか。よし、おれの中隊さ来い」。兵隊たちの中隊所属は決まってなかったものですから、次々に引っぱって、自分で中隊を組織して北部一六部隊第一中隊ということになってしまったわけです。
 下関から釜山、シベリア鉄道に乗って黒竜紅省の訥河(ノンジャン)という所に駐屯しました。関東軍は、当時、盛んに部隊の編成替えをやっていて、南方へ次々に部隊を派遣していたんです。私も召集されるなら華々しく南方へと考えていたんですが、私たちが教育されたのは、いわゆる「赤本」と言って「対ソ戦略」だったわけで、満州とソ逓の国境地帯に配備されたんだと思います。

2008年5月22日木曜日

源のよしつねさまのこと 2


さても、よしつねさまは高舘から柏崎小学校のそばの類家の藤が森稲荷にちょくちょく参拝にこられやした。
時には本格的に願いをかけられたこともありあんした。そたらだ時は、よしつねさまが神さま事をなさいましてな、この神さまごとには色々と手はずが必要になりやんす。
そうせばなすー、晩げ遅くになりやんす、そうせば、類家から高舘まで戻るわけにはいがなぐなりやんして、たびたび類家のお稲荷さまにおこもりになるわけでなす。
そのときは稲守り小屋のような小さなものを茅でおつくりになられて、そのなかにお休みになったそうでなす、その小さな小屋がまるで家のようなものだ。
そこに家来の人達が出入りする、家の類(たぐい)だなとおっしゃられたことから、類家の者と呼ばれたそうでやんす。それが類家のことばの元だ そうだ。
まだ、ご装束の烏帽子を置くにも、小屋はちっさくて、置き場がねえ、だで、杭を立てて烏帽子置き場にされあんしてな、そこを烏帽子屋敷だとおっしゃられた。それが、ぼっし屋敷とかぼっち屋敷とか言われるようになり、帽子屋敷となったわけでやんす。
前にも言いやんしたが、お供の板橋の長治さま、この人が住んでおりやんしたのが、板橋村になったんでやんす、ほれ、糠塚の板橋、長者のお山の南側一帯のことを指しましょうや。この長者山は板橋の長治の山、ちょうじのやまが、長者の山と言われるようになったわけでごぜりゃんす。
いや。まったく本当で、嘘のまじりっけはすこしもありぁんせん。
この板橋長治さまは、奥州平泉の秀衡さまの三男の泉三郎忠衡の母方の叔父にあたりましてな、大変信頼を得ておりまして、金百両を預かっておりましたと。
この泉三郎さまはご長男を久慈に残し蝦夷に渡ったど。
よしつねさま同様にこのかたも苦労をなさいましたとも。

2008年5月16日金曜日

お荷物・八戸観光協会 自立できずおんぶに抱っこに肩車


商工会議所内を借りている観光協会とは何か。 今回はこれを徹底解明する。なにをしているんだかが不明なところで、市役所も建て直しのために職員を昨年度から送り込んだ。そもそも、何を建て直しするのかというと、
観光協会の収入は一億五千八百万円、そのうち九割が市役所からの金、内訳は
運営補助   千百万
観光宣伝等  千六百万
各種祭補助  四千五百万
コンベン   二百五十万
史跡根城広場 三千四百万
観光プラザ受託千七百万
博物館受付  九百四十万
合計一億四千百万円
観光協会が集めた会費は五百七十万円
全体の三・六%でしかない。この会費での運営を回避するには会員増強でしかないが、もともと何をしているか不明な団体に入会する者はいない。危機感を強めた協会は商工会議所の任意団体の集団に着目し、それらを包含して体面を保つ数字を確保。それがコンベンションだ。
そして名前も観光コンベンションとなった。コンベンションは和訳すると集会。
何故、観光協会が博物館の受付業務をしなければならないのか、ここに興味を持ち調査を開始。博物館に行政文書の開示請求をした。
すると、以下のことが浮かびあがってきた。
史跡根城の広場、観光プラザ、博物館受付は随意契約、または指定管理者制度となり、ここから一割の収益をあげている。これが六百万円。この金欲しさに妙な仕事に手を伸ばした。こんなことをせず、本来の観光業務に邁進するべき。
すると観光業務とはなんぞやとの疑問が生ずる。八戸市議会からは評判の悪い小林八戸市長は、いきなり事を発表する。議会や各党、会派に説明も相談もない。
これを議会は問題視しているそうだ。根回しがないのだろう。自分がトップだから、相談も談義も必要ないと踏んでいるから始末が悪い。議会制民主主義の時代、空気が読めないでは福田総理と同じ。尚悪いのは役人上がりだけに、政治の駆け引きを知らない、意志伝達手段の弁論にかけては零点。
人の心を開かせ、そこに彫刻するのが弁舌の骨子、
これが出来ないから大島代議士からも「空へた」と酷評される。言えばいい、伝達すればいいでは弁論のなんたるかを知らない。
聴衆を引込み魅了するような喋りこそ大事。その弁舌下手の小林市長も「観光こそ八戸活性化の総合力を発揮させる鍵だ」と着眼。これは至言。
観光は商業、漁業、農業を総合的に刺激できる重要なもの、観光客は金を使いに観光地にでかける、
宿泊、交通、みやげ物と金をふんだんに使う。その金を消費させる仕組みこそ大事なのだ。
その原動力となるのが観光課であり、商工会議所、そして観光協会である。
ところが、肝心要の観光協会は前にも記したように、観光とかけ離れたところでモゴモゴしている。
どうして観光協会がこんな惨めな団体になったかと言えば、観光協会長が無給という点に帰する。タダで動くのは地震と風だけ。
人が動けば金が必要となる。こんな道理は誰でも知っている。この惨状でも現会長は不平も不服も言わず長年その重責を担った。
いまこそ、その馬鹿げた仕組みを解消し、年間二百万円程度の報酬を支払え。この二百万円を支払うためには観光協会の会員を増やすことを条件とするべき。つまり会員を二百人増強できる人を一年限りの会長に据える。翌年も二百人増強できれば続投させるが、ダメなら次の人にバトンを渡す。
先ずもって八戸市民に観光協会の実体を知らしめ、外部から強力な人材を募ることだ。会員が増えれば智慧も増える。増えさえすれば、三社大祭、えんぶりなどの運営方法策定もより明確になろう。観光協会単独、商工会議所単独ではことは成就しない。市役所観光課との三位一体こそが重要。
観光協会がうまく機能していないため、市役所の職員を二年の期間限定で派遣。その一年が経過した。
さほどに、小林市長の思い入れは深いのだろう。観光は観光協会に任せればいいとの認識が市民間に蔓延しているが、そうではない。解決は市民全体でしなければならない。観光協会の体質を変え本来の業務に専心させるには、会長更迭、事務局員の総入れ替え、そして、三位一体で八戸の観光を動かす調整役が必要。
この人材発掘こそ八戸発展の鍵となる。それほど重要な役割を担う人物が必要だ。この人材に八戸市が金を出す。二年契約で三位一体を実現させ、通年でえんぶりを鑑賞できる場所を設ける。そこでは食事が出来ることが肝要。
三日町に出来る交流センターにそれを期待したい。まだ何になるかが判明しないが、実現も決して不可能ではない。
ダイナミックに八戸を変えることの出来るのは行政だ。しかし行政だけでは無理。そこで市民参加を呼びかける部署が必要になるわけ。
本来の仕事に戻れという理由は史跡根城の広場は平成六年十月公園化された。その時から随意契約で観光協会に仕事が廻った。
平成六年 千百八十万円
平成七年 二千五百万円
平成八年  二千万円位
平成九年  二千万円位
平成十年  二千八十六万円
平成十一年 二千九十八万円
平成十二年 二千百二十万円
平成十二年 二千百二十万円
平成十三年 二千百四十六万円
平成十四年 二千百五十五万円
平成十五年 三千七百万円
平成十六年 三千三百七十万円
平成十七年 三千三百八十万円
次年度からは指定管理者制度、
平成十八年 三千四百万円
平成十九年 同
平成二十年 同 これは三年契約のため同額
何故、史跡根城の広場が随意契約で観光協会に出たのか、また、博物館受付業務はいまだに随意契約で観光協会に引き続き出ている。さらに不可解なのは博物館が臨時職員を日給六千七百三十円で雇ったが、観光協会に投げる時は日給六千六十二円と一割下。官尊民卑か? 理由は何だろう。
次第に金額が膨らんだのは植木屋への発注業務が観光協会に一任されたから。観光協会と植木屋で上手くやれということだ。上手くは美味くか?

2008年5月15日木曜日

八戸市役所の不実


市役所はたえず嘘をつく、とんでもない人間の集合体なのだ。
思い込みが激しく、自分のとる行為に間違いがあったかの反省の二字をしらない。これを忘恩の徒という。破廉恥、無知、恩知らず、馬鹿野郎と呼ぶのが正しい。
孔子って人がいた。お釈迦様と同じ頃の人だ。
この人が説いたのが論語、道徳を教えた。その教えの中に吾、日に三度反省するってのがある。
三回反省するから三省、それに堂をつけて店の名にした本屋が三省堂だ。
八戸市役所の職員に言ってやりたいぞ。本屋でもこの程度の認識を持つ、しかるにそなたは朝晩食事をするのは忘れぬが、三省すら一省すらしない奴が八十一名おる。
正確な名前を記してもいいが、個人情報に触るので我慢をして記さないが、この八十一名は八戸市に居住していない。
八戸市に住民税を納めずして、何の八戸市のために働ける?
市税が不足だと嘆いているのは収入役だけの仕事か?
自分は市税を納めず、税不足は他人ごとだと平然とした面を市役所に持ち込むな。そんな鉄面皮な奴は退職すべきだ。自分が汗水垂らして働いた労働の対価が賃金、それに課税するは行政の至当な手段。
それを八戸市から免れるやからは許す訳にいかない。出て行け。
八戸市役所はそんな鉄仮面を許さないのだ。働く場を市役所に求めたいなら、住居を八戸市に移せ。それが市役所職員の最低の責務だ。
八戸市職員数は二千百三十三名、
その内の八十一名で四%が不埒な奴原(やつばら・奴を卑しめて言う)だ。
ついでだから記すと、八戸市役所は職員数を嘘ついている。消防も三百九十、清掃の六十四、水道の百八十一、都合六三五名を八戸市役所職員ではないと抜かす。
彼等は何者? 八戸市は彼等の費用を見ていないのか、そんなことはない、予算・決算にキチンと現れているぞ。形だけ少ないと逃げを打っているのだ。逃げでいいのは競輪・競馬だけ。
水道だけが独立した形になっているが、これも元は八戸市役所が興したもの。神田市長の頃にまでさかのぼる。我々は見える今だけに神経を注ぐが、見えない昔があって今がある。
決して過去を愚弄してはいけない。過去の蓄積に今があり、その今をないがしろにすれば、天に唾を吐くに等しい。それにしても八戸市役所に勤め、給料を得ながら八戸市に住民税を支払わないは不届き至極。
共に八戸の天をいただきたくない。水道の件も調査しなければと思いつつ経過した。暇をみつけてお知らせする。

2008年5月10日土曜日

東北線の歴史 八戸との関わりを調べる 5

各機関庫では二七日から代表委員を上京させ、上野の山城屋旅館に宿をとった。ストには積極的な活動をしなかった上野機関庫が、会社との打合せや、交渉委員の世話などを引き受けた。
 交渉は二八日から開始されたが三月に入っても話しあいはつかなかった。会社の最後の考えは話しあいに応ずるというよりは時間をかせぐためのかけ引きをしていたようである。会社では決裂に備えて鉄道局から機関方を借り受けることとしていた。ところが東海道線その他から集めた機関方が逃げ帰ってしまったというのである。また解雇された首謀者、石田、池田の両名を運輸課長が会社に呼んで話を聞いたため、委員等の団結心をあおる結果となった。会社にとって、もっとも痛手となったのは、新聞などが機関方に同情的で会社を非難する論調が多かったことである。会社幹部の反目もあって、強い態度がとれない弱みもあった。
ついに六日になって、機関方の要求をすべて受け入れ、交渉は終わった。委員は更に会社側が約束を全部実行するまで東京にとどまることとした。
 三.月二八日、機関方は機開手に、機関方心得は機関手心得に、火夫は機開手助手に、掃持夫はクリーナーと改めることと通達があった。また車掌とくらべて大きな差があった旅費額も改められた。
更に首謀者十名のうち、最初の石田、池田の両名を除き復職することとなった。もっともこの両名も約半年後復職している。三月末ストの一切は終了したわけである。
 ストの波紋 二五日、ストが始まると、もっとも損害を受けたのは一般旅客荷主であった。東北本線各駅で旅客と駅員の押問答が続いたが、駅員は次の列車が出るのか出ないのかわからないので、いいかげんな返事をする。いくらまっても列車は出ないので、旅客はすっかり怒ってしまう。用事は電報でもすむのにはっきりしないので結局機会を逃したというわけである。貨物も同じで失った信用もあわせると大損害を受けた人もいた。
 各新聞も一般利用者とのトラブルや不満をとりあげている。ところが二五日ころから一転して日本鉄道を攻撃し、労働者側に同情をよせる論調が多くなってくる。
 時事新報(三月九日)・「日本鉄道の改革を望む」と題して、会社内部のでたらめな点を鋭くつき、ストは「一朝突如として起りしに非ず」とし、下級社員の言うことなど一向に取り合わなかったからだと非難している。
 日本新聞(三月一日)・資本家は営利追求のほかに、労働者を愛する徳義心を持たなければならない。今回のストで労働者の肩を持つわけではないが、日鉄は徳義心について猛省する必要があると述べている。
 万朝報は三月五日から連日幸徳秋水等の論を掲げているが、完全に労働者側に立っているのは社会主義者として当然であろう。「政府が鉄道営業に対して監督の厳ならざるを幸とし、専横至らざるなき日本鉄道会社をして、膝を其雇人なる労働者に屈し、百方慰諭只管交渉の平和に落着せんことを折らしむるに至っては、あにまた近来の快事に非ずや……」
 朝日新聞はもっとも正確に各地の状況を報道しているが、ストが経済的に社会的に一大損失を与えること述べ、「若も斯る大異変を生ずるに至らば社会の不幸何ぞや。故に吾人が返す返すも希望するところは、日本鉄道会社が善後の計画を実行するは勿論……他の諸会社も亦相戒めて雇用者被雇用者との融和を計り社会的に配財の良法を講ずるに在るなり……」と訴えている。
 東北地方各紙も連日ストの模様を報しているが、各紙ともストの原因に多くのスペースをとっている。
 奥羽日日は、スト発生と同時に「交過激繁の昨今斯る軽忽の挙動をなして、公器の使を害せんとするは甚だ嘆かはしき事なり」とスト行為を非難しているが、その後原因は下級社員に対する圧政であると会社を攻撃している。
 仙台新聞は、「労働者を金銭を以て購い得たる奴隷の如く駆使して、人に権利自由の天賦あることを知らざるものの如し。機関夫の挙暴は暴なりと雖も焉んぞ彼等の自ら招きたる災にあらざるなきを知らんや。同盟罷工嗚呼また止むを得ざるなり…」と論評している。
また、会社の内部抗争を暴露し、しかも重役のひとりが、巧妙に機関方の不平を醸成し、自分の野望を遂げようとしたなどという記事まで掲げている。
 たしかに、このストは社会の同情や共感を得た点で特異なものがあった。
 「この戦争たる決して無名の師にあらず。名分正しき義戦にして戦士は酒気を帯びず、暴言をはかず、こん棒とばず、真に正々堂々たり」と石田六次郎は回想のメモを残している。機関方の態度にも共感を呼ぶものがあったのである。
 日本鉄道機関方のストが他の私鉄機関方に及ぼした影響は非常に大きいものがあった。関西、山陽、九州各鉄道の機関方は日鉄の解雇された機関方に対する義損金を募り、更に日鉄のストに同調して行動を起こそうという動きがあった。これらの各鉄道が機関方同盟クラブを名古屋市に設け、三月一六日から3日間大会を関催している。その結果日本鉄道のストに同調しようと、福島の同盟クラブに申し入れを行なった。日本鉄道の機関方は一応これを押え、軽挙を戒めたので、全国ストは免れた。
 三月二一日、九州鉄道に機関方のストが発生した。九州鉄道は経営陣の内部抗争が烈しい時期で、 会社側はそのまま四月から昇給することを認めた。
 五月一日、山陽鉄道の機関車乗務員が待遇改善の要求を出した。日本鉄道の二の舞を恐れた会社側では要求のすべてに応じた。しかし一か月後首謀者等を解雇している。
 「ストは伝染的性質をもっている。日鉄の大争議があって以来、他の鉄道会社にもそのような動きがみられる。……ストは止むを得ないとしても国のもっとも重要な交通機関が動かないとなると、及ぼす所は非常に大きい。会社も労働者もよく考えてこのようなことにならないようにすべきである。ことに伝染的ストはよくない」(東京経済誌三一年三月)
 このような批判がでたのも当然で、官鉄でさえその動きがあった。奥羽線がすぐにこのような動きに同調しょうとしたのは当然としても東海道線の沼津山北などの機開方にストの気配があった。(国民新聞三月八日)
 官鉄では、4月から機関方の増給をしているほどである。
 こうしたストが社会全般に及ぼした影響も大きいものがあった。日本鉄道のストで損失を受けた仙台商業会議所では、鉄道は国道と同じように公共的なものであるのに、官私鉄とも無規律であるから、社会の安全をはかるため「鉄道法」を制定するように建議しようという動きがあった.(第七回全国商業会議所連合会に仙合から議題を提出している)
石田六次郎 機関車乗務員大争議の口火を切った尻内機関庫の石田六次郎は労働運動史を飾る最初の人たちのひとりであるが、彼の生涯はけつして平凡な鉄道員のそれではない。
六次郎は旧姓を宮といい、元治元年岡山県総社に生まれた。青雲の志を抱いて上京した彼は小さな新聞社を開いたりした後、明治二二年四月五等火夫として鉄道局に就職し、日本鉄道会社に在勤したが、二五年四月日本鉄道に日給四十銭で移っている。
二七年ようやく機関方心得(助手)になり尻内に転じた。彼はメモ風の所感を多く残しているが、二八年にこう書いている。
「余始めて汽関車に乗り運転の業を採るや、其繁忙の甚敷き、其注意の要する多き、殆ど絶到せんとせり」
二九年に結婚し、石田の姓になった。就職して八年目の三○年一二月機関方となった。彼は人のいやがる第五区線でまじめに激務に堪えた。もともと向学心の強い熱心なキリスト教徒であり、彼の尊敬する人に同郷の片山潜がいた。日清戦役後の生活の苦しさから生れたばかりの子供を失っている。彼が心を許した信徒仲間と相談し檄文を書くに至った背景には、明治の多くの進歩的な人と同様に、権利義務の観念といった西欧思想の理解があったことがまずあげられよう。彼は機関手の社会的な地位を高めようとして、矯正会をつくった。三年余でもろくも消えさったのであるが、もう彼の理想とはかけはなれた組合になっていたのである。国有後は仙台に在勤し、高等官にまで昇進して昭和七年、仙台鉄道局を退官している。模範的な国鉄人であったのだ。仙台五橋のメソジスト教会に属し、退官後は仙台の代表的なキリスト者として知られ、キリスト教育児院(現市内小松島)の初代理事長をするなど、生涯をピューリタン的な精神で貫いた人であった。昭和一二年八月、七三才で死去した。
 石田六次郎の一面を伝えるほほえましいエピソードがある。令息(仙台市に医院を開業)の未亡人貞(てい)さんの話である。
 「父は禁酒会をつくつたほどですから、お酒は飲めないと思うでしょう。ほんとうは好きなのです。お料理用のお酒などいつのまにかなくなっているのです。家にはよく若い人が集まっていました。お酒がでると陽気に議論がはずんだものです。若いころの禁酒会の話がでると、くすぐったそうにしていました」
 機関車乗務員の労働組合「矯正会」とその劇的終末 
日本鉄道の機関車乗務員は争議が完全に終了すると、それまでの「待遇期成大同盟会」を解散し、同時に「矯正会」という労働組合を結成した。三一年四月五日のことである。
 ストの目的が身分的待遇の改善が根本的なものであり、機関車乗務員の社会的責任が重大であるから、身分賃金もそれに応じたものにしてほしいという考えに立っていた。ストの結果要求のほとんどが通った以上、社会的責任を負うにふさわしい機関車乗務員でなければならなかった。単なる労働者から技術者として会社のために働くという自負があった。そのためには各機関庫指導者たちの交信、全機開手等の親睦と団結、相互救済のための貯金、紛争の仲裁、業務研究等の機関紙を出すことなどをなんとかして始めたいというところから、労働組合をあらたに結成することになったものである。
 こうして生まれた矯正会は、当時の他の組合と同じように共済組合的な性格が強かった。組合員は毎月一日分の給料を積み立てて準備金としていた。三二年一月には、千余名の会員と一万円の積立金を持ち、同年末には二万円を越える額になっている。相互扶助、地位向上のための知識教典に力が注がれた。機関紙は「矯正会報」といったが、その後「鉄道世界」、「矯正会誌」などと改称されているが、内容に変りはなく一貫して組合員の親睦、教養、技術に関するものであった。また仙台に英語研究会が置かれ、萱森宜能、西川尚正等が「研究」を発行した。外国の機関士たちと知識の交流をはかる意図であったという。更には日刊の大新聞を買収して日刊紙を発行しようとしたほどである。
 ストの首謀者であった石田六次郎と池田元八は三一年の秋に復職すると、組合は更に道徳的な傾向を持つようになる。石田六次郎は禁酒会を組織している。最初はそういうものにそっぽを向いていた者もあったが、しだいに会員が増加している。また指導者の多くがキリスト教徒であったところから、キリスト教活動も行なわれていた。
 福島の教会では、朝の礼拝で居眠りをしている信者はもっとも熱心な信者であるといわれていた。教会で居眠りしているのは徹夜勤務を終えた疲れた機関手や助手たちであったのだ。
矯正会は、当時の労働組合としては非常に倫理的な性格を持っている点に大な特徴があった。日本最大の規模と資力を特つ労働組合でありながら、同じ社内の期成会傘下の私鉄組合とも交流はなく、スト中からさかんに手を伸ばしていた他の私鉄労働者と手を組もうともしなかった。一つの殼の中に入った強大な組織であった。
矯正会規約(第二章目的)
第二条 本会会員たる者は専ら会社の隆盛を図り、浮沈を共にするを旨とす。故に職務勉励は勿論温厚篤実品行方正にしていささかも粗暴過激の挙動あるべからず。
 矯正会の性格は、この短い条項に端的に表現されている。
 矯正会という名称の由来について、石田六次郎の書簡にはこう記されている。
  「……労働者唯一の武器をとり会社の前門に向いたることなれば、会社よりの反動恐ろしきは不言の間に全課機関手一同の感ずる処なれば、これが用意なかるべからず。さらば矯正会は会社の反動が若し一人に来るも二人に来るも必ず一致以て進退せんと大いに覚悟し結びしもの決して我より進んで、ことを好むものにあらず……ストライキの結果思ひ通りの待遇を得たり。比上は自分よりも進んで品行を慎み、凡ての態度を改めざるべからずと依而矯正の文宇のある訳合に候……」
 矯正会本支部長名
 福島本部長 柿沼 熊雄
 副部長 宇野 豊吉
 仙台支部長 新村 政一
 一ノ関支部長 安居彦太郎
 盛岡支部長 中村良之助
 尻内支部長 田島 宗作
青森支部長 木村孝三
黒磯支部長 外生田新太郎
宇都官支部長 奈須銈三郎
小山支部長 宇野文三郎
上野支部長 金子孝太郎
水戸支部長 谷健三郎
土浦支部長 鈴木篤支部長
平支部長 鈴木宗吉
原町支部長 田村竹蔵
高崎支部長 朝岡勢次郎
相生支部長 平井輔五郎
注 矯正会の本部は福島にあった。その他の機関庫には支部を置いている。
以下略
日本最初のストライキが八戸の石田六次郎に率いられたことは驚嘆する。岡山産の人であるが、当時の新機器である鉄道電話を駆使し、仲間との連絡を密にする。団結の言葉を浮沈を共にすると置き換えている。
狭い八戸、見える今だけに着目せず、先人の足跡をたどれば、見えないものが浮き彫りになる。鉄道がわが国に登場し、その二十五年後に、働く者の権利を主張した石田六次郎、凄い男だ。

郷土八戸に新聞誕生 奥南新報 明治四十一年 2

奥南新報明治四十一年一月十九日号
○三浦呉服店 当三日町なる同店にてはかねてより店員を各産地に派し斬新流行品を仕入れ中の処全部荷着に付き来る旧暦十八日より年末売り出しとして大勉強販売をする由
○下町の殴打騒ぎ 去る十五日午後七時頃八戸町大字長横町五十六番戸宮野福次郎(二四)は下組町三十三番戸の山田大次郎方に押し寄せ商売上の事より口論となり一口言い二口言う内に大立ち廻りを始め互いに組討したる由なるが事軽微なれば即日警察署にて各科料一円づつに処せらる
○芸者の新顔 小中野村貸し座敷大喜楼より芸名瀧子と名乗る花の如き顔(かんばせ)は左褄を取り愛嬌たっぷりの姿にてアリーと現れたり
○感ずべき見習い生 上北郡百石村橋本丈助氏の次女リヨ(二○)と言えるは去る三十六年中即ち十四才の夏機業見習いとして当八戸中番町石原機業所へ来たりし以来満四ヵ年余の久しきにわたり専心勉強し結果あらゆる科目を卒え優等の成績を得、種々なる 賞品を与えられ客晩秋めでたく帰村せりと因みに同女は一度も病気に罹らず如何なる寒暑の日とて懈怠の気をみせたることもなし心がけ殊勝にして温和なるは知れる人々の感嘆するところなりと
水産学校の郡営に就いて
我が青森県における重要産物の一として、馬牛産を改良発達せしむる必要より畜産思想を鼓吹養成せんが為には、既に畜産学校の設けありて県事業の中に置き、之が経営に注意を払い来たれり、而して県内最も広き海産区を有しながら、又経済上多大の関係を有しながら、比較的極めて水産思想に乏しき方にして対しては姑息なる試験所程度の設備あるとするも、なかなか以って改良発達に資する能わざるは勿論、一般の思想を学科的に養成せんとするが如き思いもよらざるところなり、県当事者が一方畜産上に注意を払いばがら、一方至大の関係ある水産上に緩慢なるは、実に不可思議千万なる次第にて如何に貧乏県なればとてこれ等有望欠くべからざる教育機関の設備に対し年々二三万円の経費を投ずるが如き、何人といえど非議を容れるべき余地なきの みならず、貧県なればこそ、却って思想発達の原資を注入すべき必要あるは言う迄もなからむ
先年、当郡湊村有志は大にここに慨するところあり、一区の経済を以って水産補習学校を創設し、資格を進めて完全なる現時の水産学校とまで成長せしめんがためには、幾多軽からざる労費を投じたり、仰ぐ所の県郡補助ありとするも、もとより経費の幾分を償うに足らざるのみならず、連年の不漁は大に同村の経済力を減殺し維持容易ならざるものあり、勿論この種の教育機関に関しては長く一漁部落の独営に付すべき性質にあらざるより郡当事者は三戸郡会に提案し、郡立として之を継承せんとし議定に付したる結果、一時大勢之を可決する迄に傾きたりしが、当時凶○後を享け一般負担力の影響等よりして他日に譲るのやむを得ざることとなりて今日に及べり
中略 聞く、湊村会は今回現立の水産学校を郡営に編入せんことを申請するがため、敷地として二千坪価格六千円現金二千円、村内有志の寄付約千円、計九千円の外、学校器具類を寄付す るに決し、本月開かるべき郡会に提案を促さんとて、目下夫々運動中なりとの由なれば、必ずや事実として議定に上がるに至るべし、これ等問題は実に将来斯業発展の一大要素にして海産事業の振作上よりするも、地方経済の増進上よりするも、一日も忽諸に付し去るべきものにあらざるを以って党派根性と地勢の状態直間接の関係等に託し鮮決するが如き、断じて吾人の与みせざる所なり
中学校長の新年会
木村第二中学校長は去る十一日午後五時より部下の教師職員一同を同氏宅へ招待し盛んなる新年会を開きたり
関重商店の繁盛
八戸三日町の同店は小間物雑貨等を開業せしより数十年斯業界に於いて最も信用を得来たれるは世の知る所なるが其の取引先の卸店は福岡一戸浄法寺沼宮内葛巻伊保内軽米久慈より三戸五戸三本木七戸犬落瀬下田等外数箇所に亘 り年々得意を増し注文引きも切れず目下旧歳末に際し居ることとて一層取引小売共頻繁を極め居れり因みに同店主は仕入れのため年々各地を巡訪し一々其の品質を精査し比較的価格の低廉なる方について仕入れるより売れ行き頗る速やかにして好評と信用を博し居るものなりという
八戸肥料組合新年宴会
去る五日午後五時より小中野万葉亭に於いて開催せり組合代表富岡新太郎氏は先ず立って開会の挨拶あり蓄音機によりて君が代の奏楽中総員起立最敬礼を表す長谷川藤治郎氏の発声にて両陛下の万歳を三唱し終て来賓を代表し木内俊郎氏の謝辞あり後酒宴に移り三平その他十数名の愛嬌連酒間を周旋し数番の手踊り杯ありて興味沸くが如く十二分の快を尽くして散会せしは十一時頃なりきこの日の来賓は商業、階上の両銀行八戸東奥並び本社の三新聞記者その他組合員等にして四十余名最も盛会なりし
落成式と寄付金募集
八戸税務署の新築も既報の如く最早大概落成し内部の造作も整頓せしを以って近々盛んなる落成式を挙行する由にて右費用の内を市中有志者より募集中なりと伝えらる
汽車乗降者数
目下の処当停車場における日々の乗客数は平均百五六拾名降客数もほぼ同数にして内三分の一は尻内剣吉下田迄の乗降者なりと
理髪店の昨今
当八戸市中には床屋の数二十七八軒もありて各々得意を得んがため競争しつつあるより自然に取り扱い振りも丁寧になり道具なども新規なものを選び肩おおいの金巾も綺麗に洗濯の行き届けるを見ても用意の在る所を知らるる訳なるが他に比ぶれば概して不潔なりとの評はまぬがれざるべし今少し注意してほしきものなりと言う人多し
酒と心中
三戸郡猿辺村大字袴田二十二番戸士族農小野梅之助(七一)は去る三日所用のため三戸町に出で帰途或る酒屋に立ち入り鱈腹飲酒の上図武八(ずぶはち)となりて袴田に通ずる道路に差し掛かりたる際俄かに風雪に襲われたる為歩行自由ならず遂に倒れて凍死したりと
両愛猫の初目見
小中野村貸し座敷佐野川楼内佐野トメ(十七)は一二三と又三河楼カク(十六)は三司寿と名乗り何れも去る三日よりニコニコものにて、今晩は

呉服界の泰斗
八戸と言わず近県に雄視して夙に斯界に覇権を把握し来たれるは当八戸町における泉山合名会社にして機関としては泉山銀行を有し資本豊富各地に数多の製織場と支店を有し時好に応じて織り出しに従事するのみならず先年世間に率先し正札に改め其の広告を利用すること最も機敏にして他の夢想し能わざる妙案を用いる外店員を養成すること頗る厚きより主従の関係尋常ならじ主は真の子の如く慈しみ…中略…戦時税の重荷に伴い同業界皆舌を巻いて処置に苦しみたる当時にあり同店のみは独り機先を制して予め善後の策を講じ夫々仕入れ並び製造に注意を払いたるがために比較的打撃をうけずして取引と販売を塩梅せしが如き他の能わざる敏腕を具備し居るは同業間の驚嘆する所となり当八戸に於ける同 業者にして同店に負わざるもの殆ど稀なりと言うに就いてみるも其の商資両力の偉大なるを知るに足らん来る旧年末に於ける売出しの方法に至っては意匠と設備の非凡なるものありと伝えらる其の盛況あらかじめ想いやるべし
八戸盲人会の現状
明治二十四年創立以来幾多の困難を経漸く今日 に至りしなるが目下会員百二十余名会費も中々小額にあらざれど幸い会員一同の奮闘と会長永洞清吉氏の熱心により維持し居るも何分近時は物価のみ高まり収入の伴わざるため頗る経営の困難なる中より盲唖学校卒業生北村利吉氏を招聘して凸字その他必要の学課を授け居る由感ずべきことなり

2008年5月8日木曜日

郷土八戸の偉人 自由学園創始者 羽仁もと子 2


司会者 それでは羽仁先生のご縁故者の方々もいらっしゃるわけですので、一つそういった方のお話もうかがっていきたいと思います。千葉先生いかがでしょうか。
 千葉富 美濃部さんが一番ゆかりが深いんじゃないんですか。私は実家へ嫁いだという姻せき関係で親類としての羽仁さんということは覚えていますけれども、私が八戸に来ました時はもうすでに羽仁先生は東京でご活躍中でございましたもので、親しく先生とお会いして親類づきあいのようなことがなくて、偉い先生だという観念ばっかり頭の中にあって、これといった思い出がございませんので今日の座談会にお招きいただいたのをご遠慮申し上げようかと思ったんですが、皆様のお話を伺いたくて出席いたしました。
 司会者 つぎにジャーナリストとしての立場から、羽仁先生をどのように考えていらっしゃるかデーリー東北編集局次長の尾崎さんからおうかがいしたいと思いますが、いかがですか。
 尾崎 私も千葉先生ご同様、羽仁先生には直接お会いしたことがありませんが、ただ羽仁もと子先生は八戸のご出身であるということは女学校時代から知るようになりました。そして私も上京して勉強した者ですが、日本の女性で偉いのは、羽仁もと子さんと塩田房子だと聞いて、私の学校が塩田房子先生の出身校でしたので、塩田房子先生に関することはいろいろ聞いたり勉強したりしましたが、郷土の出身者である羽仁先生のことはあまり知らずに今日にいたったことは申しわけないと思っております。今、こちらの資料など拝見して感じたのですが、私の職業がそれでございますから私の動機とやや似た面があったのではないかしらと。皆さんからおほめの言葉がたくさん出るでしょうし、私が一寸違ったことを申し上げますが、若い頃の羽仁先生は非常にバイタリティのあったように私は推測するのでございます。といいますのは私の時代は戦後でございますから、なろうと思えばなんでもなれましたが、その頃の女性の職業は本当に限られた職業しかなかったと思います。学校の先生、お産姿さん、遅くなって交換手というような状態であったろうと思います。従って新聞記者という職業をお選びになるのには、相当の条件、相当のバイタリティのようなものがなければいけなかったろうと思われます。東北の女性はどうしても引っ込み思案ではなかったか、そういうことでは羽仁先生は進取の気性をお待ちの方であったと想像できます。しかも、その中に新しいものがあったのではないか、仮りにあったとしても、普通の人は新聞社にわ ざわざ行って記者になりたいとは云えないし、普通人にはない異質の女性の風格が若い頃からおありであったろうし、それがまた、ずっと先生が事業をなさってきた大きな原動力になったのではないかと思います。八戸の書道家である女鹿左織先生にお話をおききしたことがありますが、その時女鹿先生は話の中に羽仁先生のことをお話になって、偉い女が八戸から生れたものだと。またある方面からこんな話がでました。羽仁もと子先生は若い頃、女鹿先生が男ぶりがよかったからいくらか気があったんじやないか、という話をきいて私はいい話だなあと思いました。男の方でも女の方でも、功名や名を遂げればいいことばかりが歴史の表面にうかびあがり、なかなかユーモアや本当に人間味のあることが底に沈かのか、隠すのか、そういうことがままあるわけですが、羽仁先生の場合も、自由学園や婦人の友社の創立者として立派なことをいろいろなさってますが、そういう反面にエピソードも若干もりこんでいただければ、却って羽仁先生という方の魅力もわかるんじゃないかと思います。これからはそういうふうなことでまとめ上げて、エッセイみたいな収録をお出し下されば、なお八戸人であったなあ、という感じを私達も持つことができるんじやな いかと思います。
 もう一つ、八戸からの教育者が多いわけです。東京の上野学園の園長も八戸出身で東京の教育界で活躍なさった方であるし、羽仁先生同様であるわけですね、なぜ八戸で教育者が多いのか不思議に思って私が自分なりに調べたことがあります。そしたら津軽の方は、米その他がたくさんできるから食えたけれども、南部はそういう穀物も育だない、ひとかどの志を立てても生活に困る、せいぜいやれるのは教育だったから教育者になりたい人がいっぱいいた。その中でも群を抜いたのは羽仁先生だったんじやないかと考えます。
 司会者 確かに教育者としてすばらしい業績を残した方に上野学園の石橋蔵五郎先生もいらっしやるのですが、そういうことについて法師浜さん、これにつないでいただけませんか。
 法師浜 八戸の図書館で館長の諮問を受ける協議会というのがあります。その図書館協議会の委員になっております。先般その会合がございまして、その時、座談会があるがそれに協議会からだれか出席しなければならない。羽仁もと子先生は新聞記者であったから、お前も新聞記者であるからいいじやないかというお話で、結局私が出席することになりました。羽仁先生のお話を知っているから出席したのではありませんで、新聞記者というつながりがありまして出席したわけです。
 ここに書かれております羽仁先生の新聞記者時代というのがあります。これを拝見しますと羽仁先生はどうしても新聞記者になりたいという気持で、最初にやまと新聞にまいられた。その時履歴書を持ってこなければだめだと帰された。それ以来新聞記者になるためには履歴書が必要だというので、ふところにいつも履歴書を入れて歩いていたと書かれています。羽仁先生の弟さんである松岡先生の新聞社は東京日々新聞、現在の毎日新聞社でございます。私は昭和二年にその東京日々新聞に入社いたしました。その最初の頃、八戸にこられたことがあります。それが何年であったか記憶にありませんが、恐らく昭和の初め頃だったと思います。今の東高校の隣に千葉裁縫女学校がありました。その学校に羽仁先生がおいでになった時、私は新聞記者としてインタビューするために羽仁先生を訪問しました。その時、前の園長の千葉くら先生が私を紹介して下さって、初めて先生にお目にかかりました。その時どんな話を伺ったか、新聞にどういうことを書いたか、今となってはその新聞もありませんし、記憶もございませんが、その当時の面かげはいつでも私の頭に残っております。ただ今開かれている体育館の展覧会、図書館の展示会にもありますたくさんのお写真を拝見しまして、私がお目にかかった羽仁先生の面かげば、あの写真の中に「思想しつつ、生活しつつ、祈りつつ」という言葉を書かれた写真がございます。あの写真が私のお目にかかった時のお顔とそっくりだと私は思って拝見してまいりました。
 羽仁 あれは昭和三年頃の写真でございます。
 法師浜 私が新聞記者になった翌年でございます。記憶がございませんのでお話になりませんけれども出席させて頂いたわけでございます。
 羽仁 新聞記者になったということは、明治女学校の「女学雑誌」にお手伝いしたことにはじまる。つまり弟と二人が続いて上京し学校に入る。これ以上家に負担をかけられないから自分で働いて、明治女学校の「女学雑誌」にカナつけの仕事をさせていただくことになった。島崎藤村の原稿はとてもきれいに書かれていてご自身でカナをふってあった。また読めない原稿でいろいろな明治文壇の先生方の字を読んで、それにふりがなをつけるお仕事をさせていただいて、そういうことはずい分ためになったと思います。明治女学校はそういう文士の方々がたくさん教えておられた。当時のジャーナリズムというものは、今日のジャーナリズムのように早いニュースを早く伝えるというよりも、むしろ少し文学的なものといったらよろしいのか、文章をじっくり書くようなものであって、とても今日のジャーナリズムでは母は不器用で到底なれなかったと思います。
 司会者 今、羽仁先生のお話を伺いましたが、やはりあの女学雑誌の校正のようなお仕事をやられたのが直接役立って、校正ならできるという自信もあって校正をやらせられた。もちろん校正ばかりでは満足できなくて、つまり書きたいという気持が強くおありになったんじゃないでしょうか。何かそのことについてご意見ありませんか。
 美濃部 昨日、展覧会を拝見いたしました。主人も一緒でございましたが、主人の感想は、羽仁先生のお書きになったお言葉がいろいろありますね、「それが八戸せんべいのようで、何べんも何べんも読んでいるうちにわかるんだ」と申していました。卒直に云いまして私もまったくその通りだと思いました。独特の文章でいらっしやいますし、読んでいるうちに本当にそのものが浮かび上ってくるような書き方で味わいがあります。
 新聞、雑誌にお書きになる方の中では、独特のスタイルの文章家でいらっしゃるということ、それは八戸で生れたということが前提にあって、ああいう文章がおできになったのだと思います。
 羽仁 ほんとうに筆がおそくて、おそくて
 美濃部 早くわからせたいのではなく、ゆっくりわかってもらいたい。私が教育関係のある仕事をさせていただいておりました時に、その当時、新しい教育問題でしたが、高等学校の女の子に、家庭科の勉強があまりいらないんだというような傾向が出てきたことがございました。家庭科の先生方にそういう、いろいろな悩みがございました。その家庭科を青森県ではどうしたらよいか、という話がでました時に、こういう言葉にゆきあたったのです。「家事というものは、決して私事と思ってはいけない。その時代のこうあってほしい、またあるべきだと思うものを目ざして、それを実践しなければならないんだ」というような羽仁先生の言葉を拝見しまして、本当にそうなんだと私もその時に確信をもとうと思いました。家庭科は、生活していく上に切り離せないものだと思い、先生のお言葉を強調させていただきました。
 その時に心の中で思ったことは、この言葉は、先生が皆さんにお話しかけになったに違いない。先生は、何ておっしゃったんだろう。私は八戸生れの八戸育ちでございますが、羽仁先生も八戸弁で「かずというものは決すてわたくすごとではありません」とおっしゃったんではないか、そうおっしゃるようなお方でございました。と申しますのは、私が昭和九、十、十一年頃に目白に住んでいまして、夏休みを終えてもどる時に母が、「おもと先生へおせんべいと菊をお届けしたいから持っていってくれ」と申します。伺いましても、なかなかお忙しいのでお目にかかることもなかったんですが、いつかたった一度お目にかかりました。その時「ああ、きぐか、きぐか」とおっしやいました。八戸では菊のことをきぐと申しますが、その時本当に喜んで下さいました。若い方々に家庭生活のあり方についてお話する機会があると、私は羽仁もと子先生の言葉を書きまして、「家事は私事ではありません」というと皆が笑いますが、こういう発音で伝えるのが羽仁先生の本当のお気持ではないかというように考えています。それから昨日の展覧会で独特の文体、独特の文章を見て感じとった方々も多いのではないでしょうか。
 稲葉 今のお話で、昭和十一年頃、東京で青森県の会合がありまして、その時に私は「しかじか、かような者でございます」「ああ稲葉さんですか。かあさんとそっくりだ」とおっしゃいました。私の母は羽仁もと子先生より三才位おそく生れてるはずです。おやじのこともご存じで、先生からお言葉をいただいて光栄至極に存じたものでした。
 そこで、その八戸弁ですが、草野心平さんの四年ほど前のものですが、ここに持ってきているので読んでみます。「目で思い出したが、自由学園の創始者だった羽仁もと子さんは、まぶたの間に線だけを引いたようなぼてっとした目だ。背は低くでっぶりとして、話す言葉は青森弁丸出し、どうひき目にみても顔の造作はひどかった。にもかかわらず、美しい顔だなあというのが偽らない実感だった。私は一度しか会ったことはないが、その美しさはまだ記憶にあざやかである。

2008年5月1日木曜日

八戸市役所道路維持課は不法占拠を許すな


昨年も不審な動きをする道路維持課を糾弾したが、こんどは手抜きを発見。発展著しい南類家地 区。ここにミスタードナッツ、マクドナルド、平禄寿司が進出。もともと此処はパチンコ屋オメガの駐車場。そのパチンコ屋が北朝鮮に送金を続け、それを規制した国と対立。そしてオメガは営業停止を喰らった。 そこにこれらの店が出店。この裏側にあるのが伊吉書院、この間に歩道があるのをご存知だろうか。通路のような6㍍巾の道。類家地区はもともとは田圃(たんぼ)、そこを区画整理して住宅地とした。ボツボツと拓けてきたところへ、市民病院が移転。市民病院から飛び出した医者も開業し、スーパーも登場し、いやまったく賑やかな町へと変貌してきたのは読者諸兄もご存知。中心商店街はエソに罹(かか)り、重病人の様相を呈(てい)している。この重病人に過大な固定資産税を課しているのが市役所。固定資産税は市税収入の六割を占める重要なもの。南類家地区に大規模に進出する商店群をみれば、固定資産の評価は類家地区は上昇。その分で中心商店街の評価 を下げるべき。税収は均衡がとれればいい。イが余計払えばロは安くていいはず。中心商店街から稼がせてもらった。それが重病におちいれば薬の代わりの減税をすべき。 さて、この問題の土地を平禄、ミスタードーナッツの社員とおぼしき人物が無断で駐車場として使用。ここの土地は平成8年に八戸市が歩道として管理。ところが、ここが繁栄の地となるなど想像もつかないので放置。そこに車を置いて駐車場とするなど思いもつかない。だが、現実問題として不正使用がなされた。 通報を受けた市役所道路維持課は不正駐車の車の所有者に、ここは歩道である旨を伝えて、車の移動を命じた。これは正しい措置ではあるが、道路維持課は巡回すらしていなかった。市道の歩道で人身事故が発生した時、市に責任はないのか。歩道、車道の区別もなく、その表示もされていない。車を運転する者に認識もない。それは八戸市が適切な措置をこうじないからだ。

青森市民病院にて 北村道子

感動、感謝、合掌の心を抱き、私は青森市民病院脳外科を退院した。
手術前、友人に「心配だわ」と言ったら、「心配するのは先生なんだ、何も心配することはないの」とのメールに勇気づけられ、そして夫と息子の見守るなかでの手術は迷うことのひとつもない自分に気付いていた。
術後、目のけいれんが一度も起こらなくピタリと治まったから不思議。お見舞いの友人や親類の方からも「あれ、益々美人になったんじゃないの」との言葉に、私は今は真冬なのにチューリップや水仙の咲く春うららの心になっていた。
今から十年くらい前、目の周りがピリピリとなり違和感を覚えたが大事にもならないだろうと放っておいたところだんだんとピリピリ感が強くなり我慢できず病院に行ってみた。先生は「あまり本を読まないでください」と言った。文字の大好きな私には無理なこと。
薬を頂いて服用していたが、症状は思ったように改善されなかった。
スタートはそこからだった。
病院も数えきれないほど至るところへ行った。八戸周辺の病院、治療院、針灸院、カイロ、整骨院、マッサージ、温泉、人が良いと言うところを洩らさずほとんど歩き回った。そればかりか岩手県の病院まで行った。
五、六年の間は午前中に病院、午後はマッサージとかを繰り返す日々に夫も呆れていた。
ある日、三沢米軍基地の友人キャロリンさんの甥、姪でパイロットとスチュワーデスの方が私の家に遊びに来た。「ミチコ、ミチコ」と写真を写すに当り、目がけいれんして、止めようにも止らずにたいへん苦しかったものだった。
友人には貴方と話していれば、こっちまで疲れるよと言われたり、人前で話をするときは目をつむって話しをするようにもなった。
そんな時に若い頃、読んだ本に納得した文があるのを思い出した。
五十歳になる前の顔は母親が作った顔。五十歳を過ぎたら自分が作った顔、すなわち自分に責任を持つこと、だった。
私の生活の中での歪が目に出たのであろう、仕方がないと思っていたその部分が大きかった。
医院も薬も、鍼も灸もマッサージも機械も私の瞳のけいれんには歯が立たなかった。
ある日、十和田市へ行く途中の下田駅付近の町民ホールで、利用者といっしょに「上を向いて歩こう」を手話していたら、私を見たある園長が、「北村さん、目のけいれんたいへんでしょう。○○病院の○○科に行ってみては?」という話に翌日出かけてみた。そこでも診療と投薬でしばらく続けたが効き目がない。別の病院では三ヶ月ごとにボトックス(美容や皮膚の治療のためにボツリヌス菌をもとに開発された薬品)を打っていた。やはり改善は見られず落胆に暮れた。
まあ、二年続けたでしょうか?○○科の先生は、手術をすすめた。不安がない訳ではなかったが先生を信じた。
紹介されたのは、青森市民病院、脳外科だった。
いままで、力いっぱいと言うぐらい病院を歩き、力いっぱい治療院ヘも行き、薬、栄養剤、目に効くと言うものは機械もふくめ、治りたいためにあらゆる方法を模索し試し、一生懸命であったがここまで来て手術に決定した。
紹介状を持ってタクシーで青森市民病院へ向った。
脳外科は二階にあった。看護師さんに呼ばれ、先生の懇切丁寧で仔細な説明を受け、テレビ画面に映しだされた病気のこと、これからの手術を淡々と語って頂いた。
心は決まり、恐怖やどうしようなどの不安感は生じなかった。やるしかない。以前のような目に戻りたいと願った。
 十二月二十五日入院、二十八日手術と決まり、夫、長男夫婦も心配してくれる。
嫁いでいる娘も妊娠九ヶ月の臨月。「無理せず、心配しないこと」と言い含めた。心配は胎児に影響を及ぼしては困ると思ったからであった。
 手術の日、夫と息子が立ち会ってくれた。やはりこんな場面で男達の応援は心強い。
手術室で四時間が過ぎた。全身麻酔のため何もわからぬ空間が経過した。意識が戻ったのはナースステーション側の二人部屋であった。
 「すごいなー、もう一度もピクピクがない」病室に入ってきた夫が私の顔を見て驚いた声をあげた。私はとても嬉しかった。
 友人、親類のお見舞いの皆さんは「よかったね、よかった治ったね」と言ってくれた。そんな言葉に嬉しさはさらに倍増した。
 一月十日、入院中に、八戸市保健推進員の体験発表をする為に外出許可を頂き、病院からタクシーに乗った。帽子を深く被り、眼帯、マスクをした私にドライバーは「どうされたんですか?」と聞いてきた。「脳外科で目のけいれんの手術をしたのです」と説明。「この病院の○○先生は東北でも五人の名医のひとりだそうですよ」と教えてくれた。驚いた、やはりそうだったのだ「正にその通りだった、よかった」と心底感謝をした。
 車道には雪がわんさと積もって、凍てついた道は怖かった。
院内では先生や看護師さん達も一生懸命に働いて頼もしい。入院中の私は楽しかった。
朝の回診はうれしい、五、六人のスタッフさん達が私たちの様子を診てまわる。
その風景はなんと一群のライオン家族のようだと思われるほど壮観だ、そして信頼の二文字そのものであった。
躰も心もだんだん癒えてきたらペンを執りたくなった。
日々のことを短歌に集めた。
周囲の患者さんがお正月でそれぞれ家に帰り、病院がガランとなった折に、下手な歌歌を綴ってみました。あっと言う間の十五日間が終わった。
この思いはわすれがたく、先生や看護師さんに感謝のみでありました。
どうぞ、私のような体験のある方は、青森市民病院、脳外科をお訪ねなさってみてはいかがでしょうか?私と同じ病気を持つ方がおりましたら一日も早くこの辛いけいれんから解放されます事をお勧め致します。
短 歌
・玄関を一歩踏み出す手術前仏壇清掃花供え祈る
・青森の病院訪ねて駅前のタクシーのドアやさしく閉めぬ
・脳外科の外来黒板立ち読みぬ新聞手紙感謝の文面
・先生の温かき説明諭し居る 命にかかわる術ではなしといふ
・鏡見る生かされている冬の朝 けいれん一つなしの倖わせ
・夫と息と嫁さんいらして和み居る真冬の室に花の香流るる
・患者らに眼差しやさしライオンは神の手を持つ人間なりぬ
・メール待つ遠くの友の言の葉はシャワー百倍吾奮い立つ
・病窓のはるか遠くにスキー場なべて輝く青森の冬
・急患か赤色灯の音高く一夜に五台数えて朝に
・命をば命をかけて守り抜く医師の使命は陽より温か
・白衣をばひるがえし術室へ食す時間も寝もおしまずに
・先生の母君も逝くを聞きつつ今の獅子見せたきと想ふ

郷土八戸に新聞誕生 奥南新報 明治四十一年

明治四十一年一月元旦 

雑報
● 八戸区裁判所の新年祝賀会
同裁判所にては午前九時奉賀式を挙行し終わって所員一同及び弁護士公証人執達吏等合同にて新年の祝賀会を開く
● 八戸名刺交換会の流会
本会は或る意味に於いて官民意思の疎通を図らんため先年八木沢判事船越郡長遠山町長各学校長その他民間有志の発起により毎年元旦盛んに開催し来たりしが本年は如何なる動機にもとずきしものかツイ流会となれりと
● 八戸税務署の改築工事落成
従来の建物は如何にも狭隘にして執務に便ならざりしより昨年十月より改築工事に着手し旧臘(去年)九分通り進捗を告げたるも弥々落成を告げるは本月十五日前後の見込みなる由なり以前に比すれば全部洋風の二階作りにして広壮とは言い難きもとにかく旧観を改めたり
● 各団体の新年宴会
当八戸に於ける呉服商、商業、肥料、タンク石油商の各組合並び各銀行にては例年の通り夫々新 年宴会の催しある由
● 久水領事の帰省 
米国シアトルの一等領事なる同氏は今回休暇を得て去る二十七日帰省したりと
● 八戸区裁判所員の年末賞与
同裁判所にては所員二十名に対し年末賞与金として金百三十一円八十三銭を分与せられたりと
● 銀杯賞与 
当八戸番町石橋徳次郎氏は先年小中野新地の道路内へ自己所有地の幾分(時価壱千四十円)を寄付せられたりしが旧冬に至り其の賞として本県より七寸大の銀杯一個を下與せられたりと
● 小山歯科医院
客秋斬新なる治療機を購入すると共に熟練なる助手を増聘し懇切に患者を取り扱のみならず義歯は原料を精選し且つ出来る限り低廉を主とするため近来一層好評を博し入れ歯及び治療を申し込む者頗る多し因みに同院にて一昨年来業務を拡張し久慈福岡三戸五戸三本木田名部大湊の各地に仮出張所を設け期日を定め毎年二回院主出張治療に従事し居れり
● 永島新聞店の勉強
当八戸二十三日町の同店にては開業以来日猶浅きにも拘わらず独占の割引と速達とをもって申し込みに応ずるより近来頓に其の数を増すに至 り大に購読者の便益に勤めおれり
● 産婆亀徳しつ子
八戸番町の同子は開業以来日猶浅きも熱心誠実を主とし謝儀に拘わらず依頼に応ずるより近年頗る多忙なりという
● 八戸に於ける電話架設の計画
先年当八戸町輪明会の首唱によりてハイカラ的輪界の流行を来たしたるが如く今度は又木内某外両三名の発起によりて八戸町より鮫にかけ電話を架設せんとて既に郵便局に対特設の交渉を開始せると共に目下加入者の勧誘に奔走中なりと伝えらる果たして実行の暁には八戸町は同人等の為数段文明物質的の男振りを揚げることなるべし目下電○会組織の協議中なりとか
● 八戸医界近況
とかく一般売薬主義と幇間主義に流れ加えるに看護婦代妾醜聞に鼻向けならぬドクトル連の少なかぬ中に従来最も信用厚きは種市、武藤、奥秋、藤田、羽生、高橋の各医院にしていずれも懇切と誠実を主とし患者に接するのみならず各々独得の技能を揮い患家の貧富昼夜の区別道路の難易等を問わず往診需めに応じて夫々便宜を図るに汲々たるより益々好評を博しこの節患者少なき折柄なるにも拘わらず頗る忙殺せられつつあるという
● 湊製材所
同所は三十六年の創立に係り最初金子挽材工場と称し次に石橋挽材工場となり後又三浦万次郎氏の所有に移りしが三十九年の暮れに至り大芦梧郎氏に於いて更に三浦氏より買い受けて湊製材所と改称し且つ汽缶(ボイラー)を新造し工場を改築して東京深川の木材商小出金次郎氏を支配人と為し専ら製板製函及び挽材を営みその他諸材木の売買をも兼業せるに販路益々伸張して現在の製造力にては到底多数の需要に応ずる能わざるより機関を増設し工場を振大するの計画中なりという
● 西喜の機業拡張
戦時織物税の為少なからぬ打撃を被りたる一般機業界の趨勢に伴い幼稚なる当八戸地方も其の影響を受け折角萌芽せる発達の機運を阻害せられしのみならず近年物価の高騰は自然原料並び工賃に関係し往々女工の欠乏を告げるなど姑息の手段にては将来発展の途なきより客臘(去年)当八戸十八日町機業熱心家西村喜助氏は豊田式織機を選択し新に自宅内に工場を設け●●●●台を備え動力として石油発動機を据えつけることとなし技手監督の下に工事に着手中なりしが大略竣成試運転の結果頗る良好なる由之を従来使用のバッタンに比すれば工女は約三分の二を減じ織り高も亦昼夜運転を続行すれば約三倍以上に達するを得べしというとにかくこの種の事業の発展を見るは地方の為慶すべきことなり猶不日往訪上其の実況を細観し重ねて紙上に紹介すべし
● 紹介の辞 大芦梧郎
この度奥南新報の誕生に遇うては余は実に満幅の歓喜に堪えず之を経営するに篤信の近藤喜衛君の如きあり、之を行なうるに老練健腕石原義衛君の如きあり以って堂々天下に呼号するに足る豈唯々地方の幸福とのみ言わんや余は謹て之を大方に紹介して広く受読を請うの愉快と光栄とを担えるを謝す
● 橋源糸店の業務の拡張
当八戸三日町の同店にては業務拡張の為近隣若松ホテルの上隣に支店を設け専ら小売を為し本店にては卸売り一方に従事する由にて本店は本日より開業せり
● 村福菓子店
当八戸十三日町の同店は従来斯業界の老舗として好評を得つつあるは人の知る所なるが店主雄太郎氏は先年製造法研究のため出京し種々得る所あり就中菊羊羹餅菓子の製法に意匠を凝らし上等の美良品を出し甘党の歓迎を得来れるが本年よりは猶一層原料を精選し勉めて廉価に販売 する由
● 橋本和吉氏の母儀逝く
当八戸三日町油商橋本和吉氏の義母は平生さしたる病気もなく和吉氏を助けて一家の経営に任じ内外の世話をし来れしが客秋親戚たる石橋源右衛門氏の病気後に落胆しその後感冒に罹り老体の事とて日に衰弱を増すの模様なるより種々医療を尽くしたるも経過宜しからず終に客臘不帰の客となり十二月二十一日天聖寺に於いて荘厳なる埋葬式を挙行せられたりこの日会葬者数百人皆その死を悼まざるはなし享年六十八
● 尻内夜学校の近況
該夜学校は鬼柳定男氏の熱心なる尽力により頗る盛況に達しつつあるが現在生徒数六十余名毎夜の出席者四十五六名にして先ず独力の夜学校としては成功の方とも言うべく維持の方法は会費一月分五銭の外村内有志の寄付に仰ぎ居る由因みに同校の主旨を賞して寄付援助せられたるは五円清川彦六氏二円清川小平氏一円小笠原嘉吉氏その他拾数氏なりと
● 武藤医師の仁侠
今日この頃の厳冬に格別要件の外は人々炉を擁してなるべく外出を見合わせるにも拘わらず如何に職業柄と言え同医師は去る十六日馬車に投じ厳冬と悪路遠隔とを冒し九戸郡大野村に病臥せる岡本源治郎氏の容態よろしからざるを見舞い且つ診療せんとてわざ わざ出向せられたる厚誼と仁侠に至りては患家に於いても定めて泣謝せしなるべく吾人も亦之を伝聞し坐ろに其の熱情に動かされたり之を患家の貧富に差別を立て見殺しにする迄も梃子でも動かぬ為仁医師に比すれば天淵の大差ありというべし
● 奥南漫語
奥南とは古きよりの呼称なれど之を解くに広狭の二説はある。一は南部地全体を指すという、一は我が南部地たる奥州の南方に位置するが為とし或いは奥州の南部を表すとするもとにかく共に南部全体を指すと為し、一は往昔田名部(即ち下北半島)を奥南部と呼び出したるとありしよりそが略称にして即ち下北郡を指すに過ぎずと為す両説各拠あるが如きも古書に奥南秘録奥南落穂集並びに奥南を冠せるが多くしかも其の内容は南部家のことや南部地方の事を記して南部全体に渡るを見れば昔からして広義に用い来たった事は明らかである又下北を斗南と称するは北海道の南故北斗に南なるべし
明治十七八年頃と覚ゆ、東京に於いて当時の遊学生は奥南会なるものを設け又奥南雑誌なるも のを発行したことがあった。もとより書生の寄り合い仕事ではあったが専らそれらの世話をした人は栃内吉到中島元等の数氏であった其の頃在京の書生はよく集まりよく談じて更に境壁を設けることは無く時には同郷出身者の大会を催して各気焔を吐いたものである。聞けば近頃は郷友会のようなものもなく思い思いに割拠して互いに呉越の趣で居るとの事、誰々と交際してはならぬの某会出身の者と一緒に居てはいかんのと言いつけるわからずやのある由これ等も同郷者の親和を妨げる一原因であろう
● 小森茶舗の盛況
同店は早き以前二十三日町に於いて未だ世間に知られざりし二銭五厘店を開きしに品質に対し如何にも廉価なると好奇心にかられて購求する者店前常に客の山を築く盛況を呈せしより商運頓に開け二銭五厘店の名近村に隠れなかりしか同店主栄吉氏は当市に専売的茶商を思いつき老父とはかりて先年現時の櫓横丁に引き移ると同 時に前業をやめ専ら茶商を営むこととなり宇治に狭山について佳品を選び開業せし以来是又好評を博せしより数名の売り子をして郡内は勿論九戸上北下北より青森辺までも広告的商業をせしかば売れ行き頻繁なるのみか近年に至り茶舗と言えば小森の代名詞とまでなり小売卸とも一カ年の売りだかなかなか巨額に達すべしと因みに同店にては茶の外陶器類をも若松名古屋の二市より仕入れ薄利を以って販売しつつありという
● 杉本旅店と白水旅館
八戸三日町の杉本旅店は多く三戸地方その他各県の商人を客種とし親切と確実を以って好評を得又番町の白水旅館は即ち大仁の後身にして当地における旅館の鼻祖として称せられ現主の中村朔五郎氏最客の扱い上に注意を払い懇切なるより客人の気受け良しとの評判ありただただ同旅館は客室の数多からざるより時々やりくりに不便を感じ取り込みの際は往々客を断ることありとの由にて建て増しの計画もありと

東奥日報に見る明治三十七年の八戸及び八戸人

明治三十七年(一九○四)は日露戦争の年、東奥日報も軍事色顕著。日本と帝政ロシアとが満州・朝鮮の制覇を争った戦争。04年2月国交断絶以来、同年8月以降の旅順攻囲、05年3月の奉天大会戦、同年5月の日本海海戦などでの日本の勝利を経て同年9月アメリカ大統領T.ルーズヴェルトの斡旋によりポーツマスにおいて講和条約成立。
明治三十七年二月九日付け
●協商拒絶の通告
昨日外務大臣は露国公使に対して協商拒絶の通告をなせり同時に列国に其の顛末を声明せり
● 外交顛末と宣戦
外交顛末は明日発表同時に宣戦詔勅発布せらるべし
● 露国公使の引き揚げ
露国公使本日午後六時引き揚げの筈
● 臨時閣議
本日午前臨時閣議を開き重大事件を決定す
● 露艦又出つ
露国軍艦三艘再び旅順口抜錨せり行き先不明なり
● 宣戦詔勅発表期
宣戦詔勅は海軍(この所電文不明)次第発表せらるべし(この時代電話は未発達)
● 地方官召集
本月九日を以って各地方長官を東京に召集す
● 御前会議の結果
回答来らずして兵馬日に韓北を圧し来る栗野公使の情報は元老の会議となり外臣の情報は再び御前会議となる伊藤侯曰くやむを得ず山縣侯曰く然り皆も曰く同断、広義即ち決し天皇善しと宣す
● 露国艦隊の挙動
露国艦隊が旅順に引き返したるは別項の如し出港の目的は京城に於いて風聞したる如く爾く大なるものに非ずして単に近海に於いて艦隊運動を行いたるものの如し三日出港し翌日直に引き込みたるに徹して明らかなり該艦隊が今日北緯三十八度北南に出つるを得るや否やは疑問なり恐らくは到底能はざる事なるべしという
● 引き上げの邦人帰着
米国汽船アスプーチ号は浦塩斯徳より日本居留民三千人を搭載して敦賀港に帰着し直に浦塩斯徳に引き返す筈なるも戒厳令のため入港に許さざるも知るべからず西北利亜の重要地及び浦塩斯徳に尚本邦三千人もあり
● 露国陸兵の活動
過般報道の溝幇子より義州に入りし露国兵中八十駒は錦州に来らず蒙古地方に赴きしとのこととて其の数は馬玉崑の兵の朝陽付近に在るものを偵察の目的なり旅順口より運送船二艘役二千の兵を乗せて鴨緑江に向かい又旅順口ダルニー 方面より遼陽を経て鳳凰城に向うべき兵士は露国人の言によれば一万と言い之がため遼陽に在る馬車及び旅館の全体を徴発して準備に備え海城には露兵三千新に来り城外に宿営せりとの報知あり(五日北京発)
● 露兵二万の進軍
義州より昨日元帥府に達したる電報によれば旅順口より進発したる露兵は六千人にして遼陽より進発したるものは八千人にしていずれも安東県並びに鳳凰城方面に到着しこの付近に集中せる露兵の総数は既に二万に達せりこの内五千人は鴨緑江を渡り韓国に入らんとする模様ありしという(京城発)
● 満州露軍の戦備
満州の露兵は全く戦時装備を為し頗る兵員を移動し各地とも戦時部隊に改め居り先月初めてチタに来りしコサック兵六千南下し居りて東清鉄道は軍用の外運転せず為に満州内地の日本人は引き揚げること出来難き模様なり(天津五日発)
● 旅順口大攻撃(十日午前九時五十分東京特発)
八日より旅順口にて日露海戦を開始せり露の戦闘艦二艘水雷に命中して沈没せり外一艘は命中し浅瀬に乗り上げたり総攻撃は九日午前九時より始まる結果は未だ詳ならず
● 仁川海戦の公報
瓜生司令官の公報によれば仁川に於ける海戦にて露艦コーレツ(砲艦千二百㌧)バハツワリヤーク(一等巡洋艦六千五百㌧)及び汽船スンガリー破壊沈船せり我が損害は皆無なり
● 日露の宣戦布告
露国は本日モスコーに於いて宣戦を布告し帝国は唯今宣戦詔勅を公布せり
● 露船の捕獲
馬山浦にて捕獲せる露国汽船二艘本日佐世保に来たれり(昨日午後五時半東京発)
● 露船の捕獲公報
本日までに露国船舶我が軍艦の為に拿捕せられたるもの五艘なりとの公報其の筋に達したり
● 旅順口海戦の詳報(十一日午後八時二十分東京発)
東郷連合艦隊司令長官の報告によれば連合艦隊は去る六日佐世保を出発したる後総て予定の如く行動し八日正午我が駆逐艇は旅順に於ける敵を攻撃せり当時敵艦隊の大部分は旅順口外にありて我が駆逐艦の水雷にかかりしもの少なくもポルタワ(戦闘艦一万九百㌧)外一艘巡洋艦アウコリード(巡洋艦五千九百㌧)外二艘ありしものと認む我が艦隊は九日午前十時旅順沖に達し正午より約四十分港外に残留せる敵艦隊を攻撃せりこの攻撃の結果は未だ明瞭ならざるも敵に少なからざる損害を与え彼が士気を阻喪せしめたるものと信ず敵は漸次港内に逃走せるものの如し午後一時戦闘を止め引き揚げたり
この攻撃における我が艦隊の損害は軽少にして寸毫も戦闘力を減少せず死傷は約五十八名内戦死四名、負傷五十四名なりと我が艦隊は敵の砲火を犯して攻撃を果たし大部を本隊に合す御乗り組みの各殿下皆ご無事、我が将卒一般沈着恰も平 生の演習の如く大に軍気振るう
三戸郡農事講習会閉会
同会は去る三日より八戸町産馬組合事務所に於いて開会し去る十一日八戸有志を会合し講習生と共に中村技師より特に耕地整理に関する講話を乞いたるが其の翌十二日閉会式を挙行せり来賓は同郡農会長船越宣美同副会長北村益銀行支配人石橋萬治県会議員遠山景三其の他農会議員等十数名にして船越会長より証書授与挙行の旨を告げ中村技師講習中の景況を報告し次て証書を授与せり次に船越郡農会長は県農会長の告辞と郡農会長としての告辞のべ講習生総代答辞あり午後三時閉会講師の労を謝せんが為め茶会を開く席上遠山議員は講習生の今後取るべき方針に就き述べるところありたり講習生は二十名なりと
上長苗代村の国債応募景況
三戸郡なる同村における国庫債券応募予定額は四千五百万円なる由なるが同村にて勧誘の結果去る八日までに五千八百七十円の多きに達し尚続々応募の模様なりしと言えば一昨十日の期限までには多額の応募額に達したるならんか右申し込み額の内価格申し込みは二千九百円(十四名)百円申し込み千三百二十五円(九名)也

秋山皐二郎、回顧録「雨洗風磨」東奥日報社刊から 5

乱取りで骨折、入院
 関東学生柔道連盟の満州遠征は、まだ戦争前の時期だっただけに、実に楽しい旅行でした。一行は早大、明大の五段クラスを中心に十五人ぐらいでしたでしょうか。私は四段で事務局長兼任で参加しました。
 下関から大連、奉天、新京(現・長春)、撫順と回って、満鉄支社の柔道部の方たちと試合をしましたが、ほとんど負けなかった。早大には函館出身で山本君という選手がいて、体は小柄なんてすが、足を刈ると同時に相手の胸板に自分の背中をバーンと打ちつけて倒す独特の小内刈りをやる。強かったですね。
 選手たちの中には、かなりの荒くれも居て「酒飲む金をよこせ」と私の所に来る。「バカなこと言うな」と何度か追い返したこともありました。
 行く先々で各大学の先輩たちが集まってきて歓迎会をやってくれる。大連に着いた時は「これから諸君に代表的な中華料理を食べてもらうが、ビールなんか絶対、飲まないように。下痢するからな。ちゃんと中国の酒を飲んで食べろ」と注意を受けたりしました。
 当時、関東州では買い物は無税。その上、満鉄の購買部で買うと、さらに六%も割引になる。「土産物を買うんなら、今のうちだぞ。先輩たちの通帳を借りて買ってもいい」と言われて、みんな随分、買い込みました。私は、ドイツ製のカメラ「エコンタ」を百三十円で買い、あちこち撮りながら歩きました。
 帰りの船では、船長に「酒税法違反の酒はないでしょうか。われわれは学生で、満州への武者修行の帰りです。酒を分けてください」と申し込んだ。「それなら君たちにプレゼントしよう」とウイスキーを五本ももらって、飲みながら帰ってきました。           
 満州で買ってきたカメラでは、朝日新聞が募集した海外宣伝ポスター用の「サクラ・ニッポン」という写真コンクールに応募して三席に人選して賞金三十円をもらったこともいい思い出です。昭和十一年春の卒業の時だったと思いますが、赤坂見附あたりの桜並木を一週間ぐらい歩き回りました。
 入賞作は橋の欄干の上に登って、墨堤の桜並木の下を通る二人の女学生を写したもの。写真は今でも趣味でよく撮りますが、本格的にやり始めたのは、このころでした。

就職試験の機会逃し卒業後も行く先なく…
 満州遠征から帰って九月下旬ごろ、一緒に行った早大の山本君たちが道場を訪ねてきて「お別れにけいこしよう」ということになった。二段を相手に乱取りをやっていて、足が滑り体が崩れたところへ相手が倒れてきて「ビシッ」という音とともに私の右肩の鎖骨が折れてしまった。そのまま、一ヵ月入院。
 退院しても右肩が動かず、今でいうリハビリをやっているうちに、就職試験が、どこも終わってしまった。十一年二月の卒業試験にはなんとか間に合ったものの、卒業しても行く先がなくなってしまった。当時「大学は出たけれど」という言葉が流行しましたが、文字通り、そうなってしまいました。
 もともと、兄と一緒の水産はやらないということで大学まで進んだわけですから、今さら八戸に帰るわけにはいかない。検事になりたかったんですが、司法試験の勉強もしていない。困っていたら、恐らく叔父・秀之肋から話がいったんでしょう。八戸市長だった神田重雄さんから手紙が届いた。
 「今、神田の聖橋のそばの関根屋旅館に居る。すぐ来い」というんです。駆けつけたら、神田さんは玄関わきの広間にどっかと座っていた。眼光鋭い、いかにも古武士という風格の人で、いきなり「秋山君。お前は、何で今ごろまでぼんやりと遊んでいたんだ」とまずしかられました。

苫米地義三氏の世話で油脂会社にやっと就職 給料65円もらう
 「何で今ごろまで遊んでいたんだ」と神田さんにしかられて「いや実は:」と骨折した事情を説明すると「そりゃ気の毒だったなあ。これから苫米地義三さんに会いに行くから一緒に来い」。
 苫米地さんは十和田市出身で、札幌農学校から今の東京工大を出て、当時は実業家。合同油脂という会社の常務取締役で、丸ビルの隣に会社があって、そこへ行った。苦米地さんも「何で今ごろ」と、おっしゃって、事情を説明したら「何とかしよう」ということになりました。
 払は、苫米地さんとは二度目の対面。「実は昭和三年に甲子園に出場した時に、大阪の工業倶楽部で昼食をごちそうになったことかあります」と言うと、苦米地さんはニッコリされて「あっ、そうか。あの時の八中生は君たちだったのか」―。合同油脂も、すでに就職試験が終わっていたんですが、採用になって、硬化油販売会社の大阪支店勤務となりました。
 当時の油脂業界はカルテル組織となっていて硬化油、グリセリンに分かれて販売組織を持っていたんです。給料は六十五円。普通の大卒は六十円。八十円で家族を養える時代でした。
 就職が決まり、神田さんにお礼を…と虎屋の羊かんを持って行くと「秋山君、お前は、まだ学生じゃないか。こんな高価なものを持ってきて。身分不相応なことをするんじゃない」と、また、しかられました。そして「男わらしというものは、自分の決めた道を真っすぐに進むもんだ」と諭されました。
 この時は、なんとか勉強を続けて、高等文官試験か司法試験を受けようと考えていたんです。自分の希望としては、検事になりたかった。刑法の泉二新熊(もとじしんくま)教授を尊敬していましたからね。
 昭和十一年の春の中央大卒業生は、さきにも書きましたが、優秀な人が多かったんです。「昭和一一会」という同期会が今もありますが、東京在住の諸君は卒業以後、稲葉修君や松井宣君、塚本重頼君らを中心に毎月十一日に昼食会を五十数年間ずっと続けており、全国の同期生を集めての総会も必ず毎年やっています。これほど結束の固い同期も珍しい。
 松井宣君は日本弁護士会の副会長を務めた優秀な弁護士。有名な美濃部達吉先生に師事して勉強した。美濃部先生は、信念の人。講義ではノートもなんにも持たずに教壇のイスに座り、手を組み合わせて、静かに講義される。朝の授業などではアクビする学生もいる。すると「君、朝からなんですか」とたしなめる。中央大学は苦学生か多くてアルバイトしていた諸君もたくさんいました。講義の内容は「憲法撮要」というご自分の著書と一宇一句、違わない。頭の中に全て入っているんでしょう。大変な方でした。松井君なんかは美濃部先生のお宅で書生をしながら勉強したようで、学生時代は知らなかったんですが、後年親しくなってから、当時の思い出として「特高係の刑事が毎朝やって来て『今日は先生の所は、お変わりありませんね』と言って行く。なんと失敬な…と憤慨したものだよ」と話していました。
 お互いに戦争という極めて厳しくつらい時代を生き抜いてきたという連帯感があるからでしょうか。同期との語らいは青春時代に帰って遠慮もなにもなしですから、本当に楽しいものです。
 ところで、私は卒業後、徴兵猶予期間が切れ、すぐに兵隊検査を受けました。二十二歳でしたが、同年兵としては元八戸市議の尾崎源五郎君がいました。
 検査はもちろん甲種合格。サラリーマン生活がまだ板につかないうちに、昭和十二年一月の入隊を余儀なくされ、会社から暇をもらって、十一年十二月に八戸へ戻りました。希望の司法試験は兵役が終わってからじゃないとダメだということになってしまったわけです。
 入隊の際の身体検査では、八中時代にやった乾性ろく膜炎の既往症で大変でした。「君の胸の写真に影が出ている」と言うのです。午後三時になっても結論が出ない。軍医と中隊長が立ち会いで面接をやられました。
 一緒に付き添っていた兄・熊五郎が「皐二郎、お前はダメだこった」と言うし、必死でした。「私は大学で柔道をやり、講道館四段です」と話したら「ウーン、四段持ってるぐらいなら大丈夫だろう」ということになった。
「胸が痛むし、時々熱も出ます」と言えば、即日、帰れということになったんでしょうが、当時の風潮からいえば 「入隊できなかった」というのでは、とても、みっともなくて…
 そんなわけで、やっと入隊が決まりましたが、翌朝、つまり一月十一日の朝、五連隊の営庭に整列した時は、晴れ上がった冬空に真っ白な雪をいただいた八甲田山が、実に美しく見えて、身の引き締まる思いがしたものでした。
五連隊時代 同期に原参院議員
 私の軍隊生活は昭和十二年一月に二等兵で始まりました。中等学校以上の卒業者には「一年志願の予備士官制度」というのがありまして、一年で召集解除という特典があったんですが、この年から廃止されて試験による幹部候補生に切り替わったんです。
 戦争への道を突き進んでいた時代で将校や下士官が不足していたんでしょう。四月に試験を受けて合格しました。本県からの受験者が少なかったせいでしょうか、東京の第一師団、宇都宮の第一四師団の諸君と一緒に試験を受け、二十六人が青森五連隊で「甲種幹部候補生班」として同じかまのメシを食ったのです。
 この中にはその後、ずっと親友として付き合っている参院議員の原文兵衛君や戦後、東大水産学部に入ってプランクトン研究の第一人者となった新田忠雄君なんかがいたんです。原君は東大出でしたが、ちっとも偉ぶらない人格者で、随分と気が合いました。
 青森五連隊は、十二年十月に第八師団とともに満州に移駐し三江省の勃利(ぼつり)という所に駐屯していました。われわれ幹部候補生は十三年の一月に軍曹から見習士官になると、すぐ予備士官学校に入るために日本へ帰されました。
 日本を東と西に分け、東は千葉にあった陸軍歩兵学校、西は豊橋の下士官教育隊で教育を受けることになり、私たちは千葉に入校しました。第一期生ということになります。一緒に台湾の諸君も入校していて冬は「寒い寒い」と言っていました。私らなんかは「何だ、このぐらいならユカタでもいいんだ」なんて言っていました。四街道を毎日、走っていたんです。     
 七ヵ月間、教育を受け、七月に私と新田君、それに八戸出身の岩間君の三人が、青森五連隊付きとなり、原君たちは満州へ戻りました。
 
少尉任官で下宿探し、浦町の民家に飛び込む
青森五連隊に帰って少尉任官となったんですが、うっかりして下宿も何も決めてない。将校になると、軍支給の軍服は国に返さなくてはならず、連隊の営内居住をやめて、外で下宿することになるんです。
 あわてて、当番の兵隊に荷物を特たせて下宿探し。浦町まで来たら、植え込みがあって、良い感じの家が見つかりいきなり飛び込んだ。「実は本日、五連隊で少尉に任官した秋山というものです。下宿させてください」奥さんが出て来て「お父さんが居ないんで困りました」と言っている所にご主人が帰ってきた。
  「国家の干城(かんじょう・軍人・武人のこと)一人お世話できないとなれば青森市民の恥。お引き受けしましょう」とその場で決まってしまった。柳谷重治さんという方の家でした。
 夜、「両関」という酒を買ってきて杯を酌み交わして話をしたら、なんと柳谷さんは中央大学の先輩。「秋山君、あの聖橋という橋を知っているかね。本郷から、あの橋を渡って神田・駿河台の大学へ通ったが、あの橋は、まことに便利な橋でね」と言う。「どうしてですか」「ウン、オレは、洗たくが苦手でね。ふんどしを紙に包んで、通学の途中、あの橋の上からポーンと投げてやるんだ」奥さんと一緒に、その話を開いて大笑い。
 柳谷さんの実家は三厩村宇鉄の柳谷で、礼文島を開拓してニシン漁をやった家でして、「さすが、その血を引いているだけある」と、すっかり意気投合してしまいました。柳谷さんは、当時、青和銀行の前身の津軽銀行の部長をしておったはずです。みちのく銀行の常務もやりました。現在、青森市で皮膚科医院を開業している柳谷文彦先生が長男で、青森中学に通学していました。
 柳谷さんの所には、十五年五月まで、つまり私が結婚するまで、お世話になりましたが、その後も、ずっと親類以上のお付きあいをしていただいております。

郷土八戸の偉人 自由学園創始者 羽仁もと子 1

西有穆山の完結で二人目の八戸の偉人として羽仁もと子を掲載。昭和四十七年に八戸図書館が発刊した「永遠の教育者 羽仁もと子」から

序に代えて
千葉学園高等学校長 千葉富江
 郷土の生んだ教育者羽仁もと子の教育観をいま、あらためて考えてみると、既に生誕百年をむかえた過去の人でありながら、その思想、その業績が、何と新鮮で、形式にとらわれない独自なものであるかにおどろくばかりである。「画一的な詰めこみ教育でなく、子ども自身から勉強の態度を引出す教育」「自治自労の生活教育」が、彼女の長い夢から生れた信念であった。
 現在、大学入試を目当てにしたような教育の実態が問題になり、中、高校の教科課程の改定が検討されていることを思うと、羽仁もと子は二人の子供の母親として、早くに教育は教師が与える技術や手段でなく、子供自ら進んで自らを教育しようとする白発心を育て、共に学び合うものであると主張していた。
 大正十年、自由学園を創立し、夫羽仁吉一と二人、精魂をこめて、幼児から大学までの一貫教育に没頭したのである。昭和七年、仏国ニース世界教育会議に出席して、「教育と変遷しつつある社会」というその会議の主題に対して、彼女が日々感じ体験しつつあった教育の真随を語った「それ自身一つの社会として生き成長し、そうして働きかけつつある学校」と題する講演が、多くの参会者に感銘をあたえたのも当然であったろう。
生活即教育の実践は、日常の学校生活の中ばかりでなく、彼女の歩んだ生涯をたどってみると、それぞれの時代に応じて、活き活きとした実例が数えきれない。
 創立後間もなく大正十二年、関東大震災が起ったときの救援活動、ふとん作りと配布、乳幼児、病人へのミルク配給、本所太平小学校に給食奉仕など、みな、生徒の机の上ではない生きた勉強であった。その後、友の会の家庭生活合理化展覧会の製作、開催手伝い、昭和十年には東北冷害大凶作を援ける「家族日本をつくりましょう」「食べもの着ものを一つにする運動」の展開など、すばらしい学校教育であり、社会教育であった。
 昭和十三年の北京生活学校の開校も、中国と日本の間に、真の近隣の友好を求めて、文字通りの生活即教育の実験場であった。
 学問をしても役に立たない人間であったり、頭や口ではわかったつもりでも、その生命には何も解っていない人間に成長するのでなく、教室で習った知識が実生活に体当りして、自分の実力を育て磨いてゆくのが、彼女のねがう真の教育である。
 羽仁もと子は教育者であると共にジャーナリストであり、文筆の人でもあり、これらの教育の理想、人生行路の標語を「思想しつつ生活しつつ祈りつつ」と美しい言葉で表現し、多くの人々に知られている。彼女の深い信仰の祈願がこめられたこの短い言葉は、これからも更に新らしく、若い人々の心に語りかけてゆくであろう。
座談会 「羽仁もと子先生を語る」
 館長 座談会を開催するにあたり、お礼を申しあげたいと存じます。
 当年は八戸市立図書館開館百年(注・明治七年新聞縦覧所を嚆矢)の記念すべき年でございます。そこで昭和四十五年から毎年行なってまいりました郷土の先人顕彰を全国読書週間から繰り上げて、羽仁もと子先生のお誕生日の前日であります今日、生誕満百年記念として、自由学園々長 羽仁恵子先生、婦人の友社々長千葉貞子先生を囲んで羽仁もと子先生を偲ぶ顕彰座談会を計画いたしたのであります。
 生前のもと子先生は、形式よりも心を大切にすることを教えておられるように拝察いたしますが、この会場は誠にお粗末でございまして形式を超越したと申し上げましたらよろしいのでしょうか。座席その他ご覧のような状態でございますので、遠く東京、大阪、仙台などからわざわざおいで下さいました友の会中央委員の皆様方、また その他の地域からおいで下さいました皆様方に対しましてもご不便をおかけしますことをまずもってお詫び申し土げたいと思います。ご了承願います。
 さて、本日司会をお願いしました島谷部陽之助 先生は、明治時代人物評論家として中央で活躍されました島谷部春汀の一族に当る方であります。展示会でお気づきになられたかと存じますが、学生時代から羽仁先生を尊敬され、いろいろ研究されておりますので、ご多忙のところを無理にお願いいたしました。
 羽仁恵子先生、千葉貞子先生には、もと子先生の郷里であるというとところから特別なご配慮をもって、公私共にご多忙中のところ遠路おいで下されましたことを厚くお礼申し上げます。なお、この席を借りまして、このたびの事業をご後援下さいました報道関係各社及び写真をご提供下さいました婦人の友社、いろいろご協力下さいました八戸友の会に対し深く感謝の意を表する次第でございます。それでは、これから座談会を開催したいと思います。
 司会者 島谷部でございます。先年来八戸市立図書館では、「先人を語る」という企画をなさいまして、いろいろな郷土の先人顕彰を行なってきました。今までに顕彰された中には、江渡狄嶺、西有穆山、安藤昌益という方々があったわけです。それで当地の生んだ、その方々に匹敵する人物を大正期の八戸に求めるとすれば、羽仁もと子先生ではなかろうかと考えております。したがって本年は羽仁もと子先生を取り上げまして、ここに座談会を開くことになりました。私が司会を命ぜられまして大変光栄に存じますが、皆様のご協力により実りある座談会にしたいという考えでおります。よろしくお願いいたします。
 羽仁もと子先生についてお話をするとすれば、まず三つの柱を設定したらどうかと考えます。一つは羽仁もと子先生の家系と人間形成といった面、それからジャーナリストとしてのもと子先生、教育者としてのもと子先生、こういうことで話合いを進めて行きたいと存じます。それでどなたでも結構ですから、もと子先生についてお話下さい。
 稲葉 八戸市の教育長でございます。ここに秋山市長の名前がでておりますので私が立ちました。午前中、羽仁恵子先生が市長室へおいで下さいましてご挨拶をいただき、市長は感激しておりました。実は市長もこちらへ参りまして、親しく皆様方にお目にかかりお礼申し上げたいということでしたが、午前中、中居林小学校の百年記念式典、そのあと、校舎の落成記念の式典がございます。そちらの方に出席する関係上こちらに参上することができませんでしたので、教育長から皆様方にお許しいただくようにとのことでございました。
 八戸としては、さかのぼれば安藤昌益という方がおられる。次には西有穆山、そして明治になって羽仁もと子が八戸から生れた。まことに八戸として肩身の広いことである。あたかも図書館百年記念、羽仁もと子先生ご生誕百年記念、そしてもと子先生が卒業なさった八戸小学校も去年は満百年、然も、もと子先生は八戸小学校の教壇にお立ちになったという羽仁もと子をめぐる八戸の関係が、みなもと子先生同様、百年という不思議なご縁であると思います。図書館としては、よい時期によい先人を得られて、ここに記念事業をやられたということ、私はかねがね思うことですが、八戸の松岡家という家はなんてすばらしい、明治初年における八戸の第一級の先覚者をだしていられる。ここに教育の偉大さということをしみじみと思うのであります。まだ汽車のなかった時からご姉妹と弟さんを上京させ、もと子先生を東京の旧府立第一高女をおだしになられたればこそ、今日の八戸の誇りが出たのだと思います。
 私が替りまして市長の言葉を皆様にお伝えいたしまして、ご挨拶にかえます。
 司会者 市長さんが、今日おいでになれないので先ほど教育長さんからご挨拶がありましたが、私も先程、生活即教育展を見まして、あまりに立派でこれは今日の司会ができないのではないかとびくびくしてきたわけでございます。私は羽仁もと子先生が亡くなりましても、やっぱり人間としての偉大さが後進ふるいたたせて、あのようなすばらしい成果を生みだしたのではないか。然もその成果は偶然なものではない。もと子先生の緻密な頭脳によってその基礎がつくられているのではないか。今日の「婦人の友」を考えてみても、その外郭団体としての「友の会」があり、売切制を断行するといった着眼のすばらしさがあったと思うのです。では美濃部先生、
 美濃部 実は、この座談会のご案内をいただきまして躊躇したのでございますが、よく考えてみますと「羽仁先生と私」と申し上げると大変せん越でございますが、先生とのご縁を感じますので、お話を申し上げられなくても皆さんのお仲間に入れていただきたくてこうして出てまいりました。と申しますのは私の実家は「宗」といいます。母の母、祖母は「宗しげ」というのですが、母の実家は古川といいまして、その古川の家は長横町九番地でした。私がその母の里の屋敷で生れました。それで物心がつく頃から松岡さんというご苗字は始終聞いたような気がいたします。ご本籍は長横町の何番地だったのか、それを伺いたいと思いまして。
 羽仁 長横町六番地です。
 美濃部 私は大変おくてでございまして、昔のことを知りたいと思うようになったのはつい最近で六十を目の前にして昔のことを知らなければと思いつきました。しかしもう母もおりませんし、親せきもなくなりまして、それがくやしくてなりません。なんだか残念な気持でいただけになつかしい、そういう気持がしみじみいたします折からでもございますので、今日はここで母のその当時のことを皆様のお話の中からいろいろ思い出させていただけるんじゃないか。今おうかがいしてますと六番地といたしますと三番地の違いがあります。その九番地が私の生れたところでございます。それも一つのご縁の深さと思っておりますが、その後私の母がぼつぼつと中しました中に、(私はあまり昔の事を聞きたがらなかったし、母もあまり話しませんでしたが)たった一つ私の思い出に残っておりますのは「私は東京へ行きたかったんだ、なぜかというと、おもとさんが東京へ行ったんだから」と、そう申すのです。私も小学生の頃から、どういうわけか羽仁先生のことをおもとさん、おもとさんと大変厚かましいのですが、ああ、おもとさんのことでしょうと、そのように呼んで育ったということは、今にすれば母と先生とのご縁が深かかったために、子ども心にもおもとさんという言葉を親しく覚えていた。そして母は今の東高を出まして、一人娘でございましたので、私ごとで恐縮ですが、これで娘も一人前になったと母の父が喜んでおりましたら、母が東京へ行きたいと云い出したそうです。その当時のことで、母が明治二十年生れでございますから羽仁先生は東京で活躍なさっていた。皆がびっくりして「とんでもない、そんなことを言ってもらっては困る」と言いましたら、「これは小さい時から考えていた。おもとさんのように東京へ行きたい。」と泣いたそうでございます。私の祖父がその当時にしては物わかりがよかったのでございましようか、「そんなに行きたかったら連れてってやろう。行ってみて、もし戻ってくるならそれでもよし、まず連れていってみよう。」と云って、どうやって思いついたかわかりませんが、今のお茶の水大学の前身であります女高師の本科に入る運命になったようでございまして、その話を私が女学校を出まして東京に進学したいと申しました時に母は、「本当はおまえたちには、たもとを着て帯を締めて歩いてもらいたい。東京に行って洋服を着たり、袴をはいて休みに帰ってきて歩かれると肩身が狭いのだ。」「だけれどもお母さまが行ったじゃありませんか。」「それを云われると弱いんだ、私はおも とさんにあこがれて東京に行かせてもらったから、おまえたちもやらないわけにはいけないだろう、だけど八戸に帰って来たら袴をはかないで帯を締めて歩いておくれ」と念入りに云われまして、私も袴をはかないで東京へ出してもらいました。そういうようなことで私の一生にいろいろな面で影響がありました。私の現在あることは、私と母とそれから、おもとさんと申しましたら、失礼にあたりますが羽仁もと子先生につながるものがあるのだとしみじみ思います。きれいな装丁の「羽仁もと子著作集」がつぎつぎとくるのをまちかまえて、包みを開いたものでございます。
 司会者 美濃部先生から貴重なお話を伺ったわけですが、美濃部先生のお母さん、その方も若い時上京されたわけです。その頃、八戸では若い方々が上京して勉強するというムードがあったように私は聞いております。つまり八戸の方々は、昔から勉強意欲があったのではないかと思います。大分上京していたようですが、それに関係したお話はありませんか。
 羽仁 美濃部先生、長横町九番地は現在なにになっていますか。
 美濃部 ただ今、バイパスの角の一画でございます。戸部さんという薬局、あの辺でございます。

八戸中心商店街は壊疽、再建は固定資産税見直の一手


八戸は固定資産税を再考しなければならない。
町は再興できない状態にまで腐った。人間でいえば壊疽(えそ・体の組織や細胞が局部的に死ぬこと。冷・熱・毒物・血流障害・外傷、細菌やウイルスの感染などによって起る)で、体が腐ったのだ。
こうした状態にまで陥れば中心商店街の再建などは夢のまた夢。市役所は現状をもっと見つめよ。街が死ねば固定資産税の収入は困難。すでに多くの商店主が固定資産税を満足に払えない。
自分の智慧と才覚で商売をする者はともかく、智慧不足で商売が立ち行かず、貸し店舗、貸し事務所を経営。ところが不況で借り手が不在。ビルは老朽化し、誰も訪れない。風雨に晒され廃墟と化した。ところがこうなっても固定資産税は課される。壊さないかぎりむしり取られる仕組みが固定資産税。
硬直した思考での税の課し方を改めないと、街は 更に壊疽の度合いを深め壊滅する。
江戸の昔から続いた街を守り育てるのが行政の仕事。それを放棄し課税することのみ熱心となったツケが廻った。
行政は人々の生命財産を守ることが最優先。それを税を課すことにのみ真剣となり、街が病気になったことに注意を払わなかった。
熱が出る、咳がとまらないと幾つもの症状が出たにもかかわらず、注意を払わなかったのだ。商工会議所は地元商工業者の利益の守護、勝手な要求団体。これに力がないと不当な税を丸呑みすることになる。
従来のような活気溢れる中心商店街なら、固定資産税もそのままで良い。ところが街に人が集まらない状況下で、同一な税を課すことに間違いがある。だからこそ支払えない人が続出。
かかる事態を回避すべく会議所も要望を出すが、市当局は耳を貸さない。街を助ける気があるのだろうか。助けてくれと会議所が言うが、聞く耳を持たないのが今の市当局者だ。
景気が回復すれば税は払える。ところがバブル崩壊、失われた二十年になるぞ。遣っても又入ってくると思えるから、金を消費する。税は変わらない、更に増える仕組みの息苦しさの中で誰が金を気兼ねなしに使える?
街は必ず新興地から腐る。三日町、六日町などの旧来からの街、本八戸駅のように後発の街、こうした新興の地から腐るのが鉄則。
本八戸駅周辺は腐りが一番初めに来た。同様後発の南部タウンが壊疽を起し、とうとう崩壊する。ここも八戸港が隆盛を極めていた頃にできた街だった。
昭和四十六年、国会議事堂を裸足で歩いたといわれた歯だしの岸総理の弟、佐藤栄作が首相を務めていた時代、沖縄返還が決まりニクソンがドルを金と交換しないと宣言した。世はボーリングブーム。それに目をつけたのが南部木材。大きな収入増を目論んだのだろう。広大な敷地にそれを建てた。ところが流行ものは廃りもののたとえの通り、ブームは去った。そこで智慧を廻して飲食街へと  変貌。これがまんまと当たって東高校のあたりがにわかに活気を帯びた。いかがわしい風俗の店なども立ち並び高校生には不向きだとも思わせたが、それも社会勉強であったか。
ともかくも、ここらが賑わって、夜の蛾だか蝶が乱舞し、スナックだのいないないバーだのが多くの客を集めた。ところがこの不景気で、南部タウン自体が壊疽。
今は綱を張って人が立ち入れない有様。それでも固定資産税を課す。首っつりの人間の足を引っ張るしわざだ。
役所は人を殺す、ダメにするのが仕事ではないはず。本来の目的は地域住民の生活、財産を守るのが仕事。すると、かかる状態の廃墟をどうするか、これには固定資産税を課し、その金額が撤去費用に満ちた場合は市が撤去の代執行をする。そして、その費用は請求しない。
欧州の町は古い町並みを保護する。地方自治体にそれなりの方針、政策が明確にある。ところが日  本は古来より地震、大火の襲う所、旧来の建築物を守るなどの概念がない。壊れたら又建てればいい。こうした発想でしかない。これが国民性なら、これに合わせた税の徴収方法があってしかるべしだ。
固定観念にとりつかれず、自分たちの街を注視し、税徴収を柔軟に適用せよ。
かつて、八戸は日本一の水揚げを誇る漁港だった。その当時の漁獲高から今は十七%までに下がった。ここらは連載中の武輪水産の話を参考にされたい。
つまり八十三%が獲れなくなった。良く聞いて欲しい。商売の売り上げが八割無くなったら、商売として成り立たなくなる。これは当然。市役所の税収入の八割が無くなれば存続不能。
これをモロに喰らったのが水産界。そこを生き残ったつわものがいる。それが現在活躍する業界人たち。頭が下がる。困難に直面し、それから一歩も下がらず苦闘された。
これら業界人の智慧を街にも生かそう。どう辛抱  されたのか、どう乗り切ることが出来たのか。ここにこそ生きた智慧がある。八戸は捨てたもんじゃない。困難を克服された先人がいるんだ。
その智慧と努力を市役所も学び、八戸の中心商店街を立て直せ。無料駐車場を中心とした大胆な構想をもて。商業と市役所が一体となる新たな行政の仕組みを考えださないと八戸の中心商店街は壊疽を起し、南部タウンの壊疽が伝染し崩壊するのは間違いない。
行政はダイナミックな改変をするところに面白みがある。遷都がそれだ。八戸も中心商店街が崩壊すればイオンを呼び込むことになろう。が、その時、イオンが時期を失して来ないと言うのも間違いない。ものごとには潮時がある。その時宜に応じた施策が打てないのが役人。小林市長とても同じ。競馬で言えば好位地にあれど伸びずというところだろう。次回は目玉が飛び出す起死回生の景気浮揚策を開示する。

手記 我が人生に悔いなし八 

○ 父の遭難事件
「ジーン、ジーン、ジーン」何かが鳴っている音で目をさました。隣の部屋の電話の音だ。受話器を取ったとたん「何で電話が鳴ったらすぐ出ないんだ」兄のどなり声である。
時計を見たら午前二時。草木も眠る丑三つ時だ。昭和五十五年六月初旬のことであった。
「親父が行くえ不明になった。五時から捜索だ。四時に六ヶ所村へ行くからお前もこい」。
「行くえ不明って何のこと?」
「わらび取りに行って親父が居なくなった。五時から消防団が探してくれる。俺たちも四時にはここを出発する。」何が何だかさっぱりわからないが「父を探しに六ヶ所村へ行くため四時に出発する」ということだけわかった。
 寝ていた夫を起こして電話の内容を伝えた。
 「四時とは言わず、とにかく実家へ行こう。」
 私の実家は糠塚長者山下(現在は長者二丁目)で両親と兄夫婦同居である。行ってみると近所に住む姉夫婦も来ていた。
事件の内容は
昨日家族全員で六ヶ所村へわらび取りに行った。両親と兄夫婦と子供二人(五才と一才)計六人で、兄の運転する車で行った。
いつも行っている原っぱに車を止めて、一時間ぐらいわらび取りをしてから、車に戻り弁当を食べることにしていた。ところが弁当の時間になっても父だけが戻って来ない。子供たちも居ることだし、とにかく食べることにした。食べ終わっても戻ってこない。待っても待っても来ない。少し捜してみたが居ない。
ひょっとしたら家に先に帰ったのかも知れないと思い皆で帰って来たら、家には帰っていなかった。少し待ったがやはり帰らない。
「これは大変だ」ということになり、六ヶ所村へ走った。一人では無理なので消防団にお願いした。しかし日が暮れてきたので二次災害を防ぐためにも今日の捜索は無理、明朝五時から捜索開始となったのだそうだ。
兄達が行った六ヶ所村のわらび取りの場所は。私も何度か行ったことがある。原っぱがあり、自衛隊の演習場があり、林もあるが遭難するような深い森ではなかったと思うが。
「どうして先に帰ったと思ったの?あそこはバスが通っているの?」
「親父には前科がある。博多の件がある。」
前科とは……五年ほど前のこと、弟が北九州市小倉で結婚式をあげた。九州支社の小倉に居たからで、小倉の市営住宅に居た。
お嫁さんの家族は群馬県桐生から、八戸から両親と兄と私の四人が市営住宅に集まった。
結婚式が終わった翌々日私達四人は日帰りの博多見物に出かけた。帰りに博多駅構内で父とはぐれてしまった。駅の案内所から構内放送をしてもらったが父は見つからなかった。
私達がこんなに捜しているのだから、父の方だって捜しているはずだ。だから先に帰るわけにはいかない。二時間ぐらい待った。
父は元国鉄マンだから一人で帰れる。私達は先に帰ることにしたが電車の中でも心配であった。小倉の弟の住宅に帰ったら父は先に帰っていた。「子供じゃあるまいしはぐれたら電車に乗って帰ればいいじゃないか」と父は言ったのである。私はすごく腹が立った。兄はこのことを前科と言ったのである。
その兄を姉が責める。「どうして年寄りを山へ連れて行ったの。留守番させておけばいいのに」父は七十五才。母は七十才である。
「おふくろが悪いんだ。夫婦だから一緒に行動すればいいのに、バラバラに歩くからこうなるんだ」母は終始無言であった。 
義兄が言った。「ここで話をしていてもどうにもならない。現場へ行こう。少し早いが現場で待つことにしよう。悪いことは重なるものだから、気をつけてゆっくり走ろう。」
空が明るくなって五時前から消防団の人達が集まってきた。捜索上の注意があったが二次災害防止のため絶対一人では歩かないということだけ覚えている。私は夫と団員のあとにくっついて山に入った。
どのくらいの時間が過ぎたか見当がつかない。「オーイ」「オーイ」の声が聞こえた。
お互いに呼び合っているのだろうか。そのうちに「ピーポー・ピーポー」あっ救急車だ。
見つかったのだ。急いで山を出て救急車のそばへ行った。兄が「節子、おふくろと一緒に救急車に乗って行け」これで父がすでに救急車に乗せられていたことがわかった。
一刻を争う事態なのだ。母に即して救急車に乗った。確か運転席の後ろの座席に乗ったと思う。私は父が横たわっているところは見ていない。「生きていますか?」と聞いた。
「大丈夫ですよ」救急車は生きている人だけ乗せると聞いていたので、乗せたということは生きていることなのだが、そんなことを考える余裕なのでなかった。母は無言のまま。
野辺地町立病院で診察を受けた。「点滴をしますがその前に、一昼夜倒れていたので衣服が湿っています。着替えさせて下さい。」と看護婦に言われて、初めて父と体面した。
「おじいちゃん何があったの?どうしたの」
母がとりすがった。「ん?山で寝ていた。体が動かない。」見た目はしっかりしていた。
私は売店に下着を買いに行った。
後始末のため現場に残った兄達が病院に来た。皆が林の中ばかり捜していたが、林の陰に倒れていたのだそうだ。脳軟化症と診断され右半身不随となっていた。点滴が終り次第八戸の病院に移っても良いと言われ、その日の内に八戸に戻った。長い長い一日だった。
一時は快方に向ったが入退院をくりかえし八年後の平成元年一月十七日父は他界した。
国鉄退職後、再就職、町内会長、百働会会長等々、趣味は俳句、菊の会、バラの会等々生き生きと活動していた。
「血圧が高く、それが自覚症状がないため危険です。倒れた時は再起不能となりますよ」と医者に注意されていたが、そのとおりになってしまった。
○ 早藤むらさんのこと
父が入退院を繰り返していた頃、フッと思い出したことがあった。私は四~五才の頃から父に連れられて、時々八戸に来たことを覚えている。その時父が必ず立ち寄る所があった。お寺の門を入るとすぐ左側にそのお墓があった。何かの記念碑のように大きく高くすごいお墓だなあと見上げたものだった。お墓のすぐそばに一本の大きな木があり、墓石にかぶさるように枝が垂れていた。
始めの頃は墓碑の字は読めなかったが、私が成長するにつれて読むことができるようになった。「藤むらの墓」と書いてあった。
 いつ行っても誰かが先に来たのかなと思うくらい花が供えてあった。父と一緒の墓参は私が中学卒業する頃まで続いたような気がする。
 藤むらさんとは誰なんだろう。ずっと気になっていたことを母に聞いてみた。
「藤むらさんではなく早藤むらさんのお墓だよ。大きな木の枝が垂れ下がっていたから「早」の字が見えなかったんだね。
おじいちゃん(父のこと)が独身時代に番町の早藤先生のところに下宿をしていたの。
早藤先生はお花やお裁縫の先生をしていたんだよ。早藤先生が亡くなったとき身寄りの人がほとんど東京へ行ってしまっていたのでお弟子さんやお世話になった人達皆で建てたお墓だよ。あのお寺は願栄寺だよ。おじいちゃんが倒れてからは、代わりに私が墓参りをしてたんだよ。」と母は話してくれた。母が代わりに墓参りしていたことなど全く知らなかった。
何日か後に母と二人で願栄寺に行った。
父がいつも買っていたお店で母も花を買った。お墓には最近誰かが来たらしく花が供えてあった。大きな木はいつものように枝を垂らして墓碑の頭を隠していた。枝葉の間から「早」の字が見えた。早藤むらさんの墓であることを確認した。二十年以上も前のことである。これが早藤むらさんの墓碑を見た最後となった。
それから何年か後のある日のこと、詩吟の仲間のSさんが話しかけてきた。
「あなたのお父さんの若かりし頃し頃のことを知っていますよ」「えっ?若かりし頃の?」「私の伯母が下宿屋をやっていまして、あなたのお父さんが下宿していたんですよ。」
「Sさんの伯母さんは早藤むらさんですか」「そうです。話を聞いていましたか。」
「聞いてましたよ。お花やお裁縫の先生もなさっていたとか。お宅は番町だったとか。」
「そうです。それで私が娘の頃に手伝いに行ってたのです。一階はお花やお裁縫の教室になっていて、二階は下宿人のお部屋でね。日中は下宿人が勤めに出て留守だから、裁縫の手を休めて独身男性の部屋はどんなかなとのぞきに行き、伯母にしかられたもんですよ。あなたのお父さんの部屋ものぞきましたよ。ハハハ……。」と話してくれた。
この話を父に聞かせたかったが、この時はもうこの世の人ではなかった。
今回この原稿を書くにあたり、私は願栄寺に墓碑を見に行った。お寺の門を入ってあっと驚いた。お寺を間違えたかと思うほど変わっていた。私が見たのは二十年以上前だから変わっても不思議はないが、大きな木は無く早藤むらさんの墓碑もなく、新しいお墓がずらり並んでいた。
後日、知人に願栄寺の檀家さんがいたので話をしてみた。「何年か前に墓地の整備をしまして、墓地の奥の一郭に無縁仏さんがまとまっていたと思いましたが、そこではないでしょうか」と言うことであった。未確認ではあるが、母もSさんも亡くなり花を供 える人達も亡くなり、無縁仏になってしまったのだと思う。
○ 壱吟会創立
昭和五六年三月、岳智会八戸支部壱吟会を創立した。今まで所属していた雄風会より独立したのである。
会名は雄風会会長の月舘雄岳先生がつけて下さった。「一吟天地の心」の一吟を壱吟としたのである。
教場は朔日町のうなぎ「高砂」の二階(現在はない)と決まった。「高砂」は会員Mさんのご親戚の経営なので、ご好意により休業日の月曜日に使わせて頂くことになり、会がうなぎ登りに発展することを願った。
創立の申請書には、私も含めて八名の会員名簿を提出してある。「たった七名の会員でも会長か」と陰口を言われ、肩身のせまい思いをしたが、全くのゼロからのスタートで四十才の私はファイト満々といったところであった。
一年ほどで「高砂」は閉店し、教場は会員Mさんの自宅に替わった。またブラザーミシン文化教室(番町にあったが現在はない)に教場ができ、種市町(現洋野町)にも教場ができた。八戸では漢詩の専門書はあまりないので、東京神田の古本屋へ吟友に連れていって頂いたことが何度かある。
東京岳智会の行事の参加、吟道講座の受講、訪中団への参加、会員がいるからこそ勉強をしなければと思うのである。私は会員の皆さんによって育てて頂いた。
会員が増えたと喜べば、退会する人もいて一進一退である。順風とまではいかなくてもまずまずうまく行っていたと思う。
平成五年夫が病気になった。この頃から逆風が吹き始めた。ブラザー教室はなくなり、種市教場もなくなった。会員の減少である。
しかし下がってしまえば今度は上がりである。
今年で創立二十七年になるが、今のところ上りに向っていると思う。

東北線の歴史 八戸との関わりを調べる 4

ものがたり東北線史で一番伝えたかった事を記して、この稿を終わりにする。東北線の列車の図、弁当屋の初めは宇都宮の某だなどの興味ある事柄も記載されているので、研究するひとは八戸図書館郷土資料室をのぞかれるといい。
尻内でストライキ(同盟罷工)
首謀者は石田六次郎
東奥日報
明治三十一年三月三日
 ●鉄道機関方の同盟罷工(汽車の運転休止) 去二五日以来宇都宮以北青森迄の鉄道線路各駅中機関方の同盟罷工を企てたる箇所ありて之が為に機関の運転に支障を生じ或いは列車途中において運行を停止し或いは全く列車を発する能はざる等公衆の不便を与うること抄からざる。
 が今其の原因を探知するに夫月中の事なりとか青森尻内両駅の機関方が主諜者となりて一篇の檄を各駅の機関方に飛ばしたりその檄の趣旨とする所は会社にては駅長をば書記の待遇となし昨今の如き二回ほど増給の恩典ありたるにも拘はらず機関方に対する待遇は甚だ冷淡にして其給料の如きも日給のみならず之も駅長の給料に比すれば比較的低薄にして昨年の如きも単に一円の増給ありたるに過ぎず機関方は列車の運転上必要欠くべからざるものにして鉄道事業に取りては甚だ枢要の地位たり然るに会社の冷遇比の如しとせば是れ我々の大に覚悟せざるべからざる事なり且つ彼の二七・八年役の際の如きも行賞は単に駅長助役に止まりて我々機関方に及ばざりしか如き我々の常に遺憾とする所なれば比際断然たる処置に出てんとの事にてありし由なるが然るに或る機関方の内之を密告するものありて其檄文一通が日本鉄道会社の手に入りたれ鉄道は捨て置くべきにあらずとなし発檄の主諜者と認むべき青森尻内両駅の機関方二名を免職したり元来日本鉄道会社の機関方に比の如き不平あるは今日に始れるにあらず前にも述べし如く二七・八年役の際行賞の機関方に及ばざりしが如きも不平を醸すに至れる導火線にして其後往々不穏の事為せりにあらざりしも未だ公然社会に暴露する程の大袈裟なる事なかりしものの左れば今日青森及尻内両駅の機関方が免職厄運に遭ひんと聞くや各駅の機関方は何条黙すべき窃に各駅の電線を利用して謀し合はせ機会を見て同盟罷工を為さんにて目下は青森駅に在勤し居るものの由にて当時同人の父は遠方に行きて家にあらず母は病床にありて危篤なりと云えば同家の不幸聞くも憐れの極みなれ因に記す同人は職務に斃てたるものなれば其の死体は鉄道会社に於て処分すべき筈にて直ちに当駅より社員を派せしに原籍地に於て引取ることになりたる由にて社員は直ちに引返し来れりと云ふ。
三月一〇日
●機関方の申分立つ
 罷業機関方の委員二三名は先日来日本鉄道会社前の旅館山城屋を事務所として会社に向って○強に談判を試み居りしが去る五日の夜に至り会社は遂に彼等に対して一歩を譲り左の条々に約して一先づ本件を落着せしめたり 
一、爾来機関方並に同心得の待遇は一切三   等社員即書記駅長等と同格ならしむべき事
二、機関方火夫機関車掃除夫などいふ名称   を廃し更に佳名を這ひて之に代ふ事
三、給料を増額すべき事
四、池田元八、石田六三郎(六次郎)を除く外は一旦免職したるものを復職せしむべき事
 是にて機関方の申分殆んど全く相立ちたるにつき委員等は内々に祝宴を開き去七日午前各々其所属の駅に引取りたり池田、石田はストライキの主謀者として甘んじて退身を承知し機関方一同に代り身を犠牲に供したるものなれば機関方等は申合せて応分の拠金を為し之を両人に送りて感謝の意を表すの計画たりといふ斯く機関方の主張する所尽く通りたる上は愈に重投節に其責任ありて同社の大株主某々等は重役一同に向ひ辞職を勤めたりと伝ふる者もあり。
日鉄(日本鉄道)機関方の大同盟罷工(スト) 日鉄橋開方のストは労働運動史上最初の大争議として知られるが、いわゆるストライキというものは以前にもあった。
 二五年十一月二十日、熊谷駅に下り終列車が到着したとき、同駅員が時限ストをやっていたため、1時間あまり停車したままだったという。駅員がどのような要求をしたのかは不明であるが、日本鉄道の従業員がストを行なった最初とされている。
 三十年七月五日、盛岡建築課の職工百二十名が賃上げ要求をして容れられなかったためストに入り、三年間復業しないことを決め、五円ずつの資金を集め、別箇に建築会社を作って生計を立てるという強いものであった。日本鉄道ではやむなく東京から二百名の職工を送ることにしたという。(社会雑誌第4号)
 三一年二月初旬、会社の機関方ひとりひとりに封書が届いた。手紙の内容は、「我党待遇期成大同盟会」と題した秘密文書であった。
 「謹而再拝血涙を呑んで諸君に檄す諸君も必ず同感なりと確信す……」機関方が日頃軽視されている。深谷事件(当時あった運転事故)などでわかるように、機関士はすぐ刑法上の罪人になってしまうが、駅長や車掌は関係がない。
従って機関方の責任も義務も重大であることは明瞭である。「然るに会社の我等機関士に対する頗る冷遇なり。何ぞ不道理の甚しきや……而して運輸の一方なる駅長を見よ。助役を見よ。非常の厚遇なり…而して会社はここに見るなく益々我等を冷遇す。諸君近来の出来事を見られよ、保線課一同は甲乙の区別なく一人不残増給せり。又運輸の一方を見られよ。…上給者多々有之実に目醒しき盛事なり。実に一驚を喫せり。而して我等辺には微風だになし。以下略
 我党待遇期成大同盟会の本部はどこにあるのか、文書を流した者は誰なのかわからなかったが、ただ心の中の同盟という点で機関方は結ばれた。各機関庫にはそれぞれ指導的な立場に立つ者が出て、同盟会の支部を結成したり、ひそかに話し合い、連絡をとりあうことになった。
 このような動きはすぐ会社側で察知し、首謀者探しに躍起となった。汽車課長松田周次が東北地方に急行し、調べた結果、尻内の石田六次郎、青森の池田元八を主謀者と認め停職処分にした。会社側は首謀者を解雇することで騒ぎは収まると考えたようであったが、逆に緊迫の度は高まっていった。次に各機関庫の指導者を解雇するという内報があり、仙台などでは、もし解雇者が出た場合は全員辞職することを申し合わせるなど、各地の動きがあわただしいものになった。二月二三日、会社側の手配で、上野、宇都宮などの機関庫から数名の機関方が派遣されてきた。解雇者の補充のためであった。同日前の二名を含め、青森二名、尻内三名、一ノ関五名計十名の解雇が発令された。 二四日このことが東北本線各機関庫に伝わり、異様な空気に包まれた。
 この時点までは少くとも一ノ関以北ではスト行動に移る気配はなかったようである。 二四日の深更、正確に言えば二五日の一時すぎに意外にも福島駅で機関方のストが開始された。以後一両日中に連鎖反応的に東北本線各機関庫にストが 拡がるがストの中心的な役割を演じたのは福島機関庫であった。各機関がそれぞれ電報や会社の電信を使って互に連絡をとりながら、単独にストを行なっている。会社の電信を使うときはすべて略号を使っているところからみて、かなり準備された斗争であることがわかる。
 二四日十五時上野発青森行の列車が予定より五十五分もおくれて福島駅に到着した。
 時計はちょうど一時五分であった。待ちかねた旅客が列車に乗りこみ発車をまっていたが、なかなか発車しそうな気配がなかった。実はそのとき機関車乗務員が姿を消していることがわかって駅では大騒ぎしていたのである。駅では三名の機関方を連れてきて乗り込ませようとしたが、突然六十余名の機関方があらわれて三名を連れ出してしまった。駅では警察に通報するやら旅客におこられるやらで気をもんでいたが、朝方の四時すぎに仙台から上り列車が入ってきたので、小田福島駅長はこの乗務員を折返し使おうとした。だが酒を飲んで景気をつけたおおぜいの機関方が線路に立って運転を妨害したので、抜剣した三十名 の警官が入り込み、なんとか発車させた。福島駅附近には緊迫した情勢が続いた。いっぽう、ようやく発車した列車も途中故障があったりして仙台に着いたのは七時間もおくれた十一時ごろであった。
 二十五日の朝、福島での騒ぎが仙台機関庫にも伝えられ、機関方は仙台市内数か所に分散して姿を消してしまった。この日の午後仙台を発車する上下各一本の旅客列車(一ノ関行、黒磯行)は運休となった。警官、憲兵が多数仙台駅につめかけ、機関方を説得したり、行方を深したり大騒ぎとなった。
 二十四日の夜、宇都宮の機関方と火夫五十余名は市内の中村屋というところに秘密に集合し、結束を固めたが、二十五日、会社側では就業しない者は解雇し、宿舎を即時退居させると言い渡し、とにかくその日の二十二時以降乗務させることに話し合いがついた。しかし情勢は更に変わっていった。
 五名の解雇者を出した一ノ関機関庫では、二十五日夜、町内の清風亭で解雇者の送別会を関いた。 五十余名の機関庫員が集まったが、席上に仙台機関庫から「キトクミナヤメタ」という電報がとどいた。仙台機関庫全員乗務をやめたという意味である。送別会はたちまち決起大会となり、他の機関方を集めたり、各地の情報を聞いたりした。まもなく「シリアオミナヤメタ」という電報が入り、全員欠勤を決定し、「ウナキカンコミナヤメタ」と各機関庫に発信した。
 二十六日の朝までに宇都宮以北の機関庫はいっせいにストに入ったのである。
 二十五日朝、日本鉄道本社ではストの中心は福島にあると判断し、運輸課長足立太郎を福島に派遣した。松田汽車課長にとらせた強圧策が失敗したため、小野義真社長の意を受けて機関方と紛争の仲裁をするという名目であった。
 二十五日夕刻福島に到着すると、すぐに市内陣場の同盟倶楽部を訪れ、懸命に説得した。深夜になって仲裁に応じ、二十六日から就業することになった。
 二十六日朝、足立課長は仙台に来ると、とにかくストを解くように説得した。機関方は名掛丁の山本宅(下宿屋)に集まり協議した結果これを受けることとした。仙台の指導者は黒岩長太郎、井上重太郎、浜田安富等で、二十五日仙台警察署に拘引されていたが二十六日釈放されたばかりであった。
 福島も仙台も仲裁に応じたことを関いた一ノ関では、仙台の足立課長に「キカチウサイスルトアルガジジツカ」と電信を発した。すぐ「ソオイナシ」と返電があり、立田一ノ関駅長の仲立ちで、足立課長が一ノ関にも来るようになった.やがて、盛岡、青森、黒磯などの各機関庫も仲裁に応じ、それぞれ交渉委員を選出して、本社に派遣することとなり、このことを電報で連絡した。二十七日朝になっても仲裁に応じない機関庫は尻内だけであった。尻内から各機関庫にあてて次の電報が発信された。「サンケン(要求事項3件)トフクショクカクテイセヌウチノ、ウンテンスルナシヤホウデン(会社側の電報)アテニセヌ」
 最後までストを解かなかった尻内であったが、同日中に応ずることを決定した。

人情を知り無一物から屈指の成功者となる武輪武一氏 7


武輪水産創業以来の苦難をどうのりこえたか、困難に遭遇した時にこそ問われるのが経営者の資質。それを見事に乗り切ったわけだが、結末だけを見ると、なんあだ、そんなことか、それなら俺にも出来ると思うものだが、当事者ならではの労苦がある。たった一度の人生、それを間違いなく進んだ武輪氏の足跡。だが、置かれた境遇は厳しいものだった。二百海里問題勃発当時がどんな時代だったのか、八戸図書館の新聞切り抜きから探る。昭和五十年二月十日 デーリー東北新聞経済水域二百海里と水産業界 八戸市水揚げはほぼ半減危機感強める関係者 政府に安定策要望昨年カラカスで開かれた第三次国際海洋法会議で領海十二、経済水域二百海里の大枠が示された。三月十七日から五月十日にかけてジュネーブで海洋法会議が再開されるがこの承認は動かし難いものとされている。日本の年間漁獲量は世界の総漁獲量の六分の一の一千万トン。その半分が外国沿岸の二百海里で漁獲している。内訳は米ソ沿岸水域で四百五十三万トン、韓国中国水域で七十万トン、南方水域で三十七万トン。二百海里が設定されれば日本の漁業は壊滅的な打撃を受けることになる。北洋海域に対する依存度が極めて高い八戸港では二百海里が設定されれば水揚げ量が四十%(約二十万トン)水揚げ金額が五十%(約二百二十億円)削減される。これに伴って水産加工業者をはじめとし関連産業にも影響を及ぼし、おそらく五百億円に達する減少を余儀なくされ八戸市経済に大きな打撃を与えることになる。中略、影響を受けないのはサバ、イワシぐらいのもので、影響の少ないものはサメとキンキンである。危機感を深めた八戸漁連、加工連、機関士会、船頭組合などの関係者は二百海里に最後まで抵抗し、二百海里が設定された場合でも水産業の将来の安定策を講ずるよう政府に強く働きかけていくことにした。このようにデーリー東北新聞は報道したが、結果的にはそのようにはならなかった。八戸市の水揚げ量が日本一になったのは昭和四十一年から四十三年までの連続三年間と昭和五十三年。平成十一年、十二年の連続二年、都合六回全国一の水揚げを誇った。平成はさておいて、昭和の水揚げ日本一は二百海里実施以前であることに注目しなければならない。水揚げ量日本一の数字は昭和四十一年 二五三千㌧昭和四十二年 三一八千㌧昭和四十三年 四三四千㌧昭和五十三年 七五一千㌧昭和五十二年から実施された二百海里、新聞の予想通りにはならなかった。世の中の仕組みは期待値に踊らされることにある。株価や穀物や石油の相場がまさにそれだ。実体が現れる前に予想をして買いや売りを立てる。だが、実体が現れると大したことがないと期待がしぼむ。二百海里もそれで、八戸の水揚げ高は半分になるの予想に反して大きな変化はなく昭和六三年には増加すらした。昭和五十五年 六六七  五十六  五八七  五十七  七一六   五十八  七○二  五九   六四五 昭和六十年  六九一  六一    七一○  六二    六四二  六三    八一九 この年が絶頂でここから減少した。平成元年   七七三   二    五六○  三    四二八  四    三六七   十七年  一四九劇的な数量減少になった。これは昭和三十五年の一四六に等しい。つまり八戸の漁業は四十八年前と同じ状態までしぼんでしまったのだ。こうした状況は何故起きたのだろうか。二百海里は施行されなかったのか。そんなことはない。水面上にラインは引かれないが、デーリー東北新聞が記載したように漁獲規制は実施された。八戸港 に水揚げされた遠洋のスケトウダラの量は減少。この推移を見てみよう。八戸統計資料から年次抜粋。昭和四一年 五万七千㌧  一九億八千万円  四二年 七万㌧    一九億九千万円  四三年 十万三千㌧  二六億二千万円  四四年 十二万二千㌧ 三一億七千万円  四五年 十五万四千㌧ 四二億二千万円  四六年 十五万五千㌧ 三八億四千万円  四七年 十六万二千㌧ 三八億八千万円  四八年 十七万一千㌧ 六六億五千万円  四九年 十七万四千㌧ 五五億円  五十年 十八万二千㌧ 六五億円  五一年 十四万九千㌧ 六八億七千万円  五二年 十二万三千㌧ 百億三千万円  五三年  一万三千㌧ 二十億七千万円  五四年  九千九百㌧ 十一億八千万円  五五年  一万三千㌧ 九億円  五六年    七千㌧ 六億五千万円こののちも減少し漁獲高が十億円を超えることはなかった。昭和五十二年を着目していただきたい。数量は減少したが、売り上げが百億を越した。これは二百海里への思惑買い。トンあたり七割五分上昇。現在石油価格が史上最高値の一一二ドルを突破したが、これも思惑買いでこれは三年前の六割上昇。歴史は市場を代えて同様なことを繰り返すものだ。だが、すけとうだらの値上がりは一年で置きただけに凄まじいものがある。このすけとうだらの推移からわかることは、北洋を主眼としていた漁がダメになれば、不即不離の関係である水産加工会社も大打撃を被る。漁がダメになり漁業家は船を捨てた。水産加工会社は他の商品への切り替えを迫られた。獲れない魚を待つことはできないのだ。すけとうだらの昭和五十一年の水揚げ量と平成十七年の八戸全体の水揚げ量が等しい。漁業家、水産加工家がいかに困難に直面したかが判る。八戸で獲れるのはサバ、イカだが、これにも好漁、不漁がある。サバが獲れない年、イカがダメな年が発生。イカを求めて漁業家は異国の海へと出て行く。運を天にまかせて。さて、肝心な加工業の雄、武輪水産はどのように会社を切り盛りしたのか。(経営努力で不況克服) 昭和五十九年度は前期の大幅な赤字決算と言う経営の不振を挽回すべく、利益率に重点を置いた製造と販売政策施策により平均粗利益率を前期の一〇%に対し一六%に改善出来ました。秋の盛漁期に於ては紫いかも漁に恵まれ価格も安定し比較的安値の原料を手当する事が出来ました。又、鯖に関しては十一月中旬ほぼ終漁模様となり、量的には不充分でしたが、前年の異状な漁模様とはことなり価格も組成も加工原料として評価出来るものでした。此の様な原料事情に加えるに前期の不振に鑑み、一般管理費の節減、製造の合理化により製造原価の低減を図り、人事の大巾な異動による人材の登用等企業の活性化に努め、他方新製品いか鳴門巻、いかそうめん等一連の刺身商材の開発により、販路の拡大と年間を通じての操業の平均化に成功し企業の体質改善の第一歩を踏み出す事が出来ました。 昭和六十年度は日本の経済状勢も輸出産業を中心とする基幹産業に於ては景気の立直りから次第に好況を呈して参りましたが、地域的に東北地方に対する波及効果は鈍く、又水産関連業界を含めて依然として不況より脱し切れぬ業種も少なからずあり、産業界には顕著な跛行(はこう・釣合のとれないこと。順調でないこと)現象が見られました。消費経済も東北地方に於ては沈滞気味でしたが、関東以西に於ては増加の傾向を見せ、年末には我が社も可成の注文を抱え其の消化の為に連日残業を重ねる有様でしたが、年明けと共に需要も一巡し春先の行楽シーズン迄は平年並の需要が見られました。然るに六月の長雨、それに続く七月下旬より八月にかけての猛暑は観測史上異例とも言える気象で折角の食品消費の伸びの頭を押え売上げの鍼少価格の低迷を見るに至りました。この様な基調の中で期中於ける営業の経過を概述致しますと、いか鯖の二大魚種ともに空前の大不漁で、加工原魚の不足と高値は経営に大きな影響を与えました。鯖は盛漁期中の八戸に於ける水揚げ六万t余と言う貧漁で、不漁と言われた昨年の半漁にも達せず又其の組成は大型に偏より〆鯖、みりん干、フィーレ等の加工原料となる対象魚が少ない為、売行のよい〆鯖の原料手当に苦しみました。之が為原料魚の不足分は南下した鯖を追って銚子方面より可成の数量を買いつけ、又七、八月には冷鯖の市況悪化から当地に於いても処分する同業者が出た為、之を補充買して品切れを防いだ次第です。いかはするめいかをはじめとし、赤いか、NZいかいずれも不漁の為高値となり、赤いかを原料とするロールいかは高値の為売行不振となり、さきいかは原価高の為差益減少で妙味がなくなりました。いか加工品の中で、さしみ商材としてのいか鳴門巻、いか糸作りは発売以来三年目を迎え依然として好調な売上を示し利益貢献度第一位となりました。幸いARいかが豊漁で価格も加工採算圏内にありますので逐次他の製品も之を代替原料とすべく鋭意研究中であります。以上の様な営業の経過で期首より期中にかけては比較的順調に推移しましたが、期末には原料不足の原価高の為経営にブレーキをかける状況になりました,しかし八戸市城下に所在の遊休土地を処分し特別利益九千三百万円を得ましたので操越欠損金を補填し当期末処分利益金として約五千万円を計上する事が出来、来期は愈々黒字体制のもと新生の第一歩を踏み出す事になりました。情報化社会に立ち遅れぬ様旧式化した従来のコンピューターを新鋭のものに更新し、給与、財務関係の処理の外、原価計算、営業、在庫関係の処理等、確実、迅速な運営を期して居ります

中村岳芳吟道四十年記念吟詠発表会


連載の中村節子さんの発表会、機関誌「吟のわ」三号出版記念もかねている。三月二十二日、八戸ワシントンホテルで開催され、五十余名の人々が参加。小林八戸市長、八戸を代表する物知り正部家種康氏の顔も見られた。中村さんは正部家さん作の「根城追想」を得意として吟じられる。
 狭いワシントンの会場は満員の人で熱気溢れるほど。同じ道を苦節四十年、人生はあっと言う間の短い時間。その中を詩吟一筋に暮らす人生もるのだ。人生は楽しみかたひとつ、どんなに惨めでも、どんなに栄華を極めても、本人がそれを自覚していなければ何もならない。その一つひとつの山坂を中村節子さんが綴られた。こうした人生もあると、めげる心を持たない節子さんの不撓(ふとう・心がかたく、困難に屈しないこと)の精神に乾杯。
機関誌の「吟のわ」三号には多くの方が寄稿された。そのなかの「詩吟との出会いを通して」 今井史朗氏の一文を紹介。社会の第一線から身を引き、約半年経過した時、友人に誘われたのが「詩吟」との出合いでした。単純に声を出して日常のストレス解消になるかも…との発想でした。岳智会壱吟支部に入会して一年余、経過しましたが、「盲蛇におじず」の心境です。入会して約三ケ月位、平成一八年十一月に我が息子の結婚式披露宴で「結婚祝の詩」を吟じたのです。
 一応、最後まで吟じました。講評する人は当然ありませんが、声は掠れる、息継ぎ悪く高音部が延びない等…。初吟会・東北吟道大会・二十周年記念大会など舞台も経験させて戴きました。特に東北吟道大会では山形や仙台に在住してる旧知の方と偶然一緒になり、しかも師範してるとの事で更に驚かされました。私の吟ずる中身はともかく、入会して稽古の楽しさ、他支部の方々、他流派の方々との出会いも又、楽しいものです。
 私自身、吟詠に対しての能力は声量・音域共に不十分、覚えも悪い事は十分自覚してますが、周囲には音吐朗朗(おんとろうろう・声がさわやかで、滞りなく出ること)の仲間が大勢居る、未知の人達との触れ合いを通して知己の輪を広げていきたいと思う。
 芸事の楽しさ面白さを表す好文で、定年後に何かしたいと思う人へ確かなヒントになっている。

源のよしつねさまのこと 1


むがし、(昔)八戸に源義経さまが来たんだど。
家来っこにいたばしのちゅうじという人がかだってきたず。(ついてきた)
よしつね様と一緒に船で鮫の浜に来てな、そごがら舘越山さ来て小屋を建でで住んでいだず。
そんでな、家来のいたばしのちゅうじの言うには、見晴らしが良くないと討手が来るのが見えない。
もっと見晴らしの良い所がないかと探すと、四方を見渡せる山を見つけたず。
そんでな、そこに移り住んだず。
その山が河原木の高舘だったず。
そこに移り住んでな次の年、常陸坊を京の都に使わして藤カ森稲荷から土を一握り運ばせて、稲荷のほこらを類家の北のスサキ(砂の溜まった場所)にお造りに  なったんだど。
そごぁ堤になっていだず。こねんだ(最近)までかんたろう堤とよばれていだどごだんだ。
今の柏崎小学校の前のお稲荷さま(藤ケ森稲荷)がそれだず。
お建てになった年は西暦一一九一年、今から八百十七年も前のこどたず。

そんだ、そんだ、ほがにもこっだらだ話しっこぁあるんだ。(他にもこんな)
舘越山さキリストの墓があるんだ。
新郷村にもあるそんだが、八戸のほうがほんとだ。昔、戸来のひとぁ来て、キリストの墓が八戸にあったずとへったらな。(言ったら)
すたら(そうしたら)ある村人が、おらほ(自分達)の村にも作ったらよかべと、新郷にもキリストの墓ができるようになったんだど。
この話はしばらくつづきやんす。

五戸の農業金沢家から飛び出してみんな元気で長生き兄弟


五戸は坂の町、下りは楽でトットト行ける。上りは辛くてよたよた歩く。そこにぶどう畑があるんだ。そこでぶどうを収穫していたのが、金沢昭三さんの祖父。昭三さんの父は直さん、母がウメさんで十人の子が生まれた。
今はぶどう畑はりんご畑になっている。そこを経営されているのが長男の真さん、次男が昭二、三男が昭三、四男が年男神奈川県厚木在住、五男が文夫、六男は? 名前を忘れたそうで、五戸で土木関係の仕事に従事しているそうだ。たくさん兄弟がいれば一人くらい名前も忘れる。昭三さんは名前のように昭和三年生まれ、八十も過ぎれば、昨日のことさえ忘れるもんだ。
女の方は長女が百石に嫁いだレツ、次女を良子、三女は仙台在住のくに、四女を洋子で中居林にいる。みんな元気で生きている。世の中は生きているのが大事、総勢十一人の兄弟が一同に会したのは親の葬式、それ以来は皆で顔を揃えることもない。大体においてそんなもんだ。親という結びつきがあればこそ、ひとつ屋根の下に集うものだが、傘がなくなった雨降りのようなもので、親が亡くなると兄弟姉妹もなかなか集まりにくいものだ。
この昭三さんは南部バスに勤める。当時は五戸電鉄だ。尻内と五戸を電気鉄道が走っていたんだ。そのころの東北線は蒸気機関車。いかに五戸鉄道が先進していたかが分かろうというもの。この鉄道が開通そうそうに大事故をおこした。
重軽傷者四十余名
あっという間に阿鼻叫喚(あびきょうかん・甚だしい惨状)
警鐘を乱打して救護
昭和五年九月十三日午後六時五分ごろ尻内と五戸間を通ずる五戸電鉄ガソリンカーは同線志戸岸駅構内から東方約五十米の地点で正面衝突した事件は乗客百五十名の内重軽傷者四十余名を出し列車は双方共前方部を破損車中には生臭い血潮がところどころに付着し見るも無残な光景を呈した。十三日は五戸町の三社大祭に上北三戸南郡青訓連合演習があり村落からの見物人その他の乗客約六十名を乗せた五戸発午後五時五十六分の上り第四列車(運転手小笠原清一郎車掌平武雄)はブレーキがきかず七崎駅を発し乗客五十名を乗せた下り第一列車(運転手下村弥八車掌小玉清治)と正面衝突、急報により八戸市八戸病院、種市医院、五戸松尾医院からそれぞれ医師六名看護婦十名が自動車で現場に云々
この五戸電鉄は南部バスと転じ、金沢さんはバスの運転手として活躍。八戸市営バス、南部バス、三八五バスは観光バスを出していた。金沢さんは路線バスの運転もされたが観光バスの運転を得意とした。それも昔のことだからカラオケなんてのはない。バスガールがいたんだ。昨今の観光バスは昔のガールが乗っている。昔のガールは婆ァってんだ。昔のバスガールは容姿端麗(ようしたんれい・すがた形が整っている)だった。このバスガールが美声を聞かせた。発車オーライなんてバスを誘導する。バックする時はバスからとびおり、ホイッスルを吹いて運転手に安全を伝える。今はワンマン運転で、後ろはカメラで見るようになった。昔の方が味わいがあった。今は男の運転手ばかりで面白くもおかしくもない。
 長い道中だと昔は運転手もマイク片手に美声 を聞かせた。金沢昭三さんは渋い歌声を響かせた。フランク永井か金沢昭三かって言われたことは…ない。遠くは四国お遍路巡りまでハンドルを握ったそうだ。
四国巡礼八十八ヶ所、弘法大師空海との出会い、同行二人が有名な言葉。一人で巡礼するんじゃない、弘法大師と共に歩むからきている。昨年十二月に四国一週を筆者がしたが、お遍路が沢山目についた。いまも続けられているんだ。何かを求める人が多いのだろう。
昭三さんが南部バスに入社したのは昭和十八年、初代のヒゲ社長が健在の頃。最初は給仕で入社、バス部門に廻されて運転手になった。鉄道部門は昭和四十三年五月十六日午前十時前に発生した十勝沖地震で壊滅的打撃を受け廃線となった。
昭三さんは五戸の実家を出て八戸に居住しようと決心。そして五戸から八戸に出て活躍している藤田一族、藤要を頼りにした。この藤田一族はタクシー会社を経営していた藤金の親戚で、八戸十八日町で食堂、八戸会館を経営していた。今はその末裔が八十になっても健在で、グランドホテルの裏で八戸会館という貸しホールを経営。水周りの仕事を得意とする。
ここを足がかりとして八戸に居住することになるが、今は奥さんのキクさんと売市におられる。昭三さんは三人のお子に恵まれ、長男は祥光さんで鍼灸院を経営される。次男が昭男さん、長女が。敏子さん。
昭三さん夫婦は長男と同居、長男は幸子さんと結婚され哉行、ひろあきを得る。つまり昭三さんには孫にあたる。今は毎日散歩を欠かさず、規則正しい生活に明け暮れるが、後期老人保健で老人の生活を脅かす時代。安心して老後を楽しめない。どうも日本は老人を粗末にする傾向あり。昔も姥捨て山なんてのもあった。六十になるとお山に行くと決めていたのだ。世の中が貧しく老人をお世話する余裕がなかった。福田政権も同じで弱者切捨て老人不用じゃ、お先真っ暗。戦前、戦後を活躍され、兄弟十人が皆元気という金沢さん一族が安心して暮らせる世の中を築いてもらいたいもの。これからも元気でネ、金沢さん。この人を掲載してくれの読者の連絡を待つ。

昭和五十年八戸で活躍した人々

八戸市庁八戸市堀端町(電)43‐二一一一)市長    秋山皐二郎助役    工藤  正収入役   大久保一良
総務部 部長    正部家種康 次長    品田 裕教 参事    阿部徳治郎◎総務課長(兼)       品田 裕教 同補佐   植村昭二郎 副参事   西山 金一 調整係長  北村 莞爾 職員    石橋あけみ 松浦 伸一 山田 邦彦神田真理子 小野寺代志夫 千葉 恵美 白川 文男団体担当人事 広田 利男団体担当総務 高橋 昇士公会堂建設事務局長(兼)       品田 裕教副参事    山中 浩一山田  勝 内田 勝彦石岡 省蔵 大村 典康◎広報文書課長     田端喜八郎 同 補佐  漆沢 光典同 主査  川崎 光丕 副参事広報係長       西山 金一行政係長(兼)植村昭二郎職員     松浦 一雄 中村 昭雄 井上しず子 佐々木菟志子法規係長   川崎 雄蔵職員     横町 健悦       石橋 元生文書係長   菅原 寿郎職員     渋屋 コト 沢田 陽子 川井 一輝 川島 美幸 木村 キミ 加藤 ミワ 立花 和子 石田 友江 小林 佳人 久保 光男 早狩 三郎 久喜 正幸 庁舎管理係長田名部円之丞職員     田中 夏子 和田 恵子 西塚由五郎 上野 栄作 兼田 茂人木村福次郎 田名部松之助佐藤 政直 石橋弘三郎◎秘書課長  吉島  一同 補佐兼秘書係長加藤純三郎職員    長谷川靖治 沢向 一泰 森田ゆう子 宮重カオル 中村 貞夫 佐々木猛夫◎人事課長  中村 米八   補佐  荒谷 勇一副参事    石橋  陽副参事兼事務管理係長大島 昭一副参事    中居 栄作       開川弥之助人事係長   大沢 武志同 主査   柳町 義昭主査     木村 禧昌       岩藤 正女専門員    石屋金次郎職員     野田 節蔵 島川 征泰 河村 忠治 関戸 弘子 尾崎 義明 大野 義弘 松本  高研修厚生係長(兼)石橋  陽西村  稔 古里紀美男大南 シゲ子 下斗米登美人事課付け職員 安部  孚 広田 利男  内城 国雄 下田 久雄  大久保良寛角谷 育子  泉山 啓祐袰主 正規  昆  一雄田村  勉  河原木次郎久保 洋一休職者     千葉治三郎 類家 兼松  泉山 祥子 向谷 いね  三上 一郎 松倉 新一  ◎新産都市建設事業団副主幹     関川伊佐夫職員      皆川 武彦 森  美紀  石橋 良子 後山  厳  渡辺 市蔵沼畑 篤男◎電子計算課長 村田昭二郎 管理係長   福井 真三 計算係長   鈴木  裕職員      橘 憲之助関野 雄一  接待 英隆八並 邦雄  石橋  雄米内山正隆  三浦 輝也川村岩次郎  赤坂 正広大石 忠雄  玉田 政光 堰合 文男 内沢 義孝 日当 光子 関橋 幸恵坂本 弓子 紫葉 洋子楢山 節子 佐々木敏江松川 ユミ 河村 和子宮崎 裕子 大久保京子小笠原美枝子 橋本裕子◎市民相談室長 中里松三郎同 補佐  関川 竹三副参事   立花日出男主査    遠藤 チヨ職員    大久保恵子
財政部  部長    岩沢 克俊  次長    松沢 篤次◎財政課長(兼)松沢 篤次 同 補佐   岩間  操 主査     田村 光広田名部昭二郎財政第一係長 野田 容宏職員     野坂  哲       伊藤恵美子財政第二係長 川越 精作職員     橘  春江◎管財課長   角 子之吉 補佐     大島勇一郎 管財係長   金子 英夫職員      木村 正一 大舘  実  上平 幸江 川村惣右ェ門 山下 茂雄調達係長(兼) 大島勇一郎職員      天摩 ふみ  東野 精輝 田向  繁  阿部 浩子  車両係長   畠山敬之進 職員     松橋 助美 山道 政美  田名部佑市◎住民税課長  岡田 一男 同補佐住民税係長   山田 景蔵税制係長   石橋 正男国保税係長   三浦 良春主査      細越 道弘 三浦 忠一 馬渡与右衛門 大谷 重昭 小笠原 喜一 石橋 誠一 樋渡 与四郎 荒谷 昭二 専門員     松倉 清六        松倉 幸一職員      金子 シズ 柳谷 タケ  鈴木 康勝 四戸 タミ  馬場 将文 大高  幸  久保 京子 田中喜世治  中島 敏子 下斗米笙子  五戸 敬子 下館 秀敏  袰主 正規 河原木次郎  工藤 純史 工藤 礼子  畑中  親 岩崎  曙  阿部  威 榊  辰美  接待 隆敏 阿部 久子  高橋 信幸尾崎 裕子  岩館  晃田名部達郎  白鳥  覚掛端 国男  笹本 守夫中山 一男◎資産税課長  下斗米謙一 同 補佐   赤穂  広 副参事兼土地係長   石橋  忠 管理係長   外崎英太郎 同 主査   中奥 愛寿 上町  実  戸舘 忠一 長谷 真吉  巻文 一郎専門員    吉田 静男職員     後村美代治 五十嵐久一 河村 真人 石橋 尚孝 久保  正 松倉  晟 古里 倭子家屋係長   平野信二郎職員     今淵 喜雄 大久保輝男 田村 多市荒谷 良治  菅原 勝彦戸来 菊雄  若宮富久雄柳谷 浩二  三浦  戊中村 賢一  久保  将貝吹 重見  柾谷  俊中居 賢悦焼却資産係長  高山 武治職員      前田  宏 中里富士男  三浦 和行 泉山 啓裕◎収入課長   鈴木 宮雄 同 補佐   小泉 正喜 管理係長   泉山  進 主査     馬渡 次郎 専門員    中里  摂 田中 増穂  赤坂 正治職員      大久保賢一 大久保君子  山下 節子 高橋 一雄  鈴木 房子 細越  弘  出川  登 軽米 昭夫  椛本登美子 向井 岩男整理第一係長  小泉 正喜専門員     赤坂 正治職員      中村矢司治 須藤 哲男  竹花 宣和 武部南海雄  漆戸  修 鎌倉 悦子  獅子内善美 佐藤 雅英  松田 哲郎 秋山 正雄同 第二係長  藤原 福治専門員     馬場 次郎職員      金田 玲子 長谷川治夫  赤坂 登吾 今淵 邦治  栗野 寿男小向  博  工藤 輝夫松倉 一男  中里  浩東野 博彰  貝吹 賢一納税貯蓄組合係長山田 正一職員      中島 智子 立花 政勝  坂   寿二沢平喜照
経済部 部長    先川原慶三 次長    田名部昭三◎商工観光課長(兼)       田名部昭三同 補佐  根元 良夫副参事   村上 文男主査    松沢 義美商工係長兼 根元 良夫職員    川守田 隆尾崎 善輝 石沢 久美 根城 憲吾 清水頭礼子雇用対策係長(兼)同      村上 文男職員      工藤 弘光観光係長    金浜  広職員      中村晃一郎 杉本 勝美消費生活係長 玉川 庄佑同 主査   木村 茂生        千葉 良平◎中央卸市場開設準備室長     滝沢光一郎 副参事    荒谷  斎 主査     中田 武夫同      楢山 牧夫◎計量検査所長 冷水吉之助職員     須藤 茂樹  下館 重敏 山内  隆◎水産課長   福島 通好 同補佐漁政係長小山松次郎職員     田中 秀雄 同      八並 和子 流通加工係長 福島 達士 職員     東山  宏 石橋 健一  松本 征勝 小野 義光  工藤 信夫 魚市場管理事務所長所長     佐藤  匠 副参事    坂上  剛 主査     依藤真紀夫 主任     夏掘 一雄 職員     石戸  寿  田中 タカ 石橋 永芳  大久保公吉 石鉢富士雄  巴  金蔵 市川岩太郎  高野 充行 西村 勝雄  淡路友次郎 田口 松治中川原金左衛門新山 新一 工藤 敏彦大畑 文夫 佐々木雅之小山田博喜 高畑 安秀中村 謙治 東山 直人大前  登 西塚 勝男◎農林課長   貝森  集同 補佐   向谷地吉稔同副技幹   中村 芳郎主査     鈴木宏至朗農政係長(兼)向谷地吉稔職員     松橋 公彦 岩沢  晃 細越 義勇 佐々木文代 農林係長   久保  惇職員     西村弥三郎谷地 晃市 池田 八郎田端 誠一 田名部幸也柏崎早智子  山田 一夫畜産係長(兼) 中村 芳雄職員      谷村  勲 永窪 光弘  中里 フサ農地改良課長  上野 克巳 同 補佐   山田栄一郎 同 参事   安藤 行夫 主査     海老川次雄 同      石鉢 秀雄 技査     小笠原万治土地改良係長(兼)山田栄一郎職員      小幡 悠子 川村  隆  中村 武郎 山崎 義政  高田 富雄地籍調査係長  角 嘉一郎職員      鹿島 俊夫 安ヶ平 茂  恵茂田哲郎 中村 秀二  泉山  覚副技幹調査計画係長(兼)安藤 行夫職員      藤田 良治 佐々木 巽  上舘 将郎 和井田啓介  沢田多喜男◎農業センター場長心得    木村 義昌 副参事    三田 高史職員      小田桐 純  大塚恵美子 在家 利博  上田 セツ 大久保ツヤ第一業務係長  泉山 米蔵専門員     川口 竜一  早狩 正治 工藤銀之助  加藤安次郎 馬渡  毅  中村 保広 泉山 忠志吉田 邦彰 小田 富夫田中  栄 類家 常弘第二同     杉本 喜春職員      柳町  博 西村  隆 上条喜三郎
民生部  部長     佐々木正雄 次長     菅原 光宏◎社会課長   佐々木磯久 同補佐    田中 勝善 主査     類家 清蔵 同      中村勘之助 同      関川  茂専門員    松倉 幸男川口 長之助 社会係長(兼)田中 勝善職員     夏掘 ヒデ 柳町 恵子 菊池 和夫福祉年金係長 高島 くに職員     福永 ミツ 三浦 義一 大向 栄一 西舘 勝義 小泉 チヱ 音喜多 功 松本貴四郎 漆戸 寿子