明治四十一年一月元旦
雑報
● 八戸区裁判所の新年祝賀会
同裁判所にては午前九時奉賀式を挙行し終わって所員一同及び弁護士公証人執達吏等合同にて新年の祝賀会を開く
● 八戸名刺交換会の流会
本会は或る意味に於いて官民意思の疎通を図らんため先年八木沢判事船越郡長遠山町長各学校長その他民間有志の発起により毎年元旦盛んに開催し来たりしが本年は如何なる動機にもとずきしものかツイ流会となれりと
● 八戸税務署の改築工事落成
従来の建物は如何にも狭隘にして執務に便ならざりしより昨年十月より改築工事に着手し旧臘(去年)九分通り進捗を告げたるも弥々落成を告げるは本月十五日前後の見込みなる由なり以前に比すれば全部洋風の二階作りにして広壮とは言い難きもとにかく旧観を改めたり
● 各団体の新年宴会
当八戸に於ける呉服商、商業、肥料、タンク石油商の各組合並び各銀行にては例年の通り夫々新 年宴会の催しある由
● 久水領事の帰省
米国シアトルの一等領事なる同氏は今回休暇を得て去る二十七日帰省したりと
● 八戸区裁判所員の年末賞与
同裁判所にては所員二十名に対し年末賞与金として金百三十一円八十三銭を分与せられたりと
● 銀杯賞与
当八戸番町石橋徳次郎氏は先年小中野新地の道路内へ自己所有地の幾分(時価壱千四十円)を寄付せられたりしが旧冬に至り其の賞として本県より七寸大の銀杯一個を下與せられたりと
● 小山歯科医院
客秋斬新なる治療機を購入すると共に熟練なる助手を増聘し懇切に患者を取り扱のみならず義歯は原料を精選し且つ出来る限り低廉を主とするため近来一層好評を博し入れ歯及び治療を申し込む者頗る多し因みに同院にて一昨年来業務を拡張し久慈福岡三戸五戸三本木田名部大湊の各地に仮出張所を設け期日を定め毎年二回院主出張治療に従事し居れり
● 永島新聞店の勉強
当八戸二十三日町の同店にては開業以来日猶浅きにも拘わらず独占の割引と速達とをもって申し込みに応ずるより近来頓に其の数を増すに至 り大に購読者の便益に勤めおれり
● 産婆亀徳しつ子
八戸番町の同子は開業以来日猶浅きも熱心誠実を主とし謝儀に拘わらず依頼に応ずるより近年頗る多忙なりという
● 八戸に於ける電話架設の計画
先年当八戸町輪明会の首唱によりてハイカラ的輪界の流行を来たしたるが如く今度は又木内某外両三名の発起によりて八戸町より鮫にかけ電話を架設せんとて既に郵便局に対特設の交渉を開始せると共に目下加入者の勧誘に奔走中なりと伝えらる果たして実行の暁には八戸町は同人等の為数段文明物質的の男振りを揚げることなるべし目下電○会組織の協議中なりとか
● 八戸医界近況
とかく一般売薬主義と幇間主義に流れ加えるに看護婦代妾醜聞に鼻向けならぬドクトル連の少なかぬ中に従来最も信用厚きは種市、武藤、奥秋、藤田、羽生、高橋の各医院にしていずれも懇切と誠実を主とし患者に接するのみならず各々独得の技能を揮い患家の貧富昼夜の区別道路の難易等を問わず往診需めに応じて夫々便宜を図るに汲々たるより益々好評を博しこの節患者少なき折柄なるにも拘わらず頗る忙殺せられつつあるという
● 湊製材所
同所は三十六年の創立に係り最初金子挽材工場と称し次に石橋挽材工場となり後又三浦万次郎氏の所有に移りしが三十九年の暮れに至り大芦梧郎氏に於いて更に三浦氏より買い受けて湊製材所と改称し且つ汽缶(ボイラー)を新造し工場を改築して東京深川の木材商小出金次郎氏を支配人と為し専ら製板製函及び挽材を営みその他諸材木の売買をも兼業せるに販路益々伸張して現在の製造力にては到底多数の需要に応ずる能わざるより機関を増設し工場を振大するの計画中なりという
● 西喜の機業拡張
戦時織物税の為少なからぬ打撃を被りたる一般機業界の趨勢に伴い幼稚なる当八戸地方も其の影響を受け折角萌芽せる発達の機運を阻害せられしのみならず近年物価の高騰は自然原料並び工賃に関係し往々女工の欠乏を告げるなど姑息の手段にては将来発展の途なきより客臘(去年)当八戸十八日町機業熱心家西村喜助氏は豊田式織機を選択し新に自宅内に工場を設け●●●●台を備え動力として石油発動機を据えつけることとなし技手監督の下に工事に着手中なりしが大略竣成試運転の結果頗る良好なる由之を従来使用のバッタンに比すれば工女は約三分の二を減じ織り高も亦昼夜運転を続行すれば約三倍以上に達するを得べしというとにかくこの種の事業の発展を見るは地方の為慶すべきことなり猶不日往訪上其の実況を細観し重ねて紙上に紹介すべし
● 紹介の辞 大芦梧郎
この度奥南新報の誕生に遇うては余は実に満幅の歓喜に堪えず之を経営するに篤信の近藤喜衛君の如きあり、之を行なうるに老練健腕石原義衛君の如きあり以って堂々天下に呼号するに足る豈唯々地方の幸福とのみ言わんや余は謹て之を大方に紹介して広く受読を請うの愉快と光栄とを担えるを謝す
● 橋源糸店の業務の拡張
当八戸三日町の同店にては業務拡張の為近隣若松ホテルの上隣に支店を設け専ら小売を為し本店にては卸売り一方に従事する由にて本店は本日より開業せり
● 村福菓子店
当八戸十三日町の同店は従来斯業界の老舗として好評を得つつあるは人の知る所なるが店主雄太郎氏は先年製造法研究のため出京し種々得る所あり就中菊羊羹餅菓子の製法に意匠を凝らし上等の美良品を出し甘党の歓迎を得来れるが本年よりは猶一層原料を精選し勉めて廉価に販売 する由
● 橋本和吉氏の母儀逝く
当八戸三日町油商橋本和吉氏の義母は平生さしたる病気もなく和吉氏を助けて一家の経営に任じ内外の世話をし来れしが客秋親戚たる石橋源右衛門氏の病気後に落胆しその後感冒に罹り老体の事とて日に衰弱を増すの模様なるより種々医療を尽くしたるも経過宜しからず終に客臘不帰の客となり十二月二十一日天聖寺に於いて荘厳なる埋葬式を挙行せられたりこの日会葬者数百人皆その死を悼まざるはなし享年六十八
● 尻内夜学校の近況
該夜学校は鬼柳定男氏の熱心なる尽力により頗る盛況に達しつつあるが現在生徒数六十余名毎夜の出席者四十五六名にして先ず独力の夜学校としては成功の方とも言うべく維持の方法は会費一月分五銭の外村内有志の寄付に仰ぎ居る由因みに同校の主旨を賞して寄付援助せられたるは五円清川彦六氏二円清川小平氏一円小笠原嘉吉氏その他拾数氏なりと
● 武藤医師の仁侠
今日この頃の厳冬に格別要件の外は人々炉を擁してなるべく外出を見合わせるにも拘わらず如何に職業柄と言え同医師は去る十六日馬車に投じ厳冬と悪路遠隔とを冒し九戸郡大野村に病臥せる岡本源治郎氏の容態よろしからざるを見舞い且つ診療せんとてわざ わざ出向せられたる厚誼と仁侠に至りては患家に於いても定めて泣謝せしなるべく吾人も亦之を伝聞し坐ろに其の熱情に動かされたり之を患家の貧富に差別を立て見殺しにする迄も梃子でも動かぬ為仁医師に比すれば天淵の大差ありというべし
● 奥南漫語
奥南とは古きよりの呼称なれど之を解くに広狭の二説はある。一は南部地全体を指すという、一は我が南部地たる奥州の南方に位置するが為とし或いは奥州の南部を表すとするもとにかく共に南部全体を指すと為し、一は往昔田名部(即ち下北半島)を奥南部と呼び出したるとありしよりそが略称にして即ち下北郡を指すに過ぎずと為す両説各拠あるが如きも古書に奥南秘録奥南落穂集並びに奥南を冠せるが多くしかも其の内容は南部家のことや南部地方の事を記して南部全体に渡るを見れば昔からして広義に用い来たった事は明らかである又下北を斗南と称するは北海道の南故北斗に南なるべし
明治十七八年頃と覚ゆ、東京に於いて当時の遊学生は奥南会なるものを設け又奥南雑誌なるも のを発行したことがあった。もとより書生の寄り合い仕事ではあったが専らそれらの世話をした人は栃内吉到中島元等の数氏であった其の頃在京の書生はよく集まりよく談じて更に境壁を設けることは無く時には同郷出身者の大会を催して各気焔を吐いたものである。聞けば近頃は郷友会のようなものもなく思い思いに割拠して互いに呉越の趣で居るとの事、誰々と交際してはならぬの某会出身の者と一緒に居てはいかんのと言いつけるわからずやのある由これ等も同郷者の親和を妨げる一原因であろう
● 小森茶舗の盛況
同店は早き以前二十三日町に於いて未だ世間に知られざりし二銭五厘店を開きしに品質に対し如何にも廉価なると好奇心にかられて購求する者店前常に客の山を築く盛況を呈せしより商運頓に開け二銭五厘店の名近村に隠れなかりしか同店主栄吉氏は当市に専売的茶商を思いつき老父とはかりて先年現時の櫓横丁に引き移ると同 時に前業をやめ専ら茶商を営むこととなり宇治に狭山について佳品を選び開業せし以来是又好評を博せしより数名の売り子をして郡内は勿論九戸上北下北より青森辺までも広告的商業をせしかば売れ行き頻繁なるのみか近年に至り茶舗と言えば小森の代名詞とまでなり小売卸とも一カ年の売りだかなかなか巨額に達すべしと因みに同店にては茶の外陶器類をも若松名古屋の二市より仕入れ薄利を以って販売しつつありという
● 杉本旅店と白水旅館
八戸三日町の杉本旅店は多く三戸地方その他各県の商人を客種とし親切と確実を以って好評を得又番町の白水旅館は即ち大仁の後身にして当地における旅館の鼻祖として称せられ現主の中村朔五郎氏最客の扱い上に注意を払い懇切なるより客人の気受け良しとの評判ありただただ同旅館は客室の数多からざるより時々やりくりに不便を感じ取り込みの際は往々客を断ることありとの由にて建て増しの計画もありと