2008年5月24日土曜日

秋山皐二郎、回顧録「雨洗風磨」東奥日報社刊から 6

初年兵教育を担当 殴ったことなどない
 青森の五連隊では、初年兵教育を担当しました。最初の教え子は、八戸に今もいる吉島栄蔵君や青森市長になられた千葉伝蔵さんの息子の栄蔵君、小湊の辻村酒屋の辻村真太郎君らがいました。「君たちは、とにかく必ず戦場に行くのだから敵の前に体をさらさないことが重要だ」と言って訓練しました。射撃や夜間演習も徹底して鍛えました。
 射撃は私自身も得意でして、銃から弾丸を抜いて二人を並んで立たせ「おれの目を狙え」。銃口は静止しようとしても駄目なんです。小さく円を描くようにして、標的に合わせた瞬間に撃つ。集中力を保てるのは二秒間ぐらいでしょう。
 私は射撃では三百討離れた標的を五発中四発は命中できるくらいでした。連隊では銃の「照星」調整の資格を持っていました。防弾チョッキの試作品の試射もよくやりました。ただ、ピストルは、なかなか当たりませんでした。満州に行った時にキジを撃とうとしたんですが、駄目でした。京都の武道学校出身の騎兵隊の大尉がいて日本刀で飛んでいるキジを切るといって馬で走り回りましたが、これも駄目でした。
 また手榴弾も私は六十米投げて連隊では一番だったんですが、巨人にいた沢村投手が、なんと七十三米も投げたと聞いて、さすがだなーと思いました。硬式ボール二個分ぐらいの重さがあり、円筒形ですから、回転するように投げるのは難しいんです。
 私が教えた吉島君らの初年兵は、鍛えたお陰で連隊の中でもトップクラスの精兵に育ちました。初年兵教育は六回やっていますが、私は兵隊を殴ったりしたことは一度もないんです。どうも日本の軍隊は人間関係をないがしろにしていた面があって、殴るなんてのは日常茶飯時でしたが…。
「秋山隊」の交流今なお
 今でも、私の教え子とは交流が続いており、県内はもちろん、山形県や秋田、岩手県などに散らばっています。八戸市内に住んでいる諸君は「五竜会」という親ぼくの会を毎年、開いていますし、「秋山隊」の会も各県持ち回りで開かれています。
 酒に強くなったのは、このころで、めっぽう酒好きな中隊長が、私の下宿していた柳谷さんの家の真向かいに下宿していて、夕方になると二階の窓から「おーい、秋山少尉は、いるのかー」と大声で呼ぶんです。「はい、おります」と答えると「飲むぞ」。
毎晩のように引っぱり出されて、青森市内を随分と飲み歩きました。かなり酒には強くなったというか強くさせられました。
 ところで、私は十三年の秋から約十ヵ月間、陸軍戸山学校に派遣され実戦訓練を受けました。この時の訓練は、生涯で最も厳しいものだったというのが実感でした。
 当時、戸山学校は傷病兵の入院用宿舎に充てられていて、市ケ谷にあった士官学校の一隅に営内居住を命じられたんですが、毎朝、駆け足で戸山学校まで行く。早朝の銃剣術のけいこ、普通に正課の訓練、射撃もありましたが、授業を受けて、夜にも訓練がある。戸山が原の原野で銃剣術をやるんです。凸凹の原野ですから中腰じゃないとバランスがとれない。銃剣を持って「前へ、後へ」とやるものですから、最初は足がはれ上がって湿布しなくてはならないほどでした。
 ただ、土曜日の午後から月曜日の午前九時までは外泊許可。学生時代に世話になった福田剛三郎さんの所へ行ってふろに入って、うまいものを食べる。疲れ切って寝るだけでしたが、ホッとしたものです。
 日比谷に「味の殿堂」というのができて、将校仲間と三人でマツタケを八十円分食べたこともありました。営内居住で一ヵ月三円五十銭しかかからず金を使うことなんかなかったんです。紋付きの羽織とかカシミヤ入りの二重マントなんか作っても金が余りましたから…。
石田家の娘と結婚
 戸山学校を卒業し青森五連隊に帰ってすぐの昭和十四年八月に、中支への兵員輸送指揮を命じられて、兵隊とともに大阪港から南京へ向かい安慶までいきました。
 南京が陥落して、銀座でちょうちん行列が行われたのを戸山学校在学中に見ていましたし、南昌作戦が開始される時期だったものですから、このまま、前線に派遣されるのではないか…と考えていたら、八師団から命令が来て「原隊に帰れ」ということで、一ヵ月後に単身、一〇〇トンぐらいの輸送船で帰って来ました。
 十四年十二月に中尉に昇進して、そろそろ召集解除も近いというので、前々から話のあった現在の妻と結婚することになりました。
 妻は鮫の石田家の娘でトヨといいます。石田家の祖母は私の母の姉です。石田家は、もともと秋田県の毛馬内の出身。八戸に移り鮫の埋め立て許可をもらって旅館を始めたんです。
 娘さんに長谷川村次郎さんという方を養子に迎えていたんですが、その娘さんが子供四人を残して亡くなり、母の姉が後添えに入ったんです。そして長男の石田正太郎に自分のめいに当たるミヨを実家から連れて行って嫁にしました。現在もミヨさんは九十三歳で健在です。秋山家と石田家は、古くからの親せきだったわけです。
 結婚は十五年五月、とにかく簡単にやろうというので、土曜日に青森から帰ってきて浜須賀の私の家で式を挙げ、日曜日の朝には青森に帰りました。
 新居は、下宿していた柳谷さんが捜してくれた浦町の長屋。樋口さんという五連隊出入りの商人の方の持ち家でしたが、隣の隣に山崎岩男さんが住んでいました。防空演習なんかは、私の妻と現参議院議員の山崎竜男さんの奥さんらが一緒にやったそうです。
  十五年七月に召集解除 再び大阪で働く
 十五年七月三十一日付で召集解除となり、大阪に再び行ってサラリーマン生活に戻りました。会社は、各油脂会社が合同して日本油脂販売会社に変わり、間もなく、油脂統制会社となりました。いわゆる物資統制令による国策会社となったわけです。
 私の仕事は、統制課長。給料は初任給のまま据え置かれて一ヵ月六十五円でしたが、年に二回も昇給があったりして、それほど苦労はしませんでした。景気も良かったようで、ボーナスが年二回七ヵ月分、年末にはもち代として百円、それに加えて私には特別賞与が出ました。「きょうの仕事はきょうのうちに片付ける」というのが叔父秀之肋からたたき込まれた私の主義で、小樽高商出の支店長に「秋山君は、とても東北人とは思えないなあ」と言われたぐらいの仕事人間だったようです。
 住まいは兵庫県南東部、阪急沿線の西宮北口で、日曜はプロ野球を見に行ったりしました。仕事は、すごく忙しかった。京都の油脂工場と九州小倉の工場が私の担当、京都には週一回、小倉には月一回、必ず出張して、工場の操業状況と製品の出荷状況を点検、報告書を作成していました。
 幹部候補生で同期だった原文兵衛君も召集解除で満州から帰り、ちょうど滋賀県警の警防課長で赴任してきていました。京都に出張すると原君と一緒に木屋町あたりで、鳥の水炊きなんかで一杯やる。原君が大阪に来た時は、私が瀬戸内海の魚をごちそうするという具合で楽しみました。

開戦のころ 
せっけんは容易に入手
 大阪時代は徐々に戦時色が強まってきたとはいえ、まだ物資もそれほど乏しくはありませんでした。小倉への出張では名物のフグも食べましたし、みやげには塩ウニを下関から買ってきたりしました。鮫の生まれで、前浜のウニを食べて育った妻には、かなり不評でしたが…。
 当時、大阪駅の近くにお年寄りの靴職人がいて、出張帰りなんかに顔を合わせると「いい皮、入ってまっせ」と言う。「じゃ靴作ってくれよ」というので、なんと十五足も作ってしまった。戦後も、かなり長い間この靴を次々にはきました。
 油脂販売の総元締めだった関係でせっけんやバター、食用油が容易に手に入れられるのは、統制経済の中では貴重なことでした。せっけんは「カオリン石けん」というのが普通に出回っていた。
 カオリンとは、磁器なんかを焼く時に使う非常にキメの細かい粒子の砂なんですが、これを増量するために入れていたんです。いくらキメ細かいといっても砂ですから、洗たくなんかしてゴシゴシこすると繊維が切れてしまう。
 本物の洗たくせっけんや高級化粧せっけんは貴重品でした。飲みに行く時なんかは、せっけんを待っていく。ビアホールで「このせっけんで飲ませてくれよ」と言うと、かなりサービスしてくれました。カネボウが「絹石けん」というのを売り出して大当たりしたのも、このころです。「絹」の意味は、カイコのさなぎから採ったさなぎ油で作ったせっけんということなんです。
 油のこともかなり勉強しました。例えば乾性油と不乾性油。ゴマ油が乾性油の代表。不乾性油はピーナツ油。桐油は傘に塗ったりする。最も溶融点の高い油は、南末座のカルナバロウの葉から採ったもので、電線の絶縁用被覆に使われていました。セ氏六〇度ぐらいまでは大丈夫なんです。ハンコの朱肉やインクなんかにも油を使う。油脂製品というものの、範囲が広いのには驚かされました。
接待攻勢、後に教訓
 関西商人のしたたかさに触れたのも大阪時代。統制経済もなんのその。「今回はウチが製品一手引き受け。もうけさせてもらいまっさ」「ホナ、次はワテとこで」。今でいう談合がちゃんと出来上がっている。
 「秋山さん、ボクシング見に行きまへんか」とか「きょうは、お食事でも」と妙になれなれしく近付いてくる人もいて、何度か付き合っているうちに、どうも製品在庫が少なくなっているのに気付いた。
 ある日、早く帰るふりをして見張っていたら、会社が終わってだれもいなくなったところを見計らってトラックが現れた。さっそく、とっちめてやりましたが、この時の接待攻勢は、後年、八戸市長になった時のいい教訓でした。夜のお付き合いは、自ら戒めて受け付けませんでしたから。

太平洋戦争開戦(昭和十六年)長女誕生
 十六年の十一月に長女が誕生しました。摂津の国で生まれたんだから「摂子」と名付けようと思ったんですが、秩父宮妃殿下と同じでは恐れ多いということで、祖母ヨシと妻トヨから一宇ずつとって「敏子」と名付けました。声楽家の関谷敏子女史が活躍していたこともあり「がんとたたけばピンと響くように」と願ってのことでした。
 幸い長女は元気な子供で、十ヵ月目には立って歩いた。大阪府の健康優良児にも選ばれました。ただ、行動は名前の通り敏しょうで、日曜日の私の仕事は、家の障子の修理という羽目になりましたがね。
 長女が誕生した直後に、太平洋戦争が始まりました。会社のあったビルの屋上で「開戦の報」を聞いた記憶があります。
 十七年の十月に東京本社への転勤を命じられ、長女・敏子をリュックサックで背負って、大阪を後にしました。
    
満州時代
統制違反で原氏の世話に 再び召集令状来る
 私が東京本社に戻ったら、原文兵衛君は、もうすでに警視庁の警務課長になっていました。本社は丸ビルの六階にありましたが、毎日、学徒出陣を見送りました。
 各大学の校旗を先頭に学業半ばで出陣する学生を送りながら、私にも、そのうち召集が来るに違いないと覚悟は決めていました。
 統制経済が強化されて、物資不足はかなり深刻になってきていました。せっけんとかバター、食用油だけは、容易に手に入ったものですから、近所の八百屋や魚屋に分けてやると、野菜や魚類は時々、食べることができました。なんでもてんぷらにして食べました。その方が少しでも栄養になるわけですから。
 会社に行っても昼食はない。食堂も海藻で作っためんなんかしかなくて、一日二食だったんです。仕事の方も、統制違反で部下が警察署に逮捕されるなんてことがよくありました。
 そのたびに私は原君の所に行く。各署に電話を入れてくれて「原だがね。私の友人が心配してるんだ。よろしく」と頼んでくれる。所轄の署に行って身柄を引き受けて帰るんですが、署員から「どうして課長の所まで行くんですか。われわれは、いじめてるわけじゃないんですから」なんてよく文句を言われたものです。
 原君の所にせっけんなんかを届けて「バターとかはあるのか」と聞くと「うん、あるよ。大丈夫だ」と言う。考えてみたら、原君の奥さんは北海道の元知事たった町村金吾さんの一族で、広大な牧場を経営してました。
 召集令状が来たのは十八年十月。二十三日に弘前に入隊せよというので、会社での送別会をやってもらって、軍用コウリをかついで汽車に飛び乗った。妻は、ちょうど長男が生まれる直前で、東京に残して八戸に帰ってきた。湊本町の関床屋で長くしていた髪を切り、それを妻に渡してくれるように頼んで弘前へ行き、ホテルに一泊。
 翌朝、営門の前に行くと、五連隊時代の教え子たちが次々に顔を見せる。「おう、お前も来たのか。よし、おれの中隊さ来い」。兵隊たちの中隊所属は決まってなかったものですから、次々に引っぱって、自分で中隊を組織して北部一六部隊第一中隊ということになってしまったわけです。
 下関から釜山、シベリア鉄道に乗って黒竜紅省の訥河(ノンジャン)という所に駐屯しました。関東軍は、当時、盛んに部隊の編成替えをやっていて、南方へ次々に部隊を派遣していたんです。私も召集されるなら華々しく南方へと考えていたんですが、私たちが教育されたのは、いわゆる「赤本」と言って「対ソ戦略」だったわけで、満州とソ逓の国境地帯に配備されたんだと思います。