武輪水産創業以来の苦難をどうのりこえたか、困難に遭遇した時にこそ問われるのが経営者の資質。それを見事に乗り切ったわけだが、結末だけを見ると、なんあだ、そんなことか、それなら俺にも出来ると思うものだが、当事者ならではの労苦がある。たった一度の人生、それを間違いなく進んだ武輪氏の足跡。だが、置かれた境遇は厳しいものだった。二百海里問題勃発当時がどんな時代だったのか、八戸図書館の新聞切り抜きから探る。昭和五十年二月十日 デーリー東北新聞経済水域二百海里と水産業界 八戸市水揚げはほぼ半減危機感強める関係者 政府に安定策要望昨年カラカスで開かれた第三次国際海洋法会議で領海十二、経済水域二百海里の大枠が示された。三月十七日から五月十日にかけてジュネーブで海洋法会議が再開されるがこの承認は動かし難いものとされている。日本の年間漁獲量は世界の総漁獲量の六分の一の一千万トン。その半分が外国沿岸の二百海里で漁獲している。内訳は米ソ沿岸水域で四百五十三万トン、韓国中国水域で七十万トン、南方水域で三十七万トン。二百海里が設定されれば日本の漁業は壊滅的な打撃を受けることになる。北洋海域に対する依存度が極めて高い八戸港では二百海里が設定されれば水揚げ量が四十%(約二十万トン)水揚げ金額が五十%(約二百二十億円)削減される。これに伴って水産加工業者をはじめとし関連産業にも影響を及ぼし、おそらく五百億円に達する減少を余儀なくされ八戸市経済に大きな打撃を与えることになる。中略、影響を受けないのはサバ、イワシぐらいのもので、影響の少ないものはサメとキンキンである。危機感を深めた八戸漁連、加工連、機関士会、船頭組合などの関係者は二百海里に最後まで抵抗し、二百海里が設定された場合でも水産業の将来の安定策を講ずるよう政府に強く働きかけていくことにした。このようにデーリー東北新聞は報道したが、結果的にはそのようにはならなかった。八戸市の水揚げ量が日本一になったのは昭和四十一年から四十三年までの連続三年間と昭和五十三年。平成十一年、十二年の連続二年、都合六回全国一の水揚げを誇った。平成はさておいて、昭和の水揚げ日本一は二百海里実施以前であることに注目しなければならない。水揚げ量日本一の数字は昭和四十一年 二五三千㌧昭和四十二年 三一八千㌧昭和四十三年 四三四千㌧昭和五十三年 七五一千㌧昭和五十二年から実施された二百海里、新聞の予想通りにはならなかった。世の中の仕組みは期待値に踊らされることにある。株価や穀物や石油の相場がまさにそれだ。実体が現れる前に予想をして買いや売りを立てる。だが、実体が現れると大したことがないと期待がしぼむ。二百海里もそれで、八戸の水揚げ高は半分になるの予想に反して大きな変化はなく昭和六三年には増加すらした。昭和五十五年 六六七 五十六 五八七 五十七 七一六 五十八 七○二 五九 六四五 昭和六十年 六九一 六一 七一○ 六二 六四二 六三 八一九 この年が絶頂でここから減少した。平成元年 七七三 二 五六○ 三 四二八 四 三六七 十七年 一四九劇的な数量減少になった。これは昭和三十五年の一四六に等しい。つまり八戸の漁業は四十八年前と同じ状態までしぼんでしまったのだ。こうした状況は何故起きたのだろうか。二百海里は施行されなかったのか。そんなことはない。水面上にラインは引かれないが、デーリー東北新聞が記載したように漁獲規制は実施された。八戸港 に水揚げされた遠洋のスケトウダラの量は減少。この推移を見てみよう。八戸統計資料から年次抜粋。昭和四一年 五万七千㌧ 一九億八千万円 四二年 七万㌧ 一九億九千万円 四三年 十万三千㌧ 二六億二千万円 四四年 十二万二千㌧ 三一億七千万円 四五年 十五万四千㌧ 四二億二千万円 四六年 十五万五千㌧ 三八億四千万円 四七年 十六万二千㌧ 三八億八千万円 四八年 十七万一千㌧ 六六億五千万円 四九年 十七万四千㌧ 五五億円 五十年 十八万二千㌧ 六五億円 五一年 十四万九千㌧ 六八億七千万円 五二年 十二万三千㌧ 百億三千万円 五三年 一万三千㌧ 二十億七千万円 五四年 九千九百㌧ 十一億八千万円 五五年 一万三千㌧ 九億円 五六年 七千㌧ 六億五千万円こののちも減少し漁獲高が十億円を超えることはなかった。昭和五十二年を着目していただきたい。数量は減少したが、売り上げが百億を越した。これは二百海里への思惑買い。トンあたり七割五分上昇。現在石油価格が史上最高値の一一二ドルを突破したが、これも思惑買いでこれは三年前の六割上昇。歴史は市場を代えて同様なことを繰り返すものだ。だが、すけとうだらの値上がりは一年で置きただけに凄まじいものがある。このすけとうだらの推移からわかることは、北洋を主眼としていた漁がダメになれば、不即不離の関係である水産加工会社も大打撃を被る。漁がダメになり漁業家は船を捨てた。水産加工会社は他の商品への切り替えを迫られた。獲れない魚を待つことはできないのだ。すけとうだらの昭和五十一年の水揚げ量と平成十七年の八戸全体の水揚げ量が等しい。漁業家、水産加工家がいかに困難に直面したかが判る。八戸で獲れるのはサバ、イカだが、これにも好漁、不漁がある。サバが獲れない年、イカがダメな年が発生。イカを求めて漁業家は異国の海へと出て行く。運を天にまかせて。さて、肝心な加工業の雄、武輪水産はどのように会社を切り盛りしたのか。(経営努力で不況克服) 昭和五十九年度は前期の大幅な赤字決算と言う経営の不振を挽回すべく、利益率に重点を置いた製造と販売政策施策により平均粗利益率を前期の一〇%に対し一六%に改善出来ました。秋の盛漁期に於ては紫いかも漁に恵まれ価格も安定し比較的安値の原料を手当する事が出来ました。又、鯖に関しては十一月中旬ほぼ終漁模様となり、量的には不充分でしたが、前年の異状な漁模様とはことなり価格も組成も加工原料として評価出来るものでした。此の様な原料事情に加えるに前期の不振に鑑み、一般管理費の節減、製造の合理化により製造原価の低減を図り、人事の大巾な異動による人材の登用等企業の活性化に努め、他方新製品いか鳴門巻、いかそうめん等一連の刺身商材の開発により、販路の拡大と年間を通じての操業の平均化に成功し企業の体質改善の第一歩を踏み出す事が出来ました。 昭和六十年度は日本の経済状勢も輸出産業を中心とする基幹産業に於ては景気の立直りから次第に好況を呈して参りましたが、地域的に東北地方に対する波及効果は鈍く、又水産関連業界を含めて依然として不況より脱し切れぬ業種も少なからずあり、産業界には顕著な跛行(はこう・釣合のとれないこと。順調でないこと)現象が見られました。消費経済も東北地方に於ては沈滞気味でしたが、関東以西に於ては増加の傾向を見せ、年末には我が社も可成の注文を抱え其の消化の為に連日残業を重ねる有様でしたが、年明けと共に需要も一巡し春先の行楽シーズン迄は平年並の需要が見られました。然るに六月の長雨、それに続く七月下旬より八月にかけての猛暑は観測史上異例とも言える気象で折角の食品消費の伸びの頭を押え売上げの鍼少価格の低迷を見るに至りました。この様な基調の中で期中於ける営業の経過を概述致しますと、いか鯖の二大魚種ともに空前の大不漁で、加工原魚の不足と高値は経営に大きな影響を与えました。鯖は盛漁期中の八戸に於ける水揚げ六万t余と言う貧漁で、不漁と言われた昨年の半漁にも達せず又其の組成は大型に偏より〆鯖、みりん干、フィーレ等の加工原料となる対象魚が少ない為、売行のよい〆鯖の原料手当に苦しみました。之が為原料魚の不足分は南下した鯖を追って銚子方面より可成の数量を買いつけ、又七、八月には冷鯖の市況悪化から当地に於いても処分する同業者が出た為、之を補充買して品切れを防いだ次第です。いかはするめいかをはじめとし、赤いか、NZいかいずれも不漁の為高値となり、赤いかを原料とするロールいかは高値の為売行不振となり、さきいかは原価高の為差益減少で妙味がなくなりました。いか加工品の中で、さしみ商材としてのいか鳴門巻、いか糸作りは発売以来三年目を迎え依然として好調な売上を示し利益貢献度第一位となりました。幸いARいかが豊漁で価格も加工採算圏内にありますので逐次他の製品も之を代替原料とすべく鋭意研究中であります。以上の様な営業の経過で期首より期中にかけては比較的順調に推移しましたが、期末には原料不足の原価高の為経営にブレーキをかける状況になりました,しかし八戸市城下に所在の遊休土地を処分し特別利益九千三百万円を得ましたので操越欠損金を補填し当期末処分利益金として約五千万円を計上する事が出来、来期は愈々黒字体制のもと新生の第一歩を踏み出す事になりました。情報化社会に立ち遅れぬ様旧式化した従来のコンピューターを新鋭のものに更新し、給与、財務関係の処理の外、原価計算、営業、在庫関係の処理等、確実、迅速な運営を期して居ります