2008年5月10日土曜日

東北線の歴史 八戸との関わりを調べる 5

各機関庫では二七日から代表委員を上京させ、上野の山城屋旅館に宿をとった。ストには積極的な活動をしなかった上野機関庫が、会社との打合せや、交渉委員の世話などを引き受けた。
 交渉は二八日から開始されたが三月に入っても話しあいはつかなかった。会社の最後の考えは話しあいに応ずるというよりは時間をかせぐためのかけ引きをしていたようである。会社では決裂に備えて鉄道局から機関方を借り受けることとしていた。ところが東海道線その他から集めた機関方が逃げ帰ってしまったというのである。また解雇された首謀者、石田、池田の両名を運輸課長が会社に呼んで話を聞いたため、委員等の団結心をあおる結果となった。会社にとって、もっとも痛手となったのは、新聞などが機関方に同情的で会社を非難する論調が多かったことである。会社幹部の反目もあって、強い態度がとれない弱みもあった。
ついに六日になって、機関方の要求をすべて受け入れ、交渉は終わった。委員は更に会社側が約束を全部実行するまで東京にとどまることとした。
 三.月二八日、機関方は機開手に、機関方心得は機関手心得に、火夫は機開手助手に、掃持夫はクリーナーと改めることと通達があった。また車掌とくらべて大きな差があった旅費額も改められた。
更に首謀者十名のうち、最初の石田、池田の両名を除き復職することとなった。もっともこの両名も約半年後復職している。三月末ストの一切は終了したわけである。
 ストの波紋 二五日、ストが始まると、もっとも損害を受けたのは一般旅客荷主であった。東北本線各駅で旅客と駅員の押問答が続いたが、駅員は次の列車が出るのか出ないのかわからないので、いいかげんな返事をする。いくらまっても列車は出ないので、旅客はすっかり怒ってしまう。用事は電報でもすむのにはっきりしないので結局機会を逃したというわけである。貨物も同じで失った信用もあわせると大損害を受けた人もいた。
 各新聞も一般利用者とのトラブルや不満をとりあげている。ところが二五日ころから一転して日本鉄道を攻撃し、労働者側に同情をよせる論調が多くなってくる。
 時事新報(三月九日)・「日本鉄道の改革を望む」と題して、会社内部のでたらめな点を鋭くつき、ストは「一朝突如として起りしに非ず」とし、下級社員の言うことなど一向に取り合わなかったからだと非難している。
 日本新聞(三月一日)・資本家は営利追求のほかに、労働者を愛する徳義心を持たなければならない。今回のストで労働者の肩を持つわけではないが、日鉄は徳義心について猛省する必要があると述べている。
 万朝報は三月五日から連日幸徳秋水等の論を掲げているが、完全に労働者側に立っているのは社会主義者として当然であろう。「政府が鉄道営業に対して監督の厳ならざるを幸とし、専横至らざるなき日本鉄道会社をして、膝を其雇人なる労働者に屈し、百方慰諭只管交渉の平和に落着せんことを折らしむるに至っては、あにまた近来の快事に非ずや……」
 朝日新聞はもっとも正確に各地の状況を報道しているが、ストが経済的に社会的に一大損失を与えること述べ、「若も斯る大異変を生ずるに至らば社会の不幸何ぞや。故に吾人が返す返すも希望するところは、日本鉄道会社が善後の計画を実行するは勿論……他の諸会社も亦相戒めて雇用者被雇用者との融和を計り社会的に配財の良法を講ずるに在るなり……」と訴えている。
 東北地方各紙も連日ストの模様を報しているが、各紙ともストの原因に多くのスペースをとっている。
 奥羽日日は、スト発生と同時に「交過激繁の昨今斯る軽忽の挙動をなして、公器の使を害せんとするは甚だ嘆かはしき事なり」とスト行為を非難しているが、その後原因は下級社員に対する圧政であると会社を攻撃している。
 仙台新聞は、「労働者を金銭を以て購い得たる奴隷の如く駆使して、人に権利自由の天賦あることを知らざるものの如し。機関夫の挙暴は暴なりと雖も焉んぞ彼等の自ら招きたる災にあらざるなきを知らんや。同盟罷工嗚呼また止むを得ざるなり…」と論評している。
また、会社の内部抗争を暴露し、しかも重役のひとりが、巧妙に機関方の不平を醸成し、自分の野望を遂げようとしたなどという記事まで掲げている。
 たしかに、このストは社会の同情や共感を得た点で特異なものがあった。
 「この戦争たる決して無名の師にあらず。名分正しき義戦にして戦士は酒気を帯びず、暴言をはかず、こん棒とばず、真に正々堂々たり」と石田六次郎は回想のメモを残している。機関方の態度にも共感を呼ぶものがあったのである。
 日本鉄道機関方のストが他の私鉄機関方に及ぼした影響は非常に大きいものがあった。関西、山陽、九州各鉄道の機関方は日鉄の解雇された機関方に対する義損金を募り、更に日鉄のストに同調して行動を起こそうという動きがあった。これらの各鉄道が機関方同盟クラブを名古屋市に設け、三月一六日から3日間大会を関催している。その結果日本鉄道のストに同調しようと、福島の同盟クラブに申し入れを行なった。日本鉄道の機関方は一応これを押え、軽挙を戒めたので、全国ストは免れた。
 三月二一日、九州鉄道に機関方のストが発生した。九州鉄道は経営陣の内部抗争が烈しい時期で、 会社側はそのまま四月から昇給することを認めた。
 五月一日、山陽鉄道の機関車乗務員が待遇改善の要求を出した。日本鉄道の二の舞を恐れた会社側では要求のすべてに応じた。しかし一か月後首謀者等を解雇している。
 「ストは伝染的性質をもっている。日鉄の大争議があって以来、他の鉄道会社にもそのような動きがみられる。……ストは止むを得ないとしても国のもっとも重要な交通機関が動かないとなると、及ぼす所は非常に大きい。会社も労働者もよく考えてこのようなことにならないようにすべきである。ことに伝染的ストはよくない」(東京経済誌三一年三月)
 このような批判がでたのも当然で、官鉄でさえその動きがあった。奥羽線がすぐにこのような動きに同調しょうとしたのは当然としても東海道線の沼津山北などの機開方にストの気配があった。(国民新聞三月八日)
 官鉄では、4月から機関方の増給をしているほどである。
 こうしたストが社会全般に及ぼした影響も大きいものがあった。日本鉄道のストで損失を受けた仙台商業会議所では、鉄道は国道と同じように公共的なものであるのに、官私鉄とも無規律であるから、社会の安全をはかるため「鉄道法」を制定するように建議しようという動きがあった.(第七回全国商業会議所連合会に仙合から議題を提出している)
石田六次郎 機関車乗務員大争議の口火を切った尻内機関庫の石田六次郎は労働運動史を飾る最初の人たちのひとりであるが、彼の生涯はけつして平凡な鉄道員のそれではない。
六次郎は旧姓を宮といい、元治元年岡山県総社に生まれた。青雲の志を抱いて上京した彼は小さな新聞社を開いたりした後、明治二二年四月五等火夫として鉄道局に就職し、日本鉄道会社に在勤したが、二五年四月日本鉄道に日給四十銭で移っている。
二七年ようやく機関方心得(助手)になり尻内に転じた。彼はメモ風の所感を多く残しているが、二八年にこう書いている。
「余始めて汽関車に乗り運転の業を採るや、其繁忙の甚敷き、其注意の要する多き、殆ど絶到せんとせり」
二九年に結婚し、石田の姓になった。就職して八年目の三○年一二月機関方となった。彼は人のいやがる第五区線でまじめに激務に堪えた。もともと向学心の強い熱心なキリスト教徒であり、彼の尊敬する人に同郷の片山潜がいた。日清戦役後の生活の苦しさから生れたばかりの子供を失っている。彼が心を許した信徒仲間と相談し檄文を書くに至った背景には、明治の多くの進歩的な人と同様に、権利義務の観念といった西欧思想の理解があったことがまずあげられよう。彼は機関手の社会的な地位を高めようとして、矯正会をつくった。三年余でもろくも消えさったのであるが、もう彼の理想とはかけはなれた組合になっていたのである。国有後は仙台に在勤し、高等官にまで昇進して昭和七年、仙台鉄道局を退官している。模範的な国鉄人であったのだ。仙台五橋のメソジスト教会に属し、退官後は仙台の代表的なキリスト者として知られ、キリスト教育児院(現市内小松島)の初代理事長をするなど、生涯をピューリタン的な精神で貫いた人であった。昭和一二年八月、七三才で死去した。
 石田六次郎の一面を伝えるほほえましいエピソードがある。令息(仙台市に医院を開業)の未亡人貞(てい)さんの話である。
 「父は禁酒会をつくつたほどですから、お酒は飲めないと思うでしょう。ほんとうは好きなのです。お料理用のお酒などいつのまにかなくなっているのです。家にはよく若い人が集まっていました。お酒がでると陽気に議論がはずんだものです。若いころの禁酒会の話がでると、くすぐったそうにしていました」
 機関車乗務員の労働組合「矯正会」とその劇的終末 
日本鉄道の機関車乗務員は争議が完全に終了すると、それまでの「待遇期成大同盟会」を解散し、同時に「矯正会」という労働組合を結成した。三一年四月五日のことである。
 ストの目的が身分的待遇の改善が根本的なものであり、機関車乗務員の社会的責任が重大であるから、身分賃金もそれに応じたものにしてほしいという考えに立っていた。ストの結果要求のほとんどが通った以上、社会的責任を負うにふさわしい機関車乗務員でなければならなかった。単なる労働者から技術者として会社のために働くという自負があった。そのためには各機関庫指導者たちの交信、全機開手等の親睦と団結、相互救済のための貯金、紛争の仲裁、業務研究等の機関紙を出すことなどをなんとかして始めたいというところから、労働組合をあらたに結成することになったものである。
 こうして生まれた矯正会は、当時の他の組合と同じように共済組合的な性格が強かった。組合員は毎月一日分の給料を積み立てて準備金としていた。三二年一月には、千余名の会員と一万円の積立金を持ち、同年末には二万円を越える額になっている。相互扶助、地位向上のための知識教典に力が注がれた。機関紙は「矯正会報」といったが、その後「鉄道世界」、「矯正会誌」などと改称されているが、内容に変りはなく一貫して組合員の親睦、教養、技術に関するものであった。また仙台に英語研究会が置かれ、萱森宜能、西川尚正等が「研究」を発行した。外国の機関士たちと知識の交流をはかる意図であったという。更には日刊の大新聞を買収して日刊紙を発行しようとしたほどである。
 ストの首謀者であった石田六次郎と池田元八は三一年の秋に復職すると、組合は更に道徳的な傾向を持つようになる。石田六次郎は禁酒会を組織している。最初はそういうものにそっぽを向いていた者もあったが、しだいに会員が増加している。また指導者の多くがキリスト教徒であったところから、キリスト教活動も行なわれていた。
 福島の教会では、朝の礼拝で居眠りをしている信者はもっとも熱心な信者であるといわれていた。教会で居眠りしているのは徹夜勤務を終えた疲れた機関手や助手たちであったのだ。
矯正会は、当時の労働組合としては非常に倫理的な性格を持っている点に大な特徴があった。日本最大の規模と資力を特つ労働組合でありながら、同じ社内の期成会傘下の私鉄組合とも交流はなく、スト中からさかんに手を伸ばしていた他の私鉄労働者と手を組もうともしなかった。一つの殼の中に入った強大な組織であった。
矯正会規約(第二章目的)
第二条 本会会員たる者は専ら会社の隆盛を図り、浮沈を共にするを旨とす。故に職務勉励は勿論温厚篤実品行方正にしていささかも粗暴過激の挙動あるべからず。
 矯正会の性格は、この短い条項に端的に表現されている。
 矯正会という名称の由来について、石田六次郎の書簡にはこう記されている。
  「……労働者唯一の武器をとり会社の前門に向いたることなれば、会社よりの反動恐ろしきは不言の間に全課機関手一同の感ずる処なれば、これが用意なかるべからず。さらば矯正会は会社の反動が若し一人に来るも二人に来るも必ず一致以て進退せんと大いに覚悟し結びしもの決して我より進んで、ことを好むものにあらず……ストライキの結果思ひ通りの待遇を得たり。比上は自分よりも進んで品行を慎み、凡ての態度を改めざるべからずと依而矯正の文宇のある訳合に候……」
 矯正会本支部長名
 福島本部長 柿沼 熊雄
 副部長 宇野 豊吉
 仙台支部長 新村 政一
 一ノ関支部長 安居彦太郎
 盛岡支部長 中村良之助
 尻内支部長 田島 宗作
青森支部長 木村孝三
黒磯支部長 外生田新太郎
宇都官支部長 奈須銈三郎
小山支部長 宇野文三郎
上野支部長 金子孝太郎
水戸支部長 谷健三郎
土浦支部長 鈴木篤支部長
平支部長 鈴木宗吉
原町支部長 田村竹蔵
高崎支部長 朝岡勢次郎
相生支部長 平井輔五郎
注 矯正会の本部は福島にあった。その他の機関庫には支部を置いている。
以下略
日本最初のストライキが八戸の石田六次郎に率いられたことは驚嘆する。岡山産の人であるが、当時の新機器である鉄道電話を駆使し、仲間との連絡を密にする。団結の言葉を浮沈を共にすると置き換えている。
狭い八戸、見える今だけに着目せず、先人の足跡をたどれば、見えないものが浮き彫りになる。鉄道がわが国に登場し、その二十五年後に、働く者の権利を主張した石田六次郎、凄い男だ。