○ 父の遭難事件
「ジーン、ジーン、ジーン」何かが鳴っている音で目をさました。隣の部屋の電話の音だ。受話器を取ったとたん「何で電話が鳴ったらすぐ出ないんだ」兄のどなり声である。
時計を見たら午前二時。草木も眠る丑三つ時だ。昭和五十五年六月初旬のことであった。
「親父が行くえ不明になった。五時から捜索だ。四時に六ヶ所村へ行くからお前もこい」。
「行くえ不明って何のこと?」
「わらび取りに行って親父が居なくなった。五時から消防団が探してくれる。俺たちも四時にはここを出発する。」何が何だかさっぱりわからないが「父を探しに六ヶ所村へ行くため四時に出発する」ということだけわかった。
寝ていた夫を起こして電話の内容を伝えた。
「四時とは言わず、とにかく実家へ行こう。」
私の実家は糠塚長者山下(現在は長者二丁目)で両親と兄夫婦同居である。行ってみると近所に住む姉夫婦も来ていた。
事件の内容は
昨日家族全員で六ヶ所村へわらび取りに行った。両親と兄夫婦と子供二人(五才と一才)計六人で、兄の運転する車で行った。
いつも行っている原っぱに車を止めて、一時間ぐらいわらび取りをしてから、車に戻り弁当を食べることにしていた。ところが弁当の時間になっても父だけが戻って来ない。子供たちも居ることだし、とにかく食べることにした。食べ終わっても戻ってこない。待っても待っても来ない。少し捜してみたが居ない。
ひょっとしたら家に先に帰ったのかも知れないと思い皆で帰って来たら、家には帰っていなかった。少し待ったがやはり帰らない。
「これは大変だ」ということになり、六ヶ所村へ走った。一人では無理なので消防団にお願いした。しかし日が暮れてきたので二次災害を防ぐためにも今日の捜索は無理、明朝五時から捜索開始となったのだそうだ。
兄達が行った六ヶ所村のわらび取りの場所は。私も何度か行ったことがある。原っぱがあり、自衛隊の演習場があり、林もあるが遭難するような深い森ではなかったと思うが。
「どうして先に帰ったと思ったの?あそこはバスが通っているの?」
「親父には前科がある。博多の件がある。」
前科とは……五年ほど前のこと、弟が北九州市小倉で結婚式をあげた。九州支社の小倉に居たからで、小倉の市営住宅に居た。
お嫁さんの家族は群馬県桐生から、八戸から両親と兄と私の四人が市営住宅に集まった。
結婚式が終わった翌々日私達四人は日帰りの博多見物に出かけた。帰りに博多駅構内で父とはぐれてしまった。駅の案内所から構内放送をしてもらったが父は見つからなかった。
私達がこんなに捜しているのだから、父の方だって捜しているはずだ。だから先に帰るわけにはいかない。二時間ぐらい待った。
父は元国鉄マンだから一人で帰れる。私達は先に帰ることにしたが電車の中でも心配であった。小倉の弟の住宅に帰ったら父は先に帰っていた。「子供じゃあるまいしはぐれたら電車に乗って帰ればいいじゃないか」と父は言ったのである。私はすごく腹が立った。兄はこのことを前科と言ったのである。
その兄を姉が責める。「どうして年寄りを山へ連れて行ったの。留守番させておけばいいのに」父は七十五才。母は七十才である。
「おふくろが悪いんだ。夫婦だから一緒に行動すればいいのに、バラバラに歩くからこうなるんだ」母は終始無言であった。
義兄が言った。「ここで話をしていてもどうにもならない。現場へ行こう。少し早いが現場で待つことにしよう。悪いことは重なるものだから、気をつけてゆっくり走ろう。」
空が明るくなって五時前から消防団の人達が集まってきた。捜索上の注意があったが二次災害防止のため絶対一人では歩かないということだけ覚えている。私は夫と団員のあとにくっついて山に入った。
どのくらいの時間が過ぎたか見当がつかない。「オーイ」「オーイ」の声が聞こえた。
お互いに呼び合っているのだろうか。そのうちに「ピーポー・ピーポー」あっ救急車だ。
見つかったのだ。急いで山を出て救急車のそばへ行った。兄が「節子、おふくろと一緒に救急車に乗って行け」これで父がすでに救急車に乗せられていたことがわかった。
一刻を争う事態なのだ。母に即して救急車に乗った。確か運転席の後ろの座席に乗ったと思う。私は父が横たわっているところは見ていない。「生きていますか?」と聞いた。
「大丈夫ですよ」救急車は生きている人だけ乗せると聞いていたので、乗せたということは生きていることなのだが、そんなことを考える余裕なのでなかった。母は無言のまま。
野辺地町立病院で診察を受けた。「点滴をしますがその前に、一昼夜倒れていたので衣服が湿っています。着替えさせて下さい。」と看護婦に言われて、初めて父と体面した。
「おじいちゃん何があったの?どうしたの」
母がとりすがった。「ん?山で寝ていた。体が動かない。」見た目はしっかりしていた。
私は売店に下着を買いに行った。
後始末のため現場に残った兄達が病院に来た。皆が林の中ばかり捜していたが、林の陰に倒れていたのだそうだ。脳軟化症と診断され右半身不随となっていた。点滴が終り次第八戸の病院に移っても良いと言われ、その日の内に八戸に戻った。長い長い一日だった。
一時は快方に向ったが入退院をくりかえし八年後の平成元年一月十七日父は他界した。
国鉄退職後、再就職、町内会長、百働会会長等々、趣味は俳句、菊の会、バラの会等々生き生きと活動していた。
「血圧が高く、それが自覚症状がないため危険です。倒れた時は再起不能となりますよ」と医者に注意されていたが、そのとおりになってしまった。
○ 早藤むらさんのこと
父が入退院を繰り返していた頃、フッと思い出したことがあった。私は四~五才の頃から父に連れられて、時々八戸に来たことを覚えている。その時父が必ず立ち寄る所があった。お寺の門を入るとすぐ左側にそのお墓があった。何かの記念碑のように大きく高くすごいお墓だなあと見上げたものだった。お墓のすぐそばに一本の大きな木があり、墓石にかぶさるように枝が垂れていた。
始めの頃は墓碑の字は読めなかったが、私が成長するにつれて読むことができるようになった。「藤むらの墓」と書いてあった。
いつ行っても誰かが先に来たのかなと思うくらい花が供えてあった。父と一緒の墓参は私が中学卒業する頃まで続いたような気がする。
藤むらさんとは誰なんだろう。ずっと気になっていたことを母に聞いてみた。
「藤むらさんではなく早藤むらさんのお墓だよ。大きな木の枝が垂れ下がっていたから「早」の字が見えなかったんだね。
おじいちゃん(父のこと)が独身時代に番町の早藤先生のところに下宿をしていたの。
早藤先生はお花やお裁縫の先生をしていたんだよ。早藤先生が亡くなったとき身寄りの人がほとんど東京へ行ってしまっていたのでお弟子さんやお世話になった人達皆で建てたお墓だよ。あのお寺は願栄寺だよ。おじいちゃんが倒れてからは、代わりに私が墓参りをしてたんだよ。」と母は話してくれた。母が代わりに墓参りしていたことなど全く知らなかった。
何日か後に母と二人で願栄寺に行った。
父がいつも買っていたお店で母も花を買った。お墓には最近誰かが来たらしく花が供えてあった。大きな木はいつものように枝を垂らして墓碑の頭を隠していた。枝葉の間から「早」の字が見えた。早藤むらさんの墓であることを確認した。二十年以上も前のことである。これが早藤むらさんの墓碑を見た最後となった。
それから何年か後のある日のこと、詩吟の仲間のSさんが話しかけてきた。
「あなたのお父さんの若かりし頃し頃のことを知っていますよ」「えっ?若かりし頃の?」「私の伯母が下宿屋をやっていまして、あなたのお父さんが下宿していたんですよ。」
「Sさんの伯母さんは早藤むらさんですか」「そうです。話を聞いていましたか。」
「聞いてましたよ。お花やお裁縫の先生もなさっていたとか。お宅は番町だったとか。」
「そうです。それで私が娘の頃に手伝いに行ってたのです。一階はお花やお裁縫の教室になっていて、二階は下宿人のお部屋でね。日中は下宿人が勤めに出て留守だから、裁縫の手を休めて独身男性の部屋はどんなかなとのぞきに行き、伯母にしかられたもんですよ。あなたのお父さんの部屋ものぞきましたよ。ハハハ……。」と話してくれた。
この話を父に聞かせたかったが、この時はもうこの世の人ではなかった。
今回この原稿を書くにあたり、私は願栄寺に墓碑を見に行った。お寺の門を入ってあっと驚いた。お寺を間違えたかと思うほど変わっていた。私が見たのは二十年以上前だから変わっても不思議はないが、大きな木は無く早藤むらさんの墓碑もなく、新しいお墓がずらり並んでいた。
後日、知人に願栄寺の檀家さんがいたので話をしてみた。「何年か前に墓地の整備をしまして、墓地の奥の一郭に無縁仏さんがまとまっていたと思いましたが、そこではないでしょうか」と言うことであった。未確認ではあるが、母もSさんも亡くなり花を供 える人達も亡くなり、無縁仏になってしまったのだと思う。
○ 壱吟会創立
昭和五六年三月、岳智会八戸支部壱吟会を創立した。今まで所属していた雄風会より独立したのである。
会名は雄風会会長の月舘雄岳先生がつけて下さった。「一吟天地の心」の一吟を壱吟としたのである。
教場は朔日町のうなぎ「高砂」の二階(現在はない)と決まった。「高砂」は会員Mさんのご親戚の経営なので、ご好意により休業日の月曜日に使わせて頂くことになり、会がうなぎ登りに発展することを願った。
創立の申請書には、私も含めて八名の会員名簿を提出してある。「たった七名の会員でも会長か」と陰口を言われ、肩身のせまい思いをしたが、全くのゼロからのスタートで四十才の私はファイト満々といったところであった。
一年ほどで「高砂」は閉店し、教場は会員Mさんの自宅に替わった。またブラザーミシン文化教室(番町にあったが現在はない)に教場ができ、種市町(現洋野町)にも教場ができた。八戸では漢詩の専門書はあまりないので、東京神田の古本屋へ吟友に連れていって頂いたことが何度かある。
東京岳智会の行事の参加、吟道講座の受講、訪中団への参加、会員がいるからこそ勉強をしなければと思うのである。私は会員の皆さんによって育てて頂いた。
会員が増えたと喜べば、退会する人もいて一進一退である。順風とまではいかなくてもまずまずうまく行っていたと思う。
平成五年夫が病気になった。この頃から逆風が吹き始めた。ブラザー教室はなくなり、種市教場もなくなった。会員の減少である。
しかし下がってしまえば今度は上がりである。
今年で創立二十七年になるが、今のところ上りに向っていると思う。