2008年5月1日木曜日

秋山皐二郎、回顧録「雨洗風磨」東奥日報社刊から 5

乱取りで骨折、入院
 関東学生柔道連盟の満州遠征は、まだ戦争前の時期だっただけに、実に楽しい旅行でした。一行は早大、明大の五段クラスを中心に十五人ぐらいでしたでしょうか。私は四段で事務局長兼任で参加しました。
 下関から大連、奉天、新京(現・長春)、撫順と回って、満鉄支社の柔道部の方たちと試合をしましたが、ほとんど負けなかった。早大には函館出身で山本君という選手がいて、体は小柄なんてすが、足を刈ると同時に相手の胸板に自分の背中をバーンと打ちつけて倒す独特の小内刈りをやる。強かったですね。
 選手たちの中には、かなりの荒くれも居て「酒飲む金をよこせ」と私の所に来る。「バカなこと言うな」と何度か追い返したこともありました。
 行く先々で各大学の先輩たちが集まってきて歓迎会をやってくれる。大連に着いた時は「これから諸君に代表的な中華料理を食べてもらうが、ビールなんか絶対、飲まないように。下痢するからな。ちゃんと中国の酒を飲んで食べろ」と注意を受けたりしました。
 当時、関東州では買い物は無税。その上、満鉄の購買部で買うと、さらに六%も割引になる。「土産物を買うんなら、今のうちだぞ。先輩たちの通帳を借りて買ってもいい」と言われて、みんな随分、買い込みました。私は、ドイツ製のカメラ「エコンタ」を百三十円で買い、あちこち撮りながら歩きました。
 帰りの船では、船長に「酒税法違反の酒はないでしょうか。われわれは学生で、満州への武者修行の帰りです。酒を分けてください」と申し込んだ。「それなら君たちにプレゼントしよう」とウイスキーを五本ももらって、飲みながら帰ってきました。           
 満州で買ってきたカメラでは、朝日新聞が募集した海外宣伝ポスター用の「サクラ・ニッポン」という写真コンクールに応募して三席に人選して賞金三十円をもらったこともいい思い出です。昭和十一年春の卒業の時だったと思いますが、赤坂見附あたりの桜並木を一週間ぐらい歩き回りました。
 入賞作は橋の欄干の上に登って、墨堤の桜並木の下を通る二人の女学生を写したもの。写真は今でも趣味でよく撮りますが、本格的にやり始めたのは、このころでした。

就職試験の機会逃し卒業後も行く先なく…
 満州遠征から帰って九月下旬ごろ、一緒に行った早大の山本君たちが道場を訪ねてきて「お別れにけいこしよう」ということになった。二段を相手に乱取りをやっていて、足が滑り体が崩れたところへ相手が倒れてきて「ビシッ」という音とともに私の右肩の鎖骨が折れてしまった。そのまま、一ヵ月入院。
 退院しても右肩が動かず、今でいうリハビリをやっているうちに、就職試験が、どこも終わってしまった。十一年二月の卒業試験にはなんとか間に合ったものの、卒業しても行く先がなくなってしまった。当時「大学は出たけれど」という言葉が流行しましたが、文字通り、そうなってしまいました。
 もともと、兄と一緒の水産はやらないということで大学まで進んだわけですから、今さら八戸に帰るわけにはいかない。検事になりたかったんですが、司法試験の勉強もしていない。困っていたら、恐らく叔父・秀之肋から話がいったんでしょう。八戸市長だった神田重雄さんから手紙が届いた。
 「今、神田の聖橋のそばの関根屋旅館に居る。すぐ来い」というんです。駆けつけたら、神田さんは玄関わきの広間にどっかと座っていた。眼光鋭い、いかにも古武士という風格の人で、いきなり「秋山君。お前は、何で今ごろまでぼんやりと遊んでいたんだ」とまずしかられました。

苫米地義三氏の世話で油脂会社にやっと就職 給料65円もらう
 「何で今ごろまで遊んでいたんだ」と神田さんにしかられて「いや実は:」と骨折した事情を説明すると「そりゃ気の毒だったなあ。これから苫米地義三さんに会いに行くから一緒に来い」。
 苫米地さんは十和田市出身で、札幌農学校から今の東京工大を出て、当時は実業家。合同油脂という会社の常務取締役で、丸ビルの隣に会社があって、そこへ行った。苦米地さんも「何で今ごろ」と、おっしゃって、事情を説明したら「何とかしよう」ということになりました。
 払は、苫米地さんとは二度目の対面。「実は昭和三年に甲子園に出場した時に、大阪の工業倶楽部で昼食をごちそうになったことかあります」と言うと、苦米地さんはニッコリされて「あっ、そうか。あの時の八中生は君たちだったのか」―。合同油脂も、すでに就職試験が終わっていたんですが、採用になって、硬化油販売会社の大阪支店勤務となりました。
 当時の油脂業界はカルテル組織となっていて硬化油、グリセリンに分かれて販売組織を持っていたんです。給料は六十五円。普通の大卒は六十円。八十円で家族を養える時代でした。
 就職が決まり、神田さんにお礼を…と虎屋の羊かんを持って行くと「秋山君、お前は、まだ学生じゃないか。こんな高価なものを持ってきて。身分不相応なことをするんじゃない」と、また、しかられました。そして「男わらしというものは、自分の決めた道を真っすぐに進むもんだ」と諭されました。
 この時は、なんとか勉強を続けて、高等文官試験か司法試験を受けようと考えていたんです。自分の希望としては、検事になりたかった。刑法の泉二新熊(もとじしんくま)教授を尊敬していましたからね。
 昭和十一年の春の中央大卒業生は、さきにも書きましたが、優秀な人が多かったんです。「昭和一一会」という同期会が今もありますが、東京在住の諸君は卒業以後、稲葉修君や松井宣君、塚本重頼君らを中心に毎月十一日に昼食会を五十数年間ずっと続けており、全国の同期生を集めての総会も必ず毎年やっています。これほど結束の固い同期も珍しい。
 松井宣君は日本弁護士会の副会長を務めた優秀な弁護士。有名な美濃部達吉先生に師事して勉強した。美濃部先生は、信念の人。講義ではノートもなんにも持たずに教壇のイスに座り、手を組み合わせて、静かに講義される。朝の授業などではアクビする学生もいる。すると「君、朝からなんですか」とたしなめる。中央大学は苦学生か多くてアルバイトしていた諸君もたくさんいました。講義の内容は「憲法撮要」というご自分の著書と一宇一句、違わない。頭の中に全て入っているんでしょう。大変な方でした。松井君なんかは美濃部先生のお宅で書生をしながら勉強したようで、学生時代は知らなかったんですが、後年親しくなってから、当時の思い出として「特高係の刑事が毎朝やって来て『今日は先生の所は、お変わりありませんね』と言って行く。なんと失敬な…と憤慨したものだよ」と話していました。
 お互いに戦争という極めて厳しくつらい時代を生き抜いてきたという連帯感があるからでしょうか。同期との語らいは青春時代に帰って遠慮もなにもなしですから、本当に楽しいものです。
 ところで、私は卒業後、徴兵猶予期間が切れ、すぐに兵隊検査を受けました。二十二歳でしたが、同年兵としては元八戸市議の尾崎源五郎君がいました。
 検査はもちろん甲種合格。サラリーマン生活がまだ板につかないうちに、昭和十二年一月の入隊を余儀なくされ、会社から暇をもらって、十一年十二月に八戸へ戻りました。希望の司法試験は兵役が終わってからじゃないとダメだということになってしまったわけです。
 入隊の際の身体検査では、八中時代にやった乾性ろく膜炎の既往症で大変でした。「君の胸の写真に影が出ている」と言うのです。午後三時になっても結論が出ない。軍医と中隊長が立ち会いで面接をやられました。
 一緒に付き添っていた兄・熊五郎が「皐二郎、お前はダメだこった」と言うし、必死でした。「私は大学で柔道をやり、講道館四段です」と話したら「ウーン、四段持ってるぐらいなら大丈夫だろう」ということになった。
「胸が痛むし、時々熱も出ます」と言えば、即日、帰れということになったんでしょうが、当時の風潮からいえば 「入隊できなかった」というのでは、とても、みっともなくて…
 そんなわけで、やっと入隊が決まりましたが、翌朝、つまり一月十一日の朝、五連隊の営庭に整列した時は、晴れ上がった冬空に真っ白な雪をいただいた八甲田山が、実に美しく見えて、身の引き締まる思いがしたものでした。
五連隊時代 同期に原参院議員
 私の軍隊生活は昭和十二年一月に二等兵で始まりました。中等学校以上の卒業者には「一年志願の予備士官制度」というのがありまして、一年で召集解除という特典があったんですが、この年から廃止されて試験による幹部候補生に切り替わったんです。
 戦争への道を突き進んでいた時代で将校や下士官が不足していたんでしょう。四月に試験を受けて合格しました。本県からの受験者が少なかったせいでしょうか、東京の第一師団、宇都宮の第一四師団の諸君と一緒に試験を受け、二十六人が青森五連隊で「甲種幹部候補生班」として同じかまのメシを食ったのです。
 この中にはその後、ずっと親友として付き合っている参院議員の原文兵衛君や戦後、東大水産学部に入ってプランクトン研究の第一人者となった新田忠雄君なんかがいたんです。原君は東大出でしたが、ちっとも偉ぶらない人格者で、随分と気が合いました。
 青森五連隊は、十二年十月に第八師団とともに満州に移駐し三江省の勃利(ぼつり)という所に駐屯していました。われわれ幹部候補生は十三年の一月に軍曹から見習士官になると、すぐ予備士官学校に入るために日本へ帰されました。
 日本を東と西に分け、東は千葉にあった陸軍歩兵学校、西は豊橋の下士官教育隊で教育を受けることになり、私たちは千葉に入校しました。第一期生ということになります。一緒に台湾の諸君も入校していて冬は「寒い寒い」と言っていました。私らなんかは「何だ、このぐらいならユカタでもいいんだ」なんて言っていました。四街道を毎日、走っていたんです。     
 七ヵ月間、教育を受け、七月に私と新田君、それに八戸出身の岩間君の三人が、青森五連隊付きとなり、原君たちは満州へ戻りました。
 
少尉任官で下宿探し、浦町の民家に飛び込む
青森五連隊に帰って少尉任官となったんですが、うっかりして下宿も何も決めてない。将校になると、軍支給の軍服は国に返さなくてはならず、連隊の営内居住をやめて、外で下宿することになるんです。
 あわてて、当番の兵隊に荷物を特たせて下宿探し。浦町まで来たら、植え込みがあって、良い感じの家が見つかりいきなり飛び込んだ。「実は本日、五連隊で少尉に任官した秋山というものです。下宿させてください」奥さんが出て来て「お父さんが居ないんで困りました」と言っている所にご主人が帰ってきた。
  「国家の干城(かんじょう・軍人・武人のこと)一人お世話できないとなれば青森市民の恥。お引き受けしましょう」とその場で決まってしまった。柳谷重治さんという方の家でした。
 夜、「両関」という酒を買ってきて杯を酌み交わして話をしたら、なんと柳谷さんは中央大学の先輩。「秋山君、あの聖橋という橋を知っているかね。本郷から、あの橋を渡って神田・駿河台の大学へ通ったが、あの橋は、まことに便利な橋でね」と言う。「どうしてですか」「ウン、オレは、洗たくが苦手でね。ふんどしを紙に包んで、通学の途中、あの橋の上からポーンと投げてやるんだ」奥さんと一緒に、その話を開いて大笑い。
 柳谷さんの実家は三厩村宇鉄の柳谷で、礼文島を開拓してニシン漁をやった家でして、「さすが、その血を引いているだけある」と、すっかり意気投合してしまいました。柳谷さんは、当時、青和銀行の前身の津軽銀行の部長をしておったはずです。みちのく銀行の常務もやりました。現在、青森市で皮膚科医院を開業している柳谷文彦先生が長男で、青森中学に通学していました。
 柳谷さんの所には、十五年五月まで、つまり私が結婚するまで、お世話になりましたが、その後も、ずっと親類以上のお付きあいをしていただいております。