2008年5月1日木曜日

青森市民病院にて 北村道子

感動、感謝、合掌の心を抱き、私は青森市民病院脳外科を退院した。
手術前、友人に「心配だわ」と言ったら、「心配するのは先生なんだ、何も心配することはないの」とのメールに勇気づけられ、そして夫と息子の見守るなかでの手術は迷うことのひとつもない自分に気付いていた。
術後、目のけいれんが一度も起こらなくピタリと治まったから不思議。お見舞いの友人や親類の方からも「あれ、益々美人になったんじゃないの」との言葉に、私は今は真冬なのにチューリップや水仙の咲く春うららの心になっていた。
今から十年くらい前、目の周りがピリピリとなり違和感を覚えたが大事にもならないだろうと放っておいたところだんだんとピリピリ感が強くなり我慢できず病院に行ってみた。先生は「あまり本を読まないでください」と言った。文字の大好きな私には無理なこと。
薬を頂いて服用していたが、症状は思ったように改善されなかった。
スタートはそこからだった。
病院も数えきれないほど至るところへ行った。八戸周辺の病院、治療院、針灸院、カイロ、整骨院、マッサージ、温泉、人が良いと言うところを洩らさずほとんど歩き回った。そればかりか岩手県の病院まで行った。
五、六年の間は午前中に病院、午後はマッサージとかを繰り返す日々に夫も呆れていた。
ある日、三沢米軍基地の友人キャロリンさんの甥、姪でパイロットとスチュワーデスの方が私の家に遊びに来た。「ミチコ、ミチコ」と写真を写すに当り、目がけいれんして、止めようにも止らずにたいへん苦しかったものだった。
友人には貴方と話していれば、こっちまで疲れるよと言われたり、人前で話をするときは目をつむって話しをするようにもなった。
そんな時に若い頃、読んだ本に納得した文があるのを思い出した。
五十歳になる前の顔は母親が作った顔。五十歳を過ぎたら自分が作った顔、すなわち自分に責任を持つこと、だった。
私の生活の中での歪が目に出たのであろう、仕方がないと思っていたその部分が大きかった。
医院も薬も、鍼も灸もマッサージも機械も私の瞳のけいれんには歯が立たなかった。
ある日、十和田市へ行く途中の下田駅付近の町民ホールで、利用者といっしょに「上を向いて歩こう」を手話していたら、私を見たある園長が、「北村さん、目のけいれんたいへんでしょう。○○病院の○○科に行ってみては?」という話に翌日出かけてみた。そこでも診療と投薬でしばらく続けたが効き目がない。別の病院では三ヶ月ごとにボトックス(美容や皮膚の治療のためにボツリヌス菌をもとに開発された薬品)を打っていた。やはり改善は見られず落胆に暮れた。
まあ、二年続けたでしょうか?○○科の先生は、手術をすすめた。不安がない訳ではなかったが先生を信じた。
紹介されたのは、青森市民病院、脳外科だった。
いままで、力いっぱいと言うぐらい病院を歩き、力いっぱい治療院ヘも行き、薬、栄養剤、目に効くと言うものは機械もふくめ、治りたいためにあらゆる方法を模索し試し、一生懸命であったがここまで来て手術に決定した。
紹介状を持ってタクシーで青森市民病院へ向った。
脳外科は二階にあった。看護師さんに呼ばれ、先生の懇切丁寧で仔細な説明を受け、テレビ画面に映しだされた病気のこと、これからの手術を淡々と語って頂いた。
心は決まり、恐怖やどうしようなどの不安感は生じなかった。やるしかない。以前のような目に戻りたいと願った。
 十二月二十五日入院、二十八日手術と決まり、夫、長男夫婦も心配してくれる。
嫁いでいる娘も妊娠九ヶ月の臨月。「無理せず、心配しないこと」と言い含めた。心配は胎児に影響を及ぼしては困ると思ったからであった。
 手術の日、夫と息子が立ち会ってくれた。やはりこんな場面で男達の応援は心強い。
手術室で四時間が過ぎた。全身麻酔のため何もわからぬ空間が経過した。意識が戻ったのはナースステーション側の二人部屋であった。
 「すごいなー、もう一度もピクピクがない」病室に入ってきた夫が私の顔を見て驚いた声をあげた。私はとても嬉しかった。
 友人、親類のお見舞いの皆さんは「よかったね、よかった治ったね」と言ってくれた。そんな言葉に嬉しさはさらに倍増した。
 一月十日、入院中に、八戸市保健推進員の体験発表をする為に外出許可を頂き、病院からタクシーに乗った。帽子を深く被り、眼帯、マスクをした私にドライバーは「どうされたんですか?」と聞いてきた。「脳外科で目のけいれんの手術をしたのです」と説明。「この病院の○○先生は東北でも五人の名医のひとりだそうですよ」と教えてくれた。驚いた、やはりそうだったのだ「正にその通りだった、よかった」と心底感謝をした。
 車道には雪がわんさと積もって、凍てついた道は怖かった。
院内では先生や看護師さん達も一生懸命に働いて頼もしい。入院中の私は楽しかった。
朝の回診はうれしい、五、六人のスタッフさん達が私たちの様子を診てまわる。
その風景はなんと一群のライオン家族のようだと思われるほど壮観だ、そして信頼の二文字そのものであった。
躰も心もだんだん癒えてきたらペンを執りたくなった。
日々のことを短歌に集めた。
周囲の患者さんがお正月でそれぞれ家に帰り、病院がガランとなった折に、下手な歌歌を綴ってみました。あっと言う間の十五日間が終わった。
この思いはわすれがたく、先生や看護師さんに感謝のみでありました。
どうぞ、私のような体験のある方は、青森市民病院、脳外科をお訪ねなさってみてはいかがでしょうか?私と同じ病気を持つ方がおりましたら一日も早くこの辛いけいれんから解放されます事をお勧め致します。
短 歌
・玄関を一歩踏み出す手術前仏壇清掃花供え祈る
・青森の病院訪ねて駅前のタクシーのドアやさしく閉めぬ
・脳外科の外来黒板立ち読みぬ新聞手紙感謝の文面
・先生の温かき説明諭し居る 命にかかわる術ではなしといふ
・鏡見る生かされている冬の朝 けいれん一つなしの倖わせ
・夫と息と嫁さんいらして和み居る真冬の室に花の香流るる
・患者らに眼差しやさしライオンは神の手を持つ人間なりぬ
・メール待つ遠くの友の言の葉はシャワー百倍吾奮い立つ
・病窓のはるか遠くにスキー場なべて輝く青森の冬
・急患か赤色灯の音高く一夜に五台数えて朝に
・命をば命をかけて守り抜く医師の使命は陽より温か
・白衣をばひるがえし術室へ食す時間も寝もおしまずに
・先生の母君も逝くを聞きつつ今の獅子見せたきと想ふ