2008年5月1日木曜日

五戸の農業金沢家から飛び出してみんな元気で長生き兄弟


五戸は坂の町、下りは楽でトットト行ける。上りは辛くてよたよた歩く。そこにぶどう畑があるんだ。そこでぶどうを収穫していたのが、金沢昭三さんの祖父。昭三さんの父は直さん、母がウメさんで十人の子が生まれた。
今はぶどう畑はりんご畑になっている。そこを経営されているのが長男の真さん、次男が昭二、三男が昭三、四男が年男神奈川県厚木在住、五男が文夫、六男は? 名前を忘れたそうで、五戸で土木関係の仕事に従事しているそうだ。たくさん兄弟がいれば一人くらい名前も忘れる。昭三さんは名前のように昭和三年生まれ、八十も過ぎれば、昨日のことさえ忘れるもんだ。
女の方は長女が百石に嫁いだレツ、次女を良子、三女は仙台在住のくに、四女を洋子で中居林にいる。みんな元気で生きている。世の中は生きているのが大事、総勢十一人の兄弟が一同に会したのは親の葬式、それ以来は皆で顔を揃えることもない。大体においてそんなもんだ。親という結びつきがあればこそ、ひとつ屋根の下に集うものだが、傘がなくなった雨降りのようなもので、親が亡くなると兄弟姉妹もなかなか集まりにくいものだ。
この昭三さんは南部バスに勤める。当時は五戸電鉄だ。尻内と五戸を電気鉄道が走っていたんだ。そのころの東北線は蒸気機関車。いかに五戸鉄道が先進していたかが分かろうというもの。この鉄道が開通そうそうに大事故をおこした。
重軽傷者四十余名
あっという間に阿鼻叫喚(あびきょうかん・甚だしい惨状)
警鐘を乱打して救護
昭和五年九月十三日午後六時五分ごろ尻内と五戸間を通ずる五戸電鉄ガソリンカーは同線志戸岸駅構内から東方約五十米の地点で正面衝突した事件は乗客百五十名の内重軽傷者四十余名を出し列車は双方共前方部を破損車中には生臭い血潮がところどころに付着し見るも無残な光景を呈した。十三日は五戸町の三社大祭に上北三戸南郡青訓連合演習があり村落からの見物人その他の乗客約六十名を乗せた五戸発午後五時五十六分の上り第四列車(運転手小笠原清一郎車掌平武雄)はブレーキがきかず七崎駅を発し乗客五十名を乗せた下り第一列車(運転手下村弥八車掌小玉清治)と正面衝突、急報により八戸市八戸病院、種市医院、五戸松尾医院からそれぞれ医師六名看護婦十名が自動車で現場に云々
この五戸電鉄は南部バスと転じ、金沢さんはバスの運転手として活躍。八戸市営バス、南部バス、三八五バスは観光バスを出していた。金沢さんは路線バスの運転もされたが観光バスの運転を得意とした。それも昔のことだからカラオケなんてのはない。バスガールがいたんだ。昨今の観光バスは昔のガールが乗っている。昔のガールは婆ァってんだ。昔のバスガールは容姿端麗(ようしたんれい・すがた形が整っている)だった。このバスガールが美声を聞かせた。発車オーライなんてバスを誘導する。バックする時はバスからとびおり、ホイッスルを吹いて運転手に安全を伝える。今はワンマン運転で、後ろはカメラで見るようになった。昔の方が味わいがあった。今は男の運転手ばかりで面白くもおかしくもない。
 長い道中だと昔は運転手もマイク片手に美声 を聞かせた。金沢昭三さんは渋い歌声を響かせた。フランク永井か金沢昭三かって言われたことは…ない。遠くは四国お遍路巡りまでハンドルを握ったそうだ。
四国巡礼八十八ヶ所、弘法大師空海との出会い、同行二人が有名な言葉。一人で巡礼するんじゃない、弘法大師と共に歩むからきている。昨年十二月に四国一週を筆者がしたが、お遍路が沢山目についた。いまも続けられているんだ。何かを求める人が多いのだろう。
昭三さんが南部バスに入社したのは昭和十八年、初代のヒゲ社長が健在の頃。最初は給仕で入社、バス部門に廻されて運転手になった。鉄道部門は昭和四十三年五月十六日午前十時前に発生した十勝沖地震で壊滅的打撃を受け廃線となった。
昭三さんは五戸の実家を出て八戸に居住しようと決心。そして五戸から八戸に出て活躍している藤田一族、藤要を頼りにした。この藤田一族はタクシー会社を経営していた藤金の親戚で、八戸十八日町で食堂、八戸会館を経営していた。今はその末裔が八十になっても健在で、グランドホテルの裏で八戸会館という貸しホールを経営。水周りの仕事を得意とする。
ここを足がかりとして八戸に居住することになるが、今は奥さんのキクさんと売市におられる。昭三さんは三人のお子に恵まれ、長男は祥光さんで鍼灸院を経営される。次男が昭男さん、長女が。敏子さん。
昭三さん夫婦は長男と同居、長男は幸子さんと結婚され哉行、ひろあきを得る。つまり昭三さんには孫にあたる。今は毎日散歩を欠かさず、規則正しい生活に明け暮れるが、後期老人保健で老人の生活を脅かす時代。安心して老後を楽しめない。どうも日本は老人を粗末にする傾向あり。昔も姥捨て山なんてのもあった。六十になるとお山に行くと決めていたのだ。世の中が貧しく老人をお世話する余裕がなかった。福田政権も同じで弱者切捨て老人不用じゃ、お先真っ暗。戦前、戦後を活躍され、兄弟十人が皆元気という金沢さん一族が安心して暮らせる世の中を築いてもらいたいもの。これからも元気でネ、金沢さん。この人を掲載してくれの読者の連絡を待つ。