2008年5月8日木曜日

郷土八戸の偉人 自由学園創始者 羽仁もと子 2


司会者 それでは羽仁先生のご縁故者の方々もいらっしゃるわけですので、一つそういった方のお話もうかがっていきたいと思います。千葉先生いかがでしょうか。
 千葉富 美濃部さんが一番ゆかりが深いんじゃないんですか。私は実家へ嫁いだという姻せき関係で親類としての羽仁さんということは覚えていますけれども、私が八戸に来ました時はもうすでに羽仁先生は東京でご活躍中でございましたもので、親しく先生とお会いして親類づきあいのようなことがなくて、偉い先生だという観念ばっかり頭の中にあって、これといった思い出がございませんので今日の座談会にお招きいただいたのをご遠慮申し上げようかと思ったんですが、皆様のお話を伺いたくて出席いたしました。
 司会者 つぎにジャーナリストとしての立場から、羽仁先生をどのように考えていらっしゃるかデーリー東北編集局次長の尾崎さんからおうかがいしたいと思いますが、いかがですか。
 尾崎 私も千葉先生ご同様、羽仁先生には直接お会いしたことがありませんが、ただ羽仁もと子先生は八戸のご出身であるということは女学校時代から知るようになりました。そして私も上京して勉強した者ですが、日本の女性で偉いのは、羽仁もと子さんと塩田房子だと聞いて、私の学校が塩田房子先生の出身校でしたので、塩田房子先生に関することはいろいろ聞いたり勉強したりしましたが、郷土の出身者である羽仁先生のことはあまり知らずに今日にいたったことは申しわけないと思っております。今、こちらの資料など拝見して感じたのですが、私の職業がそれでございますから私の動機とやや似た面があったのではないかしらと。皆さんからおほめの言葉がたくさん出るでしょうし、私が一寸違ったことを申し上げますが、若い頃の羽仁先生は非常にバイタリティのあったように私は推測するのでございます。といいますのは私の時代は戦後でございますから、なろうと思えばなんでもなれましたが、その頃の女性の職業は本当に限られた職業しかなかったと思います。学校の先生、お産姿さん、遅くなって交換手というような状態であったろうと思います。従って新聞記者という職業をお選びになるのには、相当の条件、相当のバイタリティのようなものがなければいけなかったろうと思われます。東北の女性はどうしても引っ込み思案ではなかったか、そういうことでは羽仁先生は進取の気性をお待ちの方であったと想像できます。しかも、その中に新しいものがあったのではないか、仮りにあったとしても、普通の人は新聞社にわ ざわざ行って記者になりたいとは云えないし、普通人にはない異質の女性の風格が若い頃からおありであったろうし、それがまた、ずっと先生が事業をなさってきた大きな原動力になったのではないかと思います。八戸の書道家である女鹿左織先生にお話をおききしたことがありますが、その時女鹿先生は話の中に羽仁先生のことをお話になって、偉い女が八戸から生れたものだと。またある方面からこんな話がでました。羽仁もと子先生は若い頃、女鹿先生が男ぶりがよかったからいくらか気があったんじやないか、という話をきいて私はいい話だなあと思いました。男の方でも女の方でも、功名や名を遂げればいいことばかりが歴史の表面にうかびあがり、なかなかユーモアや本当に人間味のあることが底に沈かのか、隠すのか、そういうことがままあるわけですが、羽仁先生の場合も、自由学園や婦人の友社の創立者として立派なことをいろいろなさってますが、そういう反面にエピソードも若干もりこんでいただければ、却って羽仁先生という方の魅力もわかるんじゃないかと思います。これからはそういうふうなことでまとめ上げて、エッセイみたいな収録をお出し下されば、なお八戸人であったなあ、という感じを私達も持つことができるんじやな いかと思います。
 もう一つ、八戸からの教育者が多いわけです。東京の上野学園の園長も八戸出身で東京の教育界で活躍なさった方であるし、羽仁先生同様であるわけですね、なぜ八戸で教育者が多いのか不思議に思って私が自分なりに調べたことがあります。そしたら津軽の方は、米その他がたくさんできるから食えたけれども、南部はそういう穀物も育だない、ひとかどの志を立てても生活に困る、せいぜいやれるのは教育だったから教育者になりたい人がいっぱいいた。その中でも群を抜いたのは羽仁先生だったんじやないかと考えます。
 司会者 確かに教育者としてすばらしい業績を残した方に上野学園の石橋蔵五郎先生もいらっしやるのですが、そういうことについて法師浜さん、これにつないでいただけませんか。
 法師浜 八戸の図書館で館長の諮問を受ける協議会というのがあります。その図書館協議会の委員になっております。先般その会合がございまして、その時、座談会があるがそれに協議会からだれか出席しなければならない。羽仁もと子先生は新聞記者であったから、お前も新聞記者であるからいいじやないかというお話で、結局私が出席することになりました。羽仁先生のお話を知っているから出席したのではありませんで、新聞記者というつながりがありまして出席したわけです。
 ここに書かれております羽仁先生の新聞記者時代というのがあります。これを拝見しますと羽仁先生はどうしても新聞記者になりたいという気持で、最初にやまと新聞にまいられた。その時履歴書を持ってこなければだめだと帰された。それ以来新聞記者になるためには履歴書が必要だというので、ふところにいつも履歴書を入れて歩いていたと書かれています。羽仁先生の弟さんである松岡先生の新聞社は東京日々新聞、現在の毎日新聞社でございます。私は昭和二年にその東京日々新聞に入社いたしました。その最初の頃、八戸にこられたことがあります。それが何年であったか記憶にありませんが、恐らく昭和の初め頃だったと思います。今の東高校の隣に千葉裁縫女学校がありました。その学校に羽仁先生がおいでになった時、私は新聞記者としてインタビューするために羽仁先生を訪問しました。その時、前の園長の千葉くら先生が私を紹介して下さって、初めて先生にお目にかかりました。その時どんな話を伺ったか、新聞にどういうことを書いたか、今となってはその新聞もありませんし、記憶もございませんが、その当時の面かげはいつでも私の頭に残っております。ただ今開かれている体育館の展覧会、図書館の展示会にもありますたくさんのお写真を拝見しまして、私がお目にかかった羽仁先生の面かげば、あの写真の中に「思想しつつ、生活しつつ、祈りつつ」という言葉を書かれた写真がございます。あの写真が私のお目にかかった時のお顔とそっくりだと私は思って拝見してまいりました。
 羽仁 あれは昭和三年頃の写真でございます。
 法師浜 私が新聞記者になった翌年でございます。記憶がございませんのでお話になりませんけれども出席させて頂いたわけでございます。
 羽仁 新聞記者になったということは、明治女学校の「女学雑誌」にお手伝いしたことにはじまる。つまり弟と二人が続いて上京し学校に入る。これ以上家に負担をかけられないから自分で働いて、明治女学校の「女学雑誌」にカナつけの仕事をさせていただくことになった。島崎藤村の原稿はとてもきれいに書かれていてご自身でカナをふってあった。また読めない原稿でいろいろな明治文壇の先生方の字を読んで、それにふりがなをつけるお仕事をさせていただいて、そういうことはずい分ためになったと思います。明治女学校はそういう文士の方々がたくさん教えておられた。当時のジャーナリズムというものは、今日のジャーナリズムのように早いニュースを早く伝えるというよりも、むしろ少し文学的なものといったらよろしいのか、文章をじっくり書くようなものであって、とても今日のジャーナリズムでは母は不器用で到底なれなかったと思います。
 司会者 今、羽仁先生のお話を伺いましたが、やはりあの女学雑誌の校正のようなお仕事をやられたのが直接役立って、校正ならできるという自信もあって校正をやらせられた。もちろん校正ばかりでは満足できなくて、つまり書きたいという気持が強くおありになったんじゃないでしょうか。何かそのことについてご意見ありませんか。
 美濃部 昨日、展覧会を拝見いたしました。主人も一緒でございましたが、主人の感想は、羽仁先生のお書きになったお言葉がいろいろありますね、「それが八戸せんべいのようで、何べんも何べんも読んでいるうちにわかるんだ」と申していました。卒直に云いまして私もまったくその通りだと思いました。独特の文章でいらっしやいますし、読んでいるうちに本当にそのものが浮かび上ってくるような書き方で味わいがあります。
 新聞、雑誌にお書きになる方の中では、独特のスタイルの文章家でいらっしゃるということ、それは八戸で生れたということが前提にあって、ああいう文章がおできになったのだと思います。
 羽仁 ほんとうに筆がおそくて、おそくて
 美濃部 早くわからせたいのではなく、ゆっくりわかってもらいたい。私が教育関係のある仕事をさせていただいておりました時に、その当時、新しい教育問題でしたが、高等学校の女の子に、家庭科の勉強があまりいらないんだというような傾向が出てきたことがございました。家庭科の先生方にそういう、いろいろな悩みがございました。その家庭科を青森県ではどうしたらよいか、という話がでました時に、こういう言葉にゆきあたったのです。「家事というものは、決して私事と思ってはいけない。その時代のこうあってほしい、またあるべきだと思うものを目ざして、それを実践しなければならないんだ」というような羽仁先生の言葉を拝見しまして、本当にそうなんだと私もその時に確信をもとうと思いました。家庭科は、生活していく上に切り離せないものだと思い、先生のお言葉を強調させていただきました。
 その時に心の中で思ったことは、この言葉は、先生が皆さんにお話しかけになったに違いない。先生は、何ておっしゃったんだろう。私は八戸生れの八戸育ちでございますが、羽仁先生も八戸弁で「かずというものは決すてわたくすごとではありません」とおっしゃったんではないか、そうおっしゃるようなお方でございました。と申しますのは、私が昭和九、十、十一年頃に目白に住んでいまして、夏休みを終えてもどる時に母が、「おもと先生へおせんべいと菊をお届けしたいから持っていってくれ」と申します。伺いましても、なかなかお忙しいのでお目にかかることもなかったんですが、いつかたった一度お目にかかりました。その時「ああ、きぐか、きぐか」とおっしやいました。八戸では菊のことをきぐと申しますが、その時本当に喜んで下さいました。若い方々に家庭生活のあり方についてお話する機会があると、私は羽仁もと子先生の言葉を書きまして、「家事は私事ではありません」というと皆が笑いますが、こういう発音で伝えるのが羽仁先生の本当のお気持ではないかというように考えています。それから昨日の展覧会で独特の文体、独特の文章を見て感じとった方々も多いのではないでしょうか。
 稲葉 今のお話で、昭和十一年頃、東京で青森県の会合がありまして、その時に私は「しかじか、かような者でございます」「ああ稲葉さんですか。かあさんとそっくりだ」とおっしゃいました。私の母は羽仁もと子先生より三才位おそく生れてるはずです。おやじのこともご存じで、先生からお言葉をいただいて光栄至極に存じたものでした。
 そこで、その八戸弁ですが、草野心平さんの四年ほど前のものですが、ここに持ってきているので読んでみます。「目で思い出したが、自由学園の創始者だった羽仁もと子さんは、まぶたの間に線だけを引いたようなぼてっとした目だ。背は低くでっぶりとして、話す言葉は青森弁丸出し、どうひき目にみても顔の造作はひどかった。にもかかわらず、美しい顔だなあというのが偽らない実感だった。私は一度しか会ったことはないが、その美しさはまだ記憶にあざやかである。