ものがたり東北線史で一番伝えたかった事を記して、この稿を終わりにする。東北線の列車の図、弁当屋の初めは宇都宮の某だなどの興味ある事柄も記載されているので、研究するひとは八戸図書館郷土資料室をのぞかれるといい。
尻内でストライキ(同盟罷工)
首謀者は石田六次郎
東奥日報
明治三十一年三月三日
●鉄道機関方の同盟罷工(汽車の運転休止) 去二五日以来宇都宮以北青森迄の鉄道線路各駅中機関方の同盟罷工を企てたる箇所ありて之が為に機関の運転に支障を生じ或いは列車途中において運行を停止し或いは全く列車を発する能はざる等公衆の不便を与うること抄からざる。
が今其の原因を探知するに夫月中の事なりとか青森尻内両駅の機関方が主諜者となりて一篇の檄を各駅の機関方に飛ばしたりその檄の趣旨とする所は会社にては駅長をば書記の待遇となし昨今の如き二回ほど増給の恩典ありたるにも拘はらず機関方に対する待遇は甚だ冷淡にして其給料の如きも日給のみならず之も駅長の給料に比すれば比較的低薄にして昨年の如きも単に一円の増給ありたるに過ぎず機関方は列車の運転上必要欠くべからざるものにして鉄道事業に取りては甚だ枢要の地位たり然るに会社の冷遇比の如しとせば是れ我々の大に覚悟せざるべからざる事なり且つ彼の二七・八年役の際の如きも行賞は単に駅長助役に止まりて我々機関方に及ばざりしか如き我々の常に遺憾とする所なれば比際断然たる処置に出てんとの事にてありし由なるが然るに或る機関方の内之を密告するものありて其檄文一通が日本鉄道会社の手に入りたれ鉄道は捨て置くべきにあらずとなし発檄の主諜者と認むべき青森尻内両駅の機関方二名を免職したり元来日本鉄道会社の機関方に比の如き不平あるは今日に始れるにあらず前にも述べし如く二七・八年役の際行賞の機関方に及ばざりしが如きも不平を醸すに至れる導火線にして其後往々不穏の事為せりにあらざりしも未だ公然社会に暴露する程の大袈裟なる事なかりしものの左れば今日青森及尻内両駅の機関方が免職厄運に遭ひんと聞くや各駅の機関方は何条黙すべき窃に各駅の電線を利用して謀し合はせ機会を見て同盟罷工を為さんにて目下は青森駅に在勤し居るものの由にて当時同人の父は遠方に行きて家にあらず母は病床にありて危篤なりと云えば同家の不幸聞くも憐れの極みなれ因に記す同人は職務に斃てたるものなれば其の死体は鉄道会社に於て処分すべき筈にて直ちに当駅より社員を派せしに原籍地に於て引取ることになりたる由にて社員は直ちに引返し来れりと云ふ。
三月一〇日
●機関方の申分立つ
罷業機関方の委員二三名は先日来日本鉄道会社前の旅館山城屋を事務所として会社に向って○強に談判を試み居りしが去る五日の夜に至り会社は遂に彼等に対して一歩を譲り左の条々に約して一先づ本件を落着せしめたり
一、爾来機関方並に同心得の待遇は一切三 等社員即書記駅長等と同格ならしむべき事
二、機関方火夫機関車掃除夫などいふ名称 を廃し更に佳名を這ひて之に代ふ事
三、給料を増額すべき事
四、池田元八、石田六三郎(六次郎)を除く外は一旦免職したるものを復職せしむべき事
是にて機関方の申分殆んど全く相立ちたるにつき委員等は内々に祝宴を開き去七日午前各々其所属の駅に引取りたり池田、石田はストライキの主謀者として甘んじて退身を承知し機関方一同に代り身を犠牲に供したるものなれば機関方等は申合せて応分の拠金を為し之を両人に送りて感謝の意を表すの計画たりといふ斯く機関方の主張する所尽く通りたる上は愈に重投節に其責任ありて同社の大株主某々等は重役一同に向ひ辞職を勤めたりと伝ふる者もあり。
日鉄(日本鉄道)機関方の大同盟罷工(スト) 日鉄橋開方のストは労働運動史上最初の大争議として知られるが、いわゆるストライキというものは以前にもあった。
二五年十一月二十日、熊谷駅に下り終列車が到着したとき、同駅員が時限ストをやっていたため、1時間あまり停車したままだったという。駅員がどのような要求をしたのかは不明であるが、日本鉄道の従業員がストを行なった最初とされている。
三十年七月五日、盛岡建築課の職工百二十名が賃上げ要求をして容れられなかったためストに入り、三年間復業しないことを決め、五円ずつの資金を集め、別箇に建築会社を作って生計を立てるという強いものであった。日本鉄道ではやむなく東京から二百名の職工を送ることにしたという。(社会雑誌第4号)
三一年二月初旬、会社の機関方ひとりひとりに封書が届いた。手紙の内容は、「我党待遇期成大同盟会」と題した秘密文書であった。
「謹而再拝血涙を呑んで諸君に檄す諸君も必ず同感なりと確信す……」機関方が日頃軽視されている。深谷事件(当時あった運転事故)などでわかるように、機関士はすぐ刑法上の罪人になってしまうが、駅長や車掌は関係がない。
従って機関方の責任も義務も重大であることは明瞭である。「然るに会社の我等機関士に対する頗る冷遇なり。何ぞ不道理の甚しきや……而して運輸の一方なる駅長を見よ。助役を見よ。非常の厚遇なり…而して会社はここに見るなく益々我等を冷遇す。諸君近来の出来事を見られよ、保線課一同は甲乙の区別なく一人不残増給せり。又運輸の一方を見られよ。…上給者多々有之実に目醒しき盛事なり。実に一驚を喫せり。而して我等辺には微風だになし。以下略
我党待遇期成大同盟会の本部はどこにあるのか、文書を流した者は誰なのかわからなかったが、ただ心の中の同盟という点で機関方は結ばれた。各機関庫にはそれぞれ指導的な立場に立つ者が出て、同盟会の支部を結成したり、ひそかに話し合い、連絡をとりあうことになった。
このような動きはすぐ会社側で察知し、首謀者探しに躍起となった。汽車課長松田周次が東北地方に急行し、調べた結果、尻内の石田六次郎、青森の池田元八を主謀者と認め停職処分にした。会社側は首謀者を解雇することで騒ぎは収まると考えたようであったが、逆に緊迫の度は高まっていった。次に各機関庫の指導者を解雇するという内報があり、仙台などでは、もし解雇者が出た場合は全員辞職することを申し合わせるなど、各地の動きがあわただしいものになった。二月二三日、会社側の手配で、上野、宇都宮などの機関庫から数名の機関方が派遣されてきた。解雇者の補充のためであった。同日前の二名を含め、青森二名、尻内三名、一ノ関五名計十名の解雇が発令された。 二四日このことが東北本線各機関庫に伝わり、異様な空気に包まれた。
この時点までは少くとも一ノ関以北ではスト行動に移る気配はなかったようである。 二四日の深更、正確に言えば二五日の一時すぎに意外にも福島駅で機関方のストが開始された。以後一両日中に連鎖反応的に東北本線各機関庫にストが 拡がるがストの中心的な役割を演じたのは福島機関庫であった。各機関がそれぞれ電報や会社の電信を使って互に連絡をとりながら、単独にストを行なっている。会社の電信を使うときはすべて略号を使っているところからみて、かなり準備された斗争であることがわかる。
二四日十五時上野発青森行の列車が予定より五十五分もおくれて福島駅に到着した。
時計はちょうど一時五分であった。待ちかねた旅客が列車に乗りこみ発車をまっていたが、なかなか発車しそうな気配がなかった。実はそのとき機関車乗務員が姿を消していることがわかって駅では大騒ぎしていたのである。駅では三名の機関方を連れてきて乗り込ませようとしたが、突然六十余名の機関方があらわれて三名を連れ出してしまった。駅では警察に通報するやら旅客におこられるやらで気をもんでいたが、朝方の四時すぎに仙台から上り列車が入ってきたので、小田福島駅長はこの乗務員を折返し使おうとした。だが酒を飲んで景気をつけたおおぜいの機関方が線路に立って運転を妨害したので、抜剣した三十名 の警官が入り込み、なんとか発車させた。福島駅附近には緊迫した情勢が続いた。いっぽう、ようやく発車した列車も途中故障があったりして仙台に着いたのは七時間もおくれた十一時ごろであった。
二十五日の朝、福島での騒ぎが仙台機関庫にも伝えられ、機関方は仙台市内数か所に分散して姿を消してしまった。この日の午後仙台を発車する上下各一本の旅客列車(一ノ関行、黒磯行)は運休となった。警官、憲兵が多数仙台駅につめかけ、機関方を説得したり、行方を深したり大騒ぎとなった。
二十四日の夜、宇都宮の機関方と火夫五十余名は市内の中村屋というところに秘密に集合し、結束を固めたが、二十五日、会社側では就業しない者は解雇し、宿舎を即時退居させると言い渡し、とにかくその日の二十二時以降乗務させることに話し合いがついた。しかし情勢は更に変わっていった。
五名の解雇者を出した一ノ関機関庫では、二十五日夜、町内の清風亭で解雇者の送別会を関いた。 五十余名の機関庫員が集まったが、席上に仙台機関庫から「キトクミナヤメタ」という電報がとどいた。仙台機関庫全員乗務をやめたという意味である。送別会はたちまち決起大会となり、他の機関方を集めたり、各地の情報を聞いたりした。まもなく「シリアオミナヤメタ」という電報が入り、全員欠勤を決定し、「ウナキカンコミナヤメタ」と各機関庫に発信した。
二十六日の朝までに宇都宮以北の機関庫はいっせいにストに入ったのである。
二十五日朝、日本鉄道本社ではストの中心は福島にあると判断し、運輸課長足立太郎を福島に派遣した。松田汽車課長にとらせた強圧策が失敗したため、小野義真社長の意を受けて機関方と紛争の仲裁をするという名目であった。
二十五日夕刻福島に到着すると、すぐに市内陣場の同盟倶楽部を訪れ、懸命に説得した。深夜になって仲裁に応じ、二十六日から就業することになった。
二十六日朝、足立課長は仙台に来ると、とにかくストを解くように説得した。機関方は名掛丁の山本宅(下宿屋)に集まり協議した結果これを受けることとした。仙台の指導者は黒岩長太郎、井上重太郎、浜田安富等で、二十五日仙台警察署に拘引されていたが二十六日釈放されたばかりであった。
福島も仙台も仲裁に応じたことを関いた一ノ関では、仙台の足立課長に「キカチウサイスルトアルガジジツカ」と電信を発した。すぐ「ソオイナシ」と返電があり、立田一ノ関駅長の仲立ちで、足立課長が一ノ関にも来るようになった.やがて、盛岡、青森、黒磯などの各機関庫も仲裁に応じ、それぞれ交渉委員を選出して、本社に派遣することとなり、このことを電報で連絡した。二十七日朝になっても仲裁に応じない機関庫は尻内だけであった。尻内から各機関庫にあてて次の電報が発信された。「サンケン(要求事項3件)トフクショクカクテイセヌウチノ、ウンテンスルナシヤホウデン(会社側の電報)アテニセヌ」
最後までストを解かなかった尻内であったが、同日中に応ずることを決定した。