2008年5月22日木曜日

源のよしつねさまのこと 2


さても、よしつねさまは高舘から柏崎小学校のそばの類家の藤が森稲荷にちょくちょく参拝にこられやした。
時には本格的に願いをかけられたこともありあんした。そたらだ時は、よしつねさまが神さま事をなさいましてな、この神さまごとには色々と手はずが必要になりやんす。
そうせばなすー、晩げ遅くになりやんす、そうせば、類家から高舘まで戻るわけにはいがなぐなりやんして、たびたび類家のお稲荷さまにおこもりになるわけでなす。
そのときは稲守り小屋のような小さなものを茅でおつくりになられて、そのなかにお休みになったそうでなす、その小さな小屋がまるで家のようなものだ。
そこに家来の人達が出入りする、家の類(たぐい)だなとおっしゃられたことから、類家の者と呼ばれたそうでやんす。それが類家のことばの元だ そうだ。
まだ、ご装束の烏帽子を置くにも、小屋はちっさくて、置き場がねえ、だで、杭を立てて烏帽子置き場にされあんしてな、そこを烏帽子屋敷だとおっしゃられた。それが、ぼっし屋敷とかぼっち屋敷とか言われるようになり、帽子屋敷となったわけでやんす。
前にも言いやんしたが、お供の板橋の長治さま、この人が住んでおりやんしたのが、板橋村になったんでやんす、ほれ、糠塚の板橋、長者のお山の南側一帯のことを指しましょうや。この長者山は板橋の長治の山、ちょうじのやまが、長者の山と言われるようになったわけでごぜりゃんす。
いや。まったく本当で、嘘のまじりっけはすこしもありぁんせん。
この板橋長治さまは、奥州平泉の秀衡さまの三男の泉三郎忠衡の母方の叔父にあたりましてな、大変信頼を得ておりまして、金百両を預かっておりましたと。
この泉三郎さまはご長男を久慈に残し蝦夷に渡ったど。
よしつねさま同様にこのかたも苦労をなさいましたとも。