2008年5月25日日曜日

美術館を考える

多誤 策
奇抜さだけの十和田市現代美術館
平成廿年四月廿六日鳴り物入りで開館した十和田市現代美術館を五月のはじめに訪ねてみた。新しい館のこけら落としだ。
新しく建てられた十和田市立現代美術館は十和田市の官庁街通りの一角、場所としては街の雑踏を避けて閑静なところなので申し分なかろう。ここの通りは以前から垢抜けしていて好もしいと思ってた場所である。駐車場は館の裏側に十台程度で、あとは広い道路の向こうにある。高齢者にはちょっと大変だ。半数は車椅子マークで健常者用は二台ほどである。(後期高齢者は来るな!か)此処でも私の臍は曲った。
建物は全体が純白で清楚感があり雪のイメージなのか?「どこかで観たゾー」金沢市の二十一世紀美術館だったかな。ああ、青森県立美術館のこけら落しに行ったときもそうだった。真っ白の部屋や通路であったが髪の毛と衣服の綿ぼこりが隅にワンさかと積もっていて気持ち悪かったのを思い出していた。十和田市現代美術館では裏口から入った。真っ白で長く、せまい湾曲した誘導路を進むと正面の入り口につながっていた。
常設展500円と企画展400円、計900円
五人分、四千五〇〇円の大枚を払い入館した。
券売機の仕組が複雑で受付の女性が懸命に説明するが難解だ。しかも一枚毎の券のデザインが異なり、また混乱する。サイズが小さく貧弱「企画展にも提示を求められるので無くしないように」と言われたが簡単なクリップなどの一考を要するものだ。
次は会場に進もうとしても入場者が無く、順路がわからない。表示が小さく迷い道に踏みこんだ感じだ。分からぬものも戸惑いも芸術と押しつけられてはたまったものではない。
白い通路と白い展示室の隅という隅に綿ボコリである。対策としては徹底した清掃しか方法は無いのであろうが、残念なことに県立の美術館とおなじ轍(てつ=同じあやまち)を踏んだようだ。
有名と言われる歴代の制作家、芸術家であっても一般人にとってはなじみの薄いものばかりで、関心を持って頂かなくては只の一回こっきりで二度と行って観ようとは思わないであろう。
やはり此処もねぶた感覚で大型、びっくりさせるだけの思考であったか。
各部屋の展示を観て。
常設展の作品は二十点あまりだが開設シートの記載説明では不充分である。「世界で活躍していて有名な芸術家だから不満は言わずに黙って観賞せよ」とは、時代劇の水戸黄門の印籠と同じではないか?
私が知るところでは地元や近郊の美術家、芸術家も数多くおられるがその作品が一点もなく、これは一体どうしたことか?若い地元の芸術家の励みになろうかと思うがもっと購入し展示して頂きたい。名が売れ作品も売れたら高価買取してやろうとの態度が私は気に入らない。
また、現代美術作品と近代美術作品との線引きはどのようにして決めているのか知りたいところだ。一般の絵画作品はもう、古代の遺物的考えまで飛躍してもいいのだろうか。
先端の電子技術を駆使しても場合によってはアートからは、ほど遠い科学技術でしかない。
キム・チャンギョムのメモリー・インザ・ミラーの映像表現にはちょっと興味を惹かれたが小さなレベルでの音声か文字で簡単な説明の挿入が欲しかった。人生の時間の経過の表現と観たが頭の回転のよろしくない私には難解であった。
どうも、すべてをどう解釈しても勝手が芸術とはメッセージのなんたるか?というところまで考えなくてはならないものか。
巨大で不気味なお婆さんの像。お腹がたっぷりと出て髪の毛までもリアルさが売り物だとか。
「おお、メタボリック・グランマー」と私は声をあげて見上げたがそばに寄ったら今にも蹴飛ばされそうな恐怖感がたまらぬ。この婆さんの無愛想で不機嫌そうな表情から推察すると、日頃の不満が多く頭の天辺にストレスによる円形脱毛症があるのではないか?と思わずニヤリとしたものだ。髪の毛の繊細さを確めるだけではなく、そんな想像を馳せ周囲を螺旋階段などにして上から観れるようにしてはどうだろうか? 作者はロン・ミュエクとあり、この作家は大理石の彫刻が得意であるが、いったい、この巨大なヒステリー婆さんの素材はなんだろうか。そんな説明がほしい。「食べ過ぎたら、こうなりまっせ!」のタイトルはいいと思うがそこまでふざけることはシャッチョコ立ちしても出来まい。
大きな都市の有名美術館に入ると何がしかの企画展も併設されていることが多い。時として外れの悔しい思いも数知れない体験しているのだがここも残念ながらそのひとつに入ってしまった。
オノ・ヨーコ の作品なるものを初めて目にしてやはり天才のものは凡才の爺では飲み込んでも消化不良であった。数多くの丼鉢に水を入れて並べても有り難がって観る。私と同年くらいの男性は「教養に触れるのは銭が掛かるもんですなー」とため息まじりであった。他には「これぁサギですなー」大きな声を張り上げていたジェントルマンがいた。周囲を見ても鳥らしき姿はなかった。ジョン・レノンの名にかりた名声と言いたかったのだろう。私もあまりにも難解で何回?観てもわからぬことと諦めたものだ。現代アートでしかも思いっきりの前衛芸術とあって、これはどこかの新興宗教に似てなくもないと変な納得の仕方でデロ(出口)に向かった。
人口の多い大都会では可能でも地方では成り立たないのが芸術の部門と私は理解している。
「莫大な費用をかければ芸術は可能」と国家も地方自治体も勘違いされて走り出されては国民、市民はとんでもない迷惑を被るのである。