2009年2月18日水曜日

公民館の底力 市川公民館30周年記念誌発行


学の市川、行動力の小中野と呼ばれるほど、公民館には館長の動きで特性が現れる。この市川公民館長を長く務めたのが木村隆一氏、教員から館長へとすすまれ70歳をむかえて館長職をしりぞいたが、この人が無類の人間好き。
 吉田松陰というのがいて、これは若死にするが、長州の旗頭、これが塾を開いて後進を指導したが、その人間の良いところを見つけて誉め倒す。これに力を得て実力以上のものを示す。それがいつしか実力に代り仲間から重く用いられる。こうしたことが松蔭の人物評の良さだ。
 これを前木村館長は実践した。そのため、この人の周りに人々が寄った。それで木村氏も実力以上のことを成せた。それが轟木生活館の新築だ。この木村氏が建築資金を集めたとき、木村さんに来られりゃ出さなければなるまいと多額の寄付も賜った。それは皆が木村氏の地域に対する努力を知って、そして認めた結果だった。
 そして、市川公民館も三十周年を迎え、またまた、木村氏が力を発揮。それが「市川とともに」の発行だ。どのページを開けても、市川の今が凝縮されている。このカラーをふんだんに駆使したページに父母、祖父母、子、孫の写真があるある。現代は映像の時代、これは手にした瞬間に頼りなくなる。しかし、印刷物は質感、重量感があり、確かにある、確実にあったの訴求力が横溢する。ここにこそ印刷物の良さがある。三菱製紙も協力しいい記念誌が出来たものだと喜びを共にする。
 地域はそこに住む人のもの、しかし、そこに住まずとも、こうした記念誌を通じて、ああ、この時代にはこうした人々がいて、支えたのだなと知る喜びを持つ者が出る。それは三十年後の八戸市民なのだ。それが市川居住の地域住民にとっては過去の遺産でもあり、時代を共有できなかったが、その時代を見事に切り取った額縁、つまり、それが記念誌を手にすることなのだ。
 市川に轟木小学校あり、その初代校長は江戸幕府瓦解のとき会津の城で砲兵隊長を務めた藤沢茂助だった。会津藩の藩校、日新館はあまたの英才を生み、その流れを轟木小学校は受け継いだ。だからこそ、市川は学の市川と呼ばれる基となるのサ。