月日は百代の過客にして、行かふ年も又旅人也。舟の上に生涯をうかべ、馬の口とらえて老をむかふる物は、日々旅にして旅を栖とす。古人も多く旅に死せるあり。
かって会津藩あり、今は滅びて跡形もなし、されど会津侍魂、絶えることなく今に伝う。
八戸市市川に轟木小学校、初代校長を藤沢茂助という、会津藩士、北遷、斗南藩に命運を賭し、北の大地に足を踏み込む。広沢安任、佐川官兵衛らと共に天保二年の生まれ。
時間軸少しく傾けば藤沢一族は八戸の地を踏むこともなし。苛酷、非情な時の流れ、芭蕉のみならず藤沢一族も人生の旅、果ては青森県で地の塩となる。
【地の塩】 (新約聖書マタイ伝第5章・ 塩がすぐれた特性をもつところから、転じて広く社会の腐敗を防ぐのに役立つ者をたとえていうが、筆者は栄達を望まず我を捨て、その地で人を育てる役割を担った優れし者の意味で使う)
生を授かり父母に育まれ友と共に過ごす日々の中で何かを感じ、己の行く道を捜し求める。ゴッホの友、ゴーギャンは我、いずこより来たりていずこへ行く者、と、生死を見据えた。人は考える葦の言葉もある。置かれた場所、そして時代の中での呻吟(しんぎん・うめくこと。苦しみうなること)は自分のみ、己のみに課されたもの。その重みを骨をきしませ、肉を裂きながらも必死に受容。その受け止め方にこそ、その者の特性が隠しても現れ出る。
藤沢一族の名は吾妻鏡に見てとれる。日本三御前は静、巴、板額、美形で弓の剛の者と賛たる板額(はんがく・越後の豪族、城太郎資国・じょう・たろうすけくにの娘、建仁元年(1201年)甥の城資盛・じょう・すけもりが鎌倉幕府軍と戦った際、強弓をもって百発百中と奮戦、遂に捕虜。落城後、鎌倉に送至、鎌倉幕府の将軍源頼家の面前に引きずり出さるも、臆する事なし。甲斐源氏浅利義遠の懇望に妻となり甲斐の国豊富村に移り後半生を過ごす)の四番手の捕らえ方と記されてある。藤沢一族、元は桜の名所信州高遠詰め、主家は保科、藤沢邑を代々所領とす。主家の会津配置換えで移転。
頃は幕末、天保十一年、茂助九才の折、アヘン戦争勃発(1840~42年、清朝の阿片禁輸措置からアヘン製造輸出国イギリスとの間に起った戦争。清国敗北し、列強との不平等条約締結、香港の割譲、広東(カントン)廈門(アモイ)福州・寧波(ニンポー)上海の開港、賠償金の支払いなどを約し、中国の半植民地化の起点となる)、をオランダ船が伝える。幕府は国防策を講じ、茂助は父とともに弘化四年(1847)安房富津竹ヶ岡に赴き海防、茂助十七歳、後、品川お台場に父子共に転ず。時は嘉永六年(1853)、米東インド艦隊司令長官ペリー浦賀に来航、茂助二十二歳。
品川金杉陣屋詰めとなり、お台場二番砲台警備。宿舎は芝新銭座中屋敷、芝柴井町浜御殿隣。芝と三田は目と鼻、柴井町、宇田川、神明、浜松町を抜け金杉橋を渡り金杉通りから本芝、隣が芝田町、そこに悪名高い薩摩藩蔵屋敷。 茂助は芝新銭座居住時に伊豆韮山(にらやま)代官江川太郎左衛門の砲術塾に通い、大鳥圭介(おおとりけいすけ・播磨出身。蘭学・兵学を学び、幕府に用いられ、歩兵奉行。戊辰戦争では榎本武揚らと箱館五稜郭に拠ったが敗れて帰順)と机を並べる。江川は世襲の代官、品川お台場に設置する大砲を韮山に反射炉(金属の製錬・溶解炉。燃焼室と加熱室は別、炎は炉頂に沿って流れ、天井と側壁の放射熱で鉱石や金属を製錬または溶融。製錬の場合は大量生産に適し、溶融では成分を余り変えない)を設け製造。当時反射炉は最高機密、付近の警戒は厳重を極めた。
江川は砲術を反射炉を日本近代砲術の祖、高島秋帆(しゅうはん・幕末の兵学者。長崎の町年寄兼鉄砲方、蘭学・兵学を修め、オランダ人につき火技・砲術を研究)から学び、国家存亡の折り開塾し西洋式砲術の扱い方を伝授。
茂助が会津藩の最初の洋式砲術修得者。発射における火薬量、砲弾の飛距離計算等、和算ではできない計算式が必要、藩の蘭学専修行生に指名さる。
万延元年、父逝去、これを期に江川塾を辞去。茂助二十九歳、文久元年(1861)西洋大砲師範を拝命し、武州川口の鋳物職人に図面を提示、大砲とカノン砲(四十五度にし遠距離を狙う)を製造させ、発射確認、この功績で茂助は銀子一枚拝領。
元冶元年(1864)七月十九日、長州藩、蛤御門を守る会津藩兵と激戦。門内に押し入るも首謀者来島又兵衛は戦死。山崎方面より御所を目指す真木、久坂ら五百の手勢は福井、桑名藩兵と激戦、ここに蛤御門を鎮圧したる会津藩兵が援軍となり、茂助、山本覚馬、中沢帯刀の射撃の腕は冴えたちまちに長州藩兵を殲滅(せんめつ・皆殺しにして滅ぼすこと)、この勲功にて茂助大砲方頭取に抜擢。
慶応四年(1868)、一月三日、江戸、薩摩藩邸焼き討ちの報が大阪城の徳川慶喜のもとに届くや、京都襲撃を決意、指揮下の会津、桑名藩一万五千を率い、薩長土芸の五千の兵と鳥羽伏見で激突、幕府軍の作戦の乱れと政府軍の外国製最新兵器の前に敗退、慶喜はそのまま兵を見殺しにし、船で江戸へ逃げ去る。が、この時の会津藩士佐川官兵衛の戦い振りは世人をして鬼官兵衛と呼ばしめた。佐川は一刀流溝口派の剣客、弓馬刀槍の内二つ以上免許皆伝の者ばかりを集めた別選組の隊長、薩摩兵らの市街戦に遅れをとり、伏見街道にて獅子奮迅の戦い、銃撃に刀、槍で応戦するも右目を負傷、佐川会津に戻るは三月十二日。
過ぐる二月、江戸城無血開城、幕府残党は新撰組、彰義隊、大鳥圭介の伝習隊、福田八郎の撤兵隊が散発的抵抗、いずれも敗軍の兵、全てが会津に流れ込む。
会津藩、三月軍制を改め、年齢別に白虎(十六~七)、朱雀(十八~三十五)、青龍(三十六~四十九)、玄武(五十以上)の四隊に大別、身分により士中、寄合、足軽に小別。このほか砲兵隊、郷士の「正奇隊」、農、商人による「敢死隊」、大鳥圭介、古屋、市川らの手勢をいれて総勢五千三百。
日光口総督 大鳥圭介、後に山川大蔵
越後口総督 一ノ瀬要人 砲兵、青龍、朱雀隊よりなる
白河口総督 西郷頼母、後に内藤介右衛門 玄武、青龍、朱雀よりなる。
四月十九日、佐川は朱雀士中四番隊中隊頭として越後水原戦線に出陣。長岡藩を説得し奥羽列藩同盟にひきこむ。
五月一日政府軍白河城を攻略、
七月二十七日三春城降伏、二本松城攻略さる。
佐川官兵衛、長岡藩、桑名藩と共に長岡攻防戦に参加、軍事奉行頭取として指揮、会津藩主から急使、八月九日鶴ヵ城に戻る。
八月十九日、日光口守備の大鳥は保成峠から二本松奪回せんと石筳到着、二十一日保成峠は攻め滅ぼされ猪苗代城落ちる。
八月二十二日、白虎士中二番隊日向内記指揮下、戸ノ口原に応援出陣、この中に藤沢の親類藤沢啓次も。二十三日、払暁開戦するも追われ戸ノ口堰の洞門をくぐり飯盛山に逃がる。火の手の上がる城下、砲撃さる鶴ヶ城を見て二十名の少年は自刃、一人飯沼貞吉蘇生。政府軍滝沢峠に迫る。
二十五日、城外柳橋にて娘子(ろうし)軍の奮戦。
白河、日光口、越後方面、形勢我に利あらずと知り、中野平内、妻こう子(四十四)、長女竹子(二十二)、次女優子(十六)、依田まき子(三十五))、岡村さき子(三十)、水島菊子(十八)らは早鐘を聞き城下に敵の侵入と会津坂下(ばんげ)に落ちたと言う照姫を守護せんと走るも、姫君に会えず付近の軍事方に従軍を願うも婦女子を働かせば末代まで会津は嘲笑の的と言うを、既に黒髪を断ち、白鉢巻、義経袴に一刀を帯び薙刀を小脇に一歩も退かぬ覚悟、古屋作左衛門指揮下にて城下西端柳橋にて午前九時激戦、政府軍は女と見て「生け捕れ」と命ずるも、娘たち「生け捕られて恥辱を受けるな」と互いに呼応し斬りまくるが竹子、額に弾丸を受け倒る。妹優子、これを見て薙刀を水車のごとくに振り回すも、敵兵に遮られ近づくことあたわず。更なる気をみなぎらせ敵兵の真っ只中に飛び込み姉に近づき介錯、首級を引っ提げ囲みを破る獅子奮迅の乙女の働きに皆讃嘆。山本覚馬の妹、八重子は兄につき砲術体得せしより男子に混じり政府軍に砲火を見舞う。
鶴ヵ城東方千五百米に小田山、ここから政府軍は大砲連発、砲弾常に頭上に落下、爆声交錯し低空をゆるがし、爆煙四辺を閉ざす、藤沢家と共に信州高遠より従属せし家老職弱冠二十三歳、山川大蔵は慶応二年西欧視察、日光口、大鳥の副総督として手馴れた戦を展開。戦闘で城外にいた山川は敵兵厳しく鶴ヶ城に入るため一計、農民の踊り、彼岸獅子を先頭に立て、まんまと入城、山川の妻とせ子は宝蔵院流槍術の名手、照姫を守護するも城中に弾丸炸裂し死亡。
八月二十九日、佐川官兵衛決死隊を編成し藩主に願う、皆は盃を賜い佐川官兵衛は正宗の佩刀を、一番砲兵隊、別撰隊、衝鋒隊、順風隊、別楯隊、遊撃隊、およそ千名。長命寺裏の戦いは銃器乏しく戦況悪しく敗退。城へは戻らず各地で転戦。九月に入り、政府軍の攻撃すさまじく、一昼夜に二千七百の弾丸が城に打ち込まれる
九月十四日、政府軍総攻撃するも城は耐えるが、十五日、越後口総督・一瀬要人が戦死、日々死傷者相次ぎ、食料も逼迫。敗色は明らか、家老・梶原平馬、山川大蔵は、降参決断、手代木、秋月を派遣、止戦工作。土佐藩参謀・板垣退助、降参手続きを進めた。
九月二十二日、午前十時、昨夜より婦人らの手になる包帯の残りの白布を縫い合わせ三枚の白旗作成、長さ三尺幅二尺、一間半の竹竿に結び、一本は正門前石橋西端、一本は黒鉄御門藩主座所前、残りの一本は裏門に立て降参。正午、薩長軍軍監・中村半次郎、軍曹・山県小太郎、使番・唯九十九が式場到着、秋月、白旗を手に中村らを迎え、続き藩主松平容保、喜徳の二公礼服に小刀、大刀は袋に入れ侍臣に持たせ、降伏謝罪書を中村半次郎に。藩主この後、重臣、将校たちに決別の意を表し、城中の空井戸(死者をここに投げ込む)と二の丸墓地に花を捧げ礼拝、将兵たちは天を仰ぎ、地に伏し号泣。藩主、滝沢村妙国寺にて謹慎。降伏せし会津軍総員は四千九百五十余人、婦女子五百七十余人。
降参を知らぬ佐川官兵衛、飯田文次郎と共に越後口から政府軍の背後を狙う。大内を守る砲兵隊、大沼城之助から高橋某が率い佐川と連撃し進軍。武井寛平の一隊は二十四日大沼の政府軍を撃破。各地で散発的小競り合い。一ノ瀬数馬、星野胤国は藩主の帰順書を佐川に示し軍を収めさす。同日政府軍鶴ヵ城に入城、会津軍は天寧寺口から猪苗代に送致謹慎、佐川は塩川にて謹慎。
下級武士次男、広沢安任は藩校日新館から江戸昌平黌(しょうへいこう・幕府の設立した学校)に進学し京都で六年間公用人を務め西南諸藩の志士、英国公使館アーネスト・サトウ一等書記官とも交友。戊辰戦争開始と同時に藩命にて江戸で和平工作、会津藩帰順後は捕縛され投獄。
長岡久茂、天保十一年(1840)生れ、経史に明るく日新館から広沢同様江戸昌平黌に学び、戊辰戦争の際は弁論に長じたため会津藩使者、仙台、長岡を巡り奥羽列藩同盟結成に尽力。仙台、秋田、盛岡、米沢、二本松、弘前、新庄、棚倉、相馬、三春、山形、上ノ山、平、一関、福島、松前、本庄、守山、泉、亀田、七戸、天童、湯長谷、下手渡、矢島、新発田、村上、村松、三根山、黒川が参加、長岡の構想はこれらの藩で奥州独立国家を作ろうという壮大なもの。開戦とともに山川と日光口で戦うが、政府軍が八月二十三日城下に突入を見て、仙台湾に入港した榎本武揚艦隊に援軍要請するも、榎本は手勢五十を貸すのみ。その兵も途中で逃げ去り、又も仙台に戻り仙台藩主伊達慶邦に頼み込むも、伊達はすでに降伏。永岡久茂三十歳、一人切歯扼腕(せっしやくわん・歯ぎしりをし、自分の腕をにぎりしめること。感情を抑えきれずに甚だしく憤り残念がること)、五尺の身を泣きふるわせた。 政府軍は会津藩士、商人などから金目の物を荷駄につけ略奪、泥棒が白昼横行、薩摩藩士が多く行い会津人は恨み骨髄。 最新式アームストロング砲(砲身に螺旋きられ飛距離増)で上野の彰義隊はわずか十一時間の戦闘で壊滅、この砲が会津に運ばれ小田山に据えられ標高差百三十米を利用されたのが敗因。鶴ヵ城は弾巣のごとき有様を呈するも一月も城に立て籠るはまさに会津魂。
会津藩石高二十三万石、実質六十七万石、戦死者三千、城下の三分の二が焦土。家臣らの工作で再興となるが三万石に削られ、場所は猪苗代または陸奥の北部のいずれかと決定。場所について藩論は割れ、東京在住の家臣は会津にこだわらず、狭隘(きょうあい・せまい)な猪苗代での生計は立たないと主張。(アームストロング砲で壊された鶴ヶ城)会津は降参後、人心は荒廃、各地で農民一揆続発、庄屋を襲い土地証文を焼き捨て、金品を略奪、人心荒廃、結果的に下北を選ぶが、これが困窮の始まり。政府の処置は列藩同盟諸藩に厳しいが会津藩には特別。この決定をなしたのが、山川、広沢、永岡たち。これに従う会津藩士一万七千人。不毛の地、下北の風土も知らず陸路、海路にて北を目指す。時は明治三年四月十八日、三戸において黒羽藩から斗南藩へと引継ぎ。斗南藩三万石領地、二戸郡金田一村以北、三戸郡は八戸南部藩の領地を除く全て。
ここから藤沢一族の苦難の歴史。(続く)
かって会津藩あり、今は滅びて跡形もなし、されど会津侍魂、絶えることなく今に伝う。
八戸市市川に轟木小学校、初代校長を藤沢茂助という、会津藩士、北遷、斗南藩に命運を賭し、北の大地に足を踏み込む。広沢安任、佐川官兵衛らと共に天保二年の生まれ。
時間軸少しく傾けば藤沢一族は八戸の地を踏むこともなし。苛酷、非情な時の流れ、芭蕉のみならず藤沢一族も人生の旅、果ては青森県で地の塩となる。
【地の塩】 (新約聖書マタイ伝第5章・ 塩がすぐれた特性をもつところから、転じて広く社会の腐敗を防ぐのに役立つ者をたとえていうが、筆者は栄達を望まず我を捨て、その地で人を育てる役割を担った優れし者の意味で使う)
生を授かり父母に育まれ友と共に過ごす日々の中で何かを感じ、己の行く道を捜し求める。ゴッホの友、ゴーギャンは我、いずこより来たりていずこへ行く者、と、生死を見据えた。人は考える葦の言葉もある。置かれた場所、そして時代の中での呻吟(しんぎん・うめくこと。苦しみうなること)は自分のみ、己のみに課されたもの。その重みを骨をきしませ、肉を裂きながらも必死に受容。その受け止め方にこそ、その者の特性が隠しても現れ出る。
藤沢一族の名は吾妻鏡に見てとれる。日本三御前は静、巴、板額、美形で弓の剛の者と賛たる板額(はんがく・越後の豪族、城太郎資国・じょう・たろうすけくにの娘、建仁元年(1201年)甥の城資盛・じょう・すけもりが鎌倉幕府軍と戦った際、強弓をもって百発百中と奮戦、遂に捕虜。落城後、鎌倉に送至、鎌倉幕府の将軍源頼家の面前に引きずり出さるも、臆する事なし。甲斐源氏浅利義遠の懇望に妻となり甲斐の国豊富村に移り後半生を過ごす)の四番手の捕らえ方と記されてある。藤沢一族、元は桜の名所信州高遠詰め、主家は保科、藤沢邑を代々所領とす。主家の会津配置換えで移転。
頃は幕末、天保十一年、茂助九才の折、アヘン戦争勃発(1840~42年、清朝の阿片禁輸措置からアヘン製造輸出国イギリスとの間に起った戦争。清国敗北し、列強との不平等条約締結、香港の割譲、広東(カントン)廈門(アモイ)福州・寧波(ニンポー)上海の開港、賠償金の支払いなどを約し、中国の半植民地化の起点となる)、をオランダ船が伝える。幕府は国防策を講じ、茂助は父とともに弘化四年(1847)安房富津竹ヶ岡に赴き海防、茂助十七歳、後、品川お台場に父子共に転ず。時は嘉永六年(1853)、米東インド艦隊司令長官ペリー浦賀に来航、茂助二十二歳。
品川金杉陣屋詰めとなり、お台場二番砲台警備。宿舎は芝新銭座中屋敷、芝柴井町浜御殿隣。芝と三田は目と鼻、柴井町、宇田川、神明、浜松町を抜け金杉橋を渡り金杉通りから本芝、隣が芝田町、そこに悪名高い薩摩藩蔵屋敷。 茂助は芝新銭座居住時に伊豆韮山(にらやま)代官江川太郎左衛門の砲術塾に通い、大鳥圭介(おおとりけいすけ・播磨出身。蘭学・兵学を学び、幕府に用いられ、歩兵奉行。戊辰戦争では榎本武揚らと箱館五稜郭に拠ったが敗れて帰順)と机を並べる。江川は世襲の代官、品川お台場に設置する大砲を韮山に反射炉(金属の製錬・溶解炉。燃焼室と加熱室は別、炎は炉頂に沿って流れ、天井と側壁の放射熱で鉱石や金属を製錬または溶融。製錬の場合は大量生産に適し、溶融では成分を余り変えない)を設け製造。当時反射炉は最高機密、付近の警戒は厳重を極めた。
江川は砲術を反射炉を日本近代砲術の祖、高島秋帆(しゅうはん・幕末の兵学者。長崎の町年寄兼鉄砲方、蘭学・兵学を修め、オランダ人につき火技・砲術を研究)から学び、国家存亡の折り開塾し西洋式砲術の扱い方を伝授。
茂助が会津藩の最初の洋式砲術修得者。発射における火薬量、砲弾の飛距離計算等、和算ではできない計算式が必要、藩の蘭学専修行生に指名さる。
万延元年、父逝去、これを期に江川塾を辞去。茂助二十九歳、文久元年(1861)西洋大砲師範を拝命し、武州川口の鋳物職人に図面を提示、大砲とカノン砲(四十五度にし遠距離を狙う)を製造させ、発射確認、この功績で茂助は銀子一枚拝領。
元冶元年(1864)七月十九日、長州藩、蛤御門を守る会津藩兵と激戦。門内に押し入るも首謀者来島又兵衛は戦死。山崎方面より御所を目指す真木、久坂ら五百の手勢は福井、桑名藩兵と激戦、ここに蛤御門を鎮圧したる会津藩兵が援軍となり、茂助、山本覚馬、中沢帯刀の射撃の腕は冴えたちまちに長州藩兵を殲滅(せんめつ・皆殺しにして滅ぼすこと)、この勲功にて茂助大砲方頭取に抜擢。
慶応四年(1868)、一月三日、江戸、薩摩藩邸焼き討ちの報が大阪城の徳川慶喜のもとに届くや、京都襲撃を決意、指揮下の会津、桑名藩一万五千を率い、薩長土芸の五千の兵と鳥羽伏見で激突、幕府軍の作戦の乱れと政府軍の外国製最新兵器の前に敗退、慶喜はそのまま兵を見殺しにし、船で江戸へ逃げ去る。が、この時の会津藩士佐川官兵衛の戦い振りは世人をして鬼官兵衛と呼ばしめた。佐川は一刀流溝口派の剣客、弓馬刀槍の内二つ以上免許皆伝の者ばかりを集めた別選組の隊長、薩摩兵らの市街戦に遅れをとり、伏見街道にて獅子奮迅の戦い、銃撃に刀、槍で応戦するも右目を負傷、佐川会津に戻るは三月十二日。
過ぐる二月、江戸城無血開城、幕府残党は新撰組、彰義隊、大鳥圭介の伝習隊、福田八郎の撤兵隊が散発的抵抗、いずれも敗軍の兵、全てが会津に流れ込む。
会津藩、三月軍制を改め、年齢別に白虎(十六~七)、朱雀(十八~三十五)、青龍(三十六~四十九)、玄武(五十以上)の四隊に大別、身分により士中、寄合、足軽に小別。このほか砲兵隊、郷士の「正奇隊」、農、商人による「敢死隊」、大鳥圭介、古屋、市川らの手勢をいれて総勢五千三百。
日光口総督 大鳥圭介、後に山川大蔵
越後口総督 一ノ瀬要人 砲兵、青龍、朱雀隊よりなる
白河口総督 西郷頼母、後に内藤介右衛門 玄武、青龍、朱雀よりなる。
四月十九日、佐川は朱雀士中四番隊中隊頭として越後水原戦線に出陣。長岡藩を説得し奥羽列藩同盟にひきこむ。
五月一日政府軍白河城を攻略、
七月二十七日三春城降伏、二本松城攻略さる。
佐川官兵衛、長岡藩、桑名藩と共に長岡攻防戦に参加、軍事奉行頭取として指揮、会津藩主から急使、八月九日鶴ヵ城に戻る。
八月十九日、日光口守備の大鳥は保成峠から二本松奪回せんと石筳到着、二十一日保成峠は攻め滅ぼされ猪苗代城落ちる。
八月二十二日、白虎士中二番隊日向内記指揮下、戸ノ口原に応援出陣、この中に藤沢の親類藤沢啓次も。二十三日、払暁開戦するも追われ戸ノ口堰の洞門をくぐり飯盛山に逃がる。火の手の上がる城下、砲撃さる鶴ヶ城を見て二十名の少年は自刃、一人飯沼貞吉蘇生。政府軍滝沢峠に迫る。
二十五日、城外柳橋にて娘子(ろうし)軍の奮戦。
白河、日光口、越後方面、形勢我に利あらずと知り、中野平内、妻こう子(四十四)、長女竹子(二十二)、次女優子(十六)、依田まき子(三十五))、岡村さき子(三十)、水島菊子(十八)らは早鐘を聞き城下に敵の侵入と会津坂下(ばんげ)に落ちたと言う照姫を守護せんと走るも、姫君に会えず付近の軍事方に従軍を願うも婦女子を働かせば末代まで会津は嘲笑の的と言うを、既に黒髪を断ち、白鉢巻、義経袴に一刀を帯び薙刀を小脇に一歩も退かぬ覚悟、古屋作左衛門指揮下にて城下西端柳橋にて午前九時激戦、政府軍は女と見て「生け捕れ」と命ずるも、娘たち「生け捕られて恥辱を受けるな」と互いに呼応し斬りまくるが竹子、額に弾丸を受け倒る。妹優子、これを見て薙刀を水車のごとくに振り回すも、敵兵に遮られ近づくことあたわず。更なる気をみなぎらせ敵兵の真っ只中に飛び込み姉に近づき介錯、首級を引っ提げ囲みを破る獅子奮迅の乙女の働きに皆讃嘆。山本覚馬の妹、八重子は兄につき砲術体得せしより男子に混じり政府軍に砲火を見舞う。
鶴ヵ城東方千五百米に小田山、ここから政府軍は大砲連発、砲弾常に頭上に落下、爆声交錯し低空をゆるがし、爆煙四辺を閉ざす、藤沢家と共に信州高遠より従属せし家老職弱冠二十三歳、山川大蔵は慶応二年西欧視察、日光口、大鳥の副総督として手馴れた戦を展開。戦闘で城外にいた山川は敵兵厳しく鶴ヶ城に入るため一計、農民の踊り、彼岸獅子を先頭に立て、まんまと入城、山川の妻とせ子は宝蔵院流槍術の名手、照姫を守護するも城中に弾丸炸裂し死亡。
八月二十九日、佐川官兵衛決死隊を編成し藩主に願う、皆は盃を賜い佐川官兵衛は正宗の佩刀を、一番砲兵隊、別撰隊、衝鋒隊、順風隊、別楯隊、遊撃隊、およそ千名。長命寺裏の戦いは銃器乏しく戦況悪しく敗退。城へは戻らず各地で転戦。九月に入り、政府軍の攻撃すさまじく、一昼夜に二千七百の弾丸が城に打ち込まれる
九月十四日、政府軍総攻撃するも城は耐えるが、十五日、越後口総督・一瀬要人が戦死、日々死傷者相次ぎ、食料も逼迫。敗色は明らか、家老・梶原平馬、山川大蔵は、降参決断、手代木、秋月を派遣、止戦工作。土佐藩参謀・板垣退助、降参手続きを進めた。
九月二十二日、午前十時、昨夜より婦人らの手になる包帯の残りの白布を縫い合わせ三枚の白旗作成、長さ三尺幅二尺、一間半の竹竿に結び、一本は正門前石橋西端、一本は黒鉄御門藩主座所前、残りの一本は裏門に立て降参。正午、薩長軍軍監・中村半次郎、軍曹・山県小太郎、使番・唯九十九が式場到着、秋月、白旗を手に中村らを迎え、続き藩主松平容保、喜徳の二公礼服に小刀、大刀は袋に入れ侍臣に持たせ、降伏謝罪書を中村半次郎に。藩主この後、重臣、将校たちに決別の意を表し、城中の空井戸(死者をここに投げ込む)と二の丸墓地に花を捧げ礼拝、将兵たちは天を仰ぎ、地に伏し号泣。藩主、滝沢村妙国寺にて謹慎。降伏せし会津軍総員は四千九百五十余人、婦女子五百七十余人。
降参を知らぬ佐川官兵衛、飯田文次郎と共に越後口から政府軍の背後を狙う。大内を守る砲兵隊、大沼城之助から高橋某が率い佐川と連撃し進軍。武井寛平の一隊は二十四日大沼の政府軍を撃破。各地で散発的小競り合い。一ノ瀬数馬、星野胤国は藩主の帰順書を佐川に示し軍を収めさす。同日政府軍鶴ヵ城に入城、会津軍は天寧寺口から猪苗代に送致謹慎、佐川は塩川にて謹慎。
下級武士次男、広沢安任は藩校日新館から江戸昌平黌(しょうへいこう・幕府の設立した学校)に進学し京都で六年間公用人を務め西南諸藩の志士、英国公使館アーネスト・サトウ一等書記官とも交友。戊辰戦争開始と同時に藩命にて江戸で和平工作、会津藩帰順後は捕縛され投獄。
長岡久茂、天保十一年(1840)生れ、経史に明るく日新館から広沢同様江戸昌平黌に学び、戊辰戦争の際は弁論に長じたため会津藩使者、仙台、長岡を巡り奥羽列藩同盟結成に尽力。仙台、秋田、盛岡、米沢、二本松、弘前、新庄、棚倉、相馬、三春、山形、上ノ山、平、一関、福島、松前、本庄、守山、泉、亀田、七戸、天童、湯長谷、下手渡、矢島、新発田、村上、村松、三根山、黒川が参加、長岡の構想はこれらの藩で奥州独立国家を作ろうという壮大なもの。開戦とともに山川と日光口で戦うが、政府軍が八月二十三日城下に突入を見て、仙台湾に入港した榎本武揚艦隊に援軍要請するも、榎本は手勢五十を貸すのみ。その兵も途中で逃げ去り、又も仙台に戻り仙台藩主伊達慶邦に頼み込むも、伊達はすでに降伏。永岡久茂三十歳、一人切歯扼腕(せっしやくわん・歯ぎしりをし、自分の腕をにぎりしめること。感情を抑えきれずに甚だしく憤り残念がること)、五尺の身を泣きふるわせた。 政府軍は会津藩士、商人などから金目の物を荷駄につけ略奪、泥棒が白昼横行、薩摩藩士が多く行い会津人は恨み骨髄。 最新式アームストロング砲(砲身に螺旋きられ飛距離増)で上野の彰義隊はわずか十一時間の戦闘で壊滅、この砲が会津に運ばれ小田山に据えられ標高差百三十米を利用されたのが敗因。鶴ヵ城は弾巣のごとき有様を呈するも一月も城に立て籠るはまさに会津魂。
会津藩石高二十三万石、実質六十七万石、戦死者三千、城下の三分の二が焦土。家臣らの工作で再興となるが三万石に削られ、場所は猪苗代または陸奥の北部のいずれかと決定。場所について藩論は割れ、東京在住の家臣は会津にこだわらず、狭隘(きょうあい・せまい)な猪苗代での生計は立たないと主張。(アームストロング砲で壊された鶴ヶ城)会津は降参後、人心は荒廃、各地で農民一揆続発、庄屋を襲い土地証文を焼き捨て、金品を略奪、人心荒廃、結果的に下北を選ぶが、これが困窮の始まり。政府の処置は列藩同盟諸藩に厳しいが会津藩には特別。この決定をなしたのが、山川、広沢、永岡たち。これに従う会津藩士一万七千人。不毛の地、下北の風土も知らず陸路、海路にて北を目指す。時は明治三年四月十八日、三戸において黒羽藩から斗南藩へと引継ぎ。斗南藩三万石領地、二戸郡金田一村以北、三戸郡は八戸南部藩の領地を除く全て。
ここから藤沢一族の苦難の歴史。(続く)