デーリー東北
新聞社の創始と変遷
○ 八戸に新聞がつくられたのは明治三十三年、「八戸商報」がタブロイド版で発刊されたことが創始といえる。ついで「はちのへ新聞」が同三十五年、「県南新報」が同四十一年、これよりやや遅れて「はちのへ新聞」に対抗して「大南部」「八戸毎日」などが続々発刊された。文明のいぶきの薄いといわれた八戸に、これだけの新聞が発刊されたことの裏には政治的な対立もあって、大正十三年、「八戸毎日」と「はちのへ新聞」が合併して、日刊紙「はちのへ新聞」が誕生するまでの変遷は、それは激しいものだった。
○ その経過を少し説明すると、「八戸商報」が明治三十三年石橋万冶(二代石橋万冶・嘉永三年~明治四二 八戸市二十三日町に生まれる。実業家、西町屋徳右衛門の一族、幼名幸蔵、明治二七年六月階上銀行支配人、同三○年八月八戸貯蓄銀行設立。頭取となり同三一年六月青森県農工銀行取締役を歴任。明治二二年四月八戸町会議員となり、同年十月八戸土曜会結成に当たってその発起人の一人であったが、創立総会の人選問題で退場、反対派の福田祐記、大芦悟楼らと公民会を結成。同二四年糠塚選出の郡会議員、同年八月改進党から県会議員となり、同三二年九月の府県制改正による県議選には反対派の関春茂とともに進歩党から公認され当選。同二七年反省会陸奥支部長をつとめる。晩年は徒士町の別邸で養蚕業を営み悠悠自適 東奥日報刊・青森県人名大事典)など有志によって創刊された。し かし間もなく北村益氏らによって同社は買収され、北村氏は「八戸新聞」と改称して新聞をバックに北村カラーで勢力を張っていった。石橋氏はこれに対抗して再び新聞社をつくった。これが「奥南新報」の創刊である。八戸新聞が憲政会をバックにして立てば奥南派は政友会をバックにしたのも当然のいきがかりであったといえる。このほかに奈須川光宝氏が旭日の勢いの北村派に対抗するため県下の憲政会の同志をつのって「陸奥新聞」を発行したが当時としては贅沢と思われる日刊紙で、資金面で行き詰まり、二年くらいで廃刊になったと思う。
○ 私が北村氏にすすめられて八戸新聞に入社したのは、合併間もなくのころであった。両社を合併しての従業員は三十五、六人だったろう。間もなく北村氏がバトンを私に渡し、新社長に私、取締役会長に武藤勝美氏が就任した。写真機も輪転機も 設備され、あのころとしてはいっぱしの新聞社らしい陣容を誇っていたと思う。ようやく新聞社が軌道に乗ったと思われる頃、世情は日華事変から支那事変へと泥沼のような戦争に追い込まれていった。昭和十六年だったと思う。政府が一県一紙という政策を強行した。社としてはしゃにむにこれを反撃すべく、私などは当時読売系で幅をきかせていた故三木武吉氏に買収を陳情したが奏効せず、結局「東奥日報」が県下ただ一つの新聞ということになり、当時あった八戸、弘前、陸奥新聞の三社は姿を消した。われわれの新聞は、東奥紙に吸収されたことになるが、施設、人員はそのままほおり出された。輪転機などは青森の合浦公園に集積されたが、東奥紙でもその施設を必要とせず長い間公園にさらけ出されていたわけでまことに無念の涙を呑んだものである。
貴重なドル箱、号外
一県一紙令で無念の涙
○ 私の新聞経営生活は十余年。あまり長いとはいえないが、しかし生きがいはあった。新聞の仕事は確かに面白い。銀行マンとか一般官公吏の仕事もそれなりに良さはあろうが、同じ仕事でも新聞は一日一日に変化というものがある。私が在職していたころの事件とか世相といったものもいまから思えば冷や汗三斗の思いがしたり、思い出しても溜飲が下がるような痛快な出来事もかなりあった。八戸銀行ほか三銀行がパニックで一時に扉をおろしたが、それをいち早くつかんだのも「はちのへ新聞」だった。私のところから「盛岡銀行取付騒ぎ」の号外の一報が出たとたんに、銀行前には黒山の人が集まって当時、同行の吉田三郎兵衛さんが血相変えてどなりこんできた。号外一枚が町を騒然とさせたわけで、いま思えばたいへんなことをしたものだと思っている。号外は当時新聞社としては虎の子の財源であった。ラジオ、テレビのない時代である。速報はこれしかなかったわけだ。このため私の社では号外要員として常に人力車夫を十四、五人を夜間は待機させていた。脚力がモノを言うこの人たちは、千里もいとわず四方に散ったわけだ。遠い所は三戸在から九戸方面にまで走った。その売れ行きのよいこと。彼らは号外を売り切って社に戻るとムシロの上に売上をひろげて勘定した。一枚二銭だったから銅貨が山のように詰まれた。車夫のなかには新しい号外のほかに古い号外まで売った奴がいた。買ったほうが読み始めて気が付いたころは、号外売りは遠く鈴の音だけ残して去っているのだから始末が悪い。関東大震災の大正十二年九月一日は、八戸三社大祭にあたっていた。そのころの社屋は長横町にあったのだが、号外売りがものの百メートルも走らないうちに、折からの祭り見物の中に埋まり、あっという間に全員が売り尽くしてしまった。社内の電話のベルがけたたましく鳴り、号外売りが観衆に埋まって死んだという報告が入って、私は失神しそうになったが、それほど売れ行きがよかったわけだ。
○ まだ愉快な話がある。弘前相互銀行の前身である弘前無尽が八戸に進出したとき、朔日町の八百万で政界、経済界の有志が招かれて記念祝宴があった。その日の午前中に大正天皇のご危篤のニュースがはいっていた。私は出かける前に編集局に「もし亡くなられたら号外を出すように」と言って出席。間もなく祝宴が始まろうとするとき号外が届いた。唐牛弘前無尽社長は号外はしばらく発表しないでくれ、知らなかったことにして、今日の式だけは終わりたいというのだ。あのころは陛下がなくなるというのに、酒を飲むなどは不敬きわまりないとされていたためである。また石田屋で鮫、湊、八戸、白銀などを合併して市制をしく会議があった。現在岩手放送八戸支社長の法師浜氏が当時一線記者をしていたが「どうも今日の会議は大事になるらしい」と耳打ちされていたから、それを胸にたたみ号外の手はずを打って出席した。案にたがわず合併の話だった。私は中座して社に号外を出すように連絡。会議が終わらないうちにその一報が会議の場に届いた。まだ結論が出ていないうちだったから、目をパチクリさせるもの、怒るものなどsまざまだったが、私は盃をかかげ「合併万歳」を三唱すると大勢は引き込まれるように唱和。かくして八戸市が誕生したというわけ。
○ そのころの発行部数は二千五百部ぐらい。旧市内はさすがに多く、湊、白銀になると百部、五十部文盲の人もあったせいだが伸びなかった。ところが号外となると大変な売れ行きで印刷が追いつかなかった。また号外売りは近在に売りに出たまま三日も四日も帰らないと家族から泣きつかれたこともある。あとで聞くと三戸在まで売りに出て親類の祝言にでくわしてそのまま居座ったとのことで、実にのんびりした世相でもあった。
新聞社の創始と変遷
○ 八戸に新聞がつくられたのは明治三十三年、「八戸商報」がタブロイド版で発刊されたことが創始といえる。ついで「はちのへ新聞」が同三十五年、「県南新報」が同四十一年、これよりやや遅れて「はちのへ新聞」に対抗して「大南部」「八戸毎日」などが続々発刊された。文明のいぶきの薄いといわれた八戸に、これだけの新聞が発刊されたことの裏には政治的な対立もあって、大正十三年、「八戸毎日」と「はちのへ新聞」が合併して、日刊紙「はちのへ新聞」が誕生するまでの変遷は、それは激しいものだった。
○ その経過を少し説明すると、「八戸商報」が明治三十三年石橋万冶(二代石橋万冶・嘉永三年~明治四二 八戸市二十三日町に生まれる。実業家、西町屋徳右衛門の一族、幼名幸蔵、明治二七年六月階上銀行支配人、同三○年八月八戸貯蓄銀行設立。頭取となり同三一年六月青森県農工銀行取締役を歴任。明治二二年四月八戸町会議員となり、同年十月八戸土曜会結成に当たってその発起人の一人であったが、創立総会の人選問題で退場、反対派の福田祐記、大芦悟楼らと公民会を結成。同二四年糠塚選出の郡会議員、同年八月改進党から県会議員となり、同三二年九月の府県制改正による県議選には反対派の関春茂とともに進歩党から公認され当選。同二七年反省会陸奥支部長をつとめる。晩年は徒士町の別邸で養蚕業を営み悠悠自適 東奥日報刊・青森県人名大事典)など有志によって創刊された。し かし間もなく北村益氏らによって同社は買収され、北村氏は「八戸新聞」と改称して新聞をバックに北村カラーで勢力を張っていった。石橋氏はこれに対抗して再び新聞社をつくった。これが「奥南新報」の創刊である。八戸新聞が憲政会をバックにして立てば奥南派は政友会をバックにしたのも当然のいきがかりであったといえる。このほかに奈須川光宝氏が旭日の勢いの北村派に対抗するため県下の憲政会の同志をつのって「陸奥新聞」を発行したが当時としては贅沢と思われる日刊紙で、資金面で行き詰まり、二年くらいで廃刊になったと思う。
○ 私が北村氏にすすめられて八戸新聞に入社したのは、合併間もなくのころであった。両社を合併しての従業員は三十五、六人だったろう。間もなく北村氏がバトンを私に渡し、新社長に私、取締役会長に武藤勝美氏が就任した。写真機も輪転機も 設備され、あのころとしてはいっぱしの新聞社らしい陣容を誇っていたと思う。ようやく新聞社が軌道に乗ったと思われる頃、世情は日華事変から支那事変へと泥沼のような戦争に追い込まれていった。昭和十六年だったと思う。政府が一県一紙という政策を強行した。社としてはしゃにむにこれを反撃すべく、私などは当時読売系で幅をきかせていた故三木武吉氏に買収を陳情したが奏効せず、結局「東奥日報」が県下ただ一つの新聞ということになり、当時あった八戸、弘前、陸奥新聞の三社は姿を消した。われわれの新聞は、東奥紙に吸収されたことになるが、施設、人員はそのままほおり出された。輪転機などは青森の合浦公園に集積されたが、東奥紙でもその施設を必要とせず長い間公園にさらけ出されていたわけでまことに無念の涙を呑んだものである。
貴重なドル箱、号外
一県一紙令で無念の涙
○ 私の新聞経営生活は十余年。あまり長いとはいえないが、しかし生きがいはあった。新聞の仕事は確かに面白い。銀行マンとか一般官公吏の仕事もそれなりに良さはあろうが、同じ仕事でも新聞は一日一日に変化というものがある。私が在職していたころの事件とか世相といったものもいまから思えば冷や汗三斗の思いがしたり、思い出しても溜飲が下がるような痛快な出来事もかなりあった。八戸銀行ほか三銀行がパニックで一時に扉をおろしたが、それをいち早くつかんだのも「はちのへ新聞」だった。私のところから「盛岡銀行取付騒ぎ」の号外の一報が出たとたんに、銀行前には黒山の人が集まって当時、同行の吉田三郎兵衛さんが血相変えてどなりこんできた。号外一枚が町を騒然とさせたわけで、いま思えばたいへんなことをしたものだと思っている。号外は当時新聞社としては虎の子の財源であった。ラジオ、テレビのない時代である。速報はこれしかなかったわけだ。このため私の社では号外要員として常に人力車夫を十四、五人を夜間は待機させていた。脚力がモノを言うこの人たちは、千里もいとわず四方に散ったわけだ。遠い所は三戸在から九戸方面にまで走った。その売れ行きのよいこと。彼らは号外を売り切って社に戻るとムシロの上に売上をひろげて勘定した。一枚二銭だったから銅貨が山のように詰まれた。車夫のなかには新しい号外のほかに古い号外まで売った奴がいた。買ったほうが読み始めて気が付いたころは、号外売りは遠く鈴の音だけ残して去っているのだから始末が悪い。関東大震災の大正十二年九月一日は、八戸三社大祭にあたっていた。そのころの社屋は長横町にあったのだが、号外売りがものの百メートルも走らないうちに、折からの祭り見物の中に埋まり、あっという間に全員が売り尽くしてしまった。社内の電話のベルがけたたましく鳴り、号外売りが観衆に埋まって死んだという報告が入って、私は失神しそうになったが、それほど売れ行きがよかったわけだ。
○ まだ愉快な話がある。弘前相互銀行の前身である弘前無尽が八戸に進出したとき、朔日町の八百万で政界、経済界の有志が招かれて記念祝宴があった。その日の午前中に大正天皇のご危篤のニュースがはいっていた。私は出かける前に編集局に「もし亡くなられたら号外を出すように」と言って出席。間もなく祝宴が始まろうとするとき号外が届いた。唐牛弘前無尽社長は号外はしばらく発表しないでくれ、知らなかったことにして、今日の式だけは終わりたいというのだ。あのころは陛下がなくなるというのに、酒を飲むなどは不敬きわまりないとされていたためである。また石田屋で鮫、湊、八戸、白銀などを合併して市制をしく会議があった。現在岩手放送八戸支社長の法師浜氏が当時一線記者をしていたが「どうも今日の会議は大事になるらしい」と耳打ちされていたから、それを胸にたたみ号外の手はずを打って出席した。案にたがわず合併の話だった。私は中座して社に号外を出すように連絡。会議が終わらないうちにその一報が会議の場に届いた。まだ結論が出ていないうちだったから、目をパチクリさせるもの、怒るものなどsまざまだったが、私は盃をかかげ「合併万歳」を三唱すると大勢は引き込まれるように唱和。かくして八戸市が誕生したというわけ。
○ そのころの発行部数は二千五百部ぐらい。旧市内はさすがに多く、湊、白銀になると百部、五十部文盲の人もあったせいだが伸びなかった。ところが号外となると大変な売れ行きで印刷が追いつかなかった。また号外売りは近在に売りに出たまま三日も四日も帰らないと家族から泣きつかれたこともある。あとで聞くと三戸在まで売りに出て親類の祝言にでくわしてそのまま居座ったとのことで、実にのんびりした世相でもあった。