司馬遼太郎が考えたこと(新潮社刊)11に次の文あり。あとがき(『菜の花の坤四』)
昭和四十二、三年ごろ、青森県の太平洋岸の古い港まちである八戸市に行ったとき、ある宿をたずねた。宿の主人は古い時代の慶応の出で、太変博識のひとだったが、昆布の主たる目的がだしをとることであるというごく当然なことをご存じなくて、昆布なんてものは仕様がないもんだ、と罵りつつ、
「京・大阪の人間は、なぜあんなものをたべるのかね」
と、小気味いい口調でいわれた。
日本は存外広大なものらしく、昆布でだしをとるという慣習は、大坂湾から蝦夷地へゆく北前船の往来航路である日本海岸では、おなじ東北地方でも、秋田、酒田、鶴岡などにおいてふるくから定着していたが、太平洋岸の八戸ではその慣習と縁が薄かったようでもあり、目をみはるおもいがした。
江戸と八戸をむすぷ太平洋航路は元禄時代からである。八戸では、当時、前の海で多少の昆布が採れてはいつつも、昆布をだしにするという利用法は、日本海沿岸のようには定着しなかったということになる。
八戸は、元禄以前は孤立した漁港(鮫村)で、広域商品経済のなかにわずかしか参加していなかった。いわば貨幣経済の処女地にちかかったために、太平洋航路がひらかれるとともに、八戸頒の農民に深刻な不幸がおこった。
当時、古着は古手とよばれ、京の女たちがきているものを、大坂の古手問屋があつめて、全国にくばっていた。この業種の商人には、近江人が多かった。江戸にもかれらの支店ができていたが、元禄期、太平洋航路がひらかれるとともに、その商人たちが海路八戸に入り、八戸藩の御家中や富裕層の婦人に売りつけた。かれらはたちまち産をなし、高利貸資本兼地主になった。貨幣―商品―経済は緩慢にやってくれば社会的な体力は順応できるのだが、急速だと住民を凄惨な状態にたたきおとしてしまう。かれらは田畑を抵当にして金を借り、やがて流してしまい、高利貸・地主の小作になってしまうのである。
藩はこの急変した社会の症状に施すべきどういう処置も講ぜず、かえって高利貸兼地主の上に乗っかり、かれらから税金をとることによって財政を運営した。藩と高利貸兼地主が一体となって、農民をいよいよ零落させたことになる。水田をうしなったひとびとは、山を焼くしかなかった。焼いてそばをうえ、一定の連作をへて、またつぎの山に移ってゆく。かつて自分のものであった山も、地主のものになっていたために、地主のゆるしを得ねばならない。稲作民が、古代の焼畑農業にまで退化せざるをえなかったのである。
このような現象は、八戸への太平洋航路が成立してからほんの数十年のあいだにおこった。八戸の経済が他に類をみないほどに純粋な農業段階にあったところへ、貨幣経済が突然襲来し、かつそのにない手が、複式簿記に似たものさえもつといわれた近江商人であったために、八戸農民の伝統基盤が洪水のように押し流された。この間の社会の変動現象を見ていたのが、安藤昌益(一七〇三~六二)であった。
昌益は、孔子など聖人や君子は道を盗む大泥棒であるとし、大名も士族も盗人であり、農民がじかに耕してたれも支配者をもたない社会を理想社会(自然世)であるとした。かれは、大工や船大工など手工業の徒を否定した。無益の家をつくったり、大船を作って万国の珍物を集めたりすることは人の世の費えを多くするもので、大乱のもとをなすものであるとし、商人にいたってはみずから耕すことなく、美衣美食し、互いに他をたぶらかすものであるとした。すべて当時の八戸において、現前になまなましく見ることができる病的現象であり、観察者に昌益のような鋭敏な感受性と憤りさえあれば、十分に納得させる考え方だった。しかし昌益が、緩慢に近世社会ができあがって行った瀬戸内海沿岸にうまれたなら、べつな思想を形成させたにちかいない。
昌益に従ってよくよく考えてゆくと、昆布などは無用のものである。北海の海底でできるこの海藻を、わざわざ採取し、大船にのせてはるかな上方の地に運んで、たかが汁や惣菜、科理のだしにするなど、世の費えもはなはだしいことであり、大乱のもとになるものだともいえる。
いまでも、京阪神のうどんやさんでは、北海道の利尻か羅臼の昆布をだしにつかう。どちらの味が濃いのかわすれたが、濃いほうを大阪のうどんやがつかい、淡泊なほうを京都のうどんやがつかう。昌益の自然世の流儀ならうどんのなまの玉に海水でもぶっかけて食うべきで、できれば陶磁器の容器も用いてはならない。陶磁器は、江戸期、瀬戸から四方へ運ばれるものと、唐津から運ばれるものなどがあり、水瓶など大型のものは、越前や備前窯場からほうぼうに運ばれたりした。職人、薪とり、土とり、商人あるいは船乗りなど無数の人間が、それらの容器を需要者にとどけるのである。
このような人と商品の動きは、世の中を、元来ひとびとがそこで自給自足してきた村落のレベルからはるかに広域なものにしてしまう。それらは社会の仕組みを複雑にし、結局は昌益のいうところの大乱をまねくもとになるのかもしれない。しかしそれでも昌益先生に従っていれば、私情でいうと、私は散歩の途中、うどんを食う楽しみをうしなう。強いてうどんを食えば、それだけで天下に大乱をひきおこしてしまうことになる。人の世というものをどう見るかということは、まことにむずかしい。