2009年2月15日日曜日

一代の風雲児、小笠原八十美氏五十回忌


虎は死んで皮残し、人は死んで名を残す、人は一代、名は末代の言葉もある。
たかだか生きても八、九十。
昔は人生五十年、今は幾らか延びたが、細々息を出したり吸ったりして生きても、それは生きたんじゃない。死んでないだけ。
やりたいことを存分にやっての往生が、本当の往生。その点、この小笠原八十美って人はいまだに人口に膾炙(じんこうにかいしゃ・なますやあぶり肉がだれにも美味に感ぜられるように、人々の口の端にのぼってもてはやされる)される。急行の止まる駅には小笠原の女がいた。金でも物でも、使いきれないほどあった。手紙は秘書に書かせた、などなど。毀誉褒貶(きよほうへん・「毀」はそしる、「誉・褒」はほめる、「貶」はけなす意、悪口を言うこととほめること。ほめたりけなしたりの世評)の人物だが、この人のことは知らなかった。五戸の知恵袋、安藤陽三さんに小笠原八十美を教えていただいた。
「大人物です、三本木にいた男で、調べたら面白いですヨ」その言葉に唆されて、八戸図書館で調べた、調べた。
確かに面白い、東奥日報の記事からも幾つかヒント、二月に入って安藤さんから電話。
「小笠原八十美の五十回忌が昨日あったそうです」
「エッ、行きたかった」
「南部病院の院長が末裔で、その方が五十回忌をされて、多くの縁故者が集まったそうで」
「残念…」
思わず残念の言葉が出た。三月号に掲載予定だったが事情で四月号から連載予定、その原稿整理中に、この知らせ。イヤァ、惜しいことをしたもんだ。関係者から生の声が聞けたら、味付けが変わったものだが…
この小笠原八十美氏は調べれば調べるほど、自分の置かれた立場が見える男だということが判明。
若いうちは典型的な不良、ませたガキ。
この小笠原八十美一代記が八戸図書館にある。
昭和二七年刊、「小笠原一代記」の題名で郷土資料室の棚。
著者は東京目黒の平田小六。
存命中の記載だけに、厄介な話にはボカシが掛けられ、偉人、英雄の面が強調されている。これは致し方ない。「フォーカス」や暴露雑誌ではないから、口当たりの良い話ばかり。
ところが、人生にはピンチの後にはチャンス。人生は仕組まれた罠。
これをいかに振りほどき、逃げるじゃなく、その危機を幸運に変えるだけの人間力、これがあるとないとでは天と地の開き。
この小笠原八十美の沸き出ずる力を、現代の若者に読み取ってもらいたくて連載する。
先ずは、形式的なものからお眼にかける。
十和田市史から、小笠原八十美関係の抜き出し
三本木実科高等女学校の設立
大正期ともなると、国民生活は欧州の新傾向に大きく影響され、外面的形式的には近代化の方向をたどったが、学問や教育の分野にも自由主義的傾向が強まり、労働運動・社会運動も活発になり、婦人の参政権を要求する声が高まっていった。
中央から遠く離れた三本木地方にも、交通機関の発達にともない、緩慢にデモクラシーの風潮が波及。時代趨勢を背景に、三本木町の指導層は婦徳涵養の必要性を痛感し、女子中等教育機関の設置を真剣に考慮。
大正十四年(一九二五)十二月十五日、町長原田鉄治は、実科高等女学校の設置その他の案件を三本木町会に諮る。
出席議員は篠田龍夫、小笠原八十美、大坂七郎、豊川留之助、云々とあり、十和田市史に小笠原八十美の名が登場。
その後、小笠原八十美の名が出るのは、同市史の
昭和前期
① 民政党系・政友会系両派の対立
大正十五年(一九二六)十二月二十五日、改元が実施され昭和が始まる。この時代前期の三本木町における最大の問題は政争であった。
その頃わが国は政党政治が実を結び、民政党・政友会の二大政党が交互に政権を担当。両党とも保守的政党で、政治思想に根本的違いはなく、ただ支配層の利益を擁護し政権獲得に汲々とするばかりで、民生の安定は二義的。
中央における二大政党の対立が、三本木に波及したのは昭和二年六月二十八日に執行された上北郡の県会議員補欠選挙。この選挙は法奥沢村出身小笠原耕一の死去で、三本木町から民政党公認の大坂七郎と、政友会公認の小笠原八十美が立ち、町は二つに割れ激戦、結果は小笠原八十美が三四二五票、大坂三二一七の二百八票の僅差。
これ以後三本木は民政党系・政友会系に二分。民政党系を大七派、政友会系を八十美派と呼称。町役場の人事に介入し町民動揺。
第四代町長和田足也が病気で退職、町議会は昭和七年二月三日の町長選、結果、八十美派の益川東太郎が八票、大七派の篠田龍夫は七票、一票差で増川町長誕生、助役に本多浩治、用捨なく吏員更迭し、町役場を政友会で固めた。
昭和八年五月一日、定員を二十四名にし町会議員満期改選、当選者は、沼田耕悦、米田房五郎、小笠原八十美、云々
益川町政の与党は八名、三分の一では難航、選挙後十七名の有権者から選挙の異議申し立てが出る。理由は同一で、選挙には四十八名の無資格者が投票、そのため無効、やり直しを求めるというもの。
五月十七日の町議会では、二ツ木議員は「町当局者と異議申し立て者とは昵懇の間柄から、何らかの意味で気脈を通じている」と発言。
同年五月十四日、益川町長は町会議員選挙並びに当選効力に関し、異議申し立て決定の件を上程し、川崎新兵衛を委員長とする八名の調査委員会に付託。一週間の調査で、委員長川崎は「無効票を除斥し決定」の提案に、小笠原八十美は、「今回の選挙は無効」の動議を出し対立。採決結果、二十四名をそのまま当選者とする川崎案に賛成十四、小笠原案は八で川崎案に決定、申し立て者はこれを不服とし行政訴訟、昭和十一年七月二十日、「選挙は無効、但し三浦、篠田の両名は当選効力を失わず」の判決。二十二名が失格。
昭和十一年八月十五日改選し、大七派がまたも勝利。
昭和十年九月二十五日の県会議員選挙では、政友会公認小笠原八十美が最高点で当選、民政党公認の川崎新兵衛は二位当選、激戦のあまり買収事件となる。これが晴山部落買収と、それに付帯した拷問事件。
小笠原派、川崎派、浜中末吉派の三派が、晴山部落民を買収した嫌疑で検挙、その際、取調べの警官に拷問されたということで告訴、結果三名の警官は有罪、選挙違反被疑者は全員無罪。
その後の市史には
小笠原八十美衆議院議員に当選
昭和十一年一月二十一日、帝国議会解散、二月二十日総選挙。青森県弟一区定員三名には民政党の工藤鉄男、森田重次郎、和田喜太郎、三浦道太郎が党公認を要請、政友会は藤井達二、小笠原八十美、千葉伝蔵が申請。民政党は工藤、森田を、政友会は藤井と千葉を公認。小笠原は県議会議員辞職し、公認も辞退し背水の陣。
激戦で各派とも買収。個別訪問で違反者多数。県警調べ、買収二五三、戸別訪問二八九。
結果
当選 一七九○二 工藤鉄男
当選 一三七六三 小笠原八十美
小笠原八十美は不利な票田の三本木から立ち、青森、八戸の候補者に挑み、危なげなく堂々当選、世人を驚嘆せしめた。
小笠原は夙に十和田湖の開発に志し、大正十三年湖畔休屋に旅館、世界公園館を開き、同時に遊覧船および自動車営業を兼営したが、その後昭和二十一年には、十和田鉄道株式会社社長に就任、五百万円の資本金を五千万円に増資し営業基盤強化。
二十六年六月、軌道を広軌に改めて電化、三十年九月駅及び社屋を改築。
大正十四年三本木町会議員、昭和二年青森県会議員、昭和十二年衆議院初当選、当選八回、院内の馬政通として活躍。昭和三十年十月中央畜産会会長、胃潰瘍で翌三十一年十二月二十七日、六十八で死去。
昭和十一年の小笠原八十美の当選で三本木町も初めて地元代議士を持ったが、小笠原は個性強く、世評は必ずしも一様ではない。豪胆で覇気に富み、清濁併せ呑む度量あり、分別早く果断実行を常とした大物。
これだけでは、何が何だかわからないのヨ、じゃないけど、本当の小笠原八十美の凄さは、東奥日報の新聞記事の中に潜んでいる。大正、昭和十一年あたりに焦点を当てて、丹念に小笠原の行動、言動を追ってみる。
そこで、なるほど、この男は凄いと驚嘆の声を読者諸兄は上げるに違いない。
ピンチの後にはチャンスありは野球の世界。ピンチで頭を抱えるは誰にも出来る。それを踏み台にして飛び上がったのが小笠原だ。能書きはいいから教えろ? 次号をお楽しみに、いいところで切るナ、紙芝居と同じだ。ハイ。