政治家岸信介は自民党総裁選で石橋湛山に敗れ、外相に就任。石橋湛山首相の病気退任後、岸内閣を組織した。
その岸首相の一言が、二人の自殺者を生むことになった。一人は私のルーツである両国柳橋の高級料亭とよばれている「柳光亭」の若き店主、古立太郎である。源流を井の頭公園に持つ神田川は、墨田川に合流していて、合流地点に長さ三〇メートルばかりの鉄骨の橋がかかっている。「柳橋」である。
粋な花街の風情はもう無いが、かつて、この一帯は東京の代表的な花柳界であった。柳橋のたもとに亀清楼、並んで柳光亭、柳橋を代表するにふさわしい高級料亭だった。柳光亭は、明治初期に開業し三百坪の敷地を持ち、百拾余年の歴史の上に君臨していた。柳光亭は政界、亀清楼は財界関係の顧客が多く、戦前、柳光亭に客があると、私服警官が取り巻いていたことは忘れられない。特に歴代総理が来ているときは、数台のパトカーが、いたるところに駐車していた。
岸首相が、柳光亭の女将(太郎の母)に、お座敷で声をかけた。当時、岸首相は日独協会の会長を務めていた。
「ドイツには日本人が相当いる。あちらにも一つ、料亭が欲しい、おまえのところでやらないか」この一言が、古立太郎を自殺に追い込むことになる。他の一人は、古立太郎氏より後の、グラマン疑惑で命を断った島田三敬氏(日商岩井)で、釈然としない暗部はあるのだが、兎にも角にも、政治的に操られた結果であろう。
ドイツに日本館が生まれた。正しくは「ジュセルドルフ日本館」設立は昭和三十八年、師走も押し追った十二月。資本金は三千五百万円。出資者は、岸首相の秘書川部美智雄、古立太郎、それぞれが三百万円。八幡製鉄、富士製鉄、日本鋼管、三井物産、三菱商事、住友商事、伊藤忠商事、丸紅飯田、富士銀行、東京銀行などの一流企業各社が二百万円。ほかに岸信介、古立よし(太郎の母)らが四十二万五千円。役員の顔ぶれも豪華版であった。
岸信介を会長に、川部美智雄社長、永野重雄、水上達三、荘清彦、市川忍、越後正一ら、財界の大物が取締役。稲山嘉寛が監査役、古立太郎は代表権のある副社長に就任している。設立目的は、ホテル、食堂、ナイトクラブなどの飲食業、美術品、食品の輸出人品、観光事業などである。
その後、古立太郎は、一千五百万円の増資をしていくのだが……。そして、運命の日、昭和四十九年二月四日夜、新横浜駅で下り列車に飛び込んだ。享年四十三だった。岸信介の秘書でもある、杜長の川部美智雄を横浜へ訪問しての直後だった。訪問の内容は、詳らかではないが、想像するに資金関係の故ではなかったかと思われる。居留守という説もある。切羽詰まった彼は、小切手を控えも記さず乱発していたという。その額は想像を絶していたそうだ。太郎氏は、四十二年七月二十日付けで、日本館の代表取締役副社長を辞任しているが、四十七年十一月二十四日に取締役に返り咲いている。死んだときも役職はそのままであった。
政界がらみの、この事態をどのように解釈したらよいのだろう。私の知識の及ばないところは、これを取り上げた当時の週刊紙から拾ってみよう。評論家の吉原公一郎氏は、岸さんの一面をこういう。「僕は藤山愛一郎氏(当時、政、財界を風靡した大実業家)の使い捨て振りと、古立太郎氏の一件が、どうもオーバーラップしてしまうんです。古立氏が殺されたとは思わないが、もう要らない人間だったんじゃないですかね。それから日本館だが、僕は、あれは岸さんだけのものじゃなく、保守本流を維持していくための資金管理の場だと思うんです」
「例えば藤山愛一郎氏だが、A級戦犯の岸さんが巣鴨プリズンから出てきて、ずいぶん世話になっている。そして岸さんの要請で政界入りした。ところが藤山氏が一派を持つとき、岸さんが分けてやった子分は、カネのかかる人達だけだったんだ。これも岸さんの一面じゃないかな。ともかく日本館は悪名たかいなぁ」
当時の楢崎弥之助代議士は、四十四年二月四日、衆院予算委員会でこの日本館のことを質問している。当時の外相は、半公信扱いだからといって、答弁し公開を拒否している。
(編集部註・衆議院委員会記録から・それで私は、一つだけお伺いをしておきます。外務省にお伺いしますが、西独のジュッセルドルフにレストラン日本館というものがあります。そのレストラン日本館の役員、それから資本金、出資者、これを明確にしてもらいたいと思います。○内田説明員 お答え申し上げます。 ただいま御質問の点、手元に持っておりませんので、取り調べまして後刻御報告申し上げます。○楢崎委員 あとで報告するそうであります。それでこのレストラン日本館の設立の問題について、料理屋のことは何で知るかというやじも飛びましたが、外務省は出先官庁も含めて、この設立に協力をしたかしないか。した事実があります。それは文書の上ではっきりなっている。そういう点も御存じでありましょう。○愛知国務大臣 全く突然の御質問でございましたので、私も全然知りませんから調べてみます。○楢崎委員 私はこれを明らかにしたいのは、政治の姿勢の問題と関連をしてであります。いたずらに私は暴露するような、そういうあれはありません。政治の姿勢の問題としてこれを取り上げておるのであります。実はあとで報告になれば明確になってくると思いますけれども、これは与党の有力者が関係をされております。そして、それの出資者はいろいろありますけれども、兵器産業の会社が出資者になっておる。場所はジュッセルドルフである。しかもこのジュッセルドルフのドレスデン銀行をめぐっていろんなことがいわれておるのです。私は一部資料を持っております。しかし、この委員会、この場所においては、私はいろいろ問題があろうと思います。) そのころの鍵を握る川部氏は、行方は分からないと川部東京事務所の弁だったそうである。いずれにせよ、日本館の関係者に死者のでていることは周知の事実である。
母よしは、太郎の死後二ケ月のち他界する。
ドイツの日本館へ出店間もないころ、よしさんから相談をうけたときがある。料亭のコーナーに、小粋なそばやの店を持ちたいが協力してくれないか、と云う話だった。
私がそれを保留し続けているうちに、日本館の資金繰りが忙しくなったのだろう、いつの間にか、その話しは立ち消えになってしまった。
太郎氏の結婚式、太郎氏、母よしさんの葬儀、それぞれに参席したが、なかでも印象的なのは、よしさん亡き後の親族会議であった。親族一同は、料亭の再興で意見の一致をみたが、太郎氏の嫁けい子さんだけは、頑なに土地共々の売却を翻さず、結果的に、けい子さんの権利が優先し、親族側は涙を呑んで、数回に及ぶ親族会議は終結した。私も意見をもとめられたが、沈黙をまもった。是非と云われ、宗祖親鸞のお言葉をのべた。当然、古立家も、浄土真宗である。
「善き人の仰せをいただいて信ずるほかに子細なきなり。このお言葉をけい子さんに贈る」といって私は席をたった。
ここに柳橋花柳界に君臨していた柳光亭は姿を消すことになる。
少し柳光亭にふれてみたい。当時、大相撲は六十九連勝の記録を待つ、双葉山と青森県出身の鏡岩との対戦が、絶対的な好勝負であった。両国場所、いわゆる本場所は、場所中、柳光亭は枡席を通年買い取っていて、私もその席から鏡岩を声張り上げて、応援していたことが思い浮かぶ。柳光亭には横綱、大関、又は人気の幕内力士等が客に招かれて出入りしていた。
「ゴッツアンデス」
中学一、二年頃だったと思うが、帰りぎわの太い声の力士と握手をして、手の大きさに驚いたことがある。横綱、大関は、殆ど無言で、ただ、笑顔を残して料亭をあとにした。
太郎氏の祖母の葬儀の写真がある。横綱、大関からの沢山の供物が仏前を飾っていた。
非業の最後を遂げた太郎氏には一人、姉がいた。藤山愛一郎の愛妾の娘が、古立千吉(太郎の父)に嫁ぎ、その子が姉にあたり、太郎は後妻の一子である。後妻は、柳橋きっての、美貌の中の美貌といわれた、売れっ子の芸者だった。姉は、父親似て千葉の旧家に嫁いでる。太郎も、どちらかと云えば父親顔だが、藤山愛一郎の血はひいていない。政治家とは無縁の血である。だからという訳ではないが、政界の風雲には耐えられる知力も、体力もなかったと思う。
太郎氏が亡くなって間もないころ、私は妻と、浅草にある古立家の墓を詣でたときがある。墓前で妻がなにかを語っていた。太郎氏の冥福を析る姿を横に見て、私は柳光亭に想いを馳せ、一つの和歌を口づさんでいた
行く末の
空はひとつにかすめども
山もとしろく立つ煙りかな
時が流れた。当時、億の金を手にした、けい子さんは活路を札幌に求め、札幌三越デパート地下にある柳光亭支店で昼を務め、夜は麻雀荘を経営し、消えなんとする灯を守っていた。
数十年が流れた。
風説によれば、けい子さんは、親戚筋を頼り、金
融の哀願を続けたという。……私も歳をとった。妙に柳橋が懐かしい。柳橋の花柳界の芸者衆は、五百人を越える賑わいだった。それが今、砂上の楼閣の如く消え去り、八戸小中野の遊郭も消えた。私の母が、これからは八戸の町に出なければと私の背を押してくれて、今日まで蕎麦屋の暖簾を掲げられた。歳をとった私が、今度は倅たちの背を押さなければならないのだが、どうも、それが出来ているような出来ないような、心細さばかりが先に立つ……。
その岸首相の一言が、二人の自殺者を生むことになった。一人は私のルーツである両国柳橋の高級料亭とよばれている「柳光亭」の若き店主、古立太郎である。源流を井の頭公園に持つ神田川は、墨田川に合流していて、合流地点に長さ三〇メートルばかりの鉄骨の橋がかかっている。「柳橋」である。
粋な花街の風情はもう無いが、かつて、この一帯は東京の代表的な花柳界であった。柳橋のたもとに亀清楼、並んで柳光亭、柳橋を代表するにふさわしい高級料亭だった。柳光亭は、明治初期に開業し三百坪の敷地を持ち、百拾余年の歴史の上に君臨していた。柳光亭は政界、亀清楼は財界関係の顧客が多く、戦前、柳光亭に客があると、私服警官が取り巻いていたことは忘れられない。特に歴代総理が来ているときは、数台のパトカーが、いたるところに駐車していた。
岸首相が、柳光亭の女将(太郎の母)に、お座敷で声をかけた。当時、岸首相は日独協会の会長を務めていた。
「ドイツには日本人が相当いる。あちらにも一つ、料亭が欲しい、おまえのところでやらないか」この一言が、古立太郎を自殺に追い込むことになる。他の一人は、古立太郎氏より後の、グラマン疑惑で命を断った島田三敬氏(日商岩井)で、釈然としない暗部はあるのだが、兎にも角にも、政治的に操られた結果であろう。
ドイツに日本館が生まれた。正しくは「ジュセルドルフ日本館」設立は昭和三十八年、師走も押し追った十二月。資本金は三千五百万円。出資者は、岸首相の秘書川部美智雄、古立太郎、それぞれが三百万円。八幡製鉄、富士製鉄、日本鋼管、三井物産、三菱商事、住友商事、伊藤忠商事、丸紅飯田、富士銀行、東京銀行などの一流企業各社が二百万円。ほかに岸信介、古立よし(太郎の母)らが四十二万五千円。役員の顔ぶれも豪華版であった。
岸信介を会長に、川部美智雄社長、永野重雄、水上達三、荘清彦、市川忍、越後正一ら、財界の大物が取締役。稲山嘉寛が監査役、古立太郎は代表権のある副社長に就任している。設立目的は、ホテル、食堂、ナイトクラブなどの飲食業、美術品、食品の輸出人品、観光事業などである。
その後、古立太郎は、一千五百万円の増資をしていくのだが……。そして、運命の日、昭和四十九年二月四日夜、新横浜駅で下り列車に飛び込んだ。享年四十三だった。岸信介の秘書でもある、杜長の川部美智雄を横浜へ訪問しての直後だった。訪問の内容は、詳らかではないが、想像するに資金関係の故ではなかったかと思われる。居留守という説もある。切羽詰まった彼は、小切手を控えも記さず乱発していたという。その額は想像を絶していたそうだ。太郎氏は、四十二年七月二十日付けで、日本館の代表取締役副社長を辞任しているが、四十七年十一月二十四日に取締役に返り咲いている。死んだときも役職はそのままであった。
政界がらみの、この事態をどのように解釈したらよいのだろう。私の知識の及ばないところは、これを取り上げた当時の週刊紙から拾ってみよう。評論家の吉原公一郎氏は、岸さんの一面をこういう。「僕は藤山愛一郎氏(当時、政、財界を風靡した大実業家)の使い捨て振りと、古立太郎氏の一件が、どうもオーバーラップしてしまうんです。古立氏が殺されたとは思わないが、もう要らない人間だったんじゃないですかね。それから日本館だが、僕は、あれは岸さんだけのものじゃなく、保守本流を維持していくための資金管理の場だと思うんです」
「例えば藤山愛一郎氏だが、A級戦犯の岸さんが巣鴨プリズンから出てきて、ずいぶん世話になっている。そして岸さんの要請で政界入りした。ところが藤山氏が一派を持つとき、岸さんが分けてやった子分は、カネのかかる人達だけだったんだ。これも岸さんの一面じゃないかな。ともかく日本館は悪名たかいなぁ」
当時の楢崎弥之助代議士は、四十四年二月四日、衆院予算委員会でこの日本館のことを質問している。当時の外相は、半公信扱いだからといって、答弁し公開を拒否している。
(編集部註・衆議院委員会記録から・それで私は、一つだけお伺いをしておきます。外務省にお伺いしますが、西独のジュッセルドルフにレストラン日本館というものがあります。そのレストラン日本館の役員、それから資本金、出資者、これを明確にしてもらいたいと思います。○内田説明員 お答え申し上げます。 ただいま御質問の点、手元に持っておりませんので、取り調べまして後刻御報告申し上げます。○楢崎委員 あとで報告するそうであります。それでこのレストラン日本館の設立の問題について、料理屋のことは何で知るかというやじも飛びましたが、外務省は出先官庁も含めて、この設立に協力をしたかしないか。した事実があります。それは文書の上ではっきりなっている。そういう点も御存じでありましょう。○愛知国務大臣 全く突然の御質問でございましたので、私も全然知りませんから調べてみます。○楢崎委員 私はこれを明らかにしたいのは、政治の姿勢の問題と関連をしてであります。いたずらに私は暴露するような、そういうあれはありません。政治の姿勢の問題としてこれを取り上げておるのであります。実はあとで報告になれば明確になってくると思いますけれども、これは与党の有力者が関係をされております。そして、それの出資者はいろいろありますけれども、兵器産業の会社が出資者になっておる。場所はジュッセルドルフである。しかもこのジュッセルドルフのドレスデン銀行をめぐっていろんなことがいわれておるのです。私は一部資料を持っております。しかし、この委員会、この場所においては、私はいろいろ問題があろうと思います。) そのころの鍵を握る川部氏は、行方は分からないと川部東京事務所の弁だったそうである。いずれにせよ、日本館の関係者に死者のでていることは周知の事実である。
母よしは、太郎の死後二ケ月のち他界する。
ドイツの日本館へ出店間もないころ、よしさんから相談をうけたときがある。料亭のコーナーに、小粋なそばやの店を持ちたいが協力してくれないか、と云う話だった。
私がそれを保留し続けているうちに、日本館の資金繰りが忙しくなったのだろう、いつの間にか、その話しは立ち消えになってしまった。
太郎氏の結婚式、太郎氏、母よしさんの葬儀、それぞれに参席したが、なかでも印象的なのは、よしさん亡き後の親族会議であった。親族一同は、料亭の再興で意見の一致をみたが、太郎氏の嫁けい子さんだけは、頑なに土地共々の売却を翻さず、結果的に、けい子さんの権利が優先し、親族側は涙を呑んで、数回に及ぶ親族会議は終結した。私も意見をもとめられたが、沈黙をまもった。是非と云われ、宗祖親鸞のお言葉をのべた。当然、古立家も、浄土真宗である。
「善き人の仰せをいただいて信ずるほかに子細なきなり。このお言葉をけい子さんに贈る」といって私は席をたった。
ここに柳橋花柳界に君臨していた柳光亭は姿を消すことになる。
少し柳光亭にふれてみたい。当時、大相撲は六十九連勝の記録を待つ、双葉山と青森県出身の鏡岩との対戦が、絶対的な好勝負であった。両国場所、いわゆる本場所は、場所中、柳光亭は枡席を通年買い取っていて、私もその席から鏡岩を声張り上げて、応援していたことが思い浮かぶ。柳光亭には横綱、大関、又は人気の幕内力士等が客に招かれて出入りしていた。
「ゴッツアンデス」
中学一、二年頃だったと思うが、帰りぎわの太い声の力士と握手をして、手の大きさに驚いたことがある。横綱、大関は、殆ど無言で、ただ、笑顔を残して料亭をあとにした。
太郎氏の祖母の葬儀の写真がある。横綱、大関からの沢山の供物が仏前を飾っていた。
非業の最後を遂げた太郎氏には一人、姉がいた。藤山愛一郎の愛妾の娘が、古立千吉(太郎の父)に嫁ぎ、その子が姉にあたり、太郎は後妻の一子である。後妻は、柳橋きっての、美貌の中の美貌といわれた、売れっ子の芸者だった。姉は、父親似て千葉の旧家に嫁いでる。太郎も、どちらかと云えば父親顔だが、藤山愛一郎の血はひいていない。政治家とは無縁の血である。だからという訳ではないが、政界の風雲には耐えられる知力も、体力もなかったと思う。
太郎氏が亡くなって間もないころ、私は妻と、浅草にある古立家の墓を詣でたときがある。墓前で妻がなにかを語っていた。太郎氏の冥福を析る姿を横に見て、私は柳光亭に想いを馳せ、一つの和歌を口づさんでいた
行く末の
空はひとつにかすめども
山もとしろく立つ煙りかな
時が流れた。当時、億の金を手にした、けい子さんは活路を札幌に求め、札幌三越デパート地下にある柳光亭支店で昼を務め、夜は麻雀荘を経営し、消えなんとする灯を守っていた。
数十年が流れた。
風説によれば、けい子さんは、親戚筋を頼り、金
融の哀願を続けたという。……私も歳をとった。妙に柳橋が懐かしい。柳橋の花柳界の芸者衆は、五百人を越える賑わいだった。それが今、砂上の楼閣の如く消え去り、八戸小中野の遊郭も消えた。私の母が、これからは八戸の町に出なければと私の背を押してくれて、今日まで蕎麦屋の暖簾を掲げられた。歳をとった私が、今度は倅たちの背を押さなければならないのだが、どうも、それが出来ているような出来ないような、心細さばかりが先に立つ……。