ある土建屋の土砂崩落で河川が埋まり、その浚渫で280万かかった。この事は記したが、それが好転したのは、河川課が除雪の仕事をその土建屋に斡旋。
十二月、一月と除雪出動、なにがしかの金が市に返済された。よろこばしいことだ。変に水辺の楽校と癒着するよりは困民救済の方がよっぽど正しい。課員は「はちのへ今昔」に汚い手口と罵られたことに腹を立てて顔色が変わったが、こうして、一つひとつを解決することの方が大事ではないのか。
市民の税金でした浚渫の代執行の請求をするのは大事な仕事。しかし、払わないのと払えないのとでは天と地ほどの差がある。金が無くて払えない人には仕事を与えよダ。それを理解できないは情けない。人は誰しも渡らなければならない橋、川がある。
おちぶれて袖に涙のかかる時、人の心の奥ぞしらるる、で、零落したことのない温室生活の役人バラにはわからないことなのサ。産を倒し人に罵られ、人通りの少ない道を選んで歩かなければならない苦衷を知らない奴には貧乏人の辛さは理解できやしません。
知ってもらっても助けにゃならない、でも、仕事をもらえれば干天の慈雨、思わぬ所で手にした百両で、これは少しでも息継ぎができるものさ。そうして、人生の川を濡れずに橋を渡してもらえるのサ。
長い人生、山坂もあり川もある。それでも、たまさかの情けに出会うとき、心の底から、まだ人生も捨てたもんじゃないと、女房の手を握り締め、しみじみ思うものサ、それは貧乏暮らしをしたものだけが味わえるのヨ。それの積み重ねで、「はちのへ今昔」のようなヨレヨレ爺になっちまうのサ。諸君等も張り切れよ、今居る席でしか頑張れないのだから。精一杯おやりよ、「はちのへ今昔」は困った者に力を貸す。何故なら若者の悩みは「はちのへ今昔」の悩みなのだから。