八戸市は災害時に支援をしなければならない、あるいは支援をして欲しい人の名簿を作成した。これは役人が自発し作成したのではなく、あくまでも支援要請登録があった人を対象としている。
この名簿を作成したのは健康福祉政策課、その名簿には高齢者独居老人、障害者の一級手帳を持つ人等三千五百人。その名簿を表にしたのがこれ。地域別に住人、電話番号などが記入されているそうだ。その原本を見せない(個人情報)ので詳細は不明だが、これらをどう支援するのかと聞いたところ、役人が直接動かず、ボランティアが動く仕組みを考案。ここらが役人の頭のいいとこでズルいところだ。実際漏れた管を水に入って取り替えるのは下請けサ。水道企業団は手も汚そうとしない。シナの役人のように筒袖の中に手を入れて大物ぶっている。だからシナは日本にも他国にもいいようにされた。自分で働く汗を流すを知らない奴は他人の苦しみを理解なんてできなのサ。所詮、人を金を払う道具としか考えていない。この体質が有事には問われる。
この健康福祉政策課の無能ぶりは、その名簿を作成し防災室に運んだ。同様に消防にも手渡した。それで? それで終りヨ。ここがシナの役人発想サ。自分たちは書類を作成すれば事終れりだ。今回の断水でそれが機能したかは別問題なのサ。
表をよく見ると右端に支援者1、2とある。これは支援を必要とする人間に地域のボランティアを貼り付けた。勿論、この人々の名も名簿には記載されているのだろう。この人たちは動いたのか? 健康福祉政策課の課員たちが一月三日に出てきて自分たちで水を役所に用意されていたビニール袋で11人に運んだ。何故? 支援者が動かないのを知っていたからだ。何故動かなかったのか? それは課員が動けと言わなかったからだ。
すると、誰が地域支援員に号令をかけるのか? それが決まっていないままに防災、消防に名簿だけを届けた。防災も消防も受け取ったが、それを吟味しようとしない。これを災害時にどう生かすか、どう行動するかを考えず漫然と書類を床に積んだ。だから、何も動かなかった。
まさかの知恵こそ真の知恵と昔から言う。そのまさかに問われるのが役人なのサ。七人の侍の映画で冷たくした百姓らが警鐘を打たれ野武士が来たと怯える。そのまさかの為に侍を雇った。腰に刀をぶちこみ、猛然と現場に疾駆する。信の為に命を捨てる覚悟にこそ値打ちがあるのサ。人としてのヨ。それを亡くして、あるいはそれを持たずして百年生きてもタダ生きやがったといわれるのがオチだ。人は他人のために命を捨てられるのか?を絶えず問われているのサ。平和ボケした平成の奴等にはそれが見えないものヨ。
焼夷弾が落下して戦火の中を逃げ惑った人々も次第に滅び、焼け跡暮らしを経験した世代も職場から消えた。あとに残るのは手前のことしか考えないもの知らずばかりサ。だからこうした自分の都合で物差しを振り回す愚かものたちが出た。弱者救済は八戸市役所ではカラ念仏。毎日、念仏を唱えていた婆が地獄の閻魔に食ってかかった。閻魔さん、アンタ、この私がどうして地獄だえ? 閻魔が言ったナ。お前は確かに箸を上げる度にナンマンダブを唱えたが心がこもっていない。いよいよ息を引き取るときだけ本当の念仏が出た。それはお前のための念仏で生きる喜びの念仏じゃないゾ。これだ、八戸市役所のはカラ念仏ヨ。それで衆生を救おうなんぞと爪の垢ほども思わない。これを馬鹿野郎と呼ぶ。
駅のホームから落ちた阿呆を助けようと、我が身忘れて新大久保の駅で線路に飛び込んだ朝鮮人の心意気は凄かった。カメラマンも偉かった。が、八戸市職員は何をしたのだ。オタオタ自分の手で11件の給水をしただけで、事が足りるのか。そうではあるまい、支援員を動かす仕組みも考えず、自分の仕事を放擲した罪は重い。
また、部下に適切な指示が出せない課長、部長は叱責されても仕方がないが、小林市長もそこまでの知恵を持たない。たかが4年、されど4年、この年月の間で市長は問われた。前の弔問市長の中村氏よりはマシ。だが、それも悪いのと比較してだ。
救わなければならないのは要支援者ばかりではなかろう。二十年先の八戸を担う新生児二千人も救う対象にしない健康福祉部のありかたは非難されるべきだ。子どもは宝なのだ。これを忘れて未来はない。
水道企業団は絶対に断水は起きないつもりだった。だがつもりと実態は違い、こうしたザマを見た。予定と決定は違うように役人ばらの思惑と大きく違うところで世の中は動くもの。
最後に役人のつもり違いを記す。心に刻め。
高いつもりで低いのが役人の志
低いつもりで高いのが役人の頭
深いつもりで浅いのが役人の知識
浅いつもりで深いのが役人の出世欲
厚いつもりで薄いのが役人の情
薄いつもりで厚いのが役人の面の皮
有るようで無いのが役人の奉仕の心
無いようで有るのが役人のしてやった心
多いようで少ないのが役人の親切心
少ないようで多いのが役人の無駄
心せよ、壁に貼って拝めヨ。
この名簿を作成したのは健康福祉政策課、その名簿には高齢者独居老人、障害者の一級手帳を持つ人等三千五百人。その名簿を表にしたのがこれ。地域別に住人、電話番号などが記入されているそうだ。その原本を見せない(個人情報)ので詳細は不明だが、これらをどう支援するのかと聞いたところ、役人が直接動かず、ボランティアが動く仕組みを考案。ここらが役人の頭のいいとこでズルいところだ。実際漏れた管を水に入って取り替えるのは下請けサ。水道企業団は手も汚そうとしない。シナの役人のように筒袖の中に手を入れて大物ぶっている。だからシナは日本にも他国にもいいようにされた。自分で働く汗を流すを知らない奴は他人の苦しみを理解なんてできなのサ。所詮、人を金を払う道具としか考えていない。この体質が有事には問われる。
この健康福祉政策課の無能ぶりは、その名簿を作成し防災室に運んだ。同様に消防にも手渡した。それで? それで終りヨ。ここがシナの役人発想サ。自分たちは書類を作成すれば事終れりだ。今回の断水でそれが機能したかは別問題なのサ。
表をよく見ると右端に支援者1、2とある。これは支援を必要とする人間に地域のボランティアを貼り付けた。勿論、この人々の名も名簿には記載されているのだろう。この人たちは動いたのか? 健康福祉政策課の課員たちが一月三日に出てきて自分たちで水を役所に用意されていたビニール袋で11人に運んだ。何故? 支援者が動かないのを知っていたからだ。何故動かなかったのか? それは課員が動けと言わなかったからだ。
すると、誰が地域支援員に号令をかけるのか? それが決まっていないままに防災、消防に名簿だけを届けた。防災も消防も受け取ったが、それを吟味しようとしない。これを災害時にどう生かすか、どう行動するかを考えず漫然と書類を床に積んだ。だから、何も動かなかった。
まさかの知恵こそ真の知恵と昔から言う。そのまさかに問われるのが役人なのサ。七人の侍の映画で冷たくした百姓らが警鐘を打たれ野武士が来たと怯える。そのまさかの為に侍を雇った。腰に刀をぶちこみ、猛然と現場に疾駆する。信の為に命を捨てる覚悟にこそ値打ちがあるのサ。人としてのヨ。それを亡くして、あるいはそれを持たずして百年生きてもタダ生きやがったといわれるのがオチだ。人は他人のために命を捨てられるのか?を絶えず問われているのサ。平和ボケした平成の奴等にはそれが見えないものヨ。
焼夷弾が落下して戦火の中を逃げ惑った人々も次第に滅び、焼け跡暮らしを経験した世代も職場から消えた。あとに残るのは手前のことしか考えないもの知らずばかりサ。だからこうした自分の都合で物差しを振り回す愚かものたちが出た。弱者救済は八戸市役所ではカラ念仏。毎日、念仏を唱えていた婆が地獄の閻魔に食ってかかった。閻魔さん、アンタ、この私がどうして地獄だえ? 閻魔が言ったナ。お前は確かに箸を上げる度にナンマンダブを唱えたが心がこもっていない。いよいよ息を引き取るときだけ本当の念仏が出た。それはお前のための念仏で生きる喜びの念仏じゃないゾ。これだ、八戸市役所のはカラ念仏ヨ。それで衆生を救おうなんぞと爪の垢ほども思わない。これを馬鹿野郎と呼ぶ。
駅のホームから落ちた阿呆を助けようと、我が身忘れて新大久保の駅で線路に飛び込んだ朝鮮人の心意気は凄かった。カメラマンも偉かった。が、八戸市職員は何をしたのだ。オタオタ自分の手で11件の給水をしただけで、事が足りるのか。そうではあるまい、支援員を動かす仕組みも考えず、自分の仕事を放擲した罪は重い。
また、部下に適切な指示が出せない課長、部長は叱責されても仕方がないが、小林市長もそこまでの知恵を持たない。たかが4年、されど4年、この年月の間で市長は問われた。前の弔問市長の中村氏よりはマシ。だが、それも悪いのと比較してだ。
救わなければならないのは要支援者ばかりではなかろう。二十年先の八戸を担う新生児二千人も救う対象にしない健康福祉部のありかたは非難されるべきだ。子どもは宝なのだ。これを忘れて未来はない。
水道企業団は絶対に断水は起きないつもりだった。だがつもりと実態は違い、こうしたザマを見た。予定と決定は違うように役人ばらの思惑と大きく違うところで世の中は動くもの。
最後に役人のつもり違いを記す。心に刻め。
高いつもりで低いのが役人の志
低いつもりで高いのが役人の頭
深いつもりで浅いのが役人の知識
浅いつもりで深いのが役人の出世欲
厚いつもりで薄いのが役人の情
薄いつもりで厚いのが役人の面の皮
有るようで無いのが役人の奉仕の心
無いようで有るのが役人のしてやった心
多いようで少ないのが役人の親切心
少ないようで多いのが役人の無駄
心せよ、壁に貼って拝めヨ。