そもそも水産は特別会計となっている。特別会計の主旨は各個の事業や資金の状況を区分経理することで受益と負担の関係を明確化することで、一般会計から切り離し単独の事業とみなすことにある。
つまり、特別会計は役所の別会社の意味があり、ここは違う財布となる。ここに利益が出れば親会社の市役所に金を戻すべきだが、不肖の倅で金ばかり無心するようじゃ、別会社にした意味がない。市場長に任命されたものは少なくも、ドラ息子の名を返上するべく努力する、任命された期間内で会計の健全化に尽力する。これが役人の仕事だが、彼等にはその意識がない。
自分の在任期間はことなかれ主義で改革も改善もしようとしない。それが、役人根性の極みなのだ。
かつては水産は花形だった。昭和61年には七百五十億もの水揚げがあった。当然市場使用料も二千二百万も上がった。しかし、これを頂上として降下していく訳だが、その時に、このままでは使用料の確保が難しくなるとの判断がなされない。
ここに問題がある。変化していく状況は誰も止めることができない。それは年々老化する施設と人間の肉体との関係に似て誰もこれに抗することはできない。
だが、衰えを察知して次の手を打つことは可能なのだ。世界は今病んでいて、炭酸ガスの排出量を売買する時代、そんな見えないものにまで価格をつける発想が間違いといえば間違いだが、とてつもない発想の転換との認識もある。
魚市場の問題も、水揚げ金額にのみ目をやらず、特別会計の責任者としては、施設の老朽化に対する費用捻出を考慮すれば、青果市場の面積割り収入を当然考えるべきだった。
ところが、これを看過し今日に至った。ここまで来るとどうにもならない。魚市場の卸業者が二社いるが、これを一社体制にし、人員削減をし困難をしのぐ。そして時期の回復を待つ以外に方法はない。
解決方法は漁獲高を向上させる。しかし、八戸船籍の数は激減、まき網船もいなくなった。外来県の船を当てにする以外に水揚げ向上の方法はない。
新井田川にひしめきあった船は夢のまた夢。外来船の水揚げ比率は最大で半分程度に伸びることもあるが、でっこみひっこみが激しい。平成十八年度は半分だが金額にすると三割程度と、魚種による変化も見れる。
さて、魚市場の運営効率化を睨むのは必ずしも市場長の責任ばかりではない。運営審議会があり、このメンバーは市側から金を貰って色々と意見と智慧を出す。これが機能していないことも付け加えなければならない。
これが業者側にとって有利に作用したのが平成七年の条例改定で使用料率の下げ。円滑な市場運営を願うわけだから、必ずしも市側に有利な条件ばかりを審議する必要もないが、卸業者の人員削減などの組織再編、経費削減を促しての使用料率下げは理解できるが、それもなくして何の審議会か。構成員は次の通り。
学歴経験者
畑中哲郎、ご存知事なかれ主義者の集団、八戸商工会議所専務理事
浦山昭二、八戸港湾社長
服部昭、八戸大学教授、この人物が審議会会長
加藤純三郎、八戸市前経済部長
生産者団体
柳谷栄次郎、八戸漁協理事
川村嘉造、八戸機船底引き理事
熊谷拓治、八戸市イカ釣り理事
流通団体
大矢直、魚市場仲買人理事
三浦源次、魚市場加工仲買理事
酒井義男、新仲買人理事
卸業者
江渡代次郎、漁協理事
秋山光雄、八戸魚市場常務
市議会
越田巌、谷地先次郎、上田善四郎
これらの人間がどのような審議をしたかを知らぬが、卸業者の経営が苦しいからと手数料を引き下げた。審議会には毎年二十万余の報酬が出されている。審議会は青果市場の実情を知らないのか。そんな程度の認識しかない審議会が毎年開催されること事態が恐ろしい。
もっと問題意識を持ち、どうしたら八戸市の健全財政となるかを考えるべきだ。なかよし会ではないのだ。市民の税金をわずかとは言え頂戴する以上、市民のことを第一義に考えよ。こうした屁にもならない会が方々にある。青果市場の協議会がそれだ。これらも全くもってなかよし会で、手拍子で終わる。こんなことで一般会計からの持ち出しを容認できない。
前にも記したが、特別会計はそれなりの意味と意義がある。
総体に八戸はもたれあい主義で、明確、明瞭な物言いをする人間の足をひっぱる。それの最たる者が八戸商工会議所会頭の橋本氏、何もしないで勲章を貰った。何かするより何もしないほうがいいは、質屋の主人によくあるタイプ。
この橋本氏が何を八戸市にしたというか、何もしないで八戸中心商店街を崩壊に導いた。この男の最大の欠点は中心商店街を考えずに郊外型の店、ラピア出現に尽力したこと。商工会議所としては大型店の出現には来るな、来るな、それが町から出て沼館に行くと決まると、行くな行くなだ。
節操もなにもない。それは橋本氏が会頭にある立場でいながら、八戸の中心商店街崩壊の引き金を引いたことにある。
商工会議所がすべきことは、ラピアでも分かった通り、駐車場の無料化だった。八戸中心商店街付近の民間駐車場の役所による借り上げ、その金は税金で担うのだ。こうした発想の転換をせず我が利ばかりを狙った橋本氏は中心商店街を捨てて、郊外型に走り、それも思わしくなくなり、中心商店街の先祖代々の土地に靴屋部分を縮小し、コンビニが出現。貸したのか自営かは分からぬが、本業が盛業ならこうしたこともあるまい。
困窮したときに出るのが本当の智慧。その必死の智慧が八戸を支える。もたれあいでは生きた智慧はでない。橋本氏は影に回り「はちのへ今昔」を読まないように説得し、批判的言葉をいうと「はちのへ今昔」に毒されていると評した。そんなことは言論の自由だが、人の足を引っ張る暇があれば、八戸興隆の智慧を出せ。長く留まればゴミも澱みもでる。後続の若者が自滅して、なんとなく橋本体制が続いたが、勲章を期に引退も考慮すべきだ。
そこで、魚市場の手数料収入増加には方法があることを披瀝する。
入り口、つまり漁獲高の増、これは魚が寄ってこない限りにはどうにもならない。県外船の水揚げが多いが、売り上げ高は低い。金額ベースで低いのは、八戸の魚市場の仕組みのまずさに起因。
まず、出口の問題に着目しなければならない。
仲買人制度で八戸ではユニバースのような県内きっての優良企業が仲買人になれない不合理がある。
買参入をさせない仕組みが八戸魚市場には厳然としてあるのだ。新規参入者は7年待たなければならないでは、新規参入はさせないと等しい。象はお産に十年かかるというが、八戸魚市場は象か?
憲法でも職業の自由を言うが市側はこれを黙認している。市側は三者(卸業者・仲買・市側)でこれを決めているというが、金の支払いを新規参入者が出来るかどうかを見極めるために必要な期間だという。(六月六日水産課に電話確認)年商1千億円も上げるユニバースの何処に信用不安があろう。まして、彼には現金でのその場決済とて可能だ。貸す必要などないのだ。
その彼は東京や仙台から魚を買い付ける。八戸魚市場は閉鎖的で、新規買い付け人を拒むからだ。
流通の業界に大波が来た。
水産業会の本から抜粋する。
昭和四十年代の頃の話
魚市場にたまにやってくるスーパーマーケットのバイヤーは上客だった。いくら〈安いことはいいことだ〉のスーパーマーケットといえども、相場感は毎日サカナをみたり、触ったりして、㌔5円、10円の単位で値段を戦わせている、魚市場の人間にはかなわない。たかが5円、10円とはいえ、それだけの値差があれば、サカナがどっとその方向に流れていくのが相場の世界だ。
それだけシビアな世界に慣れた築地の業界人にとって、売る数量が桁違いで、しかも5円、10円程度の仕入れの違いは値入れ(利益率)の調整で簡単に吸収してしまうスーパーマーケットのバイヤーという者は今までみたことのない、特殊な人種だったのだ。バイヤーたちが気にするのは値段ではなく、サカナの数量が確保出来るかということだった。スーパーマーケットの特売のチラシに載った商品の欠品は絶対に避けなければならない事態だった。欠品すると、末端の店舗の鮮魚担当者たちが、わざわざ足を伸ばして買いにきた、主婦たちの突き上げに会うからである
一九七0年代の、〈初めにメーカーの原価ありき〉という流通の常識が、〈初めにスーパーマーケットの売価ありき〉となったのである。 このことにより、水産業界も大きく変わった。さらに、メーカーとスーパーマーケットとの立場の逆転は「価格決定権」にとどまらず、それまでメーカーが独占していたメーカーの「商品開発」の機能にまで及んだのだった。スーパーマーケットは消費者にもっとも近い段階の情報により、 「これならば、かならず売れる」という商品の規格・販売戦略などをメーカーに対して提案したのだ。水産加工業者にしても、こういった提案は無視出来なかった。
八戸魚市場は世の中の流れに逆行している。
新規買受人は巨大な財布を持ち、消費者を背中にして、型の揃った魚を買い集める。
それは広告に掲載した物は欠品できないのだ。これだけの値段でこれだけの量を売りますと保障しているから。
賭博場を考えよう。競馬を見ろ。馬券を買う人間が多ければ多いほど利益がある。売り上げの25%をピンハネするから。新規参入者が減り岩手公営競馬はダメになった。
絶えず新規で金を持ったオダン(旦那)が狙い目。八戸魚市場とて零細な青息吐息の業者の言い分だけを聞いて市場を閉鎖しユニバースのような大型な業者を入れないは、公営競馬岩手同様倒産の一途だ。
こうした大型業者は魚の型を一様にした物しか買わない。それには魚の選別機械を導入することだ。仲買は古いやりかたで、混入した魚に安い値段をつけ、選別して高く売りつける。こすからい商法で、現代的なものではない。
これは仲買だけが儲かる方法で、漁師は安く買い叩かれるだけでしかない。
仲買は漁師が選別しないから安いというだろうが、狭い船内でそんな作業はできない。これは八戸市側が魚の選別機を導入し、漁師に少しでも多くの利益を与える、また、卸業者にとっても、少ない資源が高値で取引されることにより手数料収入も増大する。
利益を上げられなくなるのは、いままで甘い汁を吸っていた仲買だけ。卸業者もいい。市側もいい、さらにユニバースなどの大手業者も直接浜から買い付けることができ、新鮮な魚を消費者に届けられる。
新潟漁港はこれをして高く魚を売っている。こんな簡単な図式が水産課に分からないはすもない。業者との癒着があればこそ、決断が出来ない。水産課は八戸市民のためになることをしろ。
日本の将来を見据えろ。そこにしか、水産業界の存続の道はない。
全国的な流れに背を向けて、八戸の水産も、水産課もないのだ。その根源となる、どの大きさの魚が何匹入っているかの、選別機の導入を拒む中卸の言い分を聞く時代は過ぎた。
明瞭、簡潔な時代に突入している。ましてユニバースは東北でも屈指の企業。これの参入を拒む八戸市条例はない。誰しも金払いのいい人なら、どうぞ参入して欲しいと要請、要望するのが道。
それを忘れて業者の言いなりになるな。もっと骨を持て、条例どおりに新規参入者を認めろ、江戸時代ではない。十組問屋は元禄の頃、今から三百年も前の話だ。それが本州最果ての青森県八戸にはまだあるのだから仰天。
長生きはするものだ。
脱線したが、水産王国八戸を取り戻すには奇策が必要となる。それに着目したのが小林市長。さて、その企みは上手く行くのか。次回は稿を改めて小林市長のたくらみを解剖。