2009年4月30日木曜日

デーリー東北新聞起原 2


昭和二十年十二月十日、穂積義孝により創業さる。この新聞の起原さぐるシリーズ。紙面から広告を主体として解説。
死亡広告起原
吉田昌平、祖母フチ、葬儀は来迎寺にて、昭和二十一年四月二十一日
死亡広告はデーリー東北新聞の重要な資金源。また、この広告費が高い。これを値切る人もいないので大事なドル箱。 この死亡広告はデーリー東北新聞が始めたのではなく、奥南新報なども盛んに掲載。この奥南も戦後は命脈を絶ち、新聞不在の状態が八戸に出現、そこに穂積が政界進出の足がかりとしてデーリー東北新聞を発行。これほどまでに充実したのは、執筆陣もさることながら、専売所の支援があった。これを忘れてはいけない。

2009年4月29日水曜日

八戸図書館の手抜き

白井権八の落語をラジオで聞いた。その中の一言に気を惹かれ、それを調べてみようと思い立った。パソコンで蔵書を調べるがない。そこで県立図書館をしらべると該当あり。本の題名は立川談志、一応相互貸借の申し込みをしたが、八戸図書館蔵書の落語本に掲載されていないかと、落語、講談本を全部しらべた。すると、立川談志全集に白井権八が掲載されている。
 八戸図書館の図書検索機には、外題が載っていない。外題を載せればこうした二度手間、三度手間はないので厳重に申し込んだ。
 文学全集も同様、誰の全集の第何巻にあるかがわからないから、ひたすら目次を次々と探す。昭和のじだいじゃない、平成の御世、もうすこし知恵を廻せ知恵を。
 そこで探した一言は、「お言葉、まことにもってかたじけなくはあれど、聞かぬうちはまだしものこと、聞いたからには、武士と生まれた悲しさは、狭い道を広げて通るのがおのが稼業、山賊どもの人数がどれほどあるは知らねども、腕と目釘の続く限り、斬って斬って斬りまくり、庶民の難儀を救いたい、と、幡随院長兵衛どのにはよしなにお伝えを」
この山賊が鈴が森に居る、山賊退治中に出るのが、長兵衛、「お若いのお待ちなせぇ」「待てとおとどめなさりしは、手前がことでござるよナ」と有名な掛け合いになる、歌舞伎「ご存知、鈴が森」となる。
 たった、これを探すのに苦労だ、苦労だ。
武士と生まれた悲しさは、狭い道を広げて通るのがおのが稼業、山賊どもの人数がどれほどあるは知らねども、腕と目釘の続く限り、斬って斬って斬りまくり、庶民の難儀を救いたい、これは八戸市役所に聞かせたいもんだ。

デーリー東北新聞起原 1


昭和二十年十二月十日、穂積義孝により創業さる。この新聞の起原さぐるシリーズ。紙面から広告を主体として解説。
オリエンタルダンスホール
三日町の今度建つ市の施設は昔はユニバースの前身、三万百貨店、戦時中は飛ばない飛行機、実物大の模型を造り高館飛行場に陳列、毎日、位置を変えて、動いているように見せた。敗戦後、駐留軍相手のダンスホールになった。オリエンタル酒店は社長の佐々木正太郎の店、今でもロー丁にあり。
会長が三浦萬吉、常務が伊藤裕、総務部長も兼務、取締役に穂積の名も。同、大津毅、監査役に佐々木耕平、同、泉山重吉、テキヤの親分、後に中央劇場を経営し大儲け、水目沢の米軍キャンプから米兵がオリエンタルダンスホールで無法なことをした。当時の警察は国警と市警察で腰抜け、互いに相手が出ろとしり込み、それを私警察の泉山がたたき出す。暴力には暴力が解決。ところがMPが出てきて、泉山を探す。捕まれば沖縄送りで重労働、これを隠しに隠すのが日本人たち。この功績が映画館設立に結びつく。業務部長に戸田雄三、経理部長、中村弘、総務課長馬場弘一、第二課長佐々木興平

2009年4月28日火曜日

横のつながり欠如の教育委員会

クサナギって男が公園でチン出して逮捕だ。この男は他人の家を覗き込むような格好で、テレビが見えなくなりますと、地デジの広告だ。見えなくなったのじゃない見えるようになったのが、地デジだけにチン出じだ。
新聞も書いたナ、出金男、金を出したのじゃない、世の中、金と玉とあるが、金をだした。金(かね)を足長おじさんで恵まれない子等にだせばいいが、金だして子等からコラと怒られたのも妙。この男はスマップとか素モップとか床を磨く道具のようなグループにいた。その中に稲垣吾郎ってのがいて、こいつの親父と大学が一緒だった。なかなか活躍したグループだったが、金出しておこられるのも不思議だ。
さて、枕はこのくらいで、鮫神楽が国立演芸場に出演したことも、教育委員会は知らない。それが、郷土芸能を保存するのだから、物知らずに道を尋ねるようなもの。
 これが八戸の現状だ。それでも、市政は廻るのサ。職員は目先しか見ていない。十年先は夢の又夢、五年先は御念がいるよで、念入りにはならない。御念がいるは念の尊敬語だが、からかい半分に、そうなるのかという意だ。
いやいややるんだ、職員たちは。だからいい仕事ができるはずはさらさらない。このDVD作成も、郷土芸能を保持、保存する点にある。少子化で演者があつまらない。今回の撮影に小獅子がある。これは角兵衛獅子。角兵衛獅子は越後獅子を指す。これには親方がいて、子獅子をつとめる子供を養子にもらい、彼らを育てながら芸を仕込み、そうした子供を数人連れて日本各地を廻り生計を立てていた。
そのとき、いくらかの金銭の授受が親方と実の親との間にあり、子供の身売り金ということになる。芸の諸国巡業は江戸中期から、明治に入り減少、大正期にほとんど姿を消した。昭和八年には少年虐待防止法ができ、金儲け目当ての子供の獅子舞は禁止された。
新潟県西蒲原郡月潟村(つきがた)村の郷土芸能だが、もとはかどづけ芸。扮装(ふんそう)は、小さな赤獅子頭を頂き、筒袖(つつそで)の着物にたすき掛け、まんじ紋の胸当、裁着袴(たっつけばかま)に白手甲、下駄を履き、腹に腰鼓。芸は、金の鯱(しゃちほこ)、蟹(かに)の横這(よこば)い、獅子の乱菊、よどの川瀬の水車の一人芸、二人一組芸の肩櫓(かたやぐら)、大井川の川越し、唐子(からこ)人形の御馬乗り。江戸風俗を飾り、長唄、舞踊劇、下座(げざ)音楽などの題材となった。
また、これは美空ひばりの越後獅子の唄で全国に知られた。作詞:西条八十、作曲:万城目正
笛にうかれて 逆立ちすれば山が見えます ふるさとのわたしゃみなしご 街道ぐらしながれながれの 越後獅子
今日も今日とて 親方さんに芸がまずいと 叱られてバチでぶたれて 空見上げれば泣いているよな 昼の月
 この二人芸を八戸の鮫神楽は小獅子と呼ぶ。この芸の収録中に力がなくなって最後まで演じきれなかった。この鮫神楽の親方だった高橋下駄屋のご主人も昨年十一月になくなった。
 大層、鮫神楽の保存に尽力した人だった。惜しい人を亡くした。肺ガンだった。この人が後継者問題を憂いていた。たまたま、発表会を見に来た子どもが母親と来たと嬉しそうに語っていたのが、昨日のような気がするが、一年半も前になるか。人の生き死にはわからないものだ。
 その子どもに体力がなく、小獅子が収録できなかった。後継者育成が叫ばれる。教育委員会文化財課がこれを作成、その本数は40本。小中学校には一本も配布されない。また、八戸図書館も置いていない。このDVDを見る機会をふやし、子等にやってみたい、テレビに出たいの欲望を起こしてもらうことだ。ところが、学校教育課は同じ階にあれども、相互連絡がないため、40本のうち12本は文化財課で眠っている。
 貸し出しはするというが、一般市民に見せるより、小中学生に見せ、演目に参加させることが大事だ。北稜中には郷土芸能「えんぶり」組がある。このように、学校単位で郷土芸能の担い手を探す必要性に迫られているのも実情だ。
 その音頭とり、旗振りを行政がやらずして誰ができる。それも教育委員会が一丸となってやる必要があるが、これら職員はダルイ。仕事は好んでしたくない。だから幾ら言われてもやらなかろう。市役所全体の課長会議、係長会議をしろと叫ぶも誰もきかない。が、こうした馬鹿げたことが現実にある。
 もっとDVDをプリントし、これを各学校に配布し、子どもたちにまねをさせ、小獅子発表会として、全校とりくみの郷土芸能発表会をすれば、体の柔らかい子から演者がでるかもしれない。要は動機づけだ。するのは子どもたち、その気にさせるのが大人の仕事だ。どれほど面白くても、爺が子どもの役はできない。背骨を折るのが落ちだ。年寄りの冷水ヨ。
 税金は子どもたちのために使うのサ。それには郷土芸能保存のために補助金を出すことだ。そうしないと、折角の芸能もしなびるゾ。クサナギ同様に……

2009年4月27日月曜日

入札の仕組み知らずに割り食ったサウンドクリエイト

沼館にサウンドクリエイトという音響とTV会社からニュース映像の下請け取材会社がある。もっとも、十年ほどつきあいがないので、最新情報に欠け、TVの撮影下請けはしていないかもしれぬ。
 その会社名を久々に教育委員会の入札でみた。鮫神楽のDVD作成に国からの助成金を得て、それを資金源として教育委員会が計画。
 市役所の中でも、一番胡散臭い仕事をするのが教育委員会、いい加減のチャンピオンのような所。三八五に昭和46年から随意契約で給食配送を出していた。市内に給食センターは三つ、これを競争入札にしてくれた、結句、三八五は一つしか取れなかった。ズルイことをしていればとがめが来るのサ。
 さて、このDVD作成にあたって、設計書を作成する。教育委員会は詳細がわからないから業者に聞く。そして設計書をその金額にする。それを随意契約で、聞いた業者に出す。その業者が設計書より少し下の額で請け負う。こうした図式が八戸市役所の一般的構図だ。
 これは「はちのへ今昔」に言わせると官製談合、彼等役所は黙して返答せず。ダメなものはダメ。
 先般、サン・コンピューターが落札した防災のホットするメールはパソコンの入札価格が175万、最高額は500万、どうなっているのだろう。仕様が決まっているのにこれじゃあ、しようがない。
 こうしたとぼけた金額の差も、市役所はかまわないという。それは物品購入はやすければ安いほどいい。だから出精値引きがまかり通る。ところが、パソコンだけだとタダの箱、これにソフトを付ける。これを随意契約でサン・コンピューターに出した。予定より高い金額でだ。
 この一連を見ると、安い価格で落とさせて、あとで面倒見る図式だ。これを暴露するのは簡単なのだが、市長選を睨んでいるのでまだ見せない。補助金詐欺が見えたからだ。これは従来の方法では見せない。新手の見せ方を検討中。これが出れば小林市長は打撃を食うは必至。
 さて、サウンドクリエイトは教育委員会から電話を受けて設計書の作成に加担。これをサウンドクリエイトが書いたのか、それとも教育委員会は聴取しただけで、サウンドクリエイトから書類は貰わなかったのかが、役所の担当者が替わったから不明。ともかく、サウンドクリエイトを上手に使って設計書、これは業務委託をするには、これなくしては予算編成ができないので必須書類。これを作成、いつもだと聞いた業者に随意契約で出るが、どういう訳か入札になった。
 入札だと一番安い所に落ちるとサウンドクリエイトは思ったのだろう。ここに落とし穴、どういうことかと言うと、物品購入はサン・コンピューターで見たように最低価格に決定、ところが工事や請負契約には最低入札価格の設定がある。
 その制限は予定価格(これが設計価格、あるいは積算価格ともいう)より65%以上、80%以内とある。これを忘れてサウンドクリエイトは入札に参加。入札業者は三社、途中でカメラの和光が辞退。RABサービスとサウンドクリエイトの二社が応札。結果、サウンドクリエイトは取れなかった。それも一万円の差で。
 入札予定価格書に左欄は消費税込み、右欄が抜き、入札は抜きでやる。サウンドクリエイトは199万円、最低価格が200万。鼻の差で取れなかった。
 それは、この最低価格を失念していたのか、あるいは教育委員会に提出した書類を忘れたか、それとも、メモを取らずに喋ったのか。いずれにせよ、妙な話だ。これが随意ではなく入札になったのは国からの助成金利用だと思う。普通は随意契約が主だ。
 さらにこの設計書で問題視しなければならないのは、鮫の神楽の出演者に涙金しか出ていない点。鮫神楽が出した領収書は十五万円、落札価格は二百三十万。神楽を演じたのは十七名、いかに安い金額で演じさせたかがわかる。
 教育委員会がこうした郷土芸能保存に金を出さず、収録業者に手厚いは癒着だ。人を何だと思っているのだ。神楽をホイト同然に思うから、こうした低料金で人を使う。郷土の宝だという気持ちが欠けている。鮫の神楽の保存には死んだ福島漁業の社長が金を湯水のように注いだ。だから衣装も幕もしっかりしている。
 こうして、見えないところで金を撒く奇特な人がいて、初めて郷土芸能だといえる。ところが、市役所は鼻くそのような銭をくれて鮫神楽の社中を使う。日頃、福島漁業の社長のように銭を出せ。それなら、話もわかるが、人を使うときだけ鼻くそ銭を出すな。だすなら収録業者の金額の三割は出せ。演者なくして収録はできない。本末転倒だ。
 サウンドクリエイトから出たのか、聴取したのか不明だが、出演者には製作雑費として25万を予定。もともと少ないのサ。人を安く使って業者だけが甘い汁を吸おうの図式だ。
 それでも神楽の社中は八戸市のためと思い張り切る。悪ズレしているのヨ、業者も教育委員会も。
 積算価格は262万になっていた。役所の仕組みは複雑だけに、入札最低価格も頭に入れないと安ければ落ちるは短絡、短絡。

2009年4月26日日曜日

昭和三十八年刊、八戸小学校九十年記念誌から 1

八戸小学校の思い出 岩岡徳兵衛
八戸小学校の校舎は、いまの市庁舎前のロータリーにある大きな木のあるあたりが玄関になっていました。そこは番町通リの突き当りになっていて、玄関を入ったすぐのところに職員室、その二階に講堂がありました。講堂が明治天皇の行在所であります。行在所を講堂にしたのではなく、天皇は学校の講堂にお泊りになったものと思います。
在学中、いまの長者小学校ができました。ため、生徒たちの一部はそちらに別れていきましたが、入学したころの八小は、八戸、といっても範囲は狭いものでありましたが、八戸におけるただ一つの学校でありました。今でも八戸小学校のこと
を八尋とよんだりしますが、八尋とよんだのは、吹上に高等小学校が分離されてからの呼びかたで、私のはいったころは、尋常高等小学校でしたから八尋とはいわなかったと思います。また男女は、境はないが別々の校舎にはいっていました。校長先生は稲葉万蔵、受け持ちは類家先生といいました。類家先生は昔の漢学者であり、修身や国語を教えていました。非常におっかないやかましい先生でしたが、反面、いかにも親しみのある先生でした。ただ教えさえすればよいというのではなく、よく生徒一人一人の面倒をみてくれました。あれが本当の教育者だという気がいたします。
 私はこどものころ人並みはずれてからだが弱く、学校に行くのがやっとというほどでした。そのせいもあったでしょうが、学校の成績はあまり芳しくなく、運動会などにもでませんでした。唱歌など、いくら先生に叱られても高い声で歌えませんでした。それでも学科のうちでは算術は好きな方でした。珠算も人よりは早い方でした。
同じクラスに立教大学総長の松下さんがいて、机を並べていました。今どうしているかわかりませんが、福田一郎という中学四年から海軍兵学校にはいった秀才もおりました。作家の北村小松さん、八戸文化協会の大橋さん、岩手放送の法師浜さん、なくなった社会党の西村菊次郎さんなどもいっしょでした。同じ学級というわけではありませんが、大下常吉さんや中島石蔵さんは、同じ町内でしたから遊び仲間でした。
 ともかくこどものころのわたしは、はにかみやで、人前でものを言ったりすることもなく、何時も隅の方に引っこんでばかりいる至って目だたない方でした。小さい時の友達は、どうして岩岡が政治をやるようになったかと思っているかも知れません。こどもの時のままではいけないと自分から努力したことはたしかです。今でも人前に出ることはあまり好みません。ただそれでは市長は勤まりませんから、人との折衝は大儀がらずにやっていますが、本質は引っこみ思案の方です。
 そんなわけでこどものころのわたしには、これといって楽しい思い出はありませんが、母校が立派な学校として発展することを、心から期待しております。(八戸市長)
 
思い出 松下正寿
私は明治三十四年四月十四日生れであるから明治四十一年四月に小学校に入学するはずであった。母(亀徳しず・和歌山県生まれ、東京築地の立教女学校卒業後、父松下一郎が八戸でキリスト教伝導するため共に来八、亀徳(きとく)正栄と結婚、二児を得、長男は正臣(青山学院教授)、次男が松下家を継ぎ松下正寿、当時の分娩法を改善するべく二十八歳で助産婦資格を得、西洋産婆と呼ばれた)もそのつもりでいたし、私もそう思っていた。私は体もちいさいし、おとなしい方だったので男の子には相手にされず、女の子だけと遊んでいた。女の子たちは私を「寿ちゃん」と呼んでかわいがってくれた。私もいい気になって甘えていた。突如町役場から通知があって、登校せよとのことである。明治四十年の三月であった。町役場の間違いで一年早く入学することになったのである。母は非常にあわてたが折角一年早くしてくれたのに棄権するのは惜しいというので登校することになった。
ほかの子供たちは準備ができているから大喜びで登校したが私は何となく情けなかった。年も足りなかったが発育がおくれていたとみえて何につけ意気地がなかった。受持の先生は類家先生と言って一年生の専門家として有名であった。クラスのうちでも私が特に意気地がなかったので持別に面倒をみてくれた。そのうち段々に慣れどうやら一人前の子供になったが体操をさしても駄目、宇は特に下手と来ているから決して優秀とは言えなかった。
私に比べ断然光っていたのは北村小松君であった。町長北村益氏の長男という親の七光りもあったかも知れないが、非常に優秀であった。体も丈夫だし、絵もうまかった。その上当時飛行機が発明された時であったのでよく模型飛行機を作って我々の人気を集めた。そのほか優秀だったのは八重畑君、福本晃一郎君、藤田正照君等であったが今はみな故人になっている。そのほか現八戸市長岩岡徳兵衛氏が同級であった。遊んだ記憶はあるが特別な印象は残っていない。
 何年の時か覚えていないが八戸小学校から長者小学校が分離した。長者方面の児童は自動的に転校することになったわけである。この思い出は私にとって余り楽しいものではない。私は心から別離を惜しみたかった。ところが長者小学校へ行く子供たちは「こんな古くさい建物などにいないで新築の立派なところへ行くのだ」と言って大威張りするし、八戸小学校に残留する子供は「長者へ行く奴はザイゴの奴だ」と言って馬鹿にした。派閥意識、対立感というものは子供の時からあるものらしい。私は八戸小学校に残留した者であるがこういう情勢を非常に悲しく思ったことを記憶している。
 私はしっかりしている方でなかったから友だちに迷惑をかけた。スミをこぼして隣りの友だちのスミを使わせてもらったこともある。掃除当番になっても仕事の手順がわからないのでマゴマゴして友だちに自分の仕事をすっかりしてもらったこともある。体格検査の時ほかの子供の袴をはいて帰って来たので母が方々たずねてお返ししたこともある。絵が上手にかけないので友だちに手伝ってもらったこともある。私が友だちを助けた記憶はないが、助けてもらったことは沢山ある。要するに私の八戸小学校における生活は先生や友だちに世話になったことばかりである。おかげ様で私はどうやら他人様に大したご迷惑をかけない生活をしている。有り難いことである。少しは他人様のご用もしている。面倒くさいとは思うが小学校の時他人様にご迷惑をかけだのだから当然のことであると心得ている。
(立教大学総長)
 
ああ、半世紀  北村小松
突然八戸にいる従妹から「これを見たらなつかしいでしょう。」とデーリー東北に大橋英郎さんが書かれた「私の級友⑥」の切りぬきを送って来たので、私は、なつかしいもなつかしかったがそれ以上にびっくりしました。
 というのは、私たち八戸小学校の級友がいつ、こういう写真をとったのだろうということがどうしても思い出せないし、私は、この写真をもっていないからです。だから松下正寿さん、岩岡徳兵衛市長さん、西村菊次郎さん、法師浜直吉さん、私……と説明がついているので、「アレ、なるほど、これが俺か。」と思ったほどで、ほかの方々は誰なのか一々当てられないのです。
 小学校の時のこういう写真も中学校の時の級友達との写真も一つもないのは家が大火の時焼けてしまったせいかも分りません。
 なるほど考えて見れば私が八戸小学校に入学してから半世紀はたっているのです。
 それに今の教頭先生が屋敷が隣り合わせになっていて大きな造り醤油蔵が並んでいた阿部さんで、そのお宅に毎晩のように「勉強だ」といって遊びに行っていた頃、まだ小さかったそのお宅の千代吉先生だとは!これは全く私には寝耳に水のようなことでした。
阿部先生に模型飛行機の作り方など伝授し、夜になってからは今の柏崎小学校が出来る前の空き地でローソクをつけて飛ばすなどという悪いことまでけしかけた私なのです。
昔のことをふりかえって見ると、まるで今の八戸では考えられない事が思い出として残るのです。
私の家があった長横町など電燈がまだともらない前は夜になるとまっくらになり、からすうりのなか身をえぐりぬいたちょうちんをつけて歩いたり、暗くなるとこうもりが飛ぶので古ゾーリを放り上げると、それについて地上すれすれまで急降下して来るのを面白がったりした。といってみたところで、ただ今の長横町のたたずまいからは、とてもそんなことは半世紀前に八戸小学校にいた人でなければ想像も出来ないでしょう。
あの頃、嬉しかったのは開校記念日にだったでしょうか。つるこまんじゆうというお菓子を学校から貰う事でしたし、奇妙に印象に残っているのは、十一月三日に各クラスの窓のところにかざる額を各クラスで秘密の中に競作をした事です。色々なデザインのものがあったと思いますが、その日は、つまり我々の年代の天長節というものであって明治天皇がお生れになった日だったという事です。何と明治は遠くなりにけるかなです。病院から退院した後の身なので頭の回転も悪くロクな文章の書けない事をおわびいたします。
 今となっては私には自分が出た学校の校歌の作詞をさせて頂いた事が何よりの光栄に思われます。そしてあの作曲をした友人故杉山長谷夫氏(御存知ない方があるかも知れませんが例の「キンラン、ドンスノ オビシメナガラ、ハナヨメゴリョウハ ナゼナクノダロ:」等々名曲の作曲者です。)が重病を(ガンでした。)押して私がさいそくに行くと、「これでいいかな、こっちがいいかい」とピアノに向ってあの校歌の曲をひいて見ながら、なお自分でもなっとく出来るようにやって呉れた苦悩の横顔があった事も御知らせしておきたいと思います。
 八戸小学校が皆様の手で益々発展いたしますよう遠くから祈っております。(作家)
 北村小松(ぎたむら・こまつ) 明治三六~昭和三九(一九〇三~一九六四)益の長男。慶応大学文学部の学生時代から創作活動をして文壇に認められ八戸出身の友人、中村誠一の紹介で女優花柳はるみを知り、松竹キネマに関係することとなったが多趣味、多才の人であった。大正八年慶大英文科に入学した日、東京日日新聞児童映画脚本募集に応募して三等に人選した。翌年小山内薫の門下となり松竹キネマ研究所に入った。卒業論文「ユージン・オニール研究」。卒業後、松竹蒲田撮影所脚本部に入社して戯曲脚本の創作活動を行なう。昭和三年、戯曲集「猿からもらった柿の種」(原始社)を刊行して作家としての地位を確立し、昭和六年、本邦最初のトーキー映画「マダムと女房」のシナリオを書く。「東日」や「読売」に連載小説を掲載。昭和一三年松竹映画を退社、戦争に文士として従軍、戦時中「燃ゆる大空」(昭和一七年講談社刊)で一世を風びし、ほかに従軍体験から「基地」などを書く。戦後パージになり、のち作家活動に復帰して文士劇などで活躍した。作家活動と相まって、広い趣味と多才ぶりを発揮、自家用ナンバー第一号の取得、社交ダンス界の通、模型飛行機界の先達、さらには宇宙もの、航空ものの開拓者であった。楽天的な性格から、「小松チャン」と愛称され、つき合いも広かった。(東奥日報青森県人名大事典から)

2009年4月25日土曜日

東奥日報に見る明治三十年の八戸及び八戸人

八戸の馬市と中村熊太郎氏
本年八戸の馬市に於いては出場の馬匹頗る多く価格は一頭平均五円以上にて中々高値の方なる由が数多の馬主の中にあって三戸郡名久井村中村熊太郎氏の馬匹においては逸物多く市中尤も評判なりしという氏は名久井方面にて有数の豪農にして酒造業を兼ね人望なかなかに盛んにして産馬組合に於いては創立の際より委員となり今は郡会議員の職をも帯いる由本年氏の引き出したる馬匹の主なるものを挙げれば退去雑種鹿毛代金百円一回雑種鹿毛代金百五十円退却雑種鹿毛代金百五十円、一回雑種鹿毛代金二百十円、以上四頭は種馬牧場へ買い上げられる四回雑種鹿毛代金百二十一円、初谷某に買い上げられる、二回雑種鹿毛代金三百十円、退却雑種青毛代金二百二十円以上○馬所に買い上げらるる一回雑種青毛代金百九十円、四回雑種青毛代金七十円、純洋種栗毛代金八十円以上三頭は軍馬育成所に買い上げられる等にしてこの以下なお数頭ありし由なるが同氏の馬匹は本年に限らず例年の如しという
三戸町通信
当町に於ける戸数は九百四十八戸人口は四千六百三十八人内士族百一戸平民八百三十七戸にして士族の内男二百五十九人女二百五十二人平民のうち男二千百五十一人女千九百七十五人なり
●当町に於いて本年の徴兵適齢者は三十壱名あり
● 当町大字久慈町二番戸平民菅原直氏は本県第一中学校生にして本年徴兵検査なりしが今般一年志願兵を出願せり
● 三戸病院当直医下山千代吉氏は留崎検梅医を辞したると同院には外一名の当直医あるに何の都合にや過日本郡長より開業医たる山田某に検梅医を任命せりという
● 三戸病院の欠員なるにより今度東京より聘せんとす不日理事者たる栗谷川町長上京する由なり因に記す同院は明治十年以来継続し来るに過般より本郡役所より昨年県令第三十八号により更に設置認可を経ざれば消滅且つ医員の如きは反則なる旨通牒に接し栗谷川町長には郡衙に出頭して従来設置に係るものは前段認可を経ざるも消滅となる理由なき意見を持して陳情せるに第三十八号県達の主意は認可を経ざれば消滅なり且つ其の筋よりも右の次第を申し越せりとのことにて其の手続きを為すなりと一旦帰町せんとするに山本県参事官郡衙に出張せるに際し同参事につき伺い出たるに従来より設置の分は認可手続きを経ざるも消滅せざるの法意なり併し取締上届出でだけは為すべしとのことなりし由前項検梅医の任命も多分役所にて法文誤解の点より取りはかるべしというものあり
● 三戸町の赤痢
三戸町の通信によれば同地にては今回赤痢患者三十名発生し警察及び町役場にて日々厳重に消毒を施行しおれるが右は大抵腸カタルの変症なる由にてこれまでは余り世間に知られざりしも警察にては日々巡査をして戸毎に患者の有無を取り調べしめ施療の医師にも注意したるところ一時に届け出となりて前記の患者を出すにいたれる由之がために町役場にては吏員一同消毒に尽力して朝は六時より晩は六時ころまで執務するが如き俄かに繁忙をきたしおれりと尤も右三十名の患者中二名は全治の旨去る二十七日医師より届け出であれりその他二三名を除くの外は真正の赤痢ならざるべく臥床しおるものはなき由斯く腸カタルの気味あるものは悉く赤痢として取り扱うが故に新患者は却って医師の診断を厭い隠蔽するが如き有様なれば世間の浮評もとりどりにて隣郡福岡地方においては三戸町は町内過般赤痢に悩まされ交通遮断しおるなど噂しおる為用事のありたる者も見合わせるがごとき勢いにて昨今の同町は寂寞たる景況なりという
● 自転車の速力 英国にて進行中の汽車中にある窃盗に追いつき之を捕縛したる巡査あり、今其の方法を聞くに巡査は前進せる汽車に窃盗あるを知るや直ちに自転車に乗り次の停車場に駆けつけ汽車の未だ到着せざる故暫く待ちおり遂に之を捕らえたるなりと其の機敏驚くの外なかるべし
これを読んだ日本人は驚いたろうなア、自転車とは一体、いかなるものだと驚嘆したろうが、何、汽車がのろいだけサ、現今の者なら知悉だが、まだ自転車を見たことのない当時の日本人には驚嘆だったろう。俗に百聞は一見にしかず。まさにこれ。
● 五戸組牡馬競売
五戸組にては本月十日より同十八日まで二歳牡馬競売の景況を聞くに内国種五百三十二頭其の代価二万千二百四十八円七十銭一頭につき平均三十九円、最高三百五十円、最低四円雑種十七頭代価三千六百三円、平均百八十円、最高四百十五円、最低四十二円なるが内軍馬購買に係るものは和種五十七頭雑種九頭にして最高二百十二円、亦奥羽種馬牧場に於いて買い上げたるは和種十三頭、雑種五頭最高二百七十円、最低七十円なりと
● 三戸郡有志大懇談会
政界まさに多事中なりの今日、気骨稜々の政客なんぞ黙して止まるや三戸郡の有志此処に見る所あり去る三日大懇談会を八戸町城西武蔵野軒に開く相会える者県会議員、郡会議員、町村長と土曜会派の有志たち無慮百名ばかり座定まりて先ず時の政治問題につき協議するところあり終わりて直ちに酒宴に移り席上発起人岩山高充氏起て開会の趣旨を述べ次に奈須川光宝氏今の政界に関する氏の所見を開陳、次に坂本●の進氏より痛快なる演説あり其より赤石辰三郎氏は源代議士を始め各地より到着したる祝電を朗読し終わりは献酬となりて酒間胸襟を開き快談をなす
● 八戸商業銀行 過日の紙上に掲載したる八戸町新設の銀行は八戸商業銀行として出願したる由重役の予選については二派に分かれて未だ決定せざる由
● 八戸盲人会 三戸郡八戸盲人会はかねて記せし如く設立数年前にあり爾来熱心盲人の教授に接し生徒は他郡よりも来たり居る由なるがこのほど按摩科に卒業生五人針治科にて一人ありしと目下同会の教授を担任しめるは医師中野健隆盲人永洞清吉十日市茂吉岩間某氏にして同会にて教授等に従事しおるものに対しては別に報酬とてもなきことなればいづれ有功章にても寄贈したきことにて会員等思案中なりとここに八戸町豪商加藤万吉氏病死の際同子息より同会に対し功徳の為とし金二円を寄贈し第二尋常中学校教諭斉藤文学士も同会の挙を賛成し在任中毎月金二十銭づつ寄付するなりと定めの如く出金し居り殊勝というべし
● 八戸盲人会の事については過日の紙上にも記するところありしが同会の卒業生は田中作太郎、一戸万次郎、清川丑松、東熊吉、松倉久六、小笠原兼松の六名にして尚同会にては算術及び○学等も教授する由にて其の講師は中里正賢氏なるが同氏は盲人なれども嘗て昌平黌(しょうへいこう・江戸幕府の儒学を主とした学校)に遊びたることあり算術は当時の中学校教師位の比にあらざる由階上銀行監査役石岡徳次郎及び武尾徳太郎の両氏も同会の為に尽力しおれりと
● 八戸町の有給助役 同町は従来名誉助役ありしが更に一名の有給助役を置くこととなりこのほど盛岡の某氏推薦せられて来任したる由南部一の都会と呼ばるる八戸町にも助役に適当な土着人無しと見えたり
● 第二回水産博覧会受賞者 
田作 市川村 三浦直哉
   八戸町 川越松五郎
鮑油 小中野村大久保弥三郎
田作 鮫村  深川治郎
干鮑 同   高橋虎之助
端折昆布 同 高清水蔵之助
島田昆布 同 高橋勝太郎
同    同 田中常吉
干ホッキ 八戸町 槻館門蔵
鰯搾粕  同   富岡新十郎
同    同   富岡重三郎
同    同   関野喜四郎
鮑味付け 同   田中常吉
鮪○   同   槻館門蔵
○皮   同   阿部松助
網    同   大岡嘉蔵
釣具   同   富岡新十郎
鰹節 階上村 平戸小助
つのまた 階上村 島守浪雄
○○   同   佐京彦松
ホッキ万牙 港村 長谷川勝次郎
● 八戸の強盗捕縛 本月四日のことなり八戸町において二箇所強盗騒ぎあり一は午前二時頃大字上組町五番戸戸館西松方他は同三時三十分頃大字二十六日町二十六番戸菓子商平田安太郎方にしていずれも忍び入りし強盗は一名なりしが双方とも家族の騒ぎにて近所合壁の知る所となり遂に其の目的を達するを得ざり其の筋にては注進に接するや早くも手○を為して之が逮捕に着手せしも賊はいずれに逃亡せしや跡白波容易に手がかりもなかりけり是より先同町大字上組町十一番戸に立花柾次郎(二十二年)てうあり年に似合わぬ悪漢にしてこれまでも詐欺取財にて一回窃盗にて二回都合三回処分を受け近頃監視規則違反として其の筋の注意を受けたるのみならず其の問題更に詐欺及び窃盗等数罪現れ来たりいよいよ逮捕に着手しおれるものなるが今回の強盗もこのものの仕業なると知られたるより八戸警察署のみならず八戸憲兵屯所にても数名の角袖(これがデカの語源・カクソデの下字のデと上字のカ)を派し種々の手勢を為して熱心に是が逮捕に従事し我こそ其の功を得んとしてあせりしもこの賊は白鞘を懐中しおりて危険のおそれあれば容易に近寄ることならずとの評判あり且つ何処に跡をくらましおるにや更に見当たらずして両日を経過せしが七日に至り賊は小中野遊郭の在りて一夜の春を買いおりしとの噂あり八戸署在勤刑事巡査雑賀重八郎氏は早くも之を聞き込み探偵方々単身にて取り押さえに向かわんとせり署長初め其の危険を注意せしも日ごろ大胆にしてこの道に熟練なる同人なればあえて意にかいせず日暮れごろブラブラ小中野に向かいし(この先破損)身振りにても今時分戻るも怪しや或いは目指す曲者にあらぬかと思わず柾次郎でないかと口走れば果たして曲者柾次郎この声聞くや否や車上より飛び降り肌脱ぐ手も見せず己がはきし足駄をもて雑賀刑事めがけて飛びかかれり柾次郎は大胆不敵の強者腕力にてはもとより数人を敵として屈せぬというもの殊に凶器をさえ携えしおることなれば雑賀刑事も容易ならぬ敵とは知りつつも初めよりより覚悟しおることなれば直にこれに手向かい先ず身をかわして打ちかかる柾次郎に空をうたせながらかねて用意の棍棒を以って心地よく柾次郎の小びんをなぐりて鮮血淋漓たりしも柾次郎は少しも屈せずかえって是までと覚悟しけん益々狂い廻りて抵抗し組み付かれ組み付かれずと争いし雑賀刑事も遂に柾次郎のために組み付かれかくては雑賀刑事も今は危うく見えつつやや暫く争いおるうち柾次郎を乗せ来たりし車夫の注進にて加勢の八重田巡査を初め溝江、岡田の三巡査駆け来たりて暫し争いたる末難なく之を取り押さえたりと言う尤も柾次郎の逮捕せられたるを聞くや同地方にてはいずれも安堵しおる由
● 山崩れ人死す 三戸郡上長苗代村大字根岸山崩れ死亡三人、負傷者数人は三戸町諏訪内出水の為
● 三戸郡水害 三戸郡において最も甚だしい水害に罹災しは小中野村にして同村の浸水家屋は三百七十戸新町は三尺位に過ぎさりしと雖も浦町すなわち遊郭地の如きは床上の浸水五尺以上に達したれば二階のあるところは家具を二階に持ち運び二階なきものは屋根に取り運ぶなどなかなかの騒ぎにてありしが郡吏役場事務員巡査等は舟筏に乗りて二階或いは屋上におる老若男女の救護に尽力し又一方はまさに流失せんず有様なるを以って消防夫等は専心之が防衛に従事したるため幸いに流失を免れるを得たりその他各村とも浸水家屋多く是川村部内の如きは○を流失したるもの十戸以上もありし由なれども家屋の流失せしものなきは不幸中の幸いとや言うべき小中野の罹災者へは八戸町の主だちより炊き出しを給与したりという
馬淵川は以前の洪水より七尺位水量は少なき方なりしも各小川は一尺五寸も増水したり
農作物は過般再○の洪水に罹りたれどもその後天候順に帰したる為其の景況至って宜しく今後一週間位もこの天気続きたれば稲作の如きは昨年に比して五割以上の増収あるべしと農家一般に喜びおりたるところなんぞ図らん去る月二十八日の暴風にて二十九日洪水となりて川岸近傍の田畑は大河と帰したることとなれば五割どころか翌年の籾さえ獲ることあたわざる所も数多あるべく今尚浸水か所ありしという