2008年4月1日火曜日

昭和三十八年刊、八戸小学校九十年記念誌から 7

八小の杉と語る
         福 井   清
         (昭和十一年三月卒業生) ロータリーに、幾百年の風雪に耐えて毅然と立っている古木(高野槙と言う杉の一種)がある。私はこの杉を八小の杉と名づけたい。と言うのは、明治大帝もお泊りになったと言う往時、最もモダンなあのステンドグラスのある旧校舎(旧図書館)の前庭にあったからだ。私たちは最初に今の校舎に入ることの出来た一年生でもあった。その時は、余りの面白さに新校舎の廊下で暴走して、某先生に叱られたことを思い出す。
 さて、この大樹はいつごろから植えられているのか知る由もない。しかし、少なくとも、最近世になってから、このあたりは文教、政治、治安の中心をなして来たが、そのまん中に立っているこの古木こそ、語らざる生きた歴史であろう。
 春の雨、秋の霜、幾星霜の間、この木の下を子供たちが元気に通いつづけて来たことだ。そして、その子供達の行く末の幸を暖かいまなざしで、祈っていたことであろう。今日又、校庭に遊ぶ子供たちの喜々とした笑い声を聞き、教室で鉛筆を持つ真剣なる子供たちをじっと見守っている。私は、この古木を仰ぐ時、何かしらほのぼのとしたものを感ぜずにはいられない。
ちょっと話をしてみよう。
私「母校が創立九十周年だそうで、ご感想は?」
杉「感無量だ……」私「今日を記念して 今後、貴方を八小の杉と呼びたいと思いますが:一人ぽっちで淋しいでしょう」
杉「まあね。十年ばかり前、昔から同じ校庭にあった仲よしのさいがち君が亡くなってね。今では私一人だ。二十世紀のなかばというのに、アカテコのお化け話なんか貰って気の毒なことしたよ」
私「八小の子供たちも成人すれば、八戸市民として活躍するわけですが、八戸の現状について一言……」
杉「武家時代からみると隔世の感がある。特に最近、新産業都市に指定され、前途は洋々としたものだ。私は八小の充実と市の発展を車の両輪のごときものと考え、今後とも見つづけるのが楽しみでなあ……。ただ何と言っても主体は人であるから、立派な人間がどしどし出て貰らわないことには面白くない。私の言う立派な人間とは、必ずしも形式上の社会的栄達を得た考や又富の蓄積を以って人間価値の最高度に達したつもりでいる連中ではなく世の中の色々な問題をより良いものにしようとする高い頭脳と暖かい心の持主 だ。年輩の人の中には昔の良き時代をなつかしむ傾向があるが、これから本当の良き時代をつくることだ」しみじみと古木は語る。
私「恩師故北沢義明先生をはじめ、諸先生の愛情ある薫陶を受けたにかかわらず、パッとしたこともしないまゝ既に中年になってしまい恥かしいと思っています」
杉「何を言う。北沢先生だけが亡くなられたが、他の諸先生は尚、かくしやくとして居られるではないか。幸いお前は健康だし、頑張る時ではないか。しっかりやれ」
私「いや、恐れ入りました。では御元気で」
来年も又、十年後もこうして大空を背に立ちつづけ、八小の卒業生であり、そして、八戸市民である我々を、励ましてくれている八小の杉の幸を、母校の発展と共に折りたい。
                     野々口 昌 子(旧生千葉)
    (昭和十一年三月卒業生)
 昭和十年当時の八戸尋常小学校六年生の二十七学級は生徒数六十二名の現代で云うすしずめ教室でした。授業中「先生、おしっこに……」と云い終らぬ内に失敬してしまう様な内気な男の子の居た時代だ。その頃からおっちょこちょいだった私は小使室へすっ飛んで行き、あと始末のためのお湯を貰わなくてはならない。
 当時は二人小使さんが居た。堅い大きな馬鈴薯の様な頭で眼のギョロリとしたおっかない顔の小使さんが居てくれるとほっと安心してうれしかった。あの小父さんは見かけによらず、とても優しかったから。
 小使い室から屋外の渡り廊下をつたい、職員室の前の階段をなるべく音を立てない様に上る。階段を上り切った廊下が少し広くなっているので、そこが男の子の結構な精力のはけ場で寒い冬の日の休み時間など子供達が何時もクリクリ坊主に黒い小倉服でまるでまっ黒い犬ころが幾匹もぢゃれてる様に重なり合って遊んでいたのが目にうかぶ。
 始業のベルが鳴り全部教室へ引きあげたあと猫とあだ名のある子がきまって最後に坊主頭を後から両手で撫で乍ら泣きじやくって隣りの寺井先生の教室に入るそれから先生が階段を上って来られて授業が始まるのである。私達の担任の先生は教え方のとてもお上手な(特に算術が面白かった)先生だった。でもおっかなかったな。
 読み方の時間一人の生徒が立って本を朗読している際、聞いている先生が突然大音響連発放屁をして、子供達は二尺も飛び上ってそして吹き出した。途端に先生はお尻をさすり乍らしかつめらしい顔で笑った子達を叱ったっけ。「屁をたれて何がおかしいと」……
 先生にたまに街でお目にかかる。いつも若々しくて御元気のご様子、その都度三年間訓えを受けた感謝の念とおっかなかった子供心とをミックスして感情をこめて丁寧におじぎをする。仰げば尊し我が師の恩と………。
 三十年は夢のごとく去り、あの猫君も小使さんもあの校舎も全て懐しさでいっぱい。
 
鈴木あじや(昭和十三年三月卒業生)
 家から机を持って行って学んだ寺小屋が廃止され、数多くの八戸人の母校となった八戸小学校が今お目出たい九十周年を迎えます。第一回生として祖父が入学してから母、私、子供と四代にわたって様々の思い出と共に育くまれて参りました。
 祖父の頃には鞭で教えるので子供らは余り学校が進まなかったとか。
 時が経って私共の頃は、其の様な事はなかったのですが、女の先生方は和服に紺袴。洋服の方はお隣りの組の浅香先生、船越先生方ぐらいではなかったでしょうか。生徒等にしても、着物の子も多く、しかも共布の前だれの人もあったもので、風邪でもひけば必ず和服に袴だったのでした。
 男女は南北の校舎に画然と別れ、一学年は男女二組づつ。講堂に集る時だけ一緒なので学芸会等で目立つ子しか知りません。
廊下に帽子掛があって、お弁当や襟巻がゆさゆさと掛り、昇降口には各組の下駄箱がずらりと並んでいたものです。つい最近まで、此処がよく夢に現れたのは、六年間一日の課業から開放され、楽しくおしゃべりしながら別れた所だからでしょうか。
 運動会での寺井、野田先生方の若々しい白ズボン姿。どうしていらっしゃるか当時の古山校長先生の真面目な禿げたお顔、思い出は次から次へと尽きる事を知りません。
 ついぞお目にかかった事もない若かった先生方。そして火に当りに行ってはどなられた小使さんたち。同じ思い出を持った数多くの幼かった友だち。立派に身を立て、得意の日々を送る方も多く、又、悲しくも亡くなった方々も多い事でしょう。私たちには今はもう、学舎としてよりも心の故郷となった当時の八戸小学校よ、いつまでもいつまでも私共の心の支えとなってください。
 そして九十周年記念を迎え、益々内容も、又、外観も充実して行く八戸小学校よ、明日への人造りの為に愈々栄え、発展してくださいますよう。
 
鈴木ルリ子(昭和十四年三月卒業生)
 三年生の秋に転校して来た私は、八戸がどんな処か、それが市である事も知らない程でしたから今の子供にくらべて何と無知だった事かと思います。青森から来てさえとても遠い処へ来た様な心細い気持でした。
 柏木テフ先生の担任の級は一年生からのもち上がりで、当時でも珍しく卒業までつづけて受持っていただけた事は何よりも幸いでした。皆に笑われた私の「マイネー」がまもなく「ワガネー」となった時にはもう何の不安もなしに八尋にとけこんでいたのでした。
四年生の頃転校生にSさんがいました。遅刻の常習犯でしたが、それというのも旅舘で働きながら通学しているとの事で年も多い様な気がしました。恐らく不幸な境遇の人だったのでしょう。いつも髪はぼうぼう、汚れじみた和服に虱をはわせている彼女を私たちは何かにつけ馬鹿にしいじめました。いじめられながらも教室のおそうじでは人一倍一生懸命働いていた彼女に心の中ですまないと思ってはいたのですが。
 校門の左右にあるプラタナスは卒業生にとって忘れ得ぬ木だと思いますが、私にはもう一本思い出の木があります。
 秩父宮様の御成り記念に植えられた小松の世話をするのが当時六年女子の名誉ある仕事で、国旗掲揚台の傍の白い柵にかこまれた一劃はいつも一本の草もない様清掃されていました、毎朝の国旗掲揚のたびに若々しい緑が目に映え、日ごとに成長してゆく木は私たちに誇と勇気を与えてくれました。
 私の子供が同じ学校に学ぶ様になって、思い出の中にすっかり薄れていた木が再び身近なものとなって浮かび上がりました,どんなに大きく立派な木になったかとひそかな期待をもっていた私の眼にうつったのは忘れられた存在の様に、あたりとはちぐはぐな感じで枝も少なく立っている一本の松でした。かつてのあの松とはどうしても思えません。枯れてしまったか、或いは私の知らない中に何処かへ移されてしまったのでしょうか。いずれにしても私はそこに過ぎ去った長い年月の移り変わりを見た様な気がしました。
 いろいろと楽しい事があったのにこんな事を書いた私はいささか感傷に溺れた様です。むしろプラタナスにつながる明るい思い出を書くべきだったかもしれません、

思い出の馬っこ教室
   前原義一(昭和十七年三月卒業生)
 現在、四人の父親として。いらっしゃいませの商人として、激しい商戦のまっ只中にある私にとって、よく晴れた朝に子供を連れて、三八城公園に行くほど楽しいものはありません。
なつかしい八戸小学校の校庭を横切るとき「おとうさんの勉強した教室は、あそこだったよ」子供の肩に手をやり、指さす二階は……そうです。今から二十二年前、六年生のときの馬っこ教室です。
先生の仇名が馬っこ、現在豊崎中学校長、工藤正雄先生です。乗馬ズボンのよく似合うスマートな若い先生のもとで、数々のエピソードを残して我々は卒業しました。
戦時色いっぱいの当時は、食糧増産のため校舎裏の日当りの悪い土地も利用して畑作りをやりましたが、出来た大根などどれもこれも、馬っこ先生みたいなスマートなものばかりでした。
 級長の柏本学君(日立研究所)はすごい秀才でした。スポーツ万能は泉山正二君(中央駐車場)でした。どうして自分とあまりにも違いすぎるのだろうと劣等感に悩んだものです。
 坊ちゃんコト広沢安一宜君(明治乳業本社)をリーダーに我々番町グループは団結が固く、ずいぶん悪童ぶりを発揮して、馬っこ先生を手こづらせたものです。
 小学二年の時父親が戦死しましたが、馬っこ先生に引卒されて靖国神社に参拝し代表として、NHK弘前放送局より感想を放送したあの感激は一生涯忘れられぬ事です。
 現在の校舎は私がはいっていた当時とチットモ変っていません。母からネダったわずかなお金でよく買い物をした真向いの田村商店も、なつかしい事の一つです。
 長女も今で八小学校一年生。「小学校が近くなりにけり」を実感として今朝もトンボの行きかう校庭を子供の手を引き横切るのでした。
        
クラスメート鼻の高い級友
 大友善二郎(昭和十八年三月卒業生)
 幼き頃の学び舎を去り二十有余年、省みますれば早いものです。まぶたに浮かぶ思い出は、昨日の事の様に思えてなりません。悪戯をして廊下に立だされたり、雨の降った日、プラタナスの下で喧嘩をし泥んこになったり、今更ながら腕白だった自分を省みております。
 我々の級はどこへ出ても恥ずかしくない程の人が、社会の第一線にて大活躍してますので我々も一応は鼻が高いと云うものです。
 それで主なる人をこの紙上を借りてご紹介致したいと存じます。先づ第一は、級長の永山文男君、彼は東京水産大学の教授で農学博士と云う立派な肩書を待つ学者で只今米国へその道の研究の為留学中です。副級長は、誰でもが知っている郷土の誇り「忍ぶ川」で芥川賞授賞の三浦哲郎君です。当時私と席を同じくした時が二・三度ありやはり綴方は群を抜いて居りました。
 組長クラスには、日赤の歯科医長の立花義康君、彼は剣道の選手で他校試合には気迫のこもった勝負をし我々を喜ばせてくれたものです。工藤伸夫君は勉強は勿論、優秀なスポーツマンで、クラスは当然、市内の小学校対抗には、スケート、剣道、柔道、相撲、バスケット等、彼の右に出る者なく、優勝ばかり味わって居りました。その彼が我国鉄鋼界の先端を行く日本鋼業に勤務し若手のホープとして活躍が期待されてるそうです。その他学界に実業界に教育界に皆それぞれ持味を発揮して活躍しております。当時軍国主議華やかなりし頃でしたので教育も全て戦争につながっておりました。将来の希望と云えば陸海軍大将若しくは大臣、等と誰もが答え、学者、医者、作家、社長などと云う人は全然ありませでんした。この様に時代の移り変りは激しいものだと今更ながら驚いてまります。

十五才の涙
    岩岡三夫 昭和十九年三月卒業生)
 昭和二十年のたしか八月七日か八日だったと思います。戦争も終わりに近づいて、本土は毎日B29やグラマンの空襲をうけておりました。
 その日は朝から八戸市もグラマンに襲われ、防空壕に出たりはいったりでした。町内の人たちは、ほとんど疎開してしまい数えるほどしか残っておりません食べ物のなくなったイヌやネコがうろうろしているだけでした。
 わたしは、八戸中学校の二年生でしたが、どうしても疎開する気になれず、鉄かぶとにゲートルという勇しい姿で頑張っておりました。何度目かの空襲のとき金属性の爆音が近づいたかと思うと、かなり近い所へ。「ズシン」と爆弾が落ちたような衝動がありました。しようい弾だったら消さなければならないと、すぐ防空壕を飛びだしてみると、すぐ近くからまっ黒い煙がもくもくあがっておりました。その方向がどうも学校の方らしいのですぐ屋根の一番高い所へあがってみました。(まだその辺にグラマンがおりあとで命知らずだと、父親におこられましたが。)その時は夢中でした。見ると小学校の男子の校舎、いまの市庁よりが燃えており、黒い煙から、間もなく何本も火柱があがり、みるみるうちに校舎は火煙に包まれてしまいました。わたしは校舎が焼け落ちるまでの相当長い時間屋根の上から見ておりました。そしてポロポロ落ちる涙をどうすることもできませんでした。
 その日の夕方焼け跡へ行ってみましたが、六年間学んだ教室はあとかたもありません。どの教室のどの場所にどんな落書きがあり、どこがどんなにこわれているか、知りつくすほど親しんだ校舎が無くなったということは、六年間の小学校生活にまつわるすべての想い出が失われたような気がして、たいへんセンチな気持ちで焼け跡へ立ちつくしたものでした。
 あれから十八年もたちました。今の子どもたちは、もちろんのこと、わたしたちでさえ戦争のことを想い出すことはなくなってしまいました。十五才のとき母校が焼けるのを見ながら流した涙。この涙と同じ性質の涙をもう二度と流すことはないでしょう。
 その後もこの通りに校舎が復旧したときはとてもうれしく思いました。どんなに古くなっても、いつまでもあのままであればよいと思っております。

八小の思い出 杉 本 武 男
         (昭和二十年三月卒業生) 私には八小の北側校舎半分は未だぴんとこない。六年の時は隣りが女のクラスだったが、ちょうど職員室を境にして「女の舘」の様な感じの北校舎は、卒業してからもしばらく神秘的なものだった。音楽室に行くにはみんな群をなして女生徒の中を走りぬけた。何時だったか、いたずらした級友が二・三人女の教室へつれて行かれ勉強したが、目を赤く泣きはらして来た事が記憶にある。今のように男女共学でない頃の八小の校舎は、黒光りのする奥深い城みたいな印象をうけた。
 我々の担任、馬っ子先生は剣道の達人。五年の時だったかな、ちょびひげをたてた。
 県下の優秀教員として、「雷電」?と云う爆撃機にのった話を全校生徒に話した。剣道の練習はきびしかったな、先生は背が高いので、「メン!」と一発くらうと頭の後の方に火が出て、じじんと涙がうかんで来た。だが招魂祭で小中野、長者をやぶって、ひさしぶりに剣道の優勝旗をもって帰り、作法室でキミを腹一杯たべて喜んだのも忘れられない。馬っ子先生との思い出はいっぱいである。級友では、石川、田北、村田、稲垣君などが秀才だった。でも腕力と学問が両立しないでみんなぼっちやん。今は一流大学を出て都会で活やくしている事だろう。運動では、晴山、スケートの畑中両君がずばぬけていて、隣りのクラスの板橋君などと、運動会ではトップ争いをしていた。私はハナたらしの方で、教育勅語を校長先生が読む時は苦しくて仕方がなかった。しかし、小学校の思い出は一番祝日のおごそかな式と″雲にそびゆる高千穂の″などの式歌、女の先生のハカマなどとむすびついている。戦時中とは云え幸せな良き八小時代の思い出ばかりである。

「八尋」  豊 島 弘 尚
        (昭和二十一年三月卒業生) 遠い記憶しかない。第二次大戦、戦局ますます日本にとって不利になり、私らも銃後の人間として「八紘一宇」「ほしがりません勝つまでは」「撃ちてし止まむ」の精神で、高舘飛行場開墾に狩り出され……モッタをかつぎ、草の根をおこし、豆を植え、また校庭一ぱいで飛行機の上にかける網(飛行機の地上濠の上にかけ草をさし込んでカモフラージユする)を作る作業が毎日であった。私は級長などという管理職を奉命していたので小さい体のため人一倍のパッションとファイトを持たないとつとまるものではなかった。幸(?)にして戦局急、学童疎開ならぬ任意疎開で北郡十三村へ行ったのだが、そこもソ連艦船の毎夜の哨戒におびえていなくてはならずだった。だが八尋の学力より一カ月もおくれていたため、何もしなくてもよかったことを記憶している。
 敗戦――私は六年生だったと思う。八尋のコの字の三分の一が焼け、ガラスがトロリととけ、柱が黒くまだ灰にはなっていずー意外と太い柱でできているものだと感じ、焼け跡の破壊のニオイにハラを立てーそれからは生きるべき兵糧に悩まなくてはならなかった。そのころから絵を描き始め後に八尋で総合展やらをやったことがあり、教室に宿泊したことがある。あの広くもない校庭の一隅、プラタナスの大木を背に傷心のバイキングの様に冷たい天の川を見、その根元にエメロルドに光るサソリのあたり、黒く浮かぶ八尋の校舎をやはりいうならば「母」だと感じたことである。星の運行表の遠い空間のようである。 今私は人間について考えている。(画家)

ふ た 昔 久保田実
        (昭和二十一年三月卒業生) 二十年足らずの学校生活の中でもやはり思い出に残るものは、何と言っても小学校時代であろう。
 コの字形の校舎、校庭の築山、ブランコ鉄棒、ジャングルジム、廻転シーソーそして砂場等に思い出されてなつかしいものである。
 正面玄関左側のガラス戸棚の中には「努力の跡」と書いた諸先輩達の残して行った優勝楯やカップがぎっしり飾られて居り、ピカピカ光る講堂の脇の廊下には木製の薙刀がかけてあった。
 また二階中央の作法室という畳敷きの部屋もあったと記憶している。礼儀作法と言えば、小学校入学当時、担任の小杉先生と廊下で初対面の際に挨拶をする事も知らなかった自分を今になって恥しく思っている。
 当時の教育は、先生任せのいわゆる学校教育中心で、家庭でのそれはあまり厳格ではなかったもののようである。
 小学校時代の大半は戦争中であったので、校長以下「忠君愛国」「滅私奉公」の精神で貫かれて居り、朝礼の最初は先ず皇居遥拝をもって始められた。古山校長は小柄な方であったが、自ら校歌を高唱するなかなかの名校長であった。ある日長者山に焚きつけ燃料の杉の葉拾いに行った帰り、坂のあたりで校長先生と出会い、挨拶すると「ああ、感心々々」とおほめの言葉を頂いていい気持ちになったものである。ところがそれから暫く後で、何であったか一クラス全員が講堂に集められてシコタマしぼられた時には身の毛もよだつ思いであった。
 現在の生徒諸君は誠に明るく伸び伸びとしているが、半面先生を友だちの一人のように扱っているように思われてならない時がある。
 型にはめられたような我々の時代の教育とは違い、これも個性を伸ばすための民主教育のしからしむところであるのかもしれない。
 戦前の教育を受けた私などから見ると、まさに隔世の感がする。古いと笑われるかもしれないけれど今の生徒諸君にも「三歩さがって師の影を踏まず」といった気持ちがあっていいのではないかと思うが。

あ の 頃 橋本千鶴子
        (昭和二十三年三月卒業生) 小学校といえば今も変らない大きなプラタナスとコの字型の校舎が思い出されます。敗戦の時四年生だった私は小学校の後半をコの宇の一片を失った校舎で、今のことばを借りるならすしづめ学級の中に、色々不自由しながらそれでも楽しく送りました。
 疎開から帰り、なつかしい学校へいった時、私の胸は驚きと悲しさでいっぱいになりました。空襲で被害をうけ、校舎の片方がなく、赤く焼け曲った鉄材や黒くこげた木がたくさんころがって、戦災の恐しさを見せておりました。卒業後、校舎がもと通りに建てなおされた時、別に用事がなかったのですが、はだしでそっと誰にもみつからないように歩いたことがありました。八戸小学校の卒業生として新しい校舎を歩きながら、成長した自分をふりかえったものです。
 六年間を通じて、自分にとって残念な事が一つあります。それは大切な元日の式に遅刻したことです。昭和二十年の元日、父につれられて妹と八幡の八幡様に元朝参りに行きました。その頃はバスもなく、小学校三年と二年の私たちには八幡までの往復は相当負担だったようです朝三時に起こされ、父にはげまされながら八幡まで歩きました。雪でほの明かるい道、きゆっきゆっとなる足音も初めは軽快でしたが、次第に足どりもにぶりがちでした。あの時は、戦争に勝つようにと一心に祈ったものでした。白々と明ける頃家に帰り疲れとねむさでこたつにはいり、二人で寝入ってしまいました。九時からの新年の式に出るため、母におこされてもねむくて起きることが出来ませんでした。学校にいった時は、すでに式ははじまっておりました。大切な式に遅刻したので、先生のこわい顔を思い浮べたり、皆の前で叱られることを考えると、胸がどきどきし顔が赤くなってくるのでした。廊下でうろうろしていると、上級生が親切に式場へつれていってくれました。後で先生に理由をお話したら、担任の宮重先生は「えらかったこと」とにっこり笑って下さいました。それでも今だにただ一度の遅刻が気になって残念でなりません。年を積んでいく程、小学校の頃がなつかしく思い出されます。九十年もの歴史を持つ母校の卒業生として、大きな誇りを持っております。

放送室の猫は  及川明雄
        (昭和三十二年三月卒業生) 三、四年前の夏、八小の放送部でお世話になった先生を母校に尋ねる機会に恵まれました。私八小学校の後半三年間を放送部に籍を置いていた。住み馴れた我家に戻った気持ちで部室を覗くと、あのマスコットの。首振り猫が昔のままチョコンと座っていた。それは言い知れぬ満足感を私に与えてくれた。夕暮近く旧校舎の長い廊下を歩きながら、「伝統の香」とも言えるあの懐しい匂いの中で、私はまだ改築されていなかった前の古い放送室のことを思い出していた。旧式の機械一組に一本だけのマイク。そんな設備の中で、かたちばかりの放送劇に勢いっぱいの情熱を傾けていたあの頃。無情なまでの先生の稽古に、それでも一生懸命についていこうと頑張っていたあの頃、先輩たちの卒業で味わった寂しさと重い責任感は幼い私を成長させてくれる責重な礎となった。あのボロ放送室には数々の思い出の集約がみちみちていたのである。放送室の改築が本決まりになった時、まっ先に先生は皆を集めてこう言われた。「君たちの努力が報われたのだ」と。その時の皆の喜びが、あのマスコツトの黒猫に象徴された。
 先日、上京しているかつての部員T君と会った。彼は手に握った小箱を私に示しながら「覚えているかい」といってその蓋を取り除いた。そこにはあの黒猫とそっくりのものがニユツと顔を現わしていた。今私の机上にはそれがチョコンと座っている。
        
 故郷に小学校までの思い出しか残らなかった私にとって、八小は唯一の懐しい母校である。都市と呼ぶにはあまりに貧弱な駅に降りて間もなく、右側に鈴懸の大樹――それは秋の日の午後ひっそりと落葉を散らしながら私の再度の訪れを歓迎してくれることだろう。
 寄稿いただきました原稿は原文のままといたしました。

長いようで短いのが人生、忘れずに伝えよう「私のありがとう」6

平成熟年も秋山皐二郎さんを始めとして、色んな人が死んだ。死なない人間一人もない。一年をふりかえると、あんなことこんなことと様々あるもんだ。そんな中、半年をこのギャラリー道で「私のありがとう」を開催させていただき誠に面白い経験をさせていただいた。
 大体、テレビを見て一日を暮らし、テレビに向かって吠えてる自分に嫌気がさす。子供を殺さなくてもよかろう、親を、亭主をと様々腹が立つ。でも、それもマスコミに踊らされている。この前、NHKが火事の家の三階から乳児を投げろと隣人が叫び、その子を抱きとめて助けたニュースを民放は流さない。
 刺激的な話ばかりを集め、心楽しい話はボツにするでは世の中間違っとる。嫌な話より楽しい話ばかりを集めることこそ大事だ。大体、人殺しの話なんてのは聞いてて楽しい訳がない。知りたい話は心温まるものだ。そして、その話は何度聞いても嬉しくなるもんだ。
ちょっと前に一杯のかけそばってのが流行ったことがある。人々はそんな人情噺に飢えているもんだ。
人情紙風船とも言われる人の情は、人とどう触れ合うかにかかるのだ。人と言っても健常者ばかりじゃなく、体が弱い、心も弱い人だっている。そんな心弱い人に、あんたはネ、今、心が風邪をひいているんだヨ、薬飲んでじっとしていると少しずつ良くなるからネと諭すのが北村道子さん。精神障害者の自立支援施設を経営される。
この人は人情家で人の話をひたすら聞く、そしてともに涙する、その後、今の心の風邪の話をされる。滲みるな、心の奥底に…。そして病んだ心にやる気が出る、出口のない道に出口を示す光明を見出す。そんな努力を十年継続される。なかなかできないことだ。その人が、「私のありがとう」の場を提供された。人を集め、自分の経験した嬉しかったこと辛かったことを喋りあおうというものだ。宗教も勉強も関係ない、今、一緒に生きていることを喜び合おうという、ただそれだけのものなのだ。
その場に彩りを添える意味で踊りがある、唄があるといった、言わば寄席。十一月二十三日(金)が今年最後の「私のありがとう」だった。次回は二十年の四月二十五日(第四金曜日)午後七時から。何故二十年まで待つかというと、筆者が旅行にでかけて四月にならにと帰ってこないからで、自分勝手な理屈。
今回は人の情に弱い男に司会を任せた。その人物は晴山さん。実に軽妙な喋りの出来る人だが、どうも話の組み立てに雑なところがあり、話をもりあげるコツが今一つ?めない。喋りの技法を教えよう、だが、教わって出来るようにならないのが、話芸、実践以外に修錬の場がない。そこで筆者の代わりに前面に出させた。突然の指名におじけをふるうでは上達は望めない。いついかなる場でも平然と全体を眺めて、そつなくこなすことが出来るかが問われる。
気配り半分目配り半分が司会のコツ。うまくまとめることが出来た。絶えず時計と睨めっこの司会業は場を読み取ることが出来なければ務まらない。面白おかしくまとめるか、格調高く納めるかは司会が選ぶ言葉による。まして、この「私のありがとう」は参加者から話を引き出さなくてはならない。そこら辺は晴山さんは実に巧みだ。軽く言葉を投げて実に明るい言葉を引き出す。誘導されて普段思うことがつい口に出る。
いつもおばあさんと一緒に来る小学生がいる。小針さんの坊やだが、おばあさん、第四金曜日だから行こうと言ったそうだ。来るとファミコンゲームに熱中。いつも下ばかり見てゲームと会話。おばあちゃんに誘われて仕方なしに来てるのかなと思うと、おばあちゃんに第四金曜日を教えた。晴山さんに、あの坊やは何で来るのかね、いつも下ばかり見てゲームをしてて、面白くもないだろう年寄りの話は? すると人情家の晴山さんが、名答、おばあちゃんと居たいんですよ。
 そうか、そうだったな、筆者も婆さんといた僅かな時間がいまだに宝物になっている。気が付かなかったなあ、孫は誰が教える訳でもないが、体の中の時計が、残り少ないおばあちゃんとの時間を伝えているのだろう。優しいなア、坊やも晴山さんも。今回の参加者は早川、木村、鈴木、加賀、富田、大久保、斉藤、清水、川村、中村、本宿、東野、坂本みちのぶさんと踊り子の八食センターで乾物販売店店主の安宗さん。
この人が「上海の花売り娘」を踊った。紅いランタン仄かにゆれる夢の上海、花売り娘、誰のかたみか可愛いい耳輪、上原げんと作曲、昭和十四年の岡晴夫の唄。この岡と上原は同じ部屋に下宿し、上野御徒町の万年筆屋で働きながら歌手を夢見た。そしてあこがれのハワイ航路で歌の星、あこがれのスターとなった。日本が海外侵攻はなやかなりし頃の異国情緒たっぷりな歌に乗せて、安宗さんが踊った。手品を加えた独特のもの、結構ファンもいて人気者、一芸に秀でた人は人生を二倍に楽しむことができるもの。
市会議員の坂本みちのぶさんが顔を出し、足の裏を揉むと体の調子を良くすることが出来ると教えた。この人は税理士で調理師で神主、おまけに治療士の資格もあるというマルチ人間。政治屋が多いなか、この人は政治家。世の中を良くしたいと、あらゆる分野に興味を持ち、どこから改善できるかと気配りをする。だから議会でも積極的に質問をする。時間を消化するための質問はしない。とことんまで食いつく。スッポンだね。教育長への質問もしつこい程。教員は生きているから、喫煙所を設けてやれ、と実に至当な問題を投げる。そして喰らい付く。だから役所には煙たい存在。本人はケロケロ、本当のことを言ってどこが悪い。真実を追究する者はこのぐらいの覚悟が必要。
このギャラリーみちの「私のありがとう」に出て、自分の仕事の宣伝も出来る。発言時間は決まっていない。喋りたいこと、伝えたいことを精一杯伝えればいい。工務店の若大将が自分の仕事に対する心構えを伝えた。好青年で好感が持てる。何事によらずひたむきな精神は好ましいものだ。商売はいい時もあれば悪いときもある。それを凌いでこその人生。なんでもかんでも上手くいけば人生の味わいを知らずにすごしてしまい、人情のなんたるかを知らずに終わる。人間は困難にぶち当たるたびに、人の情けを知るように出来ているのだ。スーパーユニバースで食品のマネキンをしている人が、お客様が試食品を食べてくれるだけでも嬉しい、どうしたら美味しくなるかを家で研究すると、人に喜んでもらう楽しみを知ると人間は一回りも二回りも大きくなるもの。
以前、「はちのへ今昔」に掲載した造船業の一族の方も参加され、実家の話が載っていたのでビックリされたと言われた。八戸は水産都市、漁業家も造船業も繁栄の道をたどられたが、今は最大漁獲量の四分の一と激減。それでも、八戸は水産と切っても切れない仲。この衰退をなんとか盛り返そうと小林市長が水揚げ岸壁を整備される。国も支援し水産都市の復活に賭ける。
国際的衛生基準の岸壁を建設し、畜産並の衛生環 境にして八戸サバの名を天下に知ろしめさんとの心意気。
人は事にあたるたび、池に小石を投げ込まれたように、広がり行くのがさざなみで、心の中にも広がります。そんなとき、どうしたらよいかと悩むもの。そんな解決できない大きな悩みも、お前だからこうした悩みを抱かせたよ、何故なら解けない悩みは与えられないもの。
悩みを抱いた人に出会ったら、話を最後まで聞いてやりなさい。そして、共に涙を流して泣いて、そして強くこう言っておやり。大丈夫だよ、かならずあんたなら出来るから、私も一緒に考える、困ったときはいつでもおいで、一緒に泣いて考えようね、と。
これが大慈大悲の心、西有穆山が崇拝した観音の力なのだ。皆が北村道子さんの慈悲の心をいただきました。有難う、そして皆様も同様に観音力が備わっています。でもそれに気づかないだけ。難しいことはさておき、又、おいでください。

手記 我が人生に悔いなし 七

中村節子
○ 吟詠寿司店
昭和四十八年、八日町の明治薬館は閉店となった。その理由については私は知らない。跡地には長崎屋のビルが建った。
 最上先生達は十八日町に仮住まいとなった。教場は八戸駅(現本八戸駅)通りの千秋寿司店と決まった。千秋寿司店は、翠風会会員の大橋さんと小形さん姉妹が経営している。
 店の二階は八畳二間続きの部屋があり、私達は店にお客が居ても大声で吟じた。下に響いた吟声がお客に受けが良いのだそうで、時々「詩吟を聞かせて下さい」と二階に上がって来るお客もいた。
 又、漢詩の詩文を半紙に四文字づつ書いたものを、カウンターの上の鴨居にのれんのようにずらりと貼りつけ、吟詠寿司屋と言われるようになった。宴会の予約があって部屋を使えない時は、駅前近くの田端さん宅とか、八戸グランドホテルの社長宅とか、会員さんのご自宅をお借りすることもあった。
 吟詠寿司屋は四~五年続いたが、大橋・小形姉妹は店を閉めて東京へ引越していった。現在店は取り壊されて跡形も無い。確か野々口整形外科医院の駐車場の近くだったと思う。その後教場は大工町の守屋さんのお宅に変わった。
○ ずうずうしい男
吟詠寿司店(千秋寿司店)に四十代男性の入門者があった。Bさんの紹介でNさんと言った。「会社が終わったあと暇なのでついつい酒を飲む、これではいけない、何かやらなければと思っている時、上徒士町で詩吟の看板を見た。行ってみようかと思っていた時に、Bさんに紹介されてこの教場に来ました。」
 上徒士町には故中山岳粋先生のお宅がある。中山先生は八戸吟道会の会長で平成三年頃に亡く  なり、同時に八戸吟道会も無くなった。
 当時は翠風会と八戸吟道会はライバルであった。「上徒士町へ行かず、よくぞこちらに来てくれました。」と最上先生は大歓迎した。
 稽古が始まった。「どうぞ一緒に声を出して下さい。」合吟のあと全員が独吟をして最後に「どうぞNさんも声を出してみて下さい。」「えっ?今日来たばかりなのに、一人でやるんですか?」思い切ってどうぞ」「とんでもない。できませんよ」「遠慮しないでどうぞ」「遠慮なんかしていません。いくらなんでもひどいですよ。初めて来たのに」「最上先生に一番近い所にすわっていた女の先輩が「どうぞ思い切ってやったほうがいいですよ」その隣の女が「そうです。せっかく来たのですから」さらに隣の若い女が「そうですよ。せっかくですから」「できません!」
 初めて来たのに何と横柄でずうずうしい人だと思った。詩吟の世界では「どうぞ声を出してみてください」と言うのが歓迎したことになり、仲間になったことを意味するのである。ところがNさんにしてみれば「初日にいきなりやってみろとはひどい。先輩達も一緒になってやれやれとは。せめて若い女が今日は初めてだから無理しなくてもと、かばってくれるかと思ったら一緒になってやれやれとは何となまいきな女だ。」と思ったのだそうだ。
 確かにもっともだと思った。次の週も、その次も教場に来たけれど、合吟だけで一人で声を出すことはなかった。
 ある日いよいよ独吟することになった。教場は「コの字」に座っていたので、皆の顔が見えると恥ずかしいと言って後ろ向きになり皆に背を向けて独吟した。ハンカチをクシャクシャにして汗をふきふき吟ずるのである。私はおかしくてたまらない。笑いをこらえるのに必死だった。
 年が明けて昭和四十九年一月。八戸グランドホテルで初吟会があった。必ず全員が独吟をするのである。発表の順番は新人からである。従ってNさんが一番であった。司会係の先輩が「Nさんが一番に独吟ですよ」と、会が始まる前にNさんに知らせた。「とんでもない。何で俺が一番にやらなければならないのですか。まん中辺にして下さいよ」「新人が先にやるんです」と言ってもイヤダとダダをこねた。ずうずうしい人だなあと思った。
 しかたがないので司会者は二番の人から始めた。私の番が終わった頃に後輩の文子さんが遅れて来た。「すみません、遅れまして。今何番の人がやってますか?次に私にやらせて下さい。」これを聞いたNさんは驚いた。すごい女がいるもんだと。すごいのではない。あたりまえのことなのである。Nさんはルールを知らなかったのである。吟を発表するときは、新人は先、先輩は後ということを誰も教えていなかったのだ。知らないときは先輩の言う通りにすればいいのに、そこがずうずうしい男なるがゆえであろう。
 このずうずうしい男が現在の夫であり、なまい  きな若い女と思われたのが私である。
 この初吟会を最後に、最上先生は後事を高弟の月舘雄岳氏に託し、鎌倉へ引越したのが四十九年の中頃であった。
翠風会から雄風会と会名が改められ、会長月舘雄岳先生の指導がスタートした。
○ 湖上結婚式
ずうずうしい男となまいきな女と、お互いに第一印象の悪かった二人が五年後に結婚することになった。
夫は十和田湖畔で生まれた。国立公園十和田湖をこよなく愛していた。今まで一つの夢を持っていたことも語った。それは、すばらしい十和田湖で湖上結婚式を企画演出してみたいということなのだ。夫には兄弟も多く甥も姪も沢山いる。湖上結婚式の企画を話すと「それはすばらしい」「それはよいことだ」「その時はオジちゃんよろしくたのみます」等々言っておきながら、いざ結婚が決まると皆に逃げられてしまった。「雨が降った  らどうするの?」というのが一番の理由であった。
絶対雨が降らないという保証はないが、かと言って雨が降ると決まったものでもない。
すばらしい企画なんだけどなあ。誰も同調してくれない。甥も姪も大方結婚してしまったしなあ…と夫になる前のずうずうしい男は嘆いた。
「自分の結婚式をやればいいじゃないの。雨が降ったって誰にも恨まれることも無いんだから」と私は言った。
「エッ?本当に本当か?許してくれるかなあ」と私の母のことを気づかった。
湖上結婚式は、遊覧船をチャーターして式はもちろんのこと披露宴も船上でという企画である。母は「映画スターでもあるまいに」と難色を示した。さらに披露宴も船上だから折り詰めのような形式になると聞いた途端、大反対と怒った。そこで式だけ船上で、披露宴は船から降りて普通にということで納得してもらった。
媒酌人は夫の叔父であるホテル十和田荘社長  にお願いして、披露宴も十和田荘と決まった。
期日は紅葉も終わり十和田湖の観光シーズンも終わる頃、いわゆる十和田湖の忙しい時期を避けて十月二十六日とした。詩吟の仲間に招待状を直接手渡したら、ウソォ、マサカと言われてしまった。
さて、いよいよ当日である。朝から晴天。八戸方面からの出席者は貸切バスで奥入瀬渓流を通った。この年は例年より紅葉が遅れ、この日は最高の美しさであったという。
私は前日から宇樽部の東湖館(夫の妹の経営)に泊まり仕度に備えた。チャーターした遊覧船は宇樽部の桟橋から出発。バスの人も地元の人も全員乗船した。十和田湖の遊覧船は双胴船だから揺れが少ない。
夫と交際のあるご寺院の和尚様が五人来て下さって、船の特別室で仏前結婚式を挙げた。美しい紅葉をながめながら船はゆっくりと進み、一時間ほどで休屋に着いた。船から降りた時、近くにいた観光客が「おめでとう」「おめでとう」と声をかけてくれた。この後、十和田荘にて披露宴となる。
昭和五十四年十月二十六日のことである。美しい紅葉とすばらしい秋晴れの十和田湖であったことを再度記す。
夫の友人で「文化通信」という雑誌を出版している人がいる。横田さんという。横田さんを結婚披露宴に招待しなかったのだが、誰かから聞いたらしく、次のような記事が文化通信に載った。
「美しい紅葉の十和田湖で湖上結婚式。こともあろうに新郎新婦共に五十過ぎの再婚同志」と。招待されなかった恨みか。夫は五十三歳再婚であるが、私は三十八歳初婚である。
○ のれん
夫の趣味は水墨画である。最も得意とするのは、十和田湖の風景と「だるま」である。その趣味を生かして「のれん」を作り結婚の記念品にしたいと考えたのである。十和田湖の画に、私の父の趣味の俳句で画賛した構図の「のれん」である。父がいつの頃から俳句を始めたのか定かではないが、三十九年間奉職した国鉄時代に、どこかの駅の俳句クラブに入ったのが始まりであったと聞いたことがある。
 そこで「のれん」のことは秘密にして「十和田湖を詠んだ句があったら貸してほしい」と頼んだ。その時は何か仕事をしていて忙しかったらしく「沢山あるけど今は出せない」と、あっさり断られてしまった。
 「私ので良かったら」と、そばに居た母が高齢者教室で詠んだ二枚の短冊を出した。その様なわけで「錦わけ白布を垂らし滝の秋」と詠んだ母の句で「のれん」ができ上がってしまった。
 結婚式披露宴の席上で「のれん」を披露したとき、「ヤッター」というような母の顔と「シマッター」というような父の顔、対照的な二人の顔を今でも思い出す。この時、「のれん」の俳句を私が朗詠したわけだが、私が父の前で詩吟をしたのは、あれが最初で最後であった。

秋山皐二郎、回顧録「雨洗風磨」東奥日報社刊から 4

学生時代
悩み抜き一年間浪人
 八中を卒業したのは昭和四年三月。叔父・秀之肋は、私が家へ帰ってくるものだと思って、羽織、はかまをそろえて待っていました。私は、なんとしても上の学校へ行きたいと考えていましたから、母と母の長兄の関川五郎蔵さんに口添えしてもらって秀之肋叔父に頼みました。
 叔父は「ウーン、そうか。いいだろう。ただ、事業の金を使うわけにはいかんから、別にもうけなきゃならんなあ」。そう言って大福帳を一冊、用意しました。「皐二郎学資帳」と書いて。
 大学を卒業する時に見せてもらったら総額四千八百円。昭和十年ごろの四千八百円というと二、三十トンの動力船と巻き網一カ統を出せる金額でした。ありがたいと思うと同時に身の引き締まる思いがしたものでした。
 高校は水戸高校を受験しました。理科の甲。中学時代から物理が好きで、今から思うと湯川秀樹博士のまねなどは、どだい無理な話なんてすが、その時は「どうしても」という気持ちでした。早稲田大の理工も受けましたが、両方とも落第。担任の先生に相談もしたんですが「ウン、ウン」と話を聞いてくれるだけで、どうも煮え切らない。
 悩みました。「父が生きていてくれたら」と、この時ほど痛切に感じたことはありませんでした。結局、一年間浪人して、翌年もう一度、水戸高校に挑戦しましたが、数学の試験で失敗。結果を見ることなく、そのまま、上京して中央大学の法科へ転進して入学することになったわけです。
 後年、市長になって湊中学校で生徒たちに落第した話をしました。「八中を一回、水戸高校二回と落第しました」と言ったら、中学生たちがニヤッとして「オラホの市長、落第坊主か」なんてささやき合ったりしていました。その時に言いたかったのは「一度や二度の失敗ぐらいなんだ」ということ。
 私は神田重雄さんに、よく「秋山君、男わらしというものは、一度方針を決めたら、真っしぐらに突き進むものだ」と言われました。戦争という国を挙げての大変動の中で、水産業に転じ最後は政治の世界にまで入った私は、その点では「異端児」と言われても仕方ないんですが、自由に進路を選択できる現在の中学生諸君には、失敗を恐れず信じる道を思い切り突き進め、と訴えたかったわけです。

叔父の援助を得て結局中人法科に進学
 さて、中央大学では、初めて東京へ出た私は、紺がすりの着物を着た田舎っぽでした。中央大は、もともとイギリス法の専門学校でイギリス法律学校としてスタートし、後年、東京法学院そして中央大学となりましたが、私が入学したころは、法学、経済、商学の三学部。法学部は英法二クラス、独法一クラスで、一学年全体の学生数は二百人ぐらいの小さな大学でした。
 八中の先輩では、ドイツのボン大学に留学されて帰国したばかりの浅石大和さんが、すでに有能な弁護士として活躍されており、山崎岩男さんも、東京・高円寺に弁護士の事務所を持っておられて、しばしば上京されていました。八中出身の中央大生の会合には、お二人とも、よく顔を出してくれました。
 印象に残っている先生方は「天皇機関説」で有名な美濃部達吉教授。憲法を講義されていました。私たちが最後の教え子になります。行政法は宮沢俊義教授。
 刑法では、当時の法曹界を二分した刑法論争で「客観説」の立場だった泉二新熊(もとじしんくま)教授がいました。沖縄出身の方で大審院判事でもあったのです。一方は牧野英一東大教授の「主観説」でした。

    講道館仕込みの柔道
 中央大では、比較的まじめな学生でした。同期には元法務大臣の稲葉修君、最高裁判事を務めた塚本重頼君、在学中に高等文官試験、いまの国家公務員一種職(旧上級甲職)試験に合格して日本興業銀行に入ったが、請われて、そごう百貨店に行き、社長となっている水島広雄君といった優秀な人たちがいました。
 地方行政を担当している時には、大変、助かりました。特に稲葉君とは、私が柔道部、彼が剣道部で同じ道場でけいこし、地下にあったふろは一緒という文字通りの裸の付き合いでした。
 柔道部に入ったのは、校内に道場があったから。校内でやれるのは柔道のほかには剣道、相撲、卓球しかなかった。八中の同窓生も何人かいて、先輩では工藤千代吉さんが五段。同級生では大久保弥三郎さんの弟の大久保正、それから尾形四郎といった八中柔退部出身者が誘いにくる。
 「柔道着を用意したから、秋山、お前もやれじゃ」「何、言ってんだ。八中卒業の時、オレに三級くれと言ったら、ダメだと言ったじゃないか。六級のままだぞ」としぶると「いや、八中の寝技の柔道は邪道なんだよ。お前は立ち技の本物の柔道やればいいだろう」なんて妙な説得を受けて入部しました。
 本当にやりたかったのはラクビー。足は速かったし、タックルには自信を特ってましたから。ところが、調べてみたら、練習グラウンドは郊外で遠く、実力的には弱くて、とてもダメだというのでやめました。
 柔道は、この体で大変な苦労して身に着けたものですから、左右どちらでも戦えるようになった。講道館で指導を受けて立ち技専門。初段をとるの に一年かかりましたが、予科を終わって学部に入る時には三段。終始一貫、攻める柔道で、めったに負けなくなりました。苦手な技は、身長のある人がかける大外刈り。ケンケン飛びをやられると体が浮くんです。
 三段になって柔道部の委員になったら、学費免除組に仲間入りしました。稲葉君も、もちろん学費免除。彼は旧制山形高校でトラブルを起こして中央大に来たんですが、成績は抜群でした。剣道も強かった。私の学費免除は、成績よりも柔道部委員の側面が強かったのかもしれません。

めったに負けぬがビールは一杯でダウン
 柔道部の委員というのはマネジャーみたいなもので、体育会の予算分捕り合戦をやったり、全国各地への遠征を計画したりする。私が委員になったころは、先輩たちがトラブルを起こしたらしくて、柔道部だけは禁止措置を科せられていた。
 担当教授は契約法の片山義昌教授。「理論的におかしい」と交渉に行きました。「先輩たちの起こしたトラブルの責任は、先輩たちを禁止にしたことで終わっているはずだ。お前たちもトラブルを起こせば禁止にするぞ、というのなら納得するが、先輩たちの責任をずっとわれわれに背負わせるのは納得できない」と、へ理屈を並べて。
 教授は苦笑しながら「そうか。仕方ないな」と許可してくれました。それで九州各地を巡業して歩いた。各地に先輩がいて、後輩が行くというので地元の中学生を集めておいてくれる。
 腰に手ぬぐいをはさんでおいて、汗をふきながら中学生十人ぐらいにけいこをつける。時には地元のチームと試合もやりました。終わると先輩たちが歓迎会を開いてくれて…。酒は全く飲めなかったのですが、楽しいものでした。
 初めてビールをジョッキで飲んで、前後不覚に陥る体験をしたのもこのころ。札幌一中の諸君と気が合って、一軒家を借りて一緒にいた時のこと。国鉄の柔道全国大会があって札幌鉄道局が優勝して、祝勝会に連れて行かれた。
 「なんだ、酒飲めないとは何事か」と言われ、黒ビールをジョッキでグーツと空けたら、たった一杯で意識不明。翌朝「秋山、お前を運ぶのに大変な目にあったぞ」とみんなに言われて…。

広い南部邸へ引っ越し
 東京では、友達とあちこち移り往みました。三年目に札幌一中出身の諸君と妙にウマが合って、東中野に一軒家を借りて「北青荘」という看板を掲げて、七人で一緒に暮らしました。柔道部五人、剣道部二人。中に学生結婚していたのも居て、彼らは一階。賄いのおばさんを一人頼んで…。
 ところが、その年の秋に南部子爵邸にいた福田剛三郎さんが訪ねて来た。福田さんは奈須川光宝代議士の次男坊で、鮫の石田家から石田チヨという人が嫁いでいて、親類なんです。
 南部子爵が、渋谷にあったお座敷から北沢の方へ新しい家を建てて移り、お屋敷の留守番として福田さん一家が住んでいたんです。
 「実は不用心でダメなんだ。オレが南部邸へ詰めてると、広大な屋敷に女子供しかいなくなる。秋山、お前、用心のために一緒に住んでくれ」というんです。現在、茶道をやっている福田和子さんが長女で、まだ小学校入学前。長男も中学生でした。
 早速、トラックを頼んで引っ越し。荷物は布団 袋に本と机、書棚、こうりが一つ。トラックの荷台が余って、手伝いの学生たちがいっぱい乗っての引っ越しでした。福田剛三郎さんは東京の美術学校を出て中村不折(画家で書家・新宿中村屋のロゴも書く)さんに師事。八戸で最初に油絵を描いた人としても有名です。
 なんといっても、大名屋敷ですから実に広くて居心地がいい。卒業するまでいましたが、次から次へと八中の後輩たちが集まって来て、私は寮長みたいなものでした。まいったのは福田夫人が茶道や華道、謡曲を勧めること。正座してやると窮屈で…。あのころは学生も同好会なんかがあって盛んでした。
 お屋敷では毎日、ふろを沸かす。まきの調達が面倒くさいものですから、庭の片隅にあった小屋を次々にまきにして、とうとう小屋一軒を燃やしてしまった。
 とんでもない時に福田さんが気付いて「あれっ、秋山。ここに小屋があったはずだが、どうしたんだ」「エッ!あれ実は、ふろのまきにして燃やしてしまったんですが」「なんということを」と福田さん真っ赤になって怒って…。

実家からは海の幸 せんべいやリンゴも
 今も同じでしょうが、実家からいろんなものが送られてきて、実に楽しい学生生活でした。
 後輩で市野沢出身の細越信太郎君は、必ず一升びんに詰めたハチミツを待って来ましたし、柔道部で大将を務めた鈴木君というのが山形出身。入梅前にサクランボが送られてくる。「おい、きょうは、わが下宿に集合だ。桜桃が来たから食うべし」と誘ってくれる。
 私のところは漁師でしたから中羽イワシに塩したものとか、小名浜からは「頬ざし」が来る。ある時、秋田沖へ出漁していた巻き網船から四斗だるに氷水でタイが送られてきた。何匹あったか、とにかく大変な数で、福田さんと相談した。
 「東京のと真ん中で、これだけのタイをどうしよう」というわけです。福田さんはタクシーを頼んで、南部さんなんかに配ったが、それでも余る。最後は近所の魚屋さんに頼んで「欲しい分は食べて、あとは料理して冷蔵庫に保存してくれ」。三日間ぐらい毎日タイの刺し身とウシオばっかり食べていました。
 スルメやセンベイも、ふんだんにあり、母がリンゴを送ってくれる。必ずマルメロを入れてくれました。
 神田には一個三銭のにぎりずしもありました。少し小ぶりでしたが、日本橋では一個十銭。当時、太巻きのチェリーというたばこが十銭でした。けいこ帰りに、よく食べに行きました。大将の鈴木君と古庄君、私の三人で百三十八個というのが最高記録。
 古庄君は九州男児で熊本出身。満州電業から野戦重砲の幹部候補生になり、近衛文麿さんの長男・文隆さんが部下にいたそうです。まじめでいい人間でしたが、内地で演習帰りに列車事故で亡くなりました。惜しい人でした。

放校処分が次々と
 楽しい学生生活を送っていた私でしたが、徐々に軍部の力が強まり、学内でも放校処分なんかが、かなり出るようになってきたのは、昭和七、八年ごろ。私も突然、配属将校の中佐に呼ばれました。
 「どうも共産主義思想が入り込んできていかん。ついては、君が中心になって学生を指導する団体を組織してくれんか」というんです。私は即座に断りました。どう考えても、そういう運動を一生続けることは考えられませんでしたから。
 後で、瑞穂会というのが学内に旗揚げして学生を指導しましたが…。学生運動も、激しくて随分と放校処分も出ました。
 私が大学に進んだ昭和五年の十二月、大下常吉さんに早稲田大学野球部監督の就任要請があり、六年から大下さんが監督として登場しました。本郷に住んでいて、玄関先にノートがぶら下がっている。「用事のある方は書いて下さい」というわけです。美食家で私の顔を見ると「おう、メシ食いに行こう」と随分ぜいたくなものをごちそうになりました。
 後年、私が青森五連隊で少尉だったころに、大下さんが病気で戦線から帰ってきて、衛戌(えいじゅ・駐屯地の陸軍)病院に入院していると聞いて見舞いに行った。大下さんは軍曹で、毒ガス対策班の班長で華々しく出征したんです。私も見送りました。
 病院に行ったら、まるで牢名主みたいにしてべットの上でアグラをかいて「おう、秋山、きたか」「先輩どこか悪いんですか」と尋ねたら「何も、どこも悪くないんだよ。どうもオレには軍隊が向いていない。演習とか嫌だったから、神経痛と称して出なかっただけだ。それで帰されたんだよ」。みんな居る前で平気な顔。
 「ところで、ここのメシがまずくて、ハムとかソーセージなんか、うまい物を食いたいから買ってきてくれ。食器も汚い。そろえてくれよ」。膳椀とハムなんかを届けました。
 監督時代の大下さんは、大学リーグ脱退事件(昭和七年春、神聖な大学野球を興行に利用したとして早大が学生野球連盟を脱退した)や早慶リンゴ問題(同八年秋、慶応の水原茂三塁手=後年巨人監督=に早大応援席からリンゴが投げつけられた事件)などで、随分話題を呼びました。監督は三年間やって、昭和八年の十二月に辞任しました。

三陸では大津浪 柔道満州遠征の一員に
 八年の三月三日の三陸大津波も印象深い出来事でした。ちょうど予科三年の最後の試験の最中にグラグラッと揺れて「三陸に大きな被害が出た」。それを聞いて、すぐ午後の汽車に飛び乗った。
 船が入っている小名浜にまず下車して、見に行った。船頭たちに会ったら「いや、こちらは被害はなかったぞ。網を干していたが、潮が引いたのを見て、すぐ取り込んだんだ」
 「そりゃ、よかった」というんで、汽車を乗り換えて、盛岡駅に着いたら、ちょうど秀之肋叔父とバッタリ出会った。「おお、皐二郎。お前も来たか。一緒に行こう」と山田湾へ急いだ。
 鈴木善幸さんの地元の山田町の隣の大沢村というところに秋山漁業部の出張所があって、昭和七年の秋からイワシが大漁で、干し上がり一万俵のシメ粕が捕れたそうです。二千俵ぐらいが出荷待ちで保管してあったんですが、行ってみたら一俵残らず流されてしまっていた。
 幸い人命には被害はなくて、潜水夫を頼んで海中からシメ粕を引き上げたんですが、六百俵しか上がらなかったそうです。
 大学では卒業の前年、昭和十年夏に久しぶりに関東学生柔道連盟で満州遠征をすることになり、早大、明大、中大などから十五人が選ばれた。私も四段で事務局長兼選手で選ばれて、下関からウラル丸、ウスリフ丸という三、〇〇○トンクラスの船で大運へ渡りました。
 それから十年後に敗走してさまようなどとは夢にも思わず、意気高く満州に第一歩をしるしたわけです。

東北線の歴史 八戸との関わりを調べる 3

 東北本線が第1区線から工事をおこして、次第に北に延びてはいくのであるが、すべてが順調に連んでいるというわけではないから、終端の青森県では、一日も早く県内に線路が敷かれるように持ちのぞんでいた。東北本線が山形の方に向かうかも知れないと岩手県では大騒ぎをしているころの19年1月11日、青森県令福島九成は、早く青森まで鉄道が敷設されるように県民の協力を望むという通達を出している。
 「……鉄道会社資金ノ都合二依テハ今後幾年ノ遅延ヲ来ス哉モ計り難ク……其本県下二達スル期ヲシテ1日モ速カナラシムル様致シ度條比意ヲ体シ普ク示論致スベク比旨論達候事」
 用地の買収、駅の設置、あるいは株金の応募などで協力をしようということであった。ところが、線路が塩釜までようやく開通したころに盛岡以北の第5区線が中止になるかも知れないような横槍が入ったのである。
 軍部の反対で再び日本海側に第5区線八戸、野辺地、青森附近に建設することは国防上許されない問題であるという議論が軍部の間に持ちあがった。その理由は戦争があれば敵の軍艦から砲撃を受けやすいし、敵が上陸して逆に鉄道を利用することにでもなると東京は簡単に攻め落されるというものである。飛行機のない時代であるから、軍としては艦船に対する備えという問題で、海岸の鉄道に大いにこだわったのである。
 もともと軍部は、新橋・横浜間の鉄道を建設するとき、強く反対したものである。品川の高輪附近の海軍用地に線路を通してはならないというので、海岸を埋め立てて用地を作った。「日本はたいした国だ。海の中に鉄道を敷かせる」とエドモンド・モレルを嘆かせたほどであった。それが、西南戦争の経験や外国の事例を研究するに及んで、鉄道は軍隊と切り離せない重要なものであることを認識しはじめた。こんどは鉄道建設に対して軍部が注文をつけるばかりか、軍の内部で鉄道の問題が論ぜられるようになったのである。
 第5区線に対するような軍部の干渉は突然おきたものではない。東海道本線の建設に当り、最初計画したとおり中仙道沿いに線路を敷くことを軍部は強硬に主張した。いわゆる中仙道鉄道であるが、碓井峠と木曽渓谷が最大の難関であった。たとえ完成したとしても、ただ軍部が満足するだけで、利用者の少ない、産業経済にも益することのない価値の低い鉄道にしかならない。井上勝は改めて東海道沿いに建設することを主張した。軍部の巨頭山県有朋が納得するまで熱心に説き、更に総理大臣伊藤博文の了解を得て、廟議で決定していた中仙道をくつがえし、東海道線を実現したいきさつがあった。
 このことから1年もたっていないのに、今度は東北本線に軍部の干渉があったわけである。軍部の鉄道に対する関心はますます強くなり、21年ごろはその頂点にあったといってもよく、鉄道に対しいろいろ軍事上の要求を主張していた。21年4月に参謀本部陸軍部は「鉄道論」という本を出し、最近の鉄道は軍事目的を忘れて利潤追求だけのものとなっていると述べているのが注目される。
 井上鉄道局長官は軍部の意向を具体的に知るため、20年12月10日、一の関・青森間の線路について陸軍大臣に協議の書面を提出した。陸軍大臣大山厳は12月18日にこれに対する回答をよこした。
 それによると三戸(青森県南部町)百石(ももいし、(八戸に隣接する太平洋岸の町)野辺地を経て青森に至る部分は海浜に面しているから戦時には敵軍に破壊されたり利用されたりするおそれがある。線路は海岸から遠く離すべきだ。例えば盛岡から田頭(でんどう)大館、弘前から青森に通ずる線路とすべきであるというものである。この路線は現在の花輪線経由奥羽線といった形に似ている。
 鉄道局では両線の得失その他いろいろの理由をあげて説明したが、陸軍省では承知しなかった。すでに第3区線は完成して、第4区線、第5区線の測量も開始しており、工事開始は間もなくという情勢にあった。
 21年春雪が消えても、工事開始の命令はなかった。第4区線に引き続き盛岡以北を担当することになっていた長谷川謹庶介技師などは、軍部なにするものぞといった勢でどんどん準備を進めていた。現場では工事が遅れており。ぼんやりまっているわけにはいかなかったから、軍部の圧力などどこ吹く風といったありさまだった。
 こうなってしまうと、鉄道局長官井上勝にとって頼りとなるのは総理大臣伊藤博文だけということになった。21年4月18日総理大臣に対し「軍のいう路線は最初に調査し、今回も改めて調査したが、工事は甚だ困難で、ぼう大な金と年月を要し、そのあげく列車の速度は極めておそくなるし、営業費も増大する。
 海岸に近いところはなるべく迂回するようにして着工しようとしたが、軍部は了解しない。鉄道というものは決して国防上からばかり考えてはならないもので、工事の容易なところ、収支價うようなところを選ぶということも考えなければならない。日本鉄道会社創業のときから、このような路線をとることになっており、資金や完成期日にも制約があるから、陸軍省の意向とは関係なく予定通り工事を始めたいと直接上申したのである。
 4月25日申し出の通りやってよろしいという回答があった。第5区線は第4区線の着工より1か月おくれて、21年5月1日工事を開始した。盛岡・小繋間は第4区線に統いて長谷川謹助が、小繋・青森間は小川資源がそれぞれ工事を担当した。
 まず、資材を小湊から陸揚げすることとし、小湊港から浅所(あさどころ)まで64チェーン0.03キロの線路を敷設した。
 盛岡以北は高原で起伏の烈しい所が多く最悪勾配は1.000分の20.4である。鳥越トンネルは難工事であった。工事に従事した人の話が残っている。
 「50間も堀ると中は暗く、100間も掘ったら空気も入らないので苦しくて仕事ができない。空気を送る機械などないから、1尺四方の杉の箱を作って昼夜兼行で空気送りをやった。…賃金は1日20銭ぐらいで米1升5銭のときであった。人夫は1日5回食事をし、夜業があればまた1回食事をした。まかないの人は朝から夜まで炊事に追われどおしだった」
 第5区線は鉄橋も多く、屈曲の多い馬淵川などは12か所も鉄橋を要した。三戸から野辺地の近くまでは国道とも離れており交通不便の所が多かった。冬は積雪の期聞が長く、工事を進めるのは容易なことではなかった。
 22年洪水があって、工事中の鉄橋や築堤などにかなりの被害があった。好摩の近くの松川鉄橋の工事中であったが、長谷川謹介のもとに大久保業という英国から帰ったばかりの新進技師が荒木という技手とともに小舟に乗って鉄橋を点検中、舟が転覆して濁流に呑まれともに殉職した。
 大久保業は、かつて勝海舟と並ぶ幕府の重臣で、東京府知事となった大久保一翁の子であった。
 工事の請負は鹿島組、吉田組、早川組などである。
 長谷川技師は日詰から小繋までを受け持ったわけであるが、いつも馬に乗って現場を走り廻り大声で指揮をした。人家もない山の中で毎日働いている土工の気風は殺伐で、楽しみは酒とバクチしかなく、博徒との刃傷沙汰も絶えないといった日常であったから、荒っぼい土工を荒っぽいやり方で威圧するため馬に乗って駆け廻ったのだという。彼のもとに上利藤肋という酒豪で変り者の現場監督がいる。長州出身の元陸軍の佐官であった。前に述べたように、土工を取締るために鉄道局も請飯業者も骨っぼい用心棒を雇っていた。
 小川技師の担当である尻内北方で派手ななぐりこみがあったという話である。
 事故もかなりあったようで、小島谷附近ではトロッコが谷底に落ちて数人の死者を出した。
 余談であるが、東北本線建設という大工事にはかなりの犠牲者があったはずである。従って慰霊碑などもあるものと思われるがほとんどというより全く見当らないのはふしぎだ。
 工事を急いでも、完成は25年8月になるだろうという見通しとなり会社は23年12月15日政府に対し再び期限延長の請願をし、24年3月9日許可された。しかし、工事を急いだ結果24年9月までに完成している。
 青森駅問題 青森県ではいよいよ鉄道の建設工事が行なわれることとなり、小湊から建設資材が運び込まれ、南北から工事が進められたが、青森町ではまだ駅をどこに置くかも決まっていなかった。石井省一郎、大森直輔、大阪金助等日本鉄道会社の大株主が青森附近大阪町、杉畑などの土地を買い込んだ。会社としては最初大阪町に駅を置く予定であったが、土地が高くなり買うことができなかった。青森県知事佐和正は停車場をどこに置くかは青森町の重大問題であるとし、23年8月7日青森町役場を通じ各町協議員を県庁議事堂に集め協議させた。この結果柳町と浦町の中間にある杉畑の青森監獄のある場所と決定した。監獄が町の真中にあるのは風教上よくないというので、監獄を野木村に移転しその跡に駅をつくることとしたのである。その後に一部有志者から練兵町脇に移すべきであるという意見が出て、栄町や安方町の有志者が請願書を提出した。会社側が柳町と交渉したところ、前日まで1反歩100円でよいといっていたのが、栄町移転運動員の策略で1反歩600円でなければだめだということになった。こうして停車場問題は混とんとして解決のめどがつかなかった。
 そうしているうち会社側幹部にも強硬な意見がでてきた。野内川の鉄橋工事に金もかかるし、駅の位置も地価の点で折り合わないなら青森に駅を作る必要はない。小湊を終端駅とすべきだというのである。小湊は現実に第5区線の中心であったから、青森町にはにわかに真実性を帯びた話として伝わった。青森町長柿崎忠兵衛は最終駅を青森とすることを会社に陳情し、用地問題の解決に尽力した。その結果青森町と古川村の中間にある安方町共有地という誰も考えてもみなかった場所に駅を設置することに決定した。小湊で線路を打ち切るという会社側の作戦が効を奏したというのである。(青森市史より)
 第5区線は、軍部との問題もあり、予定された八戸を通らなかったといったことはあったが、ともかく青森まで、予定された25年8月よりも早く24年9月1日に完成した。
 15年6月5日川口で工事を始めてから9年3か月目に上野・青森間454マイル66チェーン(645.1キロ)が全通した。その建設費は高崎線、山手線などを含めて1、981万円であった。
上野・青森間が完成したころ日光線、秋葉原線その他の支線もできて、社運は隆盛の一途を辿っていた。そればかりか国内に多くの鉄道会社ができて線路の延長を競い、いわゆる鉄道ブームをまきおこしていた。鉄道局も規模が拡充されて23年9月6日鉄道庁となり、内務大臣の所管するところとなっていた。
 盛岡・青森間開業式 24年9月1日安方町の青森停車場内客車庫で開催された。前日の8月31日17時45分上野発の列車は東京方面の招待客を乗せて1日の17時10分に青森駅に到着した。直ちに式は開催された。主な参列者は鉄道庁か らは長官井上勝、松田周次、小川資源、長谷川謹介、子安雅、粟尾新三郎等、会社側からは社長奈良原繁、副社長小野義真、理事委員の林賢徳、大田黒惟信、柏山信、山本直哉、二橋元長、足立次郎、白杉政愛、小川彦左衛門等、元老院議官吉田清英、北海道炭坑会社の園田実徳、製糖会社浅田政、高島嘉右衛門、各新聞社、地元から佐和青森県知事、松沢書記官、増長警部長、木津、工藤両 代議士その他県会議員商工業を営む人たちで全部で300人を越えた。
井上鉄道局長官は祝辞の中で、会社が創立されて10年いまこそ鉄道局の援助から離れて一本立ちしなければならないことを強調した。
 「……如何せん鉄道事業の我が国に輸入せし日尚浅きに依り、大体線路の計画、布設、車両その他の準備、運輸の事業等其の途に慣熟せしもの殆ど乏しかり、是れ独り当社の状況のみならず、国中全く如比有様なりし。目下機関車の数52、客貨車の数1、000に近し、未だ十分整備せりというを得ざれども営業にさしつかえなからん。運転科の事も亦当庁の監督する所となりし即ち拙官の責任中に数え以って今日に及びたり。以上の干渉は政府の本意に非ざるは弁をまたず。後略…」
 この日は二百十日に当り、午前は晴であったが、午後からは烈しい雨となった。会場は「停車場前には一大緑門を造りて紅灯を吊らしめ、客車庫窓は悉く生杉葉にて之を包み五色の小旗を交叉し、車庫内の支柱には生杉葉にて玉を造り小菊花をはさみて見栄を増し、その他同会社の徽章旗及び日章旗を交叉して場内の定裁を繕ひ庫内の両側には食卓を据付けて発走の用に供し……」と同日付の東奥日報が報じている。
 この日青森町各町内では趣向をこらして飾り付け、山車を出したり、芸妓の手踊りで町を練り歩いた。日本郵船の青森派出所では浜町桟橋通りにアーチを造り、花火を打ちあげるなど大変な賑わいであった。駅は木造平家建てで、北海道連絡の船が出る日本郵船の桟橋がある浜町とはかなり離れ、駅の周囲には葦が茂り、夜は狐が鳴くといった淋しい場所であったが、この日だけは全く晴れやかなたたずまいであった。

東奥日報に見る明治三十七年の八戸及び八戸人

明治三十七年(一九○四)は日露戦争の年、東奥日報も軍事色顕著。日本と帝政ロシアとが満州・朝鮮の制覇を争った戦争。04年2月国交断絶以来、同年8月以降の旅順攻囲、05年3月の奉天大会戦、同年5月の日本海海戦などでの日本の勝利を経て同年9月アメリカ大統領T.ルーズヴェルトの斡旋によりポーツマスにおいて講和条約成立。
明治三十七年二月九日付け
●協商拒絶の通告
昨日外務大臣は露国公使に対して協商拒絶の通告をなせり同時に列国に其の顛末を声明せり
● 外交顛末と宣戦
外交顛末は明日発表同時に宣戦詔勅発布せらるべし
● 露国公使の引き揚げ
露国公使本日午後六時引き揚げの筈
● 臨時閣議
本日午前臨時閣議を開き重大事件を決定す
● 露艦又出つ
露国軍艦三艘再び旅順口抜錨せり行き先不明なり
● 宣戦詔勅発表期
宣戦詔勅は海軍(この所電文不明)次第発表せらるべし(この時代電話は未発達)
● 地方官召集
本月九日を以って各地方長官を東京に召集す
● 御前会議の結果
回答来らずして兵馬日に韓北を圧し来る栗野公使の情報は元老の会議となり外臣の情報は再び御前会議となる伊藤侯曰くやむを得ず山縣侯曰く然り皆も曰く同断、広義即ち決し天皇善しと宣す
● 露国艦隊の挙動
露国艦隊が旅順に引き返したるは別項の如し出港の目的は京城に於いて風聞したる如く爾く大なるものに非ずして単に近海に於いて艦隊運動を行いたるものの如し三日出港し翌日直に引き込みたるに徹して明らかなり該艦隊が今日北緯三十八度北南に出つるを得るや否やは疑問なり恐らくは到底能はざる事なるべしという
● 引き上げの邦人帰着
米国汽船アスプーチ号は浦塩斯徳より日本居留民三千人を搭載して敦賀港に帰着し直に浦塩斯徳に引き返す筈なるも戒厳令のため入港に許さざるも知るべからず西北利亜の重要地及び浦塩斯徳に尚本邦三千人もあり
● 露国陸兵の活動
過般報道の溝幇子より義州に入りし露国兵中八十駒は錦州に来らず蒙古地方に赴きしとのこととて其の数は馬玉崑の兵の朝陽付近に在るものを偵察の目的なり旅順口より運送船二艘役二千の兵を乗せて鴨緑江に向かい又旅順口ダルニー 方面より遼陽を経て鳳凰城に向うべき兵士は露国人の言によれば一万と言い之がため遼陽に在る馬車及び旅館の全体を徴発して準備に備え海城には露兵三千新に来り城外に宿営せりとの報知あり(五日北京発)
● 露兵二万の進軍
義州より昨日元帥府に達したる電報によれば旅順口より進発したる露兵は六千人にして遼陽より進発したるものは八千人にしていずれも安東県並びに鳳凰城方面に到着しこの付近に集中せる露兵の総数は既に二万に達せりこの内五千人は鴨緑江を渡り韓国に入らんとする模様ありしという(京城発)
● 満州露軍の戦備
満州の露兵は全く戦時装備を為し頗る兵員を移動し各地とも戦時部隊に改め居り先月初めてチタに来りしコサック兵六千南下し居りて東清鉄道は軍用の外運転せず為に満州内地の日本人は引き揚げること出来難き模様なり(天津五日発)
● 旅順口大攻撃(十日午前九時五十分東京特発)
八日より旅順口にて日露海戦を開始せり露の戦闘艦二艘水雷に命中して沈没せり外一艘は命中し浅瀬に乗り上げたり総攻撃は九日午前九時より始まる結果は未だ詳ならず
● 仁川海戦の公報
瓜生司令官の公報によれば仁川に於ける海戦にて露艦コーレツ(砲艦千二百㌧)バハツワリヤーク(一等巡洋艦六千五百㌧)及び汽船スンガリー破壊沈船せり我が損害は皆無なり
● 日露の宣戦布告
露国は本日モスコーに於いて宣戦を布告し帝国は唯今宣戦詔勅を公布せり
● 露船の捕獲
馬山浦にて捕獲せる露国汽船二艘本日佐世保に来たれり(昨日午後五時半東京発)
● 露船の捕獲公報
本日までに露国船舶我が軍艦の為に拿捕せられたるもの五艘なりとの公報其の筋に達したり
● 旅順口海戦の詳報(十一日午後八時二十分東京発)
東郷連合艦隊司令長官の報告によれば連合艦隊は去る六日佐世保を出発したる後総て予定の如く行動し八日正午我が駆逐艇は旅順に於ける敵を攻撃せり当時敵艦隊の大部分は旅順口外にありて我が駆逐艦の水雷にかかりしもの少なくもポルタワ(戦闘艦一万九百㌧)外一艘巡洋艦アウコリード(巡洋艦五千九百㌧)外二艘ありしものと認む我が艦隊は九日午前十時旅順沖に達し正午より約四十分港外に残留せる敵艦隊を攻撃せりこの攻撃の結果は未だ明瞭ならざるも敵に少なからざる損害を与え彼が士気を阻喪せしめたるものと信ず敵は漸次港内に逃走せるものの如し午後一時戦闘を止め引き揚げたり
この攻撃における我が艦隊の損害は軽少にして寸毫も戦闘力を減少せず死傷は約五十八名内戦死四名、負傷五十四名なりと我が艦隊は敵の砲火を犯して攻撃を果たし大部を本隊に合す御乗り組みの各殿下皆ご無事、我が将卒一般沈着恰も平生の演習の如く大に軍気振るう
三戸郡農事講習会閉会
同会は去る三日より八戸町産馬組合事務所に於いて開会し去る十一日八戸有志を会合し講習生と共に中村技師より特に耕地整理に関する講話を乞いたるが其の翌十二日閉会式を挙行せり来賓は同郡農会長船越宣美同副会長北村益銀行支配人石橋萬治県会議員遠山景三其の他農会議員等十数名にして船越会長より証書授与挙行の旨を告げ中村技師講習中の景況を報告し次て証書を授与せり次に船越郡農会長は県農会長の告辞と郡農会長としての告辞のべ講習生総代答辞あり午後三時閉会講師の労を謝せんが為め茶会を開く席上遠山議員は講習生の今後取るべき方針に就き述べるところありたり講習生は二十名なりと
上長苗代村の国債応募景況
三戸郡なる同村における国庫債券応募予定額は四千五百万円なる由なるが同村にて勧誘の結果去る八日までに五千八百七十円の多きに達し尚続々応募の模様なりしと言えば一昨十日の期限までには多額の応募額に達したるならんか右申し込み額の内価格申し込みは二千九百円(十四名)百円申し込み千三百二十五円(九名)也

昭和四十年八戸で活躍した人々

● 湊合同運送 (有)
小中野町字北横町(電②二八二八)
事業 一般貨物運送事業
設立 昭和三三年一二月二六日
資本金 一七〇万円 
代表取締役     小山トシヱ
取締役       小山孝一郎
同         二本柳浩三
監査役       堀野虎五郎
同         古川 金吾
(従業員十八人)   
● (株) 三春屋
十三日町    (電②七四五六)
事業 総合衣料販売
設立 昭和二八年三月二八日
資本金 五〇〇万円
代表取締役     藤井与惣治
取締役       藤井 ハナ
 黒沢 繁三郎   藤井 茂雄
監査役       小保内岩吉
総務課長      藤井 直一
一階課長      石橋荘太郎
二階課長      黒沢 清蔵
(従業員六五人)
● (株) 三万
三日町     (電②三一八一)
事業 百貨店
設立 昭和九年三月一日
資本金 二〇〇〇万円 
会長        三浦 万吉
社長        三浦 万喜
常務取締役     三浦 紘一
取締役       松尾猪三郎
同         三浦 やゐ
監査役       小笠原哲蔵
同         橋本重三郎
営業部長兼食料品課長
          松尾猪三郎
呉服課長      山田勝三郎
洋服課長      三浦 文吉
洋品課長      新井田五郎
食料品課長     松尾猪三郎
雑貨課長業務代行係長
          大島 美代
文玩具課長     秋山 政見
家庭用品課長代行  三浦 金蔵
外商課長      三浦源三郎
商事課長      鬼柳  哲
食堂調理士長  (課長待遇)
田村 茂芳
総務部長兼庶務企画宣伝課長
          下屋敷栄一
三八五貨物自動車運送 (株) 
小中野北二丁目 (電②五一三一) 
事業 貨物自動車運送
設立 昭和三二年六月二六日
資本金 一一〇〇万円 
社長        泉山 信一
副社長       穂積 義孝
常務取締役財務担当 
佐々木喜代太
同営業担当     林崎 隆一
取締役東京支店長  佐々木孝作
社長室長兼財務部長 関野 正蔵
総務部長      大向源次郎
営業部長      宮本 和男
社長室秘書課長   上田 一雅
同資材課長     沼田 富人
同管理課長     武藤 伝七
総務部総務課長   白鳥 正富
同人事課長     玉川  哲
同厚生課長     寺井 詳光
財務部会計課長   山村 商助
同経理課長     吉田 梅男
同管財課長     高館 潔志
営業部路線課長心得 久保 保男
同特需課長     音喜多広二
同精算課長     橋本 忠悦
取締役東京支社長  佐々木孝作
同三八五自動車学校長
          佐々木 操
同経理課長     川畑 吉男
同業務課長    向中野金次郎
同検定室長     市川 正一
同副室長     小野寺直次郎
八戸支店長     海野 健二
東京支店長     和山 栄作
仙台支店長     加藤 
● 八戸清運 (株)
(電②三七五三)
事業 汚物取扱業
設立 昭三九年八月二八日
資本金 九〇〇万円
社長        笹垣富治男
専務取締役     伊藤 光雄
取締役       橋本  強
 伊藤 邦雄    佐藤 昌直
 北村 甚作    
監査役       木村 徳蔵
総務部長      木村善太郎
会計部長      古田 文男
業務部長      夏掘長之助
(従業員三六人)
● 八戸青果 (株)
二十六日町(電②一六一一)
事業 青果市場
設立 昭和七年四月二七日
資本金 一〇〇〇万円
社長        小関 長一
副社長       千葉 清治
専務取締役     田端栄一郎
常務取締役     昆  正男
取締役       大浦長五郎
 畑内善一郎    淡路 秀男
 横町 宏治   柞木田勇次郎
監査役       泉山 忠蔵
 福井  清    杉山福次郎
● 八戸製紙 (株)
城下一丁目   (電②二二五六)
事業 ダンボール中芯原紙
設立 昭和三二年三月七日
資本金 九五〇万円
会長        阿部真之介
社長        月舘賢次郎
専務取締役     神山 公佑
常務取締役     小川 伊作
取締役       長谷川哲夫
 宮城 嘉明    工藤 元吉
 中村松三郎    高橋  甫
 神山 恵介    遠藤 勝次
監査役       三井武三郎
 角谷 信治    小川 茂雄
生産管理部長工場長 東  俊克
経理部代理     熊谷 容一
工場長代理     上舘 忠助
同次長兼加工課長  小沢 勝見
営業課長      植村 丑蔵
汽缶課長      山村  真
製造課長      植村  栄
村田興業 (株)
小中野町森の奥 (電②六三六八)
事業 建設業
設立 昭和一六年一月一五日
資本金 五〇〇万円
代表取締役     村田正二郎
取締役       永島 準吉
同         村田 みゑ 
監査役       小山久四郎
工務課長      亀卦川喜三
建築課長      鳩  誠一
資材車両課長   名久井徳次郎
日東出張所長    松本円次郎
高周波出張所長(兼)亀卦川喜三
● 村本水産 (株)
湊町大沢    (電③〇九一五)
事業 冷凍冷蔵水産加工、漁業廻船問屋 
設立 昭和三一年七月 
資本金 五〇〇万円
社長        村本栄次郎
専務取締役     村本 栄作
総務部長      桜庭 正平
取締役       村本仁太郎
同         榎本石太郎
冷蔵庫工場長    久保 正一
加工場工場長    若松孝之助
(従業員三〇人)
● 明治乳業 (株)八戸工場
売市字売市   (電②六三一一)
事業 飲用牛乳,アイスクリームの製造
設立 昭和三二年四月一日
資本金 三一億円
工場長       喜名 成美
製造課長      坂田 壮夫 
酪農課長      吉田 三元
事務課長      井上 良三
(従業員一四〇人)
● (有) 明治薬局
八日町     (電②〇四三四)
事業 医薬品販売業
設立 昭和三一年九月四日
資本金 一〇〇万円
社長        最上 光男
専務取締役     最上 信子
取締役       山田  章 
監査役       最上 光宏
(従業員九人)
●(株)森貝洋服店
六日町 ( 電②〇六三八)
事業 既製服
設立 昭和三一年九月二六日
資本金 一〇〇万円
社長        森貝 栄一
取締役       森貝 和子
同         森貝 磐男
監査役       田鎖 克郎
(従業員一三人)
● (有)ヤクルト八戸営業所
売市字右水門下 (電②〇五八八)
事業 生菌クロレラ「ヤクルト」の加工販売
設立 昭和三二年七月二二日
資本金 三〇〇万円
取締役       武田 慶吉
 武田 貞助    村上 由蔵
監査役       斎藤  治
所長代理      伊藤 秀雄
業務課長心得    中田 忠男
同         村上 隆一
総務係長      中田 こう
車両係長心得    庭田  厳
(従業員四四人)
● 矢崎総業(株)八戸出張所
小中野町字中条 (電②五二二九)
事業 自動車用計器部品製造販売
設立 昭和二五年八月一二日
資本金 一億円 
所長        近藤 賢司  
●(株) 山勝商店
十八日町    (電②〇一三七)
事業 砂糖、小麦粉、菓子卸
設立 昭和二五年
資本金 九〇〇万円
代表取締役     山本勝次郎
常務取締役     山本彦志郎
同         山本 一郎
取締役       駒井庄三郎
 下斗米長吉    石木田二郎
 武尾徳兵衛    福井金五郎
 高橋勝次郎    西野  誠
 杉本 三太    
監査役       村山 竹二
同         吉川 留蔵
(従業員三五人)
●(株)山ヨ町田商店
小中野町南横丁 (電②二一三六)
事業 冷凍,冷蔵、製氷魚類加工    
漁撈、鮮魚出荷
設立 昭和二六年三月二〇日
資本金 三〇〇〇万円
社長        町田米次郎
専務取締役     町田 勝男
常務取締役     倉島 広巳
取締役経理担当   住沢  裕
同総務担当     接待  悟
監査役       菊地 岩夫
同         川村 正雄
業務第一課長    音喜田邦夫
業務第二課長    谷口 静雄
業務第三課長    長谷川正文
漁撈課長      水沢  茂
総務課主任     下田 昭三
第一冷凍工場主任  長谷川 勇
同機械室主任   音喜多 善武
第二冷凍工場主任  松本 正治
同機械室主任    中尻 国雄
第三製氷冷凍工場主任
久保内日出雄
加工工場主任代理  大川 則夫
鮫営業所主任    磯島 武光
市内得意先主任   高橋 章紀
車両部主任     笹原 忠治
従業員二八〇人)
● 八幡馬製造(資)
城下二丁目  (電②五七二九)
事業 木製玩具工業
設立 昭和二九年六月一八日
資本金 一〇〇万円
会長        高橋 石蔵
社長        福沢 章雄
常務取締役     村山 竹二
同         高橋 和男
営業部長      小泉幸之助
製造部主任    村畑喜代太郎
塗装部主任     高山 六郎
(従業員二十五人)
● 雪印乳業 (株)八戸工場
売市      (電②一一三七)
事業 乳製品製造販売
設立 昭和二五年六月一〇日
資本金 五〇億円
工場長       増田  勤
製造係長      竹村 良二
原料係長      並河 正和
原料主任      関   忍
製造主任      佐藤 利雄
工務主任      西村 義一
(従業員八七人)
● 有漁漁業 (株)
湊町字汐越  (電③二二三一)
事業 漁業
設立 昭和三四年七月二三日
資本金 二〇〇〇万円
代表取締役     吉田 石松
専務取締役     吉田 正一
常務取締役     角  和吉
同         吉田 三夫
監査役       吉田 サヘ
同         吉田 石蔵
(従業員一五〇人)
● (株)吉田産業
廿三日町    (電②八一一一)
事業 建築資材販売
設立 昭和二三年一二月五日
資本金 一億二〇〇〇万円
社長        吉田 益啓
常務取締役     吉田 耕造
取締役       安藤 有明
同         吉田 光男
監査役       相内 禎介
企画室長      最上 郁夫
経理課長      加藤 恵造
総務課長      蛇口 政○
統轄課長      尾崎不二夫
販売促進課長    鎌田  強
八戸店長      国分 義夫
青森支店長     安藤 有明
大舘支店長     木村  清
五所川原支店長   柏木仁一郎
弘前市支店長    栗森 公治
湊支店長      鈴木  ○
盛岡支店長     吉田 光男
久慈支店長     田中 久智
建材センター支店長 鈴木 清也
家具センター支店長 千葉 得栄
仙台支店長     山内太千男
綜合建材支店長   坂田 定男
事務器センター支店長
          相内  洋
吉田レミコン工場長 夏坂 芳作
(従業員三五〇人)

● 吉田シャーリング
売市字観音下(電②七〇一三)
事業 鋼材のシャーリング及び加工
設立 昭和三八年五月三〇日
資本金五〇〇万円
代表取締役     吉田 耕造 
取締役工場長    富岡 寛治
取締役       吉田 益啓